投稿者「mayumi」のアーカイブ

2021年10月24日 主日礼拝メッセージ

「パウロの確信」ピリピ人への手紙1章1~6節 金田洋介牧師

 

この手紙はピリピのキリスト者たち宛ての手紙です。書き出しの言葉を読むと、パウロとピリピの人々との深く親しい繋がりが伺えます。本日は6節を中心に見ましょう。

ピリピで始まった良い働き

1:6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ここでパウロが言っている「良い働き」とは、何よりもまずピリピにおいて救われる魂が起こされたことでしょう。パウロ一行による第二次伝道旅行の際に救われたピリピのキリスト者たち(使徒16章)が礎となり、のちに教会が誕生します。そして、そこに集うキリスト者たちがパウロの伝道活動をサポートしたのです。このような素晴らしい出来事は、私たちの間にも起こることを覚えたいのです。

熊本真愛教会で始まった良い働き

真愛教会は来年、創立40周年を迎えます。真愛教会もピリピの教会の様にゼロからスタートしました。神様によって遣わされた丸山先生ご一家を通して開拓伝道が始まり、神様の導きによって一人、また一人と救われる方が起こされました。その後、長尾先生、私金田が遣わされ、今では70名を超える群れとなりました。そして世代は第一世代から、第二、第三世代へと信仰が継承されようとしています。この良き働きを始められた方は、パウロが6節で語っているように神様ご自身であり、さらに、イエス様の御再臨されるその日までに、この真愛教会を通して始められた宣教、委ねられた使命、役割を完成して下さるのです。

救われた私たちの内に始まった良い働き

最後に、神様が始めて下さった良き働きは、教会だけでなく私たちの内に起こされることを覚えたいのです。イエス様を救い主と信じた人はみな、イエス様に似た者になると聖書は約束しています。神様を愛し、神様の御言葉を愛し、御言葉に生きる者。隣人を愛し、受け入れ、寄り添い、人々に福音を伝える者とされていくのです。さらには、イエス様と同じ栄光の御姿に変えられると約束されています。けれども、「私の内にそんなことが起こるのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうか思い巡らしていただきたい。神様があなたの内に始められた良い働きが必ずあるはずです。御言葉に押し出されて始めたことはありませんか?伝道、デボーション、愛を与える (親切、善意による) 行動、とりなしの祈り…、それらは全て神様が始めて下さった素晴らしい働きです。必ず、神様が完成して(完遂できるように)下さいます。時にはくじけそうになるかもしれませんが、パウロをとおして私たちに与えて下さった神様の約束の言葉は真実です。私たちに教会に、私たちの内に良い働きを始めた下さった神様を信じ、忍耐と期待を持って共に歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ハイビスカス(枝)、グロリオーサ、オリエンタルユリです。

 

2021年10月17日 主日礼拝メッセージ

「苦難の中でも絶望しないために」創世記50章15~26節 金田洋介牧師

 

ヨセフは兄たちによって貶められてエジプト人の奴隷となり、さらに濡れ衣を着せられ投獄されてしまいます。ところが、奴隷であっても、囚人とされても彼の生き方は変わりませんでした。共におられる神と、置かれた場所でその日その日を生きたのです。

ヨセフ、囚人から宰相へ

ある日のこと、ヨセフは拘留されていた王の廷臣たちの夢を解き明かしたことをきっかけに(40章)、王の夢を見事に解き明かすします(41章)。そして、将来エジプトを襲う大飢饉を乗り越える方策を提案することによって王の信頼を得、ヨセフはあっという間にエジプトの宰相に上り詰めます。その後ヨセフは結婚し、マナセとエフライムを授かります。これまでの苦労が報われたヨセフでしたが、神様のご計画にはさらに先があったのです。

誰の考えも及ばない、神の壮大な計画

エジプトの宰相になったヨセフの采配により、7年間の大飢饉からエプトを救いますが、大飢饉は地の全面に及び(41:56)、ヨセフの父や兄たちがいるカナンの地にも影響をもたらします。しかし、ヨセフの功績と王の好意により、ヤコブ一族のエジプト移住が許されます(42~45章)。神様はヨセフを通してエジプトや諸国を救い、ヤコブ一族も救われたのです。

50:20 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

ヨセフの告白のごとく、神様はヨセフの兄たちの悪の企みを良きことに変え、多くの人々を救って下さったのです。そして、移住時70数名だったヤコブの一族は、400年後の出エジプトの頃には100万人以上に増え、神の栄光を現わす使命を担う神の民として歩むことになります。神には誰の考えも及ばない壮大なご計画と最善のアイデアがあるのです。

神様の憐みを知り、神様の憐みを求める

説教題にもある苦難とは、「身に降りかかる悩み、苦しみ、苦痛」です。ヨセフも兄たちも苦難の中を通りました。ヨセフは人の悪意と罪によって苦しみ、兄たちはヨセフに対して行った悪、つまり、自分たちが犯した悪と罪を悔いて苦しみ、さらに父ヤコブが死に、ヨセフの仕返しを恐れています(50:15)。このように、自分の犯した罪や他者の犯した罪によって苦しみ、絶望に追いやられることがあります。しかし、ヨセフや兄弟たちに、さらには神を信じないエジプトや周辺諸国にも、神の憐みの御手が及び、みな救われました。ここに、私たちが苦難の中でも絶望しないために覚えておくべき秘訣があります。ヨセフの物語を通して全ての人が神の憐みの対象であることを知った今、神の憐みを信じて求めるのです。神は私たち誰もが考えも及ばない壮大な計画を用意し、それを実現できる唯一のお方です。日々このお方の前に遜り、憐みにすがりつつ歩んで行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、クジャクヒバ、グラジオラス、ユリ、トルコキキョウ、スターチスです。

2021年10月10日 主日礼拝メッセージ

「神様と共に今日を生きよう」創世記39章5~23節 金田洋介牧師

 

本日はヤコブの息子ヨセフに注目します。ヨセフは12兄弟の11番目の息子ですが、父親のヤコブは彼を他のどの兄弟よりも愛しました。他の兄弟たちと明らかに違うヨセフへの待遇に、兄たちは面白くありません。そこにヨセフが見た二つの夢が決定的となり、兄たちはヨセフの殺害を企てます。幸い、寸前のところで思い止まりましたが、ヨセフは兄たちによってミディアン人の商人に売られ、エジプトのポティファルの奴隷となってしまいます。

命拾いしたとはいえ、奴隷となってしまったヨセフ。ところが彼は落ち込んだり、恨み言を呟いたり、家族の許に帰ろうと飛び出したりしませんでした。彼は酷い目にありながらもそれに縛られず、辛い現実から目を逸らさず、ポティファルの奴隷の一人として、今日という日を生きることを選んだのです。忠実に仕えるヨセフの姿を見た主人は、彼に家と財産の全ての管理を委ねます。これは、ヨセフと共におられた神様の取り計らいであるとともに、神様がヨセフを祝福しておられることをポティファル自身が知ったからでした。このことから、もし私たちが神様と共に今日を生きるなら(いつでもどこでも、神様の御心と御言葉をに生きる)、私たちを通して生きておられる神様が周囲に知られて行きます。たとえ、悩み苦しむことがあっても、共におられる神様を信頼して委ね、自分の置かれた所で役割を責任を果たして行こうとするなら、神様は私たちを守り支え、良きことを行って下さるのです。

ところが、神様と共に毎日を生きてきたヨセフの日常が破壊されてしまう出来事が起こり、状況が一転します。ヨセフはポティファルの妻からの誘惑に悩まされます。しかしヨセフは、それは神様の前に罪を犯すことであり、また主人であり、自分を信頼してくれているポティファルに対する罪であると宣言し、誘惑に負けて罪を犯すことはありませんでした。しかし、ヨセフはポティファルの妻に濡れ衣を着せられ、監獄に投獄されてしまうのです。あまりに理不尽な現実に、彼の心が折れてしまってもおかしくありません。ところがヨセフの生き方は、場所が変わっても、奴隷から囚人にまで貶められても全く変わることはありませんでした。そして、ヨセフと共におられた神様は、監獄の中にあっても彼を祝福し、看守の信頼を得させ、彼を成功させてくださったのです。

元々、ヨセフは性の誘惑だけでなく、権力とお金の誘惑にも晒されていました。彼はポティファルの家と財産の管理も任されていましたから、思うがままに振る舞うこともできたのです。しかしヨセフは「神様の前に、主人の前に罪を犯すことはできない」と誘惑に勝利しました。まさに、イエス様が「神を愛し、隣り人を自分自身のように愛しなさい」と教えられた、このご命令が鍵であることを私たちに示しています。神様と共に今日という日を生きたヨセフは、神と人とを愛し、置かれているとこで使命と責任を忠実に果たしました。私たちも彼に倣い、誘惑の多い世にあっても、神と隣り人を愛する日々を歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、グロリオーサです。

2021年10月3日 主日礼拝メッセージ

「ヤコブの格闘~私はあなたを去らせません~」創世記32章21~32節 

 

①ヤコブの帰郷

故郷から離れて20年の歳月が流れました。伯父のラバンの元に無一文でやって来たヤコブも、今や4人の妻、11人の息子たちを持ち、多くの家畜を持つようになりました。ある時、神様はカナンの地においてヤコブを祝福するとの約束を実現するため、故郷に帰るよう命じます(31章3節)。ところがヤコブには大きな悩みがありました。それは兄エサウとの確執です。20年経った今も、この問題は解決されていなかったのです。

②ヤコブの恐れ

ヤコブは自分だけでなく、家族までも殺されてしまうのでは?と恐れていました。さらにエサウが400人も連れて来ていることを知ります(6~8節)。ヤコブは宿営を2つに分けて被害を最小限に抑えようと試み、そして、神様の助けを祈ります。しかし、それでも不安が解消されないヤコブは、エサウへの贈り物を大量に用意して兄をなだめる作戦を立てます。

③ヤコブの格闘

いよいよ、兄との再会の時が迫ってきました。ヤコブは家族と所有物を先に行かせ、自分一人で残って静まります。するとその夜、ヤコブは神様と一晩中、格闘します。格闘の末、神様はヤコブに「あなたの勝ちだ」と言われました。これは、私たちが考える勝ち負けとは意味が違います。そして、この格闘は、「神様に祈る」ということが、どういうことなのか、私たちに教えているのです。

④神様との人格的交わり

神様はヤコブに「あなたは神と、人と戦って、勝った」と言われましたが、何が彼にとっての勝利なのでしょうか。ヤコブは神様が去ろうとした時、「私を祝福してください。」と求めました。これは神様の祝福の回復を求めているのです。ヤコブの自己中心な生き方が兄との諍いを生み、神様のご計画をも妨げる結果となったことを、彼は神様との格闘を通して気付かされたのでした。ヤコブはこの格闘(神様との人格的な交わり)を経て変えられました。つまり、自分の事しか考えず、ただ恐れているだけの弱さを乗り越えたのです。ここでの勝利とは、神様と格闘を通して、ヤコブが自己中心の自分、罪深い自分に勝利したということなのです。

彼の姿から、神様との人格的な祈りの型を見ることができます。私たちは、祈りを通して神様と人格的な交わりができるのです。それは単に願いを求め、その結果だけを重要視するような浅い交わりではありません。神様と私たちが祈りで人格的な交わり(格闘)をすることによって、本当の自分が取り扱われ、整えられて行くのです。祈りの結果も大切ですが、そこに至るまでのプロセスが大切なのです。ヤコブと格闘された神様は、あなたと人格的な交わり(格闘)をしたいと願っておられます。神様に心を開き、ありのままの自分をぶつけてみませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、クジャクソウ、アルストロメリア、ユリ、トルコキキョウです。

2021年9月26日 主日礼拝メッセージ

「天と地をつなぐ梯子」創世記28章10~22節 金田洋介師 

 

今週から再び創世記に戻ります。アブラハムからイサクへと受け継がれた神の祝福は、ヤコブへと引き継がれます。2週に渡ってヤコブにスポットを当てます。

Ⅰ.ヤコブの状況~人生のどん底にいたヤコブ~

まずヤコブのこの時の状況を確認しましょう。彼はまさに人生のどん底にいました。何故そのような状況に追いやられたのでしょうか。2つの理由があります。1つ目は、兄エサウの長子の権利を巧妙に奪い取ったことです(25:29-33)。彼は双子で、エサウという兄がいました。ある日、ヤコブが煮物を作っていると、丁度、エサウが狩りから帰って来ました。彼がヤコブの煮物を欲しがると、ヤコブは煮物と引き換えにエサウの長子の権利(父の遺産の2倍を受ける権利)を求めます。エサウは空腹のあまり、その権利を簡単に譲ってしまいました。2つ目は、父イサクをだまして兄エサウが受けるはずの祝福をヤコブが奪い取ったという事件です(27:1~)。これは父イサクと母リベカも絡む、イサク一家に起こった痛みの多い出来事でした。一度ならず二度も押しのけられたエサウは、ヤコブを殺害することを心に決めます。そんな兄の心を知ったヤコブは、叔父ラバンのもとに逃げることになりました。財産どころか何一つ持たす、独りぼっちのヤコブ。彼は野宿をし、石を枕にして寝ました。自分で招いたこととはいえ惨めな姿です。

Ⅱ.ヤコブの見た夢~天と地をつなぐ梯子~ 28:12-15

その夜、ヤコブは不思議な夢を見ました。それは、梯子が地から天に向かって立っていて、神の使い達がその梯子を伝って上り下りしているという夢です。さらに驚いたことに、神様ご自身が下りて来られ、落ち込むヤコブに近付き、アブラハム、イサクと同じ祝福の言葉を与えて下さったのです(13-15)。今ヤコブが置かれている状況は、彼自身が招いた結果です。神様の時と方法を待ちきれず、自分勝手な考えで行動したことによって窮地に追いやられました。まさに自業自得です。ところが神様は、彼を見捨てるどころか、神様ご自身が約束されたことを全うするというのです。夢から覚めたヤコブは、アブラハム、イサクの神様を、自分の神様として礼拝しました。神様を畏れ敬う者に変わったのです。

天と地をつなぐ梯子を下りて、ヤコブに現れて下さった神様は、人間イエスとなって私たちのところに来て下さいました。そればかりか、さらに深い黄泉にまで降り、私たちの罪を贖って下さったのです。神様のおられる天と、私たちのいる地は、このイエス様によってつながれています。私たちはいつでも神様に近付くことができ、神様の方からも近付いて下さいます。この身に余る恵みに感謝しつつ、日常生活の中で神様の御力を体験させていただきましょう。「私のために地上に降り、黄泉にまで降られた神様、私の日常生活の中にご自身を現わし、素晴らしいことを行って下さい。」と積極的に祈るのです。必ず、神様はご自身を現わして下さいます。信じ求めてこの一週間を過ごしましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、カーネーション、リンドウ、トルコキキョウ、紫陽花です。

2021年9月19日 敬老祝福礼拝式メッセージ

日々新たにされる幸い~外なる人は衰えても~」Ⅱコリント4章16~18節 

 

「落胆させられるようなことがあっても落胆しない。たとえ、外なる人が衰えても、内なる人が日々新たにされる」と告白するパウロに注目しましょう。

①落胆させられるようなことに直面してきたパウロ

パウロは伝道者生涯の中で、あらゆる肉体的苦痛、精神的苦痛を経験してきました。また、生来の弱さや持病もあったと思います。彼は自分自身も含め、私たち人間の身体を「土の器」、「外なる人」と呼び、脆く壊れやすい肉体、老いや衰え、弱さや脆さを表現しています。これは彼が経験した迫害や挫折が背景にあります。私たちも老いや健康に不安を覚えることがありますし、悩みや弱さを経験します。しかしパウロは、イエスを信じ、聖霊様と共に生きる私たちは「落胆しない」と言っています。

②衰え、弱っても落胆しない理由

パウロは、私たち土の器の中に「宝」が入っていると言います。宝とはイエス・キリストの豊かな福音(恵み、素晴らしく、驚くべきこと)。この豊かな福音(恵み)は、私たちの内に罪の赦し、永遠の命、神の愛、御霊の実となってもたらされたのです。これは「神からの測り知れない力」によるもので、私たち自身の力ではありません。肉体的、精神的な苦痛を味わい、そして外なる人(肉体)も老いて弱さを実感したパウロでしたが、イエスによってもたらされた、この数々の恵みと神ご自身の力によって、その伝道者生涯を力強く全うしたのです。

③イエスとの交わりによって日々新たにされる幸い

悩みと憂いは尽きず、外なる人は土の器のようにボロボロになって行くかもしれません。しかし、「私たちは決して落胆しません。なぜなら、内なる人は日々新たにされているからだ」とパウロは言います。私たちはイエス様を信じたことによって、新しい命が与えられます。それは、イエス様と共に生きる命(人生、日々)です。つまり、日々イエス様と交わる(祈り、御言葉を聞く)ことによって、私たちの信仰が、命が、日々フレッシュにされるということです。これはイエス様を信じた者の特権です。

私たちの人生を根底から揺るがすような試練はやってきます。肉体的、精神的苦痛、外なる人の衰えを経験します。それこそ、信仰が揺さぶられるような試練かもしれません。しかし、外なる人が衰えても、日々新たにされる幸いが私たちにはあるのです。私たちのうちにある宝が、恵みが、私たちに力をもたらしてくれるのです。この素晴らしい恵みを与えて下さった神様と共に歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヤマテラシ、ユリ、ヒマワリ、菊、アルストロメリアです。

2021年9月12日 主日礼拝メッセージ

イサクの生涯から学ぶ教訓」創世記26章12~22節 金田洋介牧師

 

26章の出来事は、イサクの人となりがよくわかる箇所です。彼が直面する出来事、それに対する彼の行動から、神様が何を教えようとしておられるのか学びましょう。

①イサクが経験した困難と失敗から学ぶ

イサクの時代も、厳しい飢饉がありました。しかし神様は、イサクに今いる地にとどまらせなさいました。今いる地も含めたカナンの地全体を与えると約束されていたからです。苦しくても、わたしの祝福の約束を信じなさいと、飢饉という困難を通してイサクの信仰を訓練されたのです。ところが、イサクはここで失敗をします。自分の命を守るため、妻リベカを妹だと偽ったのです。しかし神様は、どこまでもご自身の言葉と存在を掛けて真実を尽くし、失望せず諦めず、忍耐をもって向き合い続けられます。私たちが困難に直面するとき、私たちの本性、本質が浮き彫りになります。罪深い自らの性質、本質に失望するかもしれません。しかし、主イエス様の流された血が、私たちをきよめてくださいます(Ⅰヨハネ1章7節、イザヤ1章18節)。

②神に祝福されるイサク、民に妬まれるイサクから学ぶこと

失敗をしたイサクでしたが、その地にとどまりなさいという神様のみ言葉に従いました。神様は彼を、大収穫に導かれました。彼は神様のお力を見ました。物質的な祝福よりも、神様が共におられ、みわざを体験できたことが、何にも勝る祝福でした。しかし、豊かになったことで、イサクはその地域のペリシテ人に妬まれました。井戸は塞がれ、せっかくの安住の地を失ってしまうのです。神様を体験しつつも、思いがけない困難に襲われることがあります。しかし、イサクは争うことなく、黙って退きます。彼が父アブラハムから受けた遺産は、神様の約束を信じてみ言葉に立つ信仰でした。神様の約束への信頼が、彼に寛容と忍耐、柔和、目に見えるものではなく、目に見えないお方を信頼する生き方をもたらしたのです。ついに、三つ目に掘った井戸は、平和のうちに所有することができました。

私たちの約束の地は、今、あなたが置かれている全ての場所と言えます。困難や試練に直面した時、何よりもまず、神様の御声を聞きましょう。神様がすべてを知り、約束のみ言葉を下さっていると信じて、どこまでも神様を信頼する者となれますように。イサクの生涯から学んだことが、あなたの生涯にも活かされ、神様を体験できますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ユリ、リンドウ、カーネーション、ガーベラです。

2021年9月5日 主日礼拝メッセージ

「イサクの結婚~神様の取り計らいを信じて~」創世記24章1~27節

 

副題の「取り計らい」とは「物事が上手くいくように取り扱うこと」です。イサクとリベカの結婚の背後に、神様の取り計らいを信じた人々の信仰があったのです。

Ⅰ.神様の取り計らいを信じて~僕を遣わすアブラハム~

アブラハムはイサクの結婚相手を探すために僕を遣わすにあたり、二つの条件を課しました。それは、アブラハムの親族であることと、イサクのいるカナンの地に移り住むということでした。これはイサクをはじめ、彼の子も孫もみな、真の神様を礼拝し続けるため、神様の約束の地を受け継いで行くためです。アブラハムは、自分を導き出された神様の取り計らいがあることを僕に告げ、彼を遣わしました。

Ⅱ.神様の取り計らいを信じて~祈り求める僕~

僕は無事に目的の土地へと到着しました。しかし、広い土地、大勢の中から、アブラハムの親族を探し出し、その中からイサクの妻となる女性を見つけ、尚且つ、カナンの地に移住してくれる人でなければなりません。すると僕は、神様の取り計らいを祈り求めます(12節)。それは自分の任務達成の為ではなく、神様のご計画の実現(アブラハム、イサクの子孫が増え広がること)と、アブラハムが神の恵みに与る為に求めたのです。そして、イサクの妻として相応しい、思いやりと献身的な愛を持つ女性を見極めることができるように具体的に祈り求めると(14節)、神様はリベカを導かれました。なんと、彼女はアブラハムの兄弟の孫にあたる親族でした。それを知った僕は、直ちに神様を礼拝し、取り計らって下さった神様をほめたたえたのです。

Ⅲ.神様の取り計らいを信じて~神様の導きを信じ受け入れる家族、従うリベカ~

 僕からその一部始終を聞いたリベカの兄ラバンと父ベトエルは、全てが神様のご計画と導きであると信じ受け入れ、リベカの結婚を承諾しました(50-51節)。一方、リベカも神様の御心に従うことを決断し、別れを惜しむ家族を離れ、イサクの許へと旅立ちました(58節)。

神様の良き取り計らいと信仰者たちの姿を見ました。偶然に物事が好転したのではなく、神様の取り計らいを信じる信仰のチャレンジを乗り越えたことによって、神様の御業を体験したのです。クリスチャン生涯は、神様の取り計らいを信じて歩み続けるチャレンジの連続です。時には、とんとん拍子で道が開かれることもあるでしょう。その一方で、物事がうまく進んで行かず忍耐を試されることや、試練によって傷つき倒れること、神様の御心が分からず苦しむこともあると思います。けれども、最後には「主はこの私を導いて下さいました」と感謝する未来が待っています。「信じるなら神の栄光を見る。(ヨハネ11章40節)」のです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、リンドウ、ケイトウ、オミナエシ、パンパスグラスです。

 

2021年8月29日 主日礼拝メッセージ

「あなたのためのしるし」出エジプト記3章1~12節 金田ゆり牧師

 

ミディアンの地に移り住み、羊飼いになり40年。神様が出エジプトのご計画を実行される為に、最後に残されていた最大の備えは、80歳になったモーセの召命でした。

  • 日常に現れてくださる神に応答する 1~4節

モーセは、いつものように羊の群れを連れ、水と草を求めて神の山ホレブまで来ました。いつもの日常が過ぎようとしていた時、神様は燃える柴の中から、モーセにご自身を現わされました。神様は、ご自身を現わされるときは私たちにわかるように現われてくださいます。それは、「モーセ、モーセ」と親しく二度読んでくださったように、あなたの名を呼ばれている時なのです。あなたは、「はい、ここにおります」と神様に返事をしたことがありますか。日常の中で、神様に気づき、名前を呼ばれていることに気づき、ここにおりますと返事をすることは、あなたがご計画の中で用いられる一歩なのです。

  • 主の前に自らを聖別する 5~6節

モーセはこれまで、神様に直接御声を掛けられたことがありませんでした。目の前に神様がおられることに気づかず、御顔を横切って柴を見に来たモーセを、神様は呼び止められました。そして、神様はここで、モーセを神の御用の為に聖別したのです。私たちは、家庭、学校、職場、そしてこの社会に、神の御用の為に遣わされています。私たちは日々、アブラハム、イサク、ヤコブの神の前に聖別される時を持ちたいものです。どんなに忙しい朝も一言、主の前に出て祈り、自らを聖別されて遣わされたい。どこに行くにも、神様に召されたものとして歩ませていただきたいのです。主の御用を全うするために、重要なことです。

  • あなたのためのしるし 7~12節

神様はイスラエルの苦しみを見、叫びを聞かれました。ついに、アブラハムに約束されたカナンの地に、イスラエルを導くと言われました。その為にモーセを召し出されたのですが、モーセにとってはこの召しは重くのしかかるトラウマのようなものでした。40年前の失敗が思い出されていたことでしょう。しかし、モーセが「はい」と言わなければ計画は進みません。神様は、モーセの心をご存じでした。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである」と、最高の最大のお約束を下さったのでした。私たちが神様の召しを全うできるかどうかは、神様が共におられるかどうかが全てです。わたしはあなたとともにいる。このお約束こそ神様のしるしと信じ、神様の御用に用いてくださいと言えたなら、あなたに用意されている神様のご計画が動き出すのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、リンドウ、ユリ、グラジオラスです。

 

2021年8月22日 主日礼拝メッセージ

水面下で進む神の備え」出エジプト記2章11~25節 金田ゆり牧師

 

ファラオの娘の子として育てられたモーセ。40歳の時、同胞イスラエルを顧みて、彼らを救おうとしましたが、うまく事は運びませんでした。出エジプトのご計画の実行されるまでに、彼自身が整えられるという神の備えが完了していなかったのです。

  • 自らの無力を知ったモーセ 11-15節

イスラエルの苦役を見たモーセ。一人のエジプト人が一人のイスラエル人を虐待しているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいます。彼は、この時点で、神は自分を通してイスラエルを救うのだと自覚していますが、自分に与えられた地位や知恵を用いて救おうとしました。自分自身が主導でした。しかしその結果、同胞から認められず、ファラオから追われる身になり、異国ミディアンまで逃げることになります。モーセは、初めて自らの無力を知りました。神の前に身を低くし遜る。自らの無力を知ることこそ、神が彼に求められた備えだったのです。

  • 神の民としての自覚を取り戻したモーセ 16ー22節、へブル11:24―25

モーセがミディアンの井戸の傍らに座っていた時、ミディアンの祭司の娘たちが羊の群れのための水を汲んでいました。そこに意地悪な羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払いましたが、モーセが彼女たちを助けました。彼女たちの父親はモーセを呼び寄せます。モーセは「心を決めて」ミディアンに住み、結婚しました。神はここで、これまでのモーセの地位を完全に捨てさせました。彼は、この時、神の民イスラエルの自覚を取り戻したのです。この一連の出来事は、モーセにとって惨めで散々なものでした。しかし、彼は不必要なものを捨て去り、神の民としての自覚を取り戻し、神のものとされたのでした。モーセが真に用いられるための、備えでした。

  • 神はご計画を必ず実行される 23―25節

その後モーセは、羊飼いとして40年の歳月を過ごすことになります。40年となると人間的には諦めたくなるものですが、神が水面下で備えさせ、そのまま、ということは決してないのです。備えさせるのは、ご計画あってのことなのですから。アブラハムとの契約から、実に400年が経とうとしていましたが、これほどの年月が経とうとも、神がみ言葉の約束を忘れられることはありませんでした。神は、そのご計画の備えとして、あなたを整えられます。その期間は、必ずしも喜ばしい期間ではないかもしれません。しかし、その時は主の前に遜り、無力を知る時です。不必要なものを取り除かれ全く主のものとされる時です。水面下での神の備えの期間が満ちた時、あなたが用いられる時が必ずやってくるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、バラ、トルコキキョウ、ドラセナです。