投稿者「mayumi」のアーカイブ

2021年8月15日 主日礼拝メッセージ

「試み練られたアブラハム」創世記22章1~18節 金田洋介牧師

ある日、神はアブラハムにイサクを全焼のささげものとして献げなさいと命じます。これは試練であったとありますが(1節)、彼はどのように応答したのでしょうか。

Ⅰ.どこまでも従順な者に
 神に命じられたアブラハムはすぐに出発します。彼の御言葉に対する従順さが伺えます。これまでアブラハムは、自分の弱さと共に神の真実を体験し、神と人格的な交わりを通して学んできました。だからこそ、神のご命令に従えたのでしょう。私たちは、神の御言葉に従えない自分を嫌というほど実感する事があります。しかし、今は従えない自分が居たとしても、試み練られ、多くの経験を経てた先に、アブラハムのような従順な者に変えられて行くのです。

Ⅱ.どこまでも神を信じる者に 

アブラハムはイサクを縛り、祭壇の上に載せました。イサクが抵抗している様子はありません。彼もまた従順でした。そして、アブラハムがイサクを屠ろうとした時、間一髪で御使いが止めました。アブラハムが神を畏れ敬う者として認められたのです。アブラハムは、神が用意して下さった雄羊をイサクの代わりにささげます。そして、彼はその場所を「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」と呼びました。
ヘブル書の作者は、「彼は神には死者を甦らせることが出来ると信じていた。」と語っています。神の祝福の約束はイサクなしに成就しません。つまりアブラハムは、約束を与えて下さった神ご自身が、どんな形でも必ず成就して下さると信じたのです。その結果、もう確実に死んだようなイサクを取り戻し、神の祝福の約束を確かなものとして受け取ったのです。他でもなく彼が神の御声に聞き従ったからです。

神は私たちにも試練をお与えになりますが、何のために試み、練られるのかは明確です。私たちが「神の前にどこまでも従順な者、どこまでも神を信じる者」になる為です。その為に多くの試練を通らなければなりませんし、時に「何で?」と思うような事もあるでしょう。しかし、アブラハムを止めてイサクを救われた神は、ひとり子イエスが十字架で裁くことを止めませんでした。ひとり子イエスを議性にしてまで、あなたを愛し、救って下さったほどのお方が、意味なく苦しい試練に合わせるでしょうか。その試練の先に、アドナイ・イルエの神を体験する未来が待っているのです。どこまでも従順で、どこまでも神を信じるキリスト者に整えていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、トルコキキョウ、カーネーション、モンステラです。

2021年8月8日 主日礼拝メッセージ

「あなたの声を聞かれる神」創世記21章1~21節 金田洋介牧師

 

本日の箇所で待望のイサクが誕生します。本当に長い道のりでした。アブラハム夫妻に大きな喜びが訪れましたが、『喜び』と共に『怒り』、そして『哀しみ』もこの箇所には記されています。アブラハム家に起こった『喜』『怒』『哀』を見ましょう。

『喜』イサクの誕生

「神は私に笑いを下さいました。」(6節)イサクの名前の意味は「笑い」です。神はサラにイサクを与えて下さいました。その名のとおり、神は彼女に笑いを下さったのです。サラは心から喜び、笑うことができました。この日に至るまで、どれ程涙を流し、どれ程祈り求めたことでしょう。彼女の涙と祈りに神は報いて下さったのです。そればかりか、イサクを通して神の素晴らしいご計画の一部にサラも関わることができたことも、彼女にとって大きな喜びだったと思います。

『怒』サラの怒りと憂い

アブラハムはイサクの乳離れを祝い宴会を催しました。喜ばしい席でそれは起こりました。イシュマエルがイサクをからかっている場面をサラが目撃したのです。兄弟同士とはいえ、サラは黙っていられず、怒りをアブラハムにぶつけますが、彼女の言葉の中に心配事が伺えます(10節)。それは、将来イシュマエルがイサクを押しのけて長子の権利を主張しないかという恐れでした。アブラハムは苦悩しましたが、神の仰せのとおり(12~13節)、イシュマエルとハガルを家から退けたのです。

『哀』ハガルの悲しみ、イシュマエルの叫び

心の準備もする間もなく、ハガルとイシュマエルは追い出されてしまいました。二人は行くあてもなく荒野を彷徨い、パンも水も尽き、空腹と渇きで動けなくなってしまいました。ハガルの心は折れ、絶望と悲しみのあまり声を上げて泣きました(16節)。すると、神の使いが彼女に声をかけます。神がイシュマエルの声を聞かれたというのです。諦めてただ泣くだけの母の為に、イシュマエルは祈っていたのです。神は彼らの命を救い、すでに約束されていたように彼らを祝福されたのでした。

神はあなたの声(祈り)を聞いて下さるお方です。あなたが神に向かってあげる声は、喜びを求める声もあれば、感情のままに訴える声もありますし、哀しみに打ちひしがれた声かもしれません。神があなたの声にどのように応えて下さるか分かりませんが、神の御名を崇める結末が待っていると信じ期待し、求めようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ケイトウ、リンドウ、トルコキキョウ、ユリ、パンパグラスです。

2021年8月1日 主日礼拝メッセージ

「何度も、何度でも~破れを繕う神~」創世記20章1~18節 金田洋介牧師

 

ゲラルへと移住したアブラハムは、真の神を信じないこの地域の人々を恐れ、妻のサラを自分の妹として紹介します。ゲラルの王アビメレクは、サラがアブラハムの妹だと聞き、彼女を王宮へ召し入れました。ところがその夜、神はアビメレクに「今日、召し入れたサラのゆえに、あなたは死ぬ」と告げます。サラがアブラハムの妻だからです。アビメレクは「サラもアブラハムを兄と言っていた」と、身の潔白を神に訴えます。しかし神は、サラをアブラハムのもとに帰さなければ、王も王の関係者もみな死ぬとうのです。アビメレクがアブラハムに問いただすと、サラは異母兄妹で、完全な嘘ではないと弁解します。騙された上に、とばっちりで自分の命を失うところだったアビメレクでしたが、寛容な態度と行動をアブラハムとサラに現します(14-16節)。そして、アブラハムが王の為に祈ると、アビメレクの妻と女奴隷たちの不妊が癒され、また子どもを産むようになりました(17-18節)。

今回のゲラルでの出来事は、かつてエジプトで起こった出来事とよく似ています(12章)。アブラハムはゲラルでも多くの人を巻き込みます。妻のサラも嫌な思いをしたでしょうし、また、神のご計画を妨げるところでした。信仰的にも人間的にも成長したはずのアブラハムは、ゲラルの地で同じ失敗をしてしまったのでした。常に誠実を尽くして下さった神に対し、愚かな過ちを犯したアブラハム。これでは神との関係も終わってしまったのではないかと思ってしまいます。しかし、憐み深い神はゲラルの王との関係、妻サラとの関係、そして神との関係を繕って下さったのです。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」ローマ4章3節
彼の信仰は素晴らしいですが、彼の行動や判断が全て正しかったわけではありません。行いだけを見るならば、とても正しい人とは言えません。神を信頼せず、人を恐れ、神の方法に逆らい、自分勝手な判断と行動で失敗してきました。しかし、そんな彼を神は何度も助け、導いて下さったのです。アブラハムは失敗も多かったですが、それ以上に神の憐れみを信じ、求め続けたのです。彼は行いによって神の前に義と認められたのではなく、神を信じることによって義と認められたのです。失敗の多いアブラハムを何度も、何度でも赦して下さった神、破れを繕って下さった神は、私たちの神です。ひとり子イエスを十字架に死なせてまで愛し、救って下さいました。失敗の多い私たちですが、神の憐みを信じ、イエスの十字架を仰ぎ続けましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、リンドウ、ユリ、アルストロメリアです。

 

2021年7月25日 主日礼拝メッセージ

「ただ神の憐みのゆえに」創世記19:1-22 金田洋介牧師

 

先週はロトと彼が住むソドムの町の為に必死にとりなすアブラハムの姿を見ました。ソドムに正しい人が10人いれば神の裁きから救われます。果たして結果は…。

Ⅰ.罪に蝕まれたソドム

二人の御使いがソドムに到着しました。すると町の門にいたロトが彼らを見つけると、伏して拝し、自宅に招きます。ところが、町中から男たちがロトの家に押し寄せ、家を取り囲みました。おぞましい話ですが、ロトの家に招かれた二人に性的な暴力を加えようとやってきたのです。このようなことが公然となされようとしているところに、この町の人々の罪深さが分かります。この後、御使いがソドムに神の裁きが降ることをロトに告げます。ソドムの町には正しい人が10人もいなかったのです。

Ⅱ.ソドムに影響されたロト

はじめロトはソドムから離れた所に住んでいましたが、今では町に住み、門のところに座っています(1節)。これはロトが町の有力者の一人になっていたことを意味しますが、彼が御使いたちを守ろうとしていることから、完全に悪に染まっていたわけではないようです。しかし、神の裁きが迫っているにもかかわず、彼は逃げるのをためらいました(16節)。ソドムの生活に、ロトも少なからず影響を受けていたようです。イエスは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」「神と富とに仕えることはできない」と言われました。肉の思いと神の言葉に揺れるロトの姿は、私たちも同じではないでしょうか。「この世と調子をあわせてはいけません。」ローマ12:2

Ⅲ.ただ神の憐みのゆえに

御使いたちは、逃げることをためらうロト一家の手を掴み、彼らを助け出しました。すると、天から硫黄と火がくだり、ソドムとゴモラの町の全てを滅ぼし尽くしたのです。ところが、御使いの命令を破ったロトの妻は塩の柱になり(26節)、ロトの二人の娘たちは、人間的な考えと判断の末、父によって子どもを残し、彼女たちの子孫が後のアンモン人、モアブ人としてイスラエルを悩ませることになります。何とも後味の悪い結末です。しかし神は、アブラハムのとりなしの故にロトを救ったとあります(27~29節)。さらには、モアブの子孫からルツが生まれ、ひ孫にダビデ、ダビデの子孫からマリアの夫ヨセフが誕生します。彼のとりなしは無駄ではなかったのです!

憐み深い神は、私たち人間のどうしようもない罪を贖って下さったお方です。神の憐みによって救われた者として、日々、他者の為にとりなし祈って参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ヒマワリ、トルコキキョウ、アスターです。

2021年7月18日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムのとりなし」創世記18章16~33節 金田洋介牧師

 

御使いと共にアブラハムの前に現れた神は、サラによって男の子が生まれることと共に、罪深いソドムとゴモラの町を滅ぼそうと考えておられることをアブラハムに告げました。アブラハムはソドムに住む甥のロトのため、そして、罪深いソドムとゴモラの為に神の前に立ってとりなします。アブラハムは、人を偏り見ず、公正に裁かれる神の正しさに訴えかけるように、ソドムの町に50人の正しい人がいたならば、その正しい人の故に町を滅ぼさぬよう神に願い求めます。神はそれをよしとされました。するとアブラハムは、50人から45人、45人から40人と、最後には救いの条件となる人数を10人までに減らし、神はその求めを受け入れて下さいました。アブラハムは、神が聖く公正なお方であり、愛に満ちたお方であることを知っていたからこそ、その憐みにすがったのです。この結末は来週のメッセージに続きます。

神は私たちがアブラハムのように、他者のためにとりなす者となることを願っておられますが、とりなす者は神のお心を知ることが重要です。では、何によって神のお心を知ることができるのでしょうか。それは、①御言葉によって知ることができます。生きる目的も知らず、羊の様に彷徨う人々。罪と死からの救いを知らない人々。善悪ともに裁かれるお方がいることを知らない人々。神はそれらの人々が、「道であり、真理であり、命であるイエス」を知り、信じることができるようにと願っておられます。御言葉から神のお心を悟り、祈る者でありたいのです。そして、②神に祈り求めることによって知ることができます。アブラハムにご自身の心の内を打ち明けられた神は、今この時もとりなし祈る者を探し、お心を打ち明けたいと願っておられるのです。ですから、「主よ、お心を教えて下さい」と切に祈り求めようではありませんか。

最後に、どんなことがあっても、神の憐みを求めてとりなし続けるのです。

エゼキエル18:23 わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

神がソドムをご覧になったように、この世界をご覧になっていたら、どう思われるでしょうか。あるいは日本を…、真愛教会を…、あなたの周りにいる人を…。きっと神はお心を痛め、とりなし祈る者を探し求めておられるに違いありません。神はあなたの祈りを必要とされています。どうか神のお心を知り、神の聖さと憐みを覚え、他者の為にとりなし祈る一週間を歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グラジオラス、ユリ、カーネーション、モンステラです。

 

2021年7月11日 主日礼拝メッセージ

ひれ伏して、笑うアブラハム創世記17章15~21節 金田洋介牧師

 

神はアブラハムに妻サラによって男の子を与えると告げられました(16節)。待ちに待った主の言葉。しかし、アブラハムとサラのリアルな反応が記されています。
Ⅰ.アブラハムのリアルな姿…ひれ伏しながら笑う
 待ちに待った言葉を受け、アブラハムは神の御前にひれ伏しますが、何故か笑っています(17節)。無理もありません。彼は100歳、サラも90歳になろうとしていました。彼は非現実的な事(サラとの子)を信じるより、現実的な事(イシュマエルの祝福)を期待したのです(18節)。彼の消極的な信仰と態度とは反対に、神の計画は全く揺るぎません。神はサラから生まれる子にイサクと名付けるよう命じます。(19節)。

Ⅱ.サラのリアルな姿…心の中で笑う

サラも自分に子どもが与えられることを聞きました(18章)。ところが彼女も心の中で笑って呟きます。「年老いてしまった私に、何の楽しみがあるでしょう」と。サラの反応も、アブラハムと同じです。ところが、サラの心を声を聞いていた神は、「主にとって不可能なことがあるだろうか!」と彼女に言われます。恐れた彼女は「笑っていません」と咄嗟に嘘をついてしまいます。リアルな彼女の反応です。

Ⅲ.笑わせたい神様
アブラハムとサラの笑いは、疑いや諦めの思いが占める笑いだったと思います。しかし神は、アブラハムには「わたしは全能の神である」、サラには「主にとって不可能なことがあるだろうか」と御声をかけ続け、彼らの信仰を励まして下さったのです。何としても彼らを笑わせたい、幸せにしたいという神の強い決意と、彼らに対する神の深い愛を感じます。

私たちもアブラハムやサラのように、神の御前にひれ伏しながら笑ってしまうような者ではないでしょうか。御言葉を聞いたそばから「信じられない」と疑い、「無理だろう」と初めから決めつけ、諦めてしまうことがあると思うのです。しかし、神はどこまでも御言葉をもって、私たちに迫って下さいます。「わたしは全能の神である」「主にとって不可能なことがあるだろうか」と。神は信じることができず、疑い、笑ってしまう私たちの手を引き、懐に引き寄せ、神の御力が一番見えるところに導いて下さいます。そして、あなたの疑いの笑いを、諦めの笑いを、幸せの笑いに変えて下さるのです。信じない者ではなく信じる者となって、神の御業を心から期待しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オリーブ、けいとう、りんどう、トルコキキョウです。

 

 

2021年7月4日 主日礼拝メッセージ

わたしは全能の神~わたしの前を歩み、全き者となれ~」創世記17章1~8節 金田洋介牧師

 

イシュマエルの誕生時、アブラハムは86歳(16章)。17章に入ると13年が経過し、99歳になったアブラハムに神は現れ、語りかけられました。この13年間、彼に何もお語りになられなかった神の御言葉に注目しましょう。

.アブラハムに「わたしは全能の神である」と言われた神

神がみ声をかけられた時のアブラハムの状況、状態、心情に注目しましょう。状況…依然アブラハムとサラには子どもは生まれていません。状態…高齢のアブラハム(99歳)とサラ(89歳)。もはや、人間の力や常識では、子を得るには不可能です。心情…13年間の神の沈黙に自分の不信仰を嘆き、後悔し、また、祝福の契約も失われたのでは?と不安だったと思うのです。しかし、神は沈黙を破り「わたしは全能の神である」と御声をかけられました。これは、アブラハムの状況、状態、心情に関係なく、神が全てを解決されるということです。そして、神が約束された契約も有効であることが、彼らの改名と割礼の制定によって証明されました。アブラハムは安堵したに違いありません。

.「わたしの前に歩む」とは?「全き者となる」とは?

続いて神は「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われました。「わたしの前に」とは「神の御顔の前を」ということでしょう。つまり、いつも共におられる神のまなざしを常に意識して生きるように言われたのです。

次に、「全き者であれ」とは、「完全な人間になれ」というのではなく、神を畏れつつ歩み、神の御言葉に信じ従い、常に神との関係が正しい関係にあるよう求めて生きる者のことです。アブラハムは神の御言葉に信頼できなかったことによって、試みの13年間を過ごしました。しかし、沈黙を破られた神は言われました。「わたしは全能の神である」と!「わたしにできないことはない。あなたを変えることも、あなたの祝福の約束を回復することもできる。だから、わたしの前を歩み、全き者となれ。常にわたしが見ていることを覚え、わたしとの正しい関係を築き続け、わたしの言葉を信じ、従って生きなさい。」そう言われたのでした。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」と神はあなたに言っておられます。あなたが常に神を畏れ、神のみ前を歩むことができますように。いつも平安、感謝の日々を歩めますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、トルコキキョウ、ユリ、デルフィニュウム、マトリカリアです。

2021年6月27日 主日礼拝メッセージ

「あなたを見ておられるお方」創世記16 章1~14節  金田洋介牧師

 

多くの体験を通して神との関係、神に対する信頼も深まり、約束の成就を信じ待ち望んでいたアブラムとサライ。ところが、現実は思うように行きません。そこで、妻のサライはエジプト人の女奴隷ハガルによって子どもを得ようと提案します(2節)。

妻サライ以外の女性によってアブラムが子を得る。彼らが生きていた時代の文化やルールでは常識的な手段でしたが、アダムとエバから始まった結婚と夫婦の在り方を曲げるもので、神の前では罪です。しかし、サライもアブラムも「もう手段を選んでいる場合ではない」という焦りがあったのか、罪を犯してしまいます。結果、関係する全ての人に大きな痛みが襲うことになります。

次にハガルに注目します。おそらく彼女は、アブラムたちが飢饉を逃れ、一時エジプトに滞在した際にアブラム夫妻に仕えるようになったのでしょう(12章)。エジプトから辺鄙なカナンの山地に連れて来られたばかりか、エジプト人が軽蔑する遊牧民の主人に仕え、その上老人アブラムの妻とされます。あまりに自由のないハガルがかわいそうに思います。やがて彼女がアブラムの子を妊娠すると、それまでの思いが爆発したのか、ハガルはサライを見下すようになりました。サライはアブラムに不満をぶつけます。ところが、アブラムは解決しようとせず、サライの自由にさせます。すると彼女はハガルを苦しめ、誰にも守ってもらえないハガルは、耐えきれず逃げ出してしまいます。アブラム夫妻が神の時を待つことができす、人間的な方法を選んだことにより、みなの心も関係も傷付き、痛んでしまいました。

逃げ出したハガルが、行くあてもなく荒野を彷徨っていると、神の遣いが現れ、サライの許に帰りるように命じます(9節)。そしてさらに、アブラムと同じように、ハガルの子孫も祝福するとの約束を与えて下さいました。誰も自分を顧みてくれないと思っていたハガルでしたが、いつも自分を見ているお方がおられたことを知り、慰めと励ましを得、祝福の約束を信じて、サライの許に帰って行きました。

誰の目にも留めてもらえないハガルに寄り添い、祝福の約束をも与えて下さった神の目は、あなたにも向けられています。いつも、どんな時も、神の目が自分に向けられていることを信じ、遣わされている場所に出て行こうではありませんか。そして、仕えるべき人に仕え、委ねられた働きを忠実に行い、全てを見ておられる神の報いと祝福に与り、神の栄光を拝させていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グラジオラス、カラー、トルコキキョウ、紫陽花です。

2021年6月20日 主日礼拝メッセージ

「神の契約~ご自身の存在をかけて~」創世記15 章7~18節 金田洋介牧師

満天の星を見せられたアブラムは、神の約束を「信じます(アーメン)」と告白しました。続いて神は、アブラムと一方的に契約を結ばれます。それは彼にとって一番馴染みのある形でした。

神はアブラムに指示された動物を持ってこさせ、それらを半分に裂いて置くように命じました(9~10節)。これは、アブラムのような牧羊者たちの間でなされていた契約の形で、契約者たちが裂かれた動物の間を通ることで成立します。契約違反は裂かれた動物が表すように命を失います。今日の契約とは違う重みがあります。

日が暮れて暗くなってきた頃、「燃えているたいまつ、煙の立つかまど」すなわち、煙と火に象徴される神の臨在が切り裂かれた物の間を通り過ぎます(17節)。つまり神は、「もしわたしが契約を破るようなことがあったならば、この動物のように二つに裂かれてもかまわない」という、神がご自身の存在をかけた契約でした。しかも、神自ら一方的に契約を結ばれたのです。アブラムは驚いたに違いありません。

これまでアブラハムの生涯を語ってきましたが、神はあなたを祝福したいと心から願っておられることをお話ししてきました。けれども、現実は良いと思えることばかりではなく、アブラムのように一向に変わって行かない現実に不安や焦り、不満や疑いに心が一杯になりそうになります。「神様、あなたは真実(アーメン)です」と素直に告白することができる時もあれば、この「アーメン」がどうしても告白できない、という状況に追いやられることがあります。それは、アブラムが眠りの中で襲われた深い暗闇と恐怖(アブラムの子孫を襲うエジプトによる奴隷支配を意味する)のように、私たちの人生も困難や苦難を避けることはできません。しかし、神の祝福の約束はどんなことがあっても揺るぎません。確かに、苦しみの中を通ることがあったとしても、それ以上に、神が私たちを祝福するという強い決意があることを信じたいのです。いや、信じることができるはずです。なぜなら、私たちにはイエスの十字架の死と復活によってもたらされた、大いなる救いと恵みがあるからです。神はイエスの十字架と復活を通して、ご自身の存在をかけて、私たちに対する愛と祝福が確かであることを示して下さったのです。

ご自身の存在をかけて、御子イエスの命をもって結ばれた契約と約束が、あなたと神との間にあることを覚えて、喜びの日も、悲しみの日も、苦しみの日も、試みの日も、神と共に歩んで行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ゴッホのひまわり、スターチス、ユリ、トルコキキョウです。

 

2021年6月13日 主日礼拝メッセージ

「さあ、天を見上げなさい」創世記15章1~6節  金田洋介牧師

 

神の示す地に進み、その旅路で様々なことを体験したアブラム。神と共に歩むことによって深められていく彼の信仰と神との関係は、新しい段階を迎えるのです。
①語りかける神様
 神は幻の内にアブラムに語り、彼に与えられた祝福の計画が揺るがないことを明確にしています(1節)。しかし、アブラムは自分の内にある恐れと焦りを正直に告白します(2〜3節)。彼の言葉から、自分の財産を受け継ぐ子どもが与えられないことへのやるせなさと、神への信仰が揺らいでいる様子が伺えます。私達も、しばしばこのような思いに陥ります。「御言葉を信じたのに、恵みが祝福が一向に実現しない…。どうして?」と。神に問うアブラムの姿は、私達の姿でもあるように思うのです。

②答える神様
恐れ、焦るアブラムに対し、神のご計画は一向に揺るぎません。アブラムの子が彼の跡を継ぐと言うのです(4節)。人間の常識では不可能と思えることも、神ご自身が責任をもって実現して下さるのです。ここで、神とアブラムとの関係が変化していることに気付きます。これまでは、神がアブラムに語りかけて来られましたが、彼の方からも神に語りかけています。神との関係が、深まっているからです。自分の心で疑いや迷いをあれこれ考えるのでは無く、解決は神から与えられることを信じ、神に思いを申し上げる事が大切です。神は必ず応答して下さいます。

③連れ出す神様

「主は、彼を外に連れ出して…(5節)」。とても魅力的な言葉です。肩を抱くように、背中を押し出すように、神はアブラムを外に連れ出し、「さあ、天を見上げなさい」と言われました。アブラムが天を見上げると、満天の星が空いっぱいに広がっていました。「星を数えられるなら数えてみなさい。あなたの子孫は、このようになる」そう神は言われました。アブラハムは、神の言葉を信じました(信じたはアーメンと同じ意)。「神よ、あなたの言葉は真実(アーメン)です。」ということです。現実はまだ何も動いていません。しかし、アブラムは信仰によって、神の約束を信じたのです。

疑いや迷い、怒りや憂いに心が支配されそうになったら、アブラムが見た天を見上げ、「神は私の家族に、友人に、私たちの全ての領域に、素晴らしいことを行って下さると信じます。アーメンです。」と告白しようではありませんか。そして、神が実現して下さる祝福に与る者とさせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヒベリカム、ユリ、アルストロメリア、ヒマワリです。