説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2020年3月22日 主日礼拝メッセージ

「友なるイエスの願い」 ヨハネの福音書15章12-17節  金田洋介牧師

 

15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。これは、イエスの十字架の死によって現わされた、あなたへのイエスの愛を指しています。イエスはあなたを友と呼び、ご自身の命を十字架の上でささげて下さいました。それは、あなたを罪の滅びから救うため、あなたへの最上級の愛を現わすため、あなたがイエスの友であることが証明されるためです。あなたの友なるイエスが、あなたに願っていることがあります。それは「あなたがたが互いに愛し合う」(17節)ということです

実は、私たちには、互に愛し合うということを実践し、体験できる場所があります。それは教会です。兄弟姉妹、神の家族と呼び合う、この共同体の中で体験できるのです。共に喜び、悲しみ、痛み、笑い、祈り合い、互に思いやる姿は麗しく、神の為、人の為には、労苦や犠牲を惜しまない仕える姿、奉仕する姿は尊い。この世では、決して見ることができない愛の関係が教会の中にあるのです。それは神の愛、イエスの愛を土台とする愛が、聖霊の力によって現れるからです。しかし、教会の中だけ、兄弟姉妹の関係の中だけで終わってはいけません。私たちは、互に愛し合う素晴らしさを、麗しさを、尊さを体験したものとして、それぞれの家庭に、社会に出て行き、イエスの愛を持ち運び、互に愛し合う関係を生み出す者となるのです。他者を顧みない世の中、自分さえよければいい、人の悲しみに無関心、人の失敗を批判し、寄ってたかって責めるような世の中。人に責任を擦り付け合う世の中に、主の弟子として出て行き、神が望まれる実を、愛の実を結ぶために、神はあなたを選ばれたのです(16節)。

「あなたがたが互いに愛し合うこと」(17節)これが、あなたの友なるイエスの願いです。だから、信じてイエスの御名によって祈り求めるのです。普段自分が神の家族の中に体験している神の愛が、互に愛し合うことによって生み出される素晴らしい愛の交わりが、私の遣わされているこの場所に満ちるように!と。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オリエンタルユリ、コデマリ、アルストロメリア、桜(陽光)です。
※礼拝後の愛さん会は、新型コロナウィルス感染拡大防止のために、休止しています。

 

 

2020年3月15日 主日礼拝メッセージ

「わたしにとどまっていなさい」ヨハネの福音書 15章1~8節 金田洋介牧師

 先週の礼拝から、そして水曜祈り会も、Web会議用ソフトZoomを利用してライブ配信しています。技術の進歩によって、いつでも、どこでも、誰とでも繋がることができる様になりました。しかし、便利になったその一方で、イエスと私たちを引き離す力も強く働いていることを思います。時代は目まぐるしく変化していきますが、永遠に変わらない御言葉に耳を傾けていきましょう。

Ⅰ.イエスと私たちはひとつ

イエスは「わたしにとどまっていなさい」と言われました。それは、ぶどうの木と枝が一つであるように、イエスと私たちがひとつだからです。イエスにとどまり続けるなら、イエスから引き離す世の惑わしに勝利することができます。イエスにとどまるとは、イエスの御心、御言葉と全生活を一つにすることです。

Ⅱ.イエスにとどまらないなら

イエスにとどまらなければ、実を結ばない枝のように投げ捨てられ、枯れはて、最後には火の中に投げ込まれるとあります。これは、イエスにとどまらなければ、何によっても満たされない虚しい日々から解放されず、また、神によってもたらされる豊かな祝福を得ることもできず、最後には永遠の死と滅びが待っているということです。イエスにとどまらない歩みの結末は明白なのです。

Ⅲ.イエスにとどまるなら

しかし、イエスにととまるなら、多くの実を結ぶ(5節)のです。それは、神があなたの人生に素晴らしいことを行ってくださるとうことです。だからこそ、イエスは「わたしにとどまりなさい」と言っておられるのです。さらに、イエスにとどまる人の祈りに、神は最善の導きをもって応えて下さいます(7節)。そして最後には、その人の歩みを通して神の御名が崇められるのです。

イエスにとどまる人は幸いです。今からでも遅くはありません。イエスの御心、御言葉とあなたの全生活をひとつにして、日々を歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、オンシジューム、カーネーション、スカシユリ、アルストロメリアです。
※礼拝後の愛さん会は、新型コロナウィルス感染拡大防止のために、休止しています。

 

2020年3月8日 主日礼拝メッセージ

「収穫の日に備えよ~献身者を送り出す教会に~」マタイの福音書9章35~38節 金田洋介牧師

真愛教会のビジョン⑤を御言葉から共に分かち合いましょう。

今日開きました聖書箇所を見ますと、イエスがあらゆる町々村々を回られ、勢力的に活動された姿を見ることができます。イエスは町を巡り歩き、人々の厳しい現状を目の当たりにされました。あらゆる病気とわずらいとに苦しむ人々、そして、説教に耳を傾ける群衆は、まるで飼う者のいない羊の様に弱り果てて倒れていました。そんな彼らの哀れな姿を目の当たりにされたイエスは、「深くあわれまれ」ました(36節)。これは、群衆に対する強烈な同情を表しています。心身が切り刻まれるような思いを抱かれたイエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われました。救いを必要とする、また救われるべき魂が大勢いるのに、圧倒的に働き手が少ない。イエスの時代も今日も変わりありません。人々の魂は飢え渇き、罪の闇が人々や社会を覆っています。また、収穫という言葉は世の終わりの時を想起させます(マタイ13章)。収穫は、救いの時とともに、裁きの時を覚えることを私たちに教えているのです。私たちはフルタイムの献身者が圧倒的に少ない日本のために、危機感をもって献身者が起こされるように祈らなければなりません。

このビジョンを掲げてから6年になりますが、主は真愛教会から一人の兄弟に献身の召しを与えられました。主の御名を崇めます。しかし私たちは、さらに献身者を送り出すように祈り、また、真愛教会が献身者の群れとなるように祈り求めようではありませんか。フルタイムの牧師、宣教師だけが献身者ではありません。主は私たち一人一人を献身者として選び、それぞれの所に遣わされたのです。主は私たちの賜物を活かし、用いてくださいます。収穫の日に備えて、献身者を送り出す教会となるように祈り求めましょう。また、献身の生涯を歩みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、キイチゴ、ゆり(シベリア)、トルコキキョウ、スプレーカーネーションです。愛さん会は、現在中止しております。

 

 

2020年3月1日 主日礼拝メッセージ

「途絶えなかった神の命令~信仰を継承する教会に~」 申命記 6章 1ー9節 金田洋介牧師

「熊本真愛教会ビジョンその④」を御言葉から分かち合いましよう。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」これは、カナンの地に入ろうとしているイスラエルの民に、モーセを通して与えられた神の命令です。イスラエルの民がカナンの悪しき習わしに惑わされず、真の神を第一にして生きるためでした。ただ神のみを愛し、神の命令(御言葉)を心にとどめ、次世代に教え込む。この命令は、今の時代を生きる私たちへの神の言葉です。私たちの国には、真の神の言葉を土台としない価値観があり、神の御言葉を土台とする私たちの信仰と価値観と常に衝突します。私たちは、この申命記にある神の御言葉(命令)に従い、家族で、教会全体で、信仰継承に取り組んでいきたいのです。

ところが、私たちはこの信仰の継承について、消極的になってしまいがちです。「無理強いしてはいないか、押し付けではないか」と考え、周囲からの批判を恐れることもあります。しかし、これは神の命令であると同時に、祝福の約束でもあるのです。神は何よりも私たちの家庭、教会、世界の祝福と平和を願っておられるお方であることをしっかりと覚えたいのです。そして、気を付けなければならないことは、自分の信仰生活や教会生活が実際の日常生活と一致していないということです。我々の普段の行動を、家族や、未信者の方々は見ています。いくら信仰の継承を願っていても、私たち自身が躓きとなってしまったら元も子もありません。また、熱心さのあまり、返って反発を生み、傷付けてしまうという話を聞きます。しかし、消極的になって語ることを止めてはいけません。神の命令が途絶えなかったのは、クリスチャンたちが葛藤し、苦悩しながらも、妨げられ、迫害されながらも、神の命令に従い抜いたからです。神の命令に忠実であったからです。神の命令を途絶えさせない教会、信仰を継承する教会となりましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、藤、カーネーション、オリエンタルユリ、ラナンキュラス、アルストロメリアです。

※熊本真愛教会では、3月1日より新型コロナウィルスの感染拡大予防のため、愛さん会を休止しています。一日も早く事態が終息しますよう、心よりお祈りいたします。

 

2020年2月23日 主日礼拝メッセージ

「蒔かれた種の行方~御言葉を行い、証しする教会に~」 マルコの福音書 4章 1~20節 金田洋介牧師

種蒔きによって蒔かれに種は、道ばた、土の薄い岩地、いばらの地、良い地にそれぞれ落ちました。これは、豆まきのように種を蒔いてから耕すという手法を用いていたからでした。イエスはこの譬えを通して、御言葉に聞き従う事がいかに大切なことであるかを教えられたのです。

蒔かれた種は神の御言葉を表し、土地は御言葉を受けた心の状態と、御言葉に対する応答を意味しています。道ばたは、頑なな心を表しています。心を固く閉ざしてしまっているため御言葉が入っていかず、サタンに持っていかれてしまうのです。土の薄い岩地は、柔らかい部分があるので御言葉を聴いて喜びます。しかし、御言葉が根付いていないので、生き方を変えないまま終わってしまいます。いばらの地は、御言葉を喜んでも、この世の思い煩い、苦しみ、悩みなどといった心労や、この世の誘惑に心が惑わされ、信仰の成長が妨げられ、御言葉の実を結ぶことができません。良い地は、御言葉を素直に受け止め、聞き従う心です。御言葉が生きて働くため、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶことができるのです。

私たちはよく耕された土地でありたいと願いますが、御言葉に従いきれない、信じ抜くことのできない自分の至らなさを思い知らされる毎日です。しかし、この譬えの畑は、初めからよく耕されている畑ではありません。大切なのは、御言葉の種が蒔かれた私たちの心の土を、毎日よく耕すこと。御言葉に忠実に聞き従う生活を、一歩一歩地道に進んで行くということなのです。蒔かれた種が収穫に至るまでは、時を要します。世話も必要です。御言葉の実はなかなか、思ったようには結ばない現実があります。イエスか忍耐深く、御言葉の種を蒔き続け、ようやく弟子たちが整えられたように、私たちも自分自身に対して、周囲に対して、蒔かれた御言葉の力を信じて育てましょう。豊かな収穫があると約束された神は、私たちの信仰を成長させ、祝福して下さいます。御言葉を積極的に実行し、その先にある恵みを体験し、それらを多くの人に証する教会を目指して進んで行きましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ハクモクレン、スカシユリ、アルストロメリア、金魚草です。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、丸天うどん、ご飯、お漬物です。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

~ミセス・プリスカのひとりごと~
いつも訪問礼拝させていただいている、U姉から「どうぞ鑑賞されてくださいと」素敵なお写真を送っていただきました🌷︎
オレンジのカトレア。パッと明るいオレンジで、心まで明るく元気になりますね✨
新型コロナウイルスの影響で、落ち着くまで訪問が難しいのですが…、神様の慰めはいつもU姉のそばにあります。神様の慰めは、生活の様々な場面に散りばめられているはず。一人一人に、わかる形で。
それに気づきにくいプリスカに、神様はU姉を通して慰めを下さったのです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。」
Ⅱコリント1章3~5節

2020年2月16日 主日礼拝メッセージ

「地を揺り動かす確信 ~宣教する教会になろう~」使徒の働き4章1~31節  金田ゆり牧師

真愛教会5つのビジョンの二つ目、「宣教する教会になろう」。使徒の働き4章は、ペテロたちが逮捕されるシーンから始まります。イエスを宣べ伝えると同時に始まった、初代教会への迫害。私たちが宣教への働きを始めると同時に、妨げる力も働きます。初代教会はこの戦いにどのように立ち向かったのでしょうか。

  • この方以外に救いはない 8~12節

ペテロは、宣教するにあたって、最も大切な信仰告白をします。この方以外に救いはない! しばしば、「私はたくさんの宗教の中からキリスト教を選びました」とおっしゃる方がいます。しかし、どれでも救いに与るわけではありません。イエス以外の救いは、この世にはないのです。この確信こそが、宣教の土台です。あやふやな信仰では、イエスを伝えることはできないのです。

  • 神に聞き従うことが宣教

ペテロとヨハネの信仰告白を聞いて、宗教指導者たちは焦り、イエスの名による奇跡を揉み消そうとします。そこで、ペテロは19~20節で強く反論したのです。ここで大切なことがわかります。宣教とは、神に聞き従うことなのです。ペテロたちは、徹底して神に聞き従うことで宣教したのです。聞き従うことは、神への絶大な信頼と確信があればこそできること。そして、あなたの生活すべて、神に聞き従う歩みなら、毎日が宣教です。

  • 地を揺り動かす信仰と確信

ペテロたちは、共に祈り戦う神の家族のもとに帰りました。私たちは一人ではなく、共に宣教に励むのです。彼らは共に祈りました。問題がなくなるようには祈っていません。どんな脅かしにも屈せず、御言葉を宣べ伝えさせてほしいと、祈ったのです。すると地が揺れ動きました。神のお心が震えたのです。このような、神のお心を震わせる信仰の祈りをささげる群れとなりますように。地を揺り動かすほどの信仰と確信を持って、宣教に進む群れとなりますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、桃、かすみ草、ゆりです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、ハヤシライス、チキンサラダです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。

2020年2月9日 主日礼拝メッセージ

「共に祈る教会となろう」 イザヤ書56章7節、使徒の働き2章42~47節 金田洋介牧師

本日は教会総会が開かれます。新しい年度に向かって、真愛教会のビジョンを改めて分かち合って参りたいと思います。まず、真愛教会は共に祈る教会を目指して行きたいのです。

Ⅰ.なぜ祈るのか

第一に、イエスのご命令だからです。他でもなく、イエスご自身が何をするにも祈られたお方でした。時には夜通しで、時には一人で寂しいところで、ある時には弟子と共に、極めつけは十字架の上で祈られました。イエスがその生涯をかけて祈りの大切さを私たちに教えて下さったのです。

第二に、祈りは信仰生活の生命線であり、原動力だからです。イエスですら祈らずに御業を行うことはなさいませんでした。なおさら私たちは祈らなければなりません。私たちが普段の生活の中でどれだけに祈っているかで、私たちの心がどれだけ神に向かっているかが分かります。祈りは神との交わりですから、どんな時も、どんな事も、どんな場所でも祈りましょう。神との祈りという交わりを通して、あなたの信仰生活に望みと確信が生まれ、平安と勝利が与えられるのです。

Ⅱ.真愛 教会は祈りの家です

イザヤの御言葉(56章7節) を引用し、イエスは宮きよめをされました (マタイ21章)。神の宮は祈りの家ですから、真愛教会も祈りの家なのです。定例の祈祷会だけでなく、いつでも祈りの家に来て、主の前に跪き、祈ろうではありませんか。

また、パウロは私たちは神の宮であると語っています(第一コリント3章16節)。つまり、私たち自身も祈りの家なのです。神の宮であり、祈りの家である私たちの生活の全てが、祈りに満ちたものでありたいのです。世俗的な生き方、価値観に支配されないように、神の栄光で満ちるように祈ろうではありませんか。私たちが積極的に祈って行くなら、神は初代教会のように、真愛教会にも 救われる人が次々に起こされる光景を、私たちに見させてくださるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、カスミソウ、オリエンタルユリ(ホメロス)、カラーです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、肉団子スープ、じゃこチャーハン、きんぴらごぼう、みかんです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2020年2月2日 主日礼拝メッセージ

「揺るがない神への信頼~ダビデのミクタム~」詩篇16:1~11節 金田洋介牧師

この詩はダビデ王による作品とされています。ダビデは羊飼いからイスラエルの王となった人です。しかし、華やかに見えるその人生の大半は戦いの連続でした。青年時代はサウル王に、晩年は実の息子に命を狙われ、恐れと不安と苦悩を味わいました。また、罪を犯して取り返しのつかないような大失敗も経験しました。しかし、この詩からそんな波乱万丈の人生を送ってきたとは感じられない、素直で大胆な信仰告白、神様に対する溢れる感謝、揺るぎない信頼と確信が伝わってきます。なぜ、ダビデはこんな告白ができたのでしょうか。

1.主の眼を意識して生きた

ダビデはいつも、常に、主を前にしていたと言っています。「前にして」とは、主の眼を意識して生活することです。ダビデは主が「あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られ(詩篇139:2)るお方であることを常に意識して歩んでいたのです。ダビデは常に主なる神と向き合い、神の御心、神の御言葉と向き合ってきました。困難な時も、とても聖い神に顔向けできないと思えるような、取り返しのつかないような罪、失敗を犯した時も彼は主を前にし(置き)続けたのです。

2.主の助けと導きを絶えず仰いで生きた

「主を前にしている」とは、主の助けと導きを絶えず仰ぐことです。ダビデは常に主の助けと導きを仰ぐことによって、順境の時、逆境の時、また、自分が犯した罪が招いた苦悩の時、神の御守りと御力、豊かな憐みを体験したのです。ダビデのミクタム(黄金の詩)は、ダビデがどんな時でも「神を前にして」生きたことによって体験した証しから生まれた詩なのです。

もしあなたが、日々主を前にして生きるなら、現実に生きて働かれる神を体験します。そして、その神体験が、あなただけのミクタム(黄金の詩)という証しが生まれ、あなたの神への信仰と信頼はさらに揺るがないものにされるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ネコヤナギ、オリエンタルユリ、アルストロメリア、マトリカリア、梅です。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、カレーライス、べったら漬け、野菜の浅漬けです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

 

2020年1月26日 主日礼拝メッセージ

「共に福音にあずかるために」コリント人への手紙第Ⅰ 9章19-23節 金田洋介牧師

この聖書の言葉は、大伝道者パウロの告白です。パウロは元々、イエスを救い主と信じるクリスチャンを苦しめる大迫害者として恐れられていました。ところが、パウロは復活されたイエスと出会い、回心します。彼はクリスチャンを迫害する人から、イエスの救いを伝える伝道者となったのです。パウロは町と町を渡り歩き、勢力的に福音を伝えましたが、彼の熱く燃える宣教の原動力となったものは何だったのでしょうか。

Ⅰ.福音がもたらす恵みの大きさを知っていた

福音の恵みとは、イエスの十字架と復活を信じることによってもたらされる恵みの数々です。福音の恵みは、信じる者に劇的な変化をもたらします。その変化とは、自分中心から神中心(イエス中心)となる価値観の変化です。パウロ自身も、彼自身が信じたこと、そして彼自身の変化を告白しています(1コリント15:1~10)。福音はパウロのような大迫害者にも及ぶ恵みです。彼は、「神の恵みによって今の私(伝道者)となった。…福音を語らないなら自分にとって災いである」とさえ告白しています(1コリント9:16)。

Ⅱ.福音がもたらす恵みを共に分かち合いたいと願っていた

福音がもたらす喜びを知っているからこそ、共に分かち合いたいと、パウロは告白します。そして、これこそが、彼の熱く燃える宣教の原動力となったのです。パウロは共に福音の恵みを分かち合うためなら、どんなことでもすると宣言しています。福音には全てを懸ける程の価値があると確信していたからです。

福音はイエスを信じるどんな人にも与えられる恵みです。あなたもパウロと同じ福音を持っています。あなたはすでに福音の恵みを体験しているのです。福音の恵みを知り、体験した時、パウロのように福音の恵みを一人でも多くの人たちと共に味わいたいと願い求めるように変えられていくのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、スカシユリ、アルストロメリア(ピンクサプライズ)、蝋梅(ろうばい)です。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週のメニューは、親子丼、紅白なますです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2020年1月19日 主日礼拝メッセージ

「主イエスの招き~自分の十字架を負って主に従う~」マルコの福音書 8章31~38節 金田洋介牧師

『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』この御言葉は、イエスが十二弟子に向けて語られた招きの言葉です。そして、このイエスの言葉は、今日を生きる私たちにも向けて語られているのです。

自分を捨てるとは、自己中心の歩みを捨て神を中心に生きることです。それは、自分の意思、考えを持ちつつも、「神は私に何を求めておられるのか」と心を神に向け、御心を求めて生きる生き方です。「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。(口語訳)とあります。時に、神が私たちに求められることと、自分の思いや願いとが異なったとしても、自分を捨て(思いと願いを神に委ね)、神の御心を行うなら、神はご自身の御力をあなたに明らかにして下さるのです。 そして、それらを経て初めて「自分の十字架を負う」ことができるのです。

次に「自分の十字架を負う」とは、イエスが父なる神の御心、ご計画であった、全人類の贖い(救い)の為の十字架を負われたように、神が私たちに対して立てられている神の御心、ご計画という十字架を負う(従う)ということです。もし、この十字架を避け、或いは無視し、自分の利益、欲求のみを求め続けるなら、神の御心を知ることも、御心に従うこともできません。なぜなら、「肉の思い(自己中心の思い)は神に敵対するから」です。しかし、神は十字架を負って神に従う者にそれを全うする力と豊かな報いを与えてくださるのです。

自分を捨て、自分の十字架を負う歩みは決して容易ではありません。しかし、他でもなくイエスご自身が神の御心に従順に従い、私たちの前を歩んで下さいました。私たちはイエスを信じて、神の御心の道を歩まれたイエスの御後を追って歩めばよいのです。イエスはあなたの助け主として私たちと共に歩んでくださるのです。イエスの弟子として、イエスの招きに共に従って参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、スカシユリ、グロリオーサです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、だご汁(味噌味としょうゆ味がありました)、りんごと白菜のサラダ、ご飯でした。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。
初めての方も無料です。