「全てに勝るキリストの素晴らしさ」ピリピ人への手紙3章1~11節 金田洋介牧師
ピリピ3章は、いきなり警告の言葉から始まっています。それは、ピリピの信徒たちの救いの達成を妨げる者たちに対する警告でした(2節)。パウロは律法や割礼といった、行いや形式ではなく、ただキリストを信じる信仰に立って生きる者こそ、まことの割礼の者、神の民である(3節)とピリピの信徒たちに教え、律法主義的な価値観、考えに惑わされる事のないよう注意したのです。
ともすれば私たちも、この世の考え、価値観に囚われて自分や他人を見てしまうことがあるのではないでしょうか。「これができる(できない)、だから良い(悪い)」と自分や他人を比べて評価し、一喜一憂する。信仰生活の中においてもそのような考え、価値観を持ち込みます。「これをしたから神様に愛される、できないから愛されない」などと思いやすいのです。気を付けなければなりません。
次に4~6節を見ますと、パウロは、律法主義、ユダヤ主義的な考え、価値観に立つならば、彼には誇りとなるものが沢山あると言います。彼は、血筋、家柄、能力、生活態度、すべてにおいて群を抜いていました。しかし、パウロは、誰もが羨むようなものすべて、キリストのゆえに「ちりあくた」と思うようになったと言います(7~9節)。それはこの世で重視されるすべてに勝るイエス様の素晴らしさを知ったからなのだと言うのです。彼は、「私が何をしたか、何ができるか、何を持っているか」が重要なのではなく、「神様が私に何をしてくださったのかを知ったこと」が重要なのだと言っているのです。「神様はひとり子イエス様を与えるほどに私を愛し、救ってくださった。やがて神様の前に立つときも、キリストの十字架の贖いによって、義と認められる。私はそれを知ったからこそ、自分にとって得であったものが損と思うようになったのだ」と言うのです。私たちも、神様の恵みによって救われたこと、ただ信仰によって救われたことに立って歩みたいのです。神様が私に何をしてくださったのか、どのように思ってくださっているのかを、いつも確認しながら日々歩んで行こうではありませんか。
最後に8節。「私の主」、という言葉にはイエス様とパウロの親しさを感じます。そして「知っている」という言葉は、「交わりを通して知った」ということでしょう。神様は私たちに、パウロの様に「私の主であるイエス・キリスト」と言えるほどの親しい、人格的な交わりを持つことを願っておられます。もちろん、神様はあなたのことを全てご存じです。しかし、あなたのほうから、神様に語り掛けて、あなたの思いを知っていただくのです。神様はあなたを受けとめ、私たちに愛の言葉をかけ、強めてくださいます。あなたが、すべてに勝るイエス様の素晴らしさを知ることができますように。