投稿者「mayumi」のアーカイブ

2022年3月6日 主日礼拝メッセージ

「全てに勝るキリストの素晴らしさ」ピリピ人への手紙3章1~11節 金田洋介牧師

 ピリピ3章は、いきなり警告の言葉から始まっています。それは、ピリピの信徒たちの救いの達成を妨げる者たちに対する警告でした(2節)。パウロは律法や割礼といった、行いや形式ではなく、ただキリストを信じる信仰に立って生きる者こそ、まことの割礼の者、神の民である(3節)とピリピの信徒たちに教え、律法主義的な価値観、考えに惑わされる事のないよう注意したのです。

ともすれば私たちも、この世の考え、価値観に囚われて自分や他人を見てしまうことがあるのではないでしょうか。「これができる(できない)、だから良い(悪い)」と自分や他人を比べて評価し、一喜一憂する。信仰生活の中においてもそのような考え、価値観を持ち込みます。「これをしたから神様に愛される、できないから愛されない」などと思いやすいのです。気を付けなければなりません。

次に4~6節を見ますと、パウロは、律法主義、ユダヤ主義的な考え、価値観に立つならば、彼には誇りとなるものが沢山あると言います。彼は、血筋、家柄、能力、生活態度、すべてにおいて群を抜いていました。しかし、パウロは、誰もが羨むようなものすべて、キリストのゆえに「ちりあくた」と思うようになったと言います(7~9節)。それはこの世で重視されるすべてに勝るイエス様の素晴らしさを知ったからなのだと言うのです。彼は、「私が何をしたか、何ができるか、何を持っているか」が重要なのではなく、「神様が私に何をしてくださったのかを知ったこと」が重要なのだと言っているのです。「神様はひとり子イエス様を与えるほどに私を愛し、救ってくださった。やがて神様の前に立つときも、キリストの十字架の贖いによって、義と認められる。私はそれを知ったからこそ、自分にとって得であったものが損と思うようになったのだ」と言うのです。私たちも、神様の恵みによって救われたこと、ただ信仰によって救われたことに立って歩みたいのです。神様が私に何をしてくださったのか、どのように思ってくださっているのかを、いつも確認しながら日々歩んで行こうではありませんか。

最後に8節。「私の主」、という言葉にはイエス様とパウロの親しさを感じます。そして「知っている」という言葉は、「交わりを通して知った」ということでしょう。神様は私たちに、パウロの様に「私の主であるイエス・キリスト」と言えるほどの親しい、人格的な交わりを持つことを願っておられます。もちろん、神様はあなたのことを全てご存じです。しかし、あなたのほうから、神様に語り掛けて、あなたの思いを知っていただくのです。神様はあなたを受けとめ、私たちに愛の言葉をかけ、強めてくださいます。あなたが、すべてに勝るイエス様の素晴らしさを知ることができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユーカリ、バラ、ユリ、スターチスです。

2022年2月27日 主日礼拝メッセージ

「己が救を全うせよ」 ピリピ人への手紙 2章12~18節  金田洋介牧師

①自分の救いを達成するよう努めなさい

パウロは「自分の救いを達成するように努めなさい」とピリピの信徒たち語っていますが、エペソの手紙では「信仰によって。救われたのです(2:8)」と言っています。私たちもパウロが語っているように、「救われたのは神の恵みであり、キリストを信じる信仰によって救われた」と信じています。しかし、ここでパウロは、信じて終わりでないことを教えているのです。では、「救いの達成に務める」とはどういう意味なのでしょうか。様々な解釈があると思いますが、私は「信じて受け取った『救い』を、より確かなもの(より揺るぎないもの)となるように努めることだと理解しています。何故なら、私たちは救いに与ったにもかかわらず、簡単に神の御言葉に背き、あろうことか神の赦しや愛までも疑ってしまうことがあるからです。ですからパウロは、神を畏れつつ、イエスが模範を示されたように、神の御心と御言葉に従順に従うべきことを教えているのです。

②神が働かれる ~志を立てさせ実現して下さるのは神~

私たちの信仰をスタートさせて下さったのは神です。けれども、パウロが語っているように信じて終わりではありません。神はクリスチャンとしての生活を、御言葉や教会の兄姉との交わりを通して私たちに教えて下さるのです。そして、信仰生活を過ごしていく中で、私たちに志を立てさせて下さる(良い働きを初めて下さる)のです。例えば、あなたが新しく始めたこと(他者へのとりなしの祈り、奉仕、献金、デボーション、学び、伝道等)、自分の生き方、考え方を変えようと思い始めたり、これまであまり積極的でなかったこと、むしろ避けてきたこと、向き合おうとしなかったことに目を向け始めたら、それは神が御心のままにあなたの内に与えて下さった志であり、良い働きなのです。そして、実現して下さるのも神であると教えています。私たちは神の力を信じ「不平を言わず、疑わず行う」者でありたいのです。

③救いの達成の目的と最大の鍵

パウロが救いの達成に努めるよう命じたのは、この曲がった邪悪な世代のただ中にあって、非難されるところのない純真な者、傷のない神の子ども、世の光として輝くためだと語ります(15~16節)。そして、いのちのことばをしっかりと握るよう教えています。いのちのことばである神の御言葉、イエスご自身に繋がり続けること、それが救いの達成の最大の鍵です。

パウロにとって「己が救を全うする」とは、命をささげてキリストの福音を宣べ伝えることでした。彼にそのような志を立てさせ、事を行わせて下さるのは神です。聖書は語ります。「己が救を全うせよ」と。神が、皆さん一人一人に志を立てさせ、あなたにとってふさわしい生き方、福音にふさわしく生きる道を、チャレンジを与えて下さるのです。不平を言わず、疑わず、行うのです。神があなたに力を与えて下さいます。主の日が来るまで、天に召されるまで、命ある限り、共に「己が救を全う」しようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ユリ(カサブランカ)、ストック、スプレーカーネーションです。

 

2022年2月20日 主日礼拝メッセージ

「キリストの思いを抱いて生きる」ピリピ人への2章1~11節 金田洋介牧師

 

前章の後半から「キリストの福音にふさわしい生活」について語って参りましたが、2章に入ってからもそのテーマは続いています。パウロはピリピの信徒たちに、互いに励まし合い、慰め合い、御霊による交わり(神が中心にいる交わり)によって、思いも、愛も、心も一つとなって歩みなさいと勧めます。そして、心がけておくべてきこととして、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と教えています。これも「キリストの福音にふさわしい生活」と言えるでしょう。私たちも教会の兄弟姉妹の関係においてはもちろん、教会から一歩出ると神から遣わされ、置かれている場所(家庭、学校、職場)があります。そこでの関係においても、自分から進んでそのように努めていくということなのです。そして、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(5節)とあるように、これらのことは、キリスト・イエスの思いを、わが思いとして持つことによって実現するのです。模範とすべき方はイエス様だとパウロは教えます。イエス・キリストの心構えを自分の心構えとする。自己中心な心と虚栄心を捨てて、他者を顧み、大切にするという、キリストの心構えを抱くようになりなさいということです。6~8節において、イエスこそこれらの思いを常に抱き、体現されたお方であることをパウロは語ります。イエスは神であるのにもかかわらず、常に謙遜で、遜って、仕える姿勢で歩まれ、何よりも父なる神の御心である十字架の死と裁きにまでも従順であられたのです。

私たちは、5節の御言葉にあるように、イエスの思いを自分の思いとして歩んでいくことを目指したいのです。

①信仰の創始者であり完成者であられるイエスから目を離さない

ヘブル12章2節、ヨハネの福音書15章5節

②柔和で遜っておられるイエスから学ぶ

マタイの福音書11章28~29節

③イエスの心と自分の心を重ねる

イエスを常に見上げ、繋がり、イエスの柔和と遜りから学ぶことによって、私たちはこの世界をイエスの心でみることができるように変えられていきます。イエスがどれほど世界中の人々を愛しておられるかということを…。私たちは「キリスト・イエスのうちにある思い」と自分の心が重なったと実感できる瞬間に与れるのです。共にキリスト・イエスの思いを抱いて生きようではありませんか。徹底的にご自身を空しくされ、神の御心に従順に従われたイエスの心を自分の心とし、日々歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオサ、アルストロメリア、スターチスです。

2022年2月13日 主日礼拝メッセージ

「キリストの福音にふさわしく」ピリピ人への手紙1章27~30節 金田洋介牧師

パウロは「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」を勧めています。それはすなわち、「キリストによってもたらされた福音に与った者として、それにふさわしい生活をしなさい」ということです。

①イエスによってもたらされた命を握って生きる生活

福音にふさわしい生活とは、イエスを信じたことによってもたらされた、イエスと共に生きる新しい命とイエスと共に永遠に生きる命を握り、イエスの十字架と復活を証して生きることです。そして、天での報いを信じ期待しながら、主の証人として日々を過ごすことです。

②イエスによって現わされた神の愛に根ざした生活

次に、イエスの命によって現わされた神の愛に根ざした生活、つまり、神の愛、イエスの愛に応える生活をすることと言えます。この愛に応える生活は様々です。神に愛されている者として隣り人を愛するということの他に、神への愛を毎週の礼拝で表し、常に感謝し、神と祈り交わるなど、イエス在っての私であることを自覚し、日々を過ごそうとするならおのずとそのように生きるようになるのです。また、「自分にとってイエスの愛に応える生活は何だろう」と思い巡らし、神様に祈り求める生活もまた、福音にふさわしく生活すると言えるでしょう。

③イエスによって私たちの王となられた神を心に迎えて生活する

福音という言葉の元々の意味は、戦いにおける勝利を告げる知らせのことだそうです。では、聖書は福音をどう教えているのでしょうか。それは「神が私たちに何をして下さったか」ということに重きを置きます。イザヤ52:7~8より、「神が王となられた」これが福音なのです。「神が王として私たちの中心となられる」ということです。これはイエス・キリストを通して成就しました。イエスは十字架と復活を通して、罪の力、悪の力、死の力から勝利した。この勝利の知らせが福音なのです。私たちがこの福音を聞き、イエスを信じる時に、罪の力、悪の力、死の力による恐れから解放され、新しい生活がスタートするのです。

あなたにとってキリストの福音にふさわしく生活するとはどのような生活でしょうか。是非、神の御前に心を静め、「神様、私にとってキリストの福音にふさわしく生活するとはどのような生活、生き方でしょうか」と祈り求めてはいかがでしょうか。王であられる神(イエス)が私たちの内に生きていて下さいます。日々イエスと御言葉の前に出る生活を歩もうではありませんか。そして、王なるイエスに相談しながら生きるのです。この素晴らしい王は、私たちの為に命を捨ててまで愛し、救って下さった程のお方です。イエスを心から信頼して、福音にふさわしい歩みをイエスと共に過ごしましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、金魚草、ユリ、スターチス、梅です。

本日活けられた梅は、教会にある梅の木から切られたものです。春の訪れを知らせてくれる一輪です。

2022年2月6日 主日礼拝メッセージ

「愛によって全うする」ガラテヤ人への手紙 5章1~14節  金田ゆり牧師

ガラテヤ人への手紙が書かれた背景には、ユダヤ人信徒と、異邦人信徒との問題がありました。一部の極端なユダヤ主義者は、異邦人が神に受け入れられるためには、律法と伝承に従わなければならないと教えていました。パウロは、ガラテヤ諸教会の信仰を純粋な福音に呼び戻すためにこの手紙を書いたのでした。

①私たちを縛る奴隷のくびき 1~5節

イスラエルは、神の民のしるしとして割礼を受け(男子)、律法を与えられましたが、戒めを守ることはできず、神に逆らいどおしの歴史でした。人は行いによって神の前に義とされないのです。ですから、イエス・キリストは私たちの罪のみがわりに十字架に掛かり復活されました。この十字架と復活を信じる信仰によってのみ、義とされる道を開かれたのです。この話はクリスチャンはわかっています。しかし、世の評価、人の評価、何ができるできないで自分や人を評価し、追い求めて生きるなら、あなたは奴隷のくびきを負わされているのです。行いによって義とされないと知っていながら、実生活にその信仰を適応できていないのです。

②真理に従わせない力 7~13節 イザヤ43:4

ガラテヤ諸教会には、純粋な信仰を邪魔する力が働いていました。私たちも同じです。神のお考えとはかけ離れた、信仰を邪魔する価値観、環境の中にいる私たちは、その影響からなかなか抜け出せません。行いによらず、信仰によって義とされた私たちは、世の価値観に囚われた奴隷のくびきから、ただ神がどう思っておられるかを基準に歩む、自由を得るために召されているのです。神は、あなたに何ができて、何ができなくても、あなたを愛しておられます。

③愛されていること、愛することで人生を全うする 6節、13~14節

マルコ12:31、コロサイ3:23もご覧ください。神に愛されていることを知っている人は、キリストの自由を得た人です。愛されていることを知った人は、隣人を愛し仕える為に生きるのです。隣人を愛するというのは、神を愛することです。隣人に愛を現わし、誠実に仕えることができるかは、結局のところ、神とあなたとのことなのです。すべてのことは、あなたが愛することを学ぶ為に起きていることです。キリストによる自由を得た者として、神を愛する如く隣人を愛する。愛する、この一点において人生を全うすることができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、テッポウユリ、ストック、オンシジューム、マンサクです。

2022年1月30日 主日礼拝メッセージ

「生くるにしても死ぬるにしても」ピリピ人への手紙1章19~26節 金田洋介牧師

本日からピリピに戻ります。改めてパウロという人物を知り、彼の生き方から学びましょう。

①パウロの人生の目的 20節

パウロには願いがありました。それは、囚われの身から解放されるよりも、自分の身に起こった全てを通してキリストが崇められることでした。「生きるにしても死ぬにしても…」とありますが、まさに彼の全人生を表しているように思えます。パウロにとって、生きること全てがキリストの為に生きる良い機会であり、たとえ死んでも、それは更に素晴らしいことに与れるのだと語ります。彼の人生の目的は、ただキリストの為にだけにあったということでしょう。

②パウロの葛藤 22、23節

次に、彼は自分が生きながらえれば、福音は更に前進する。しかし、自分が死んでも、御国で永遠にイエスと共にいられる。むしろ、その方が遥かに望ましいと本音を漏らします。福音の前進か永遠の御国か、彼はこの二つに挟まれて葛藤していたのですが、パウロにはピリピの信徒たちの信仰と喜びの為に、神は自分を生きながらえさせて下さるという確信が与えられていたようです。彼の人生の目的も、葛藤からの答えも、全てキリスト・イエスに繋がっていることに注目するべきだと強く思わされます。

③パウロが握っていた素晴らしい命

最後に、彼が持っていた素晴らしい命に注目しましょう。彼が「生きることはキリスト」と告白できた理由。それは、イエスを信じ受け入れる全ての人に与えられる、新しい命を持っていたからです。この命は、自分自身の為だけに生きる古い生き方(命)から、イエスの為に生きる新しい生き方(命)をもたらすのです。次に「死ぬことも益」と告白できたのは、死んでも永遠にイエスと共にいられる、永遠の命を持っているからです(ヨハネ3章36節)。パウロにとっての「生」と「死」は、全てキリストに在る命の下にあったということなのです。

あなたも、キリストの為に生きることを願いませんか。誰でも、このキリストの命を持ち、この命に生きるようにと招かれているのです。その招きに対し、「永遠の命だけで十分」「私は私の人生だけを一番にしたい」と思われるかもしれませんが、あなたがクリスチャンとして生きていること自体が、神の愛とイエスの救いの証しなのです。何か特別な事が出来ていなくても、あなたは既にキリストの為に生きている。その事を喜ぼうではありませんか。そして「生くるにしても、死ぬるにしても。私の身に起こった全てのことによって、神がほめたたえられますように。」と願う者とならせていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、ユリ、金魚草、ネコヤナギです。

 

2022年1月23日 主日礼拝メッセージ

「主の前に立つ日に備えて」マタイの福音書 25章31~46節 金田洋介牧師

 

本日の箇所は、世界の終わの時に成される審判について語られたイエスの言葉が記されています。イエスは王としての栄光を纏い、再臨されます。そして、イエスご自身が私たちを裁かれるのです。イエスは王であり、救い主であり、裁き主でもあられるのです。(イザヤ33:22)

裁き主であられるイエスは、羊飼いが羊とやぎをより分けるように、全ての人々をご自身の右と左に置かれます。右に置かれた人は父なる神に祝福された人々であり(34節)、御国を受け継ぐ人々、すなわち永遠の命を頂き、天国に入る人々を指します。一方、やぎにたとえられ、左に置かれた人々は呪われた者と呼ばれます(41節)。彼らはイエスのそばにいることが許されません。悪魔とその使いたちと共に永遠の火の中、すわなち、地獄の火の中にいれられ永遠に苦しむのです。

ここで忘れてならないことは、全ての人々が神を信じ、イエスの十字架と復活を信じ受け入れ、永遠の命を得ることが神の御心であることです(1テモテ2:4)。神は一人として滅んでほしくないと願っておられるのです。しかしながら、裁きの時には滅びる人々がいることが告げられています。今、生かされている私たちは、この事実を厳粛に受け止め、父なる神に祝福された者、御国を受け継ぐ者とされたいのです。

では、右に置かれた者たちと、左に置かれた者たちの違いは何なのでしょうか。それは、何よりもイエスを救い主として信じる信仰を持つこと(ローマ10:9-10)と、この地上に生かされるいている間、神の御心、御言葉に従うことを追い求めて行くことです(マルコ7:21)。イエスは「もっとも小さい者にしたことはわたしにしたことであり、しなかったということはわたしにしなかったことなのだ」と語られました(25:40)。この「もっとも小さい者」とは、あなたが一番親切にできない、関わりたくない人の事です。この「もっとも小さい者」した愛の業、愛のない業はみな、イエスに対してしたことなのです。私たちはこのイエスの言葉を真摯に受け止めなければなりません。私たちは神に愛され、赦された者として、聖霊の助けをいただきながら、全ての人に対して愛の実を結びたいのです。イエスは再びこの地上に来られます。主イエスの前に立つ日に備えて、どのように生きるべきかを考え、決断しなければなりません。あなたの永遠に関わる決断は、あなたが生きている間にしかできないのです。わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。この言葉は、あなたに対するイエスの切なる願いでもあるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ネコヤナギ、ロウバイ、ユリ、アルストロメリア、ストックです。

2022年1月16日 主日礼拝メッセージ

「喜びの日に備えて」マタイの福音書 25章1~13節 金田洋介牧師

 

テキストは、イエスが世界の終わりの時の様子や前兆について語られた後、再臨の時に備えてどう過ごすべきかを、たとえを用いて語られているところです。イエスが再びこの地に来られる「再臨」に備えて、心に覚えて日々を過ごしたいのです。

この譬えに花嫁のお世話をする10人の娘が登場しますが、5人は愚かで(思慮が浅く)、5人は賢い(思慮深い)娘たちでした。彼女たちは、花婿の到着を待っていましたが、花婿の到着が遅れたために居眠りをしてしまいます。すると思いがけないタイミングで花婿の到着の声が上がりました。娘たちは急いでともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちは予備の油を備えていませんでした。彼女たちは慌てて買いに出かけます。一方、予備の油を用意していた賢い娘たちは、無事に花婿を迎えることができ、婚宴の戸は閉められました。するとそこに、油を買いに出ていた娘たちが帰って来ますが、時すでに遅し。彼女たちは祝宴に加わることができませんでした。

これは、第一にイエスの再臨の時が必ず訪れることを示唆しています。「わたしは必ず来る」とイエスは言われました。私たちはこの言葉を信じて受け止め、備えなければならないのです。その日は「盗人の日」のように襲ってくる」(Ⅱペテロ3:10)と聖書は教えています。主の時は必ず来るのです。

第二に、私たちはともしびと油を用意しなければなりません。ともしびを持って花婿の到着を待っていたように、イエスは再び来られると信じる信仰を持ってその日を待つのです。そして油がないと炎が消えてしまうように、真理の御霊である聖霊、助け主なる聖霊によって、信仰の炎を燃やし続けるために、いつも聖霊に満たして下さいと求めて待つのです。

イエスは再びこの地に来られます。それは、私たちが死んだ後か、もしかしたら、生きている間かもしれません。明日かも、明後日かもしれません。私たちはともしびを備えなければなりません。御言葉に根差した生活を、聖霊の助けによって歩んで行きたいのです。主イエスが来られる喜びの日を心から待ち望みつつ、過ごして参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、マトリカリア、ユリ、ストックです。

2022年1月9日 主日礼拝メッセージ

「主は我が牧者なり」詩篇23篇1~6節 金田洋介牧師

 

詩篇23篇はダビデによる詩で、多くの人々に愛されている詩でもあります。ダビデは一国の王ですから、平和で何不自由ない生活を歩んできたから、このような詩ができたのだと思ってしまいますが、彼の人生の半分は戦いと逃亡生活の日々だったのです。忠実に仕えた王に命を狙われ、愛する息子には命も王位も狙われました。また、彼が犯した数々の罪をも聖書は記しています。痛みと悩み、罪と失敗も多い彼の人生と、詩篇23篇は結びつかないように思えますが、むしろそれは逆で、悩みと失敗の人生だったからこそ生まれた詩だったのです。ダビデは神との関係を、羊飼いと羊とにたとえ、彼の心にある平安や、全てに満ち足りている確信を告白します。

①神が羊飼いとなってくださる安心

ダビデは聖なる神を「わたしの羊飼い」であると告白しました。羊は自分の力で生きて行くことはできません。羊飼いは羊のために常に心を配り、世話をするのです。ダビデは神あっての自分であると自らの弱さを認め、神に全く信頼することで、常に満ち足りる確信と安心を得たのです。

②どんな状況下に置かれても、神が共におられる安心

ダビデは神がいつも共におられることを体験したからこそ、逃亡の日々の中でも安心を得たのです。また、神と人との前に罪を犯した時も、共におられた神はダビデを正しい道に導かれました。神のむちと杖が彼の慰めとなったのです。ですから、どの様な状況に置かれたとしても、共におられる神を信頼しようではありませんか。

③神の慈しみと恵み、御国の住まいがある安心

ダビデは羊飼いである神に信頼し、従ったことによってもたらされる大きな望みを確信していました。それは、神が地上の生涯において恵みと慈しみに溢れさせてくださるばかりか、地上の生涯を終えた後も神の御国に永遠に住むことができる望みです。ダビデとはいかずとも、私たちの人生も戦いと悩みの連続です。しかし、羊飼いである神に全信頼を置くなら、安心と祝福の人生となるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、ストック、菊、千両、葉牡丹、テッポウユリです。

 

2022年1月2日 新年礼拝メッセージ

「キリストの愛があなたに平和をもたらす」コロサイ人への手紙 3章12~17節 金田洋介牧師

 

神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者への勧め  12~14節

イエスを信じた者は、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者。だからこそ、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」とパウロは勧めます。これらはみなイエスのご性質です。クリスチャンはイエスのご性質に与ることができるのです。さらにパウロは、互いに忍耐し合い、赦し合うよう勧めます。これらのことは愛の力によってのみ実現します。見返りを求めるのではなく、与える愛で、これらのことを実践するように勧めているのです。

私たちは既に、教会における神の家族(兄弟姉)の交わりを通して、これらのことを実際に体験しています。礼拝や祈り会で聞いた御言葉を互いに実行し合い、共に喜び、悲しみ、祈り合う姿は本当に尊く、神の為、他者の為に労苦や犠牲を惜しまず仕え合う姿は麗しいです。これはイエスの愛の性質が、教会の土台にあるからなのです。しかし、それが教会の中でだけで終わってはいけません。むしろ、私たちの実生活の場でイエスのご性質と麗しい愛の姿が現れることを、イエは願っておられるのです。神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、それぞれの家庭、社会に出て行きましょう。

神様からのチャレンジ~キリストの愛があなた平和をもたらす~ 15節

a.神との平和を得なさい…神ご自身との関係においての平和は、何より重要です。私たちはイエスの十字架の死と復活によって、敵対関係にあった神と和解し、平和が回復されたのです。ですから、イエスの愛の犠牲によってもたらされた神との平和を常に保ち続けましょう。神の御前に常にへりくだり、神の御言葉と御心に耳を傾け、応答することを心がけましょう。

b、他者との平和を保ちなさい…「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2章3節)イエスは互いに愛し合うこと、仕え合うこと、赦し合うことを教えられました。鍵は謙遜になることです。

c、他者と他者との平和をとりなしなさい…「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5章9節) 神は人と人との関係において、あなたが平和をつくり出すことを願っておられます。人と人との平和をとりなし、祈るのです。

他者との平和、他者と他者との平和のために、イエスはどのようにされるだろうと思い巡らし、行動に起こしましょう。そして、神とあなたの間に。あなたと他者との間に。そして、他者と他者との間に、平和をもたらす者とならせていただきましょう。この平和は、イエスと一つにされることによって、そしてイエスの愛によってはじめて実現するのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、千両、ユリ、葉牡丹、オンシジュームです。