説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2021年7月25日 主日礼拝メッセージ

「ただ神の憐みのゆえに」創世記19:1-22 金田洋介牧師

 

先週はロトと彼が住むソドムの町の為に必死にとりなすアブラハムの姿を見ました。ソドムに正しい人が10人いれば神の裁きから救われます。果たして結果は…。

Ⅰ.罪に蝕まれたソドム

二人の御使いがソドムに到着しました。すると町の門にいたロトが彼らを見つけると、伏して拝し、自宅に招きます。ところが、町中から男たちがロトの家に押し寄せ、家を取り囲みました。おぞましい話ですが、ロトの家に招かれた二人に性的な暴力を加えようとやってきたのです。このようなことが公然となされようとしているところに、この町の人々の罪深さが分かります。この後、御使いがソドムに神の裁きが降ることをロトに告げます。ソドムの町には正しい人が10人もいなかったのです。

Ⅱ.ソドムに影響されたロト

はじめロトはソドムから離れた所に住んでいましたが、今では町に住み、門のところに座っています(1節)。これはロトが町の有力者の一人になっていたことを意味しますが、彼が御使いたちを守ろうとしていることから、完全に悪に染まっていたわけではないようです。しかし、神の裁きが迫っているにもかかわず、彼は逃げるのをためらいました(16節)。ソドムの生活に、ロトも少なからず影響を受けていたようです。イエスは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」「神と富とに仕えることはできない」と言われました。肉の思いと神の言葉に揺れるロトの姿は、私たちも同じではないでしょうか。「この世と調子をあわせてはいけません。」ローマ12:2

Ⅲ.ただ神の憐みのゆえに

御使いたちは、逃げることをためらうロト一家の手を掴み、彼らを助け出しました。すると、天から硫黄と火がくだり、ソドムとゴモラの町の全てを滅ぼし尽くしたのです。ところが、御使いの命令を破ったロトの妻は塩の柱になり(26節)、ロトの二人の娘たちは、人間的な考えと判断の末、父によって子どもを残し、彼女たちの子孫が後のアンモン人、モアブ人としてイスラエルを悩ませることになります。何とも後味の悪い結末です。しかし神は、アブラハムのとりなしの故にロトを救ったとあります(27~29節)。さらには、モアブの子孫からルツが生まれ、ひ孫にダビデ、ダビデの子孫からマリアの夫ヨセフが誕生します。彼のとりなしは無駄ではなかったのです!

憐み深い神は、私たち人間のどうしようもない罪を贖って下さったお方です。神の憐みによって救われた者として、日々、他者の為にとりなし祈って参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ヒマワリ、トルコキキョウ、アスターです。

2021年7月18日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムのとりなし」創世記18章16~33節 金田洋介牧師

 

御使いと共にアブラハムの前に現れた神は、サラによって男の子が生まれることと共に、罪深いソドムとゴモラの町を滅ぼそうと考えておられることをアブラハムに告げました。アブラハムはソドムに住む甥のロトのため、そして、罪深いソドムとゴモラの為に神の前に立ってとりなします。アブラハムは、人を偏り見ず、公正に裁かれる神の正しさに訴えかけるように、ソドムの町に50人の正しい人がいたならば、その正しい人の故に町を滅ぼさぬよう神に願い求めます。神はそれをよしとされました。するとアブラハムは、50人から45人、45人から40人と、最後には救いの条件となる人数を10人までに減らし、神はその求めを受け入れて下さいました。アブラハムは、神が聖く公正なお方であり、愛に満ちたお方であることを知っていたからこそ、その憐みにすがったのです。この結末は来週のメッセージに続きます。

神は私たちがアブラハムのように、他者のためにとりなす者となることを願っておられますが、とりなす者は神のお心を知ることが重要です。では、何によって神のお心を知ることができるのでしょうか。それは、①御言葉によって知ることができます。生きる目的も知らず、羊の様に彷徨う人々。罪と死からの救いを知らない人々。善悪ともに裁かれるお方がいることを知らない人々。神はそれらの人々が、「道であり、真理であり、命であるイエス」を知り、信じることができるようにと願っておられます。御言葉から神のお心を悟り、祈る者でありたいのです。そして、②神に祈り求めることによって知ることができます。アブラハムにご自身の心の内を打ち明けられた神は、今この時もとりなし祈る者を探し、お心を打ち明けたいと願っておられるのです。ですから、「主よ、お心を教えて下さい」と切に祈り求めようではありませんか。

最後に、どんなことがあっても、神の憐みを求めてとりなし続けるのです。

エゼキエル18:23 わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

神がソドムをご覧になったように、この世界をご覧になっていたら、どう思われるでしょうか。あるいは日本を…、真愛教会を…、あなたの周りにいる人を…。きっと神はお心を痛め、とりなし祈る者を探し求めておられるに違いありません。神はあなたの祈りを必要とされています。どうか神のお心を知り、神の聖さと憐みを覚え、他者の為にとりなし祈る一週間を歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グラジオラス、ユリ、カーネーション、モンステラです。

 

2021年7月11日 主日礼拝メッセージ

ひれ伏して、笑うアブラハム創世記17章15~21節 金田洋介牧師

 

神はアブラハムに妻サラによって男の子を与えると告げられました(16節)。待ちに待った主の言葉。しかし、アブラハムとサラのリアルな反応が記されています。
Ⅰ.アブラハムのリアルな姿…ひれ伏しながら笑う
 待ちに待った言葉を受け、アブラハムは神の御前にひれ伏しますが、何故か笑っています(17節)。無理もありません。彼は100歳、サラも90歳になろうとしていました。彼は非現実的な事(サラとの子)を信じるより、現実的な事(イシュマエルの祝福)を期待したのです(18節)。彼の消極的な信仰と態度とは反対に、神の計画は全く揺るぎません。神はサラから生まれる子にイサクと名付けるよう命じます。(19節)。

Ⅱ.サラのリアルな姿…心の中で笑う

サラも自分に子どもが与えられることを聞きました(18章)。ところが彼女も心の中で笑って呟きます。「年老いてしまった私に、何の楽しみがあるでしょう」と。サラの反応も、アブラハムと同じです。ところが、サラの心を声を聞いていた神は、「主にとって不可能なことがあるだろうか!」と彼女に言われます。恐れた彼女は「笑っていません」と咄嗟に嘘をついてしまいます。リアルな彼女の反応です。

Ⅲ.笑わせたい神様
アブラハムとサラの笑いは、疑いや諦めの思いが占める笑いだったと思います。しかし神は、アブラハムには「わたしは全能の神である」、サラには「主にとって不可能なことがあるだろうか」と御声をかけ続け、彼らの信仰を励まして下さったのです。何としても彼らを笑わせたい、幸せにしたいという神の強い決意と、彼らに対する神の深い愛を感じます。

私たちもアブラハムやサラのように、神の御前にひれ伏しながら笑ってしまうような者ではないでしょうか。御言葉を聞いたそばから「信じられない」と疑い、「無理だろう」と初めから決めつけ、諦めてしまうことがあると思うのです。しかし、神はどこまでも御言葉をもって、私たちに迫って下さいます。「わたしは全能の神である」「主にとって不可能なことがあるだろうか」と。神は信じることができず、疑い、笑ってしまう私たちの手を引き、懐に引き寄せ、神の御力が一番見えるところに導いて下さいます。そして、あなたの疑いの笑いを、諦めの笑いを、幸せの笑いに変えて下さるのです。信じない者ではなく信じる者となって、神の御業を心から期待しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オリーブ、けいとう、りんどう、トルコキキョウです。

 

 

2021年7月4日 主日礼拝メッセージ

わたしは全能の神~わたしの前を歩み、全き者となれ~」創世記17章1~8節 金田洋介牧師

 

イシュマエルの誕生時、アブラハムは86歳(16章)。17章に入ると13年が経過し、99歳になったアブラハムに神は現れ、語りかけられました。この13年間、彼に何もお語りになられなかった神の御言葉に注目しましょう。

.アブラハムに「わたしは全能の神である」と言われた神

神がみ声をかけられた時のアブラハムの状況、状態、心情に注目しましょう。状況…依然アブラハムとサラには子どもは生まれていません。状態…高齢のアブラハム(99歳)とサラ(89歳)。もはや、人間の力や常識では、子を得るには不可能です。心情…13年間の神の沈黙に自分の不信仰を嘆き、後悔し、また、祝福の契約も失われたのでは?と不安だったと思うのです。しかし、神は沈黙を破り「わたしは全能の神である」と御声をかけられました。これは、アブラハムの状況、状態、心情に関係なく、神が全てを解決されるということです。そして、神が約束された契約も有効であることが、彼らの改名と割礼の制定によって証明されました。アブラハムは安堵したに違いありません。

.「わたしの前に歩む」とは?「全き者となる」とは?

続いて神は「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われました。「わたしの前に」とは「神の御顔の前を」ということでしょう。つまり、いつも共におられる神のまなざしを常に意識して生きるように言われたのです。

次に、「全き者であれ」とは、「完全な人間になれ」というのではなく、神を畏れつつ歩み、神の御言葉に信じ従い、常に神との関係が正しい関係にあるよう求めて生きる者のことです。アブラハムは神の御言葉に信頼できなかったことによって、試みの13年間を過ごしました。しかし、沈黙を破られた神は言われました。「わたしは全能の神である」と!「わたしにできないことはない。あなたを変えることも、あなたの祝福の約束を回復することもできる。だから、わたしの前を歩み、全き者となれ。常にわたしが見ていることを覚え、わたしとの正しい関係を築き続け、わたしの言葉を信じ、従って生きなさい。」そう言われたのでした。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」と神はあなたに言っておられます。あなたが常に神を畏れ、神のみ前を歩むことができますように。いつも平安、感謝の日々を歩めますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、トルコキキョウ、ユリ、デルフィニュウム、マトリカリアです。

2021年6月27日 主日礼拝メッセージ

「あなたを見ておられるお方」創世記16 章1~14節  金田洋介牧師

 

多くの体験を通して神との関係、神に対する信頼も深まり、約束の成就を信じ待ち望んでいたアブラムとサライ。ところが、現実は思うように行きません。そこで、妻のサライはエジプト人の女奴隷ハガルによって子どもを得ようと提案します(2節)。

妻サライ以外の女性によってアブラムが子を得る。彼らが生きていた時代の文化やルールでは常識的な手段でしたが、アダムとエバから始まった結婚と夫婦の在り方を曲げるもので、神の前では罪です。しかし、サライもアブラムも「もう手段を選んでいる場合ではない」という焦りがあったのか、罪を犯してしまいます。結果、関係する全ての人に大きな痛みが襲うことになります。

次にハガルに注目します。おそらく彼女は、アブラムたちが飢饉を逃れ、一時エジプトに滞在した際にアブラム夫妻に仕えるようになったのでしょう(12章)。エジプトから辺鄙なカナンの山地に連れて来られたばかりか、エジプト人が軽蔑する遊牧民の主人に仕え、その上老人アブラムの妻とされます。あまりに自由のないハガルがかわいそうに思います。やがて彼女がアブラムの子を妊娠すると、それまでの思いが爆発したのか、ハガルはサライを見下すようになりました。サライはアブラムに不満をぶつけます。ところが、アブラムは解決しようとせず、サライの自由にさせます。すると彼女はハガルを苦しめ、誰にも守ってもらえないハガルは、耐えきれず逃げ出してしまいます。アブラム夫妻が神の時を待つことができす、人間的な方法を選んだことにより、みなの心も関係も傷付き、痛んでしまいました。

逃げ出したハガルが、行くあてもなく荒野を彷徨っていると、神の遣いが現れ、サライの許に帰りるように命じます(9節)。そしてさらに、アブラムと同じように、ハガルの子孫も祝福するとの約束を与えて下さいました。誰も自分を顧みてくれないと思っていたハガルでしたが、いつも自分を見ているお方がおられたことを知り、慰めと励ましを得、祝福の約束を信じて、サライの許に帰って行きました。

誰の目にも留めてもらえないハガルに寄り添い、祝福の約束をも与えて下さった神の目は、あなたにも向けられています。いつも、どんな時も、神の目が自分に向けられていることを信じ、遣わされている場所に出て行こうではありませんか。そして、仕えるべき人に仕え、委ねられた働きを忠実に行い、全てを見ておられる神の報いと祝福に与り、神の栄光を拝させていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グラジオラス、カラー、トルコキキョウ、紫陽花です。

2021年6月20日 主日礼拝メッセージ

「神の契約~ご自身の存在をかけて~」創世記15 章7~18節 金田洋介牧師

満天の星を見せられたアブラムは、神の約束を「信じます(アーメン)」と告白しました。続いて神は、アブラムと一方的に契約を結ばれます。それは彼にとって一番馴染みのある形でした。

神はアブラムに指示された動物を持ってこさせ、それらを半分に裂いて置くように命じました(9~10節)。これは、アブラムのような牧羊者たちの間でなされていた契約の形で、契約者たちが裂かれた動物の間を通ることで成立します。契約違反は裂かれた動物が表すように命を失います。今日の契約とは違う重みがあります。

日が暮れて暗くなってきた頃、「燃えているたいまつ、煙の立つかまど」すなわち、煙と火に象徴される神の臨在が切り裂かれた物の間を通り過ぎます(17節)。つまり神は、「もしわたしが契約を破るようなことがあったならば、この動物のように二つに裂かれてもかまわない」という、神がご自身の存在をかけた契約でした。しかも、神自ら一方的に契約を結ばれたのです。アブラムは驚いたに違いありません。

これまでアブラハムの生涯を語ってきましたが、神はあなたを祝福したいと心から願っておられることをお話ししてきました。けれども、現実は良いと思えることばかりではなく、アブラムのように一向に変わって行かない現実に不安や焦り、不満や疑いに心が一杯になりそうになります。「神様、あなたは真実(アーメン)です」と素直に告白することができる時もあれば、この「アーメン」がどうしても告白できない、という状況に追いやられることがあります。それは、アブラムが眠りの中で襲われた深い暗闇と恐怖(アブラムの子孫を襲うエジプトによる奴隷支配を意味する)のように、私たちの人生も困難や苦難を避けることはできません。しかし、神の祝福の約束はどんなことがあっても揺るぎません。確かに、苦しみの中を通ることがあったとしても、それ以上に、神が私たちを祝福するという強い決意があることを信じたいのです。いや、信じることができるはずです。なぜなら、私たちにはイエスの十字架の死と復活によってもたらされた、大いなる救いと恵みがあるからです。神はイエスの十字架と復活を通して、ご自身の存在をかけて、私たちに対する愛と祝福が確かであることを示して下さったのです。

ご自身の存在をかけて、御子イエスの命をもって結ばれた契約と約束が、あなたと神との間にあることを覚えて、喜びの日も、悲しみの日も、苦しみの日も、試みの日も、神と共に歩んで行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ゴッホのひまわり、スターチス、ユリ、トルコキキョウです。

 

2021年6月13日 主日礼拝メッセージ

「さあ、天を見上げなさい」創世記15章1~6節  金田洋介牧師

 

神の示す地に進み、その旅路で様々なことを体験したアブラム。神と共に歩むことによって深められていく彼の信仰と神との関係は、新しい段階を迎えるのです。
①語りかける神様
 神は幻の内にアブラムに語り、彼に与えられた祝福の計画が揺るがないことを明確にしています(1節)。しかし、アブラムは自分の内にある恐れと焦りを正直に告白します(2〜3節)。彼の言葉から、自分の財産を受け継ぐ子どもが与えられないことへのやるせなさと、神への信仰が揺らいでいる様子が伺えます。私達も、しばしばこのような思いに陥ります。「御言葉を信じたのに、恵みが祝福が一向に実現しない…。どうして?」と。神に問うアブラムの姿は、私達の姿でもあるように思うのです。

②答える神様
恐れ、焦るアブラムに対し、神のご計画は一向に揺るぎません。アブラムの子が彼の跡を継ぐと言うのです(4節)。人間の常識では不可能と思えることも、神ご自身が責任をもって実現して下さるのです。ここで、神とアブラムとの関係が変化していることに気付きます。これまでは、神がアブラムに語りかけて来られましたが、彼の方からも神に語りかけています。神との関係が、深まっているからです。自分の心で疑いや迷いをあれこれ考えるのでは無く、解決は神から与えられることを信じ、神に思いを申し上げる事が大切です。神は必ず応答して下さいます。

③連れ出す神様

「主は、彼を外に連れ出して…(5節)」。とても魅力的な言葉です。肩を抱くように、背中を押し出すように、神はアブラムを外に連れ出し、「さあ、天を見上げなさい」と言われました。アブラムが天を見上げると、満天の星が空いっぱいに広がっていました。「星を数えられるなら数えてみなさい。あなたの子孫は、このようになる」そう神は言われました。アブラハムは、神の言葉を信じました(信じたはアーメンと同じ意)。「神よ、あなたの言葉は真実(アーメン)です。」ということです。現実はまだ何も動いていません。しかし、アブラムは信仰によって、神の約束を信じたのです。

疑いや迷い、怒りや憂いに心が支配されそうになったら、アブラムが見た天を見上げ、「神は私の家族に、友人に、私たちの全ての領域に、素晴らしいことを行って下さると信じます。アーメンです。」と告白しようではありませんか。そして、神が実現して下さる祝福に与る者とさせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヒベリカム、ユリ、アルストロメリア、ヒマワリです。

 

2021年6月6日 主日礼拝メッセージ

「神に栄光を、神に感謝を、神が私を」創世記14章14~24節 金田洋介牧師

 

アブラハムを迎えた、サレムの王メルキゼデクに注目しましょう。彼を通して、アブラハムは神に目を向け、大切な事に気付かされるのです。
神に栄光を帰する(お返しする)
 メルキゼデクは、「いと高き神に誉れあれ」と神をほめたたえています(20節)。アブラハムに勝利を与えて下さったのは神だからです。アブラハムの僕たちは、訓練されていたとはいえ、素人集団。不思議な知恵と作戦を与えられたのは、神の介入によるものです。知恵も、勇気も、敵を打ち破ることができたのも、すべて神の力だと、アブラハムは改めて気付いたのです。皆さんは、神に栄光をお返ししていますか。運が良かった、私の努力だ、で終わっていませんか。私の全ては神に握られていると、神に感謝して栄光をお返ししましょう。
神に感謝をささげる
 「十分の一をささげる」という言葉が、聖書で初めて出てくるのがこの場面です。①にも繋がることですが、全ては神の導きと助けによるものだと、アブラハムが確信していたからこそ、ささげたのです。神はこれまでも、そしてこれからも、信頼できる間違いのないお方だと確信したのです。私達も、神への精一杯の感謝と、守り養い続けてくださる神への信頼を、捧げものをもって現したいものです。
神が私を祝福して下さる
 「わたしはあなたを祝福する」と、神は祝福の計画を用意してアブラハムを導かれました。約束された神が、責任をもって果たして下さるのです。彼はロト救出の出来事、メルキゼデクの祝福の言葉を通して、神が私を祝福して下さると確信しました。だからこそ、ソドムの王の申し出を拒否したのです(23節)。ソドムの王の言葉は、この世を象徴するかのようです。この世は、神から引き離すもの、神を覆い隠し見えなくするもので溢れています。あなたを祝福して下さるのは神なのです。
メルキゼデクが持ってきたパンとブドウ酒は、イエスの姿を思い起こさせます。身体が裂かれ、血を流し、命を犠牲にして私達を救われた、十字架の上のイエスです。イエスの十字架は、私達が罪赦され、神と和解し、神の祝福に与る為です。この世に心を奪われてはいけません。あなたを祝福することができるのは、独り子イエスを犠牲にしてまで救って下さった、まことの神だけです。神に栄光をお返しし、感謝をささげ、神が私を祝福して下さると信じ、確信して歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ブルーベリー(枝)、オリエンタルユリ、グロリオーサ、アジサイです。

 

2021年5月30日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムの選択~どちらを選んだとしても~」創世記13章8~18節

 

アブラハムとロトは互いに所有物が増えたことにより、互いの生活に影響を及ぼします。ある時、彼らの牧者の間に争いが生じ、親族同士争うことを避けたいアブラハムは、ここで別れて互いの道を歩もうと提案しました。

Ⅰ.アブラハムの選択

アブラハムはロトに「東と西どちらでも好きな方を選びなさい」と選択権を譲りました。アブラハムは「自分で選ばない」という選択をしたのです。ロトは「自分のために」豊かな低地を選びました。その地域には滅ぼされる前のソドムとゴモラがありましたが、とても潤っている良い地でした。ロトは低地に、アブラハムはカナンの地に住みました。アブラハムは何故、自分が損をするような選択をしたのでしょうか。

Ⅱ.アブラハムの変化

アブラハムは自ら退き、平和的な解決に努めました。ここに、以前の彼とは違う変化を見るのです。以前、飢饉のために一時逃れたエジプトでの失敗が(12章)大きな転機となったのでしょう。彼の軽率な判断が原因で、妻のサラを危険に晒し、神のご計画までも妨げる寸前までいったのです。しかし、神の憐みによって助けられたのでした。その後、アブラハムは最初に築いた祭壇の前で主の名を呼び、再スタートを切ったのです。これらの経験から、彼は人が傷つかないように配慮し、平和を望み、自らの選択権も手放すことができるまでに変化したのです。

Ⅲ.アブラハムの決意〜どちらを選んだとしても

彼が選択権を放棄したのは、彼が失敗を通して変化したことの他にもう一つ、神への絶対的な信頼です。アブラハムは、自分が低地と高地のどちらを選んだとしても、共におられる神の祝福は揺るがないと信じ、確信していたのです。あらゆる場面で私たちは、選択を迫られます。人生は選択の連続です。どちらを選ぶか、迷うことがあります。決めたことに対して、「これで良かったのか」と不安になる事もあるでしょう。しかし、アブラハムの姿から学びたいのです。「私たちがどのような道を選んだとしても、神はあなたと共におられ、祝福することができる」と。ですから、損得で考えたり、ただ自分の願いを望むのではなくて、「主よ、あなたが望まれる選択、喜ばれる選択ができるようにしてください」と祈れる者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、オリエンタルユリ、ひまわり、けいとうです。

 

2021年5月23日 ペンテコステ礼拝式メッセージ

「助け主なる聖霊」使徒の働き2章1~4節、ヨハネの福音書14章16節  金田洋介牧師

 

本日はペンテコステ礼拝です。クリスマス、イースターとともに世界中で喜ばれる記念すべき大切な日です。

Ⅰ.ペンテコステの出来事

弟子たちは、「父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)とのイエスの言葉に従い、父なる神の約束である聖霊を求め、心を合わせて祈り始めました。そして時は五旬節、イエスが昇天されてから十日後のこと、突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに色々の他国の言葉で語りだしたのです。この出来事以降、弟子たちは主イエスの復活の証人として出て行きます。そして、他国の言葉で語りだした現象が象徴しているように、あらゆる言葉でイエスの十字架と復活が伝えられ、今日に至っています。私たちも、次世代に福音を繋いでいく使命があることを覚えましょう。

Ⅱ.聖霊は助け主、真理の御霊

イエスは弟子たちに、聖霊は助け主(ヨハネ14:16)であり、真理の霊(同15:26)であると教えました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。そして聖霊の力が働く時、私たちは神の御言葉に目が開かれ、神の御心を知ることができるのです。このような素晴らしい助けと解き明かしを聖霊は与えて下さるのです。信仰の成長のため、健全な信仰を保つために、また、信仰が無くならないために、聖霊が必要なのです。

十字架の死から復活されたイエスが「聖霊を受けよ」と弟子たちに言われたように、今を生きる私たちにも聖霊を求めるように迫っておられます。聖霊を受けること(聖霊のバプテスマ)は、イエスがクリスチャン全員に約束されたものです。ですから、これを教会の一部の人達の話だと思ってはいけません。積極的に求めようではありませんか。聖霊を受ける時、あなたのこれまでの神との関係の在り方、人との関係の在り方、日常生活の在り方が、根本から変えられます。これまで味わったことのない、喜びと感謝、信仰の確信を実感するでしょう。心から聖霊を求め、聖霊の支配(聖霊が全生活に介入されること)に委ねるのです。共に、聖霊の恵みに与りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ヒマワリ、ランです。