投稿者「mika」のアーカイブ

2023年9月10日 主日礼拝メッセージ

「わたしが主であることを知るために」アモス書9:1-15   金田洋介牧師

アモス書最後の章である9章には、5つ目の幻について語られています。最後の幻は、祭壇の側に立っておられる主を見たとあります。どのような意味があるのでしょうか。

第五の幻~祭壇の傍らに立っておられる主~

9:1a 私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た。アモスは、祭壇の傍らに立っておられる主を見ました。そして、1節後半から告げられる言葉は、徹底的な神様の裁きについてでした。天であっても、地の底にあっても、山であっても、海の底にあっても神様の裁きの手から逃れることは出来ず、御前に引き出されるというのです。

神の主権 ~滅ぼし、救うことのできる主~

次に主は、異国人もイスラエルの民も神様の前に何の区別もないと告げられました。イスラエルの民は出エジプトという特別な経験をし、それを誇っていましたが、エジプトから救い出してくださった神様を捨てて、偶像礼拝に囚われてしまいました。また、彼らが犯した数々の罪がアモスによって指摘されています。神様の栄光を現すべき神の民が、神様の御名を汚し続けていたのです。堕落した民の姿は他の異国人と同じでした。もはや、神様の目に何の区別もありません。神様の裁きは罪を犯す全て者に等しく臨むのです。しかし、神様は全てを滅ぼし尽くさないと言われます。神様はここでも民を憐れまれます。神様は裁き主でありますが、どこまでも憐み深いお方、罪人が罪を悔い改めて救われることを願っておられるお方なのです。だからこそ、何度も、何度も、ご自身の言葉を預言者に託されたのです。
神様の言葉は聖書に記され、世界中に届けられました。誤った道から、滅びの道から、私たちを正しい道に導くため、悔い改めるため、救いに導くため、自由を得させ、永遠の命を得るためです。この神様の御思いを知ってほしいのです。

わたしが主であることを知るために ~回復と祝福の約束~

11節以降は、神様の国が回復される預言です。それはイスラエルが再建されるということ以上に、民の罪によって蔑まれた神様の御名と栄光が回復されること、そして、神様によって創造された全世界の人々一人一人が、神様を自分の主であると認め、受けいれ、本来あるべき姿に回復されるためです。それはイスラエルの民だけではなく、エドムに代表されている異邦人、すなわち全人類を指します。そして、神様から与えられる祝福は、私たちの想像を遥かに超える祝福であり、神様を信じる者全てに与えられる祝福です。
アモス書を8回に渡って学びました。神様は全力で、「わたしが主であることを、あなたに知ってもらいたいんだ。」そういうメッセージが込められていたように思います。「神様って、こういうお方なんだ」という発見がありましたか?その発見を喜び、さらに神様を知ることができるように求めましょう。たとえ、発見できなかったとしても、大丈夫です。神様は「ご自身を知ることができる心」をあなたにお与えになられました。期待しましょう。

今日のお花は、デンファレ、トルコキキョウ、チェリーセイジです。

2023年9月3日主日礼拝メッセージ

「あなたを生かす神の御言葉」 アモス書 8章 1-14 節 金田洋介牧師

8章にはアモスが見た第四の幻について記されています。

アモスが見た第四の幻~北イスラエルに迫る裁きの日~(8:1-3)

アモスは幻の中で、一かごの夏の果物を見ました。そのとき神様は「わたしの民イスラエルに終りが来た。」と言われました。つまり、イスラエルの終わりが、神様の裁きが迫っていることを示されたのです。2 節の後半では、7 章で「下げ振り」の幻の時の神様の言葉と同じように、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」と語られ、3 節に「終わりの日(裁きの日)」の悲惨さが語られています。

北イスラエルに臨む裁きの理由~信仰の腐敗と良心の腐敗~(8:4-8)

次に、神様を畏れず、不正を平気で行い、貪欲で、無慈悲な者たちに向けて語られています。彼らは「新月の祭りと安息日が早く過ぎ去るように」と呟いていました(5 節前半)。その理由は、早く市場を開いて商売をして稼ぎたいからです。神様へのささげものを献げる大切な日(新月の祭り)や、神様が定められた安息日も、彼らにとって商売の妨げの何物でもなかったのです。さらに、彼らは穀物を売るために不正のはかりを用いて不正の利益を得、また、社会的に立場の弱い人たちを無慈悲に扱っていたのです。人の目は欺いても、神様の目を欺くことはできません。彼らは、彼らの罪のゆえに裁かれるのです。

終りの日(裁きの日)に起こる三つの現象

①地震が起こり(8節)、②暗闇が覆い(9~10 節)、③飢饉が起こる(11~12 節)とアモスは告げました。③の飢饉とは御言葉の飢饉のことです。神様の言葉を聞くことの飢饉で、これこそが深刻な苦難です。聖書は、御言葉がいかに大切であるかをあらゆるところで教えています。神様の御言葉は私たちの命そのものです。そのように大切な神様の御言葉、 命である神様の御言葉の飢饉に遭うというのです。神様の御言葉を軽んじた北イスラエルの最後は本当に悲惨です。彼らには、いくらでも御言葉を聴く機会があったのですが、最後まで聴く耳を持ちませんでした。そして、神様の裁きが臨みました。全てアモスが言った通り、神様が語られた通りでした。小預言書が一貫して語っているメッセージは、「主の日に備えなさい」と言うメッセージです。主の日に備える生き方とは、神様の御言葉を握って人生を歩むということ。いつも御言葉に触れる日々を歩むということです。今日、御言葉はあらゆる形で語られています。目で見、耳で聞き、触れて聞くことができます。どうか、御言葉に触れる機会を持ちましょ う。御言葉に心を留めましょう。御言葉を思い巡らしましょう。御言葉を行うことに積極的にチャレンジしましょう。御言葉には力があります。全ての時代に当てはまりますが、あえて言わせていただきます。今この時代こそ、神様の御言葉が必要です。あなたがこの時代を生き抜くための力の源、あなたの生かす源は、神の御言葉です。

今日のお花は、コデマリ(枝)、ヘリコニア、ユリ(イヤローウィン)、ケイトウです。

2023年8月27日 主日礼拝メッセージ

「あなたも行って、同じようにしなさい」ルカの福音書 10:25-37   金田ゆり牧師

一人の律法学者が、イエスを試すために「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。当時の神学的問いでもあり、彼自身、自分に何らかの不足を感じており、この難問をもってイエスを試したのです。

1 . 自分は正しいと思っている律法学者 25~29 節

イエスはこの問いに対して、あなたはどう読んでいるかと逆に律法学者に質問されます。 すると彼は、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と答えます。以前イエスが、神ご自身の権威をもって律法をこの二つに要約されましたが、彼はそれをよく聞き学んでいました。イエスは「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい」と言われますが、彼は「それを実行しなさい」が引っかかりました。自分は神を愛し、隣人を愛してきた。自分は正しい。それを示そうと「では、私の隣人とは誰ですか」とイエスに投げかけました。

2 .イエスの例え話 30~35 節

イエスは、エルサレムからエリコに下る途中に強盗に襲われてしまった、あるユダヤ人の例え話をされました。そのユダヤ人は、無一文になり半殺しにされて道に倒れていました。祭司、そしてレビ人が通りましたが、見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。しかし、ユダヤ人の敵であるサマリヤ人がそこを通った時、彼は倒れている人を見てかわいそうに思い、傷の手当てをし、宿屋に連れて行き、宿賃と治療代まで払い、不足があれば帰りに払うとまで言ったのでした。このサマリヤ人は、相手がユダヤ人であっても、自分ができうるすべてのことをしたのです。

3 .あなたも行って、同じようにしなさい 36~37 節

この例え話から、三つのことが教えられます。一つ目は、見て見ぬふりという罪があることです。正しいすべきことがわかっていながら、それをしない罪です。祭司やレビ人は、ただ通り過ぎただけで何もしてはいませんが、見て見ぬふりはしたのです。二つ目は、隣人の範囲に限度はない、ということです。愛の対象に範囲や限度はないのです。たとえ敵と思える人であっても、助けを求めているならなおさら、あなたの隣人なのです。三つ目は、隣人というのは、自分からなるものなのだ、ということです。聖書が言う隣人とは、範囲を制限せず、自分から行って隣人になる、ということなのです。…この律法学者は、自分の正しさを示すつもりでしたが、神様が求めておられるものには程遠いとわかり、イエスに何も言い返せずに終わるのでした。…あの時、私はあの人にこうするべきだったと後悔することがあるかもしれません。しかし、神は必ず、あなたに再びチャンスを下さいます。神に愛されている者として、たとえ敵と思える人に対しても、このサマリヤ人のごとく誠実に。心からの愛を現すことができる、神の御前に幸いな人生を送ってほしい。神はあなたに、そう願っておられます。

今日のお花は、オリーブ、ケイトウ、ユリ、ライスシャワーです。

2023年8月20日 主日礼拝メッセージ

「わたしが示す地へ行きなさい」創世記12:1-9   金田ゆり牧師

イスラエルの祖、アブラム。古代メソポタミア文明の重要都市、カルデアのウルに生まれ、何不自由なく生きていた彼に、栄光の主が現れ「わたしが示す地へ行きなさい」と御声をかけられました。

1. 罪から離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

アブラムの父テラは、偶像の神々に仕える人でした。アブラムはそのテラを連れて、ウルから旅立ったのです。しかし、その旅は途中で止まってしまいます(11 章 27~32 節)。そこで神は、12 章で再びアブラムに御声をかけられるのです。偶像に満ちた場所から、罪から離れて、わたしが示す地へ行きなさい、と。罪との決別です。アブラムはこののちの人生で、多くの罪と失敗を犯しますが、その度に神の取り扱いを受け、信仰の父と呼ばれるまでに成長しました。罪との決別とは、人生で神による罪の取り扱いを受ける決断とも言えるでしょう。あなたがその決断をしたなら、きっと見たことのない景色を、神はあなたに見せて下さることでしょう。

2. 行き先がわからなくても、最善をなさる主に信頼して導きに従う

アブラハム、行き先がわからず出て行きました。これから先の人生を神の御手に委ねたのです。自分がどうなるのか先が見えない時、私たちがすべきことは神の御言葉に従うこと。そして、最善をなさる神を信じ信頼すること。シンプルですが、まずすべきことです。世の知恵や情報より、まず先に大切にすべきことです。また、どこが神の示される地なのか?私たちは祈りながら取捨選択する人生でしょう。アブラムは行く先々で神を礼拝しました。導きを求める時は、行きつくところで神を礼拝できる選択をしましょう。神を礼拝し、教会での交わりや祈りが途絶えぬようにすることに最善を尽くしましょう。罪から離れても、神から離れる選択をしてはなりません。「わたしが示す地へ行きなさい」と神はあなたに言われます。

3. 示される地の先にあるもの

神のみ言葉に従い、示された地に行った先には、何があったのでしょうか。もう一度 1~3 節まで読みましょう。神が「わたしが示す地へ行きなさい」と言われたのは、アブラムを祝福したいからでした。「あなたは祝福となりなさい」は原文に忠実な訳です。あなたが祝福となる、それはわたしの命令だとおっしゃるのです。そして、あなただけでなく、あなたの周囲の人、すべての人をあなたを通して祝福したいのだと。神はいつだって、ご自分の利益などこれっぽっちも考えておられない。あなたと、あなたを祝福し、あなたの周囲の人々 にイエスの救いと、ご自身を知らせて祝福したい。その一心で、「わたしが示す地へ行きなさい」と言われます。ガラテヤ3章14、29節も見ましょう。イエスを信じる者は、アブラハムの子孫と神が認めて下さり、彼が受けた祝福を相続するのです。その祝福を放棄してはなりません。神はあなたに今も、「わたしが示す地へ行きなさい」と言われているのです。

今日のお花は、パンパスグラス、カーネーション、ドラセナ、リンドウです。

2023年8月13日 主日礼拝メッセージ

「主があなたを取り、主があなたに言われる。」  アモス書 7:1-17 金田洋介師

本日は7章です。7章から9章には、神様から示された5つの幻が記されています。7章には5つの幻の内の3つが記されています。順番に見ていきましょう。

一つ目の幻(1~3 節)は「いなご」の幻。いなごの発生により、穀物が全て喰い尽くされてしまうというのです。するとアモスは、民の為に必死に取りなします(※取りなす=間に入って、その場をうまくまとめたり、その関係を良好なものにしたりする意)。アモスが 神様に赦しを願い求めたことによって神様は思い直され、いなごによる災害を起こさないと約束してくださいました。アモスの姿はモーセのとりなしを思い起こさせます。

二つ目の幻(4~6 節)は「責める火」の幻。つまり、神様の裁きの火が割り当て地、神様がイスラエルの為に分配して下さった地を全て焼き尽くすという幻でした。それは水が溜まった大きな淵をも涸らすほどの火であるというのである。そこでアモスは再び神様に憐れみと赦しを求めます。すると、再び神様は思い直され、災いを思い止められました。二度に渡って、神様はアモスの訴えを聞いて下さったのです。

三つ目の幻(7~9 節)は「下げ振り」の幻です。「下げ振り」とは、城壁が垂直に建っているか、歪んでいないかを調べるための道具です。つまり、神様は下げ振りによってイスラエルの信仰を測られ、彼らの歪んだ信仰と歩みを見抜かれたというのです。神様はアモスに、ご自身の裁きを以前のように「思い直すことはない」という意味を込めて、「二度と彼らを見過ごさない」と言われました。

アモスとアマツヤの衝突(10-17)

場面は変わり、ベテルの祭司アマツヤがアモスを口撃します。アモスに向かって北イスラ エルでの預言を止め、故郷に帰るよう命じます。しかしアモスは、「神様は、一介の牧者、 農夫にすぎない私を取った(選び立てた)のだ。神様が命令に従わないでいられるだろうか神様が言われたことを伝えないでいられるだろうか。」と反論し、アマツヤとその一家に臨む神様の裁きを告げました。
これらのことを踏まえて伝えたいことは、私たちは現代のアモスだということです。それは、単に御言葉を伝えるということに留まらず、御言葉に生きるということ。つまり、神様の御言葉に従う姿を世に(私たちの周囲に)現わすことです。神様の御言葉と御心に逆行している世界(周囲に)に流されずに、神様のみ御言葉と御心に従って生きて行くのです。そして、神様と人との間に立って、取りなし祈るのです。家族、親族のために、友人、知人のために、地域や職場(学校)の関係者たちのために、心示された人々のために(見かけた人、気になった人)、神様の平和と平安、救いと祝福が訪れるように祈るのです。
アモスの様に生きるためには、聖霊様によって神様、イエス様の知ることが鍵です。どうか、神様、イエス様を知ることによってもたらされる恵みと平安(IIペテロ 1:2)を原動力にして、この時代にあってアモスの様に生きようではありませんか。

今日のお花は、モンステラ、ユリ、トルコキキョウ、アスターです。

2023年8月6日 主日礼拝メッセージ

「主を求めて生きよ」アモス書 5 章 1-17 節   金田洋介牧師

5 章は特徴ある構造になっています。1-3 節に16-17 節が対応し、①イスラエルに対する哀歌が歌われています。4-6 節は14-15 節が対応し、②イスラエルに悔い改めの勧告がなされ、7 節は10-13 節が対応し、③イスラエルの罪が指摘されています。最後に8-9 節で、④全能の神様が賛美されています。この 8~9 節を中心に他の節が挟む形になります。要するに、8~9節が大切であるということです。
①は北イスラエルに臨む悲しみの歌でした。それは神様の裁きが臨むからです。だからこそ、神様はアモスを通して警告するのです。続いて、②は「主を求めて生きよ。悪を捨てて、善を行え。」と神様の御前に正しく生きるように教えます。そして、鈍い民の目を開かせるために、③において罪を指摘しました。全ては、④全能の神様、天地を創造し、支配しておられるお方に目を向けさせるため、このお方に立ち返るため、このお方を崇めるため(讃美するため)です。そして、全能の神様は罪を裁かれるお方であること。全能の神様を求めて(礼拝して)、神様の御言葉に従い生きることを神様は願っておられること。様々な罪や悪しき行いを神様は全て見抜いておられること。このお方の前に悔い改めを迫っておられること。このお方を畏れて生きるようにと北イスラエルの民に、そして、読者に教えているのです。

主を求めて生きよ

私たちも全能の神様に目を向けたいのです。礼拝の時だけでなく、家にいる時にも、仕事をしている時にも、学校に行っている時にも。創造者であり、支配者であられる神様を求めて生きるのです。「求めて」とは「探す」という意味であります。全生活の中で、主を求めて、探して、生活するのです。私たちの人生のただ中に、神様はおられるということに私たちが気付くためにです。私(説教者)は、アモス書に限らず、聖書から語らせていただく全てのメッセージを通して、愛する皆さんの神様理解が広く、深くされることを願っています。神様というお方を知ってほしい。アモス書の言葉を借りるならば、5:8 すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は【主】。と呼ばれる神様を実感できるようにと、本気で願っているのです。
どうか、あなたのその目に映るもの、あなたのその身に起こることに注意深くいてほしい。そして、神様の御声(御言葉)を聴き、応答しましょう。

今日のお花はユリ、リンドウ、スターチスです。

2023年7月30日 主日礼拝メッセージ

「あなたの神に会う備えをせよ」アモス書4:1-13   金田洋介師

4章も北イスラエルの具体的な罪がアモスを通して指摘されています。
サマリアの裕福な女性たちに対する主の言葉(1~3 節)。肥沃なバシャンの地で育ち超えた雌牛が、毎日贅沢に暮らしていたサマリアの裕福な女性たちに重ねられている強烈な皮肉の言葉です。2節で指摘されているように、彼女たちは権力を振るって弱い立場の人々を虐げ、脅し、利益を貪り、高慢に振る舞っていたのです。彼女たちは釣り上げられた魚の様に 敵の手に捕らえられ、連れて行かれるとアモスは告げます。
次に、熱心に偶像礼拝をしている者たちに対する主の言葉(4~5 節)。その熱心さは、「朝ごとに」いけにを献げ、「三日ごとに」十分の一のささげものを献げるほどのものでした。しかし、それは神様に対する礼拝、献げものではなく、イスラエルの民が自分自身のためにしているというのです。神様は民の思うままにされますが、神様の御心は、神様が用意された幸いを選びとること、神様の御心の道を歩むことであることは言うまでもありません。
最後に、神様の呼びかけに応答しない者たちに対する主の言葉(6~11 節)。「それでも、 あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」という言葉が5回繰り返されています。神様はイスラエルの民たちがご自身に立ち帰るように、あらゆる種類の困難にイスラエルを遭わせられました。しかし、「それでも」彼らは神様のもとに帰らなかったというのです。

あなたの神に会う備えをせよ

12~13 節でアモスが語っている、「神に会う備えをせよ」という言葉は、二つの意味で解釈できます。一つは、神様が様々な災い(困難)を通して、神様に立ち帰る機会、悔い改めの機会を与えられたにもかかわらず、「そうしなかった」イスラエルに対する「神様の裁き」を免れることはできないとする解釈です。しかし、その怒りの裁きの背後に、神様の愛を思います。この裁きの宣告すらも、神様の許へと立ち返る、悔い改めの招きに聞こえるの です。
もう一つの解釈は、最後の審判に対する備えとして解釈することもできます。私たちは、見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、【主】。に会うのです。そして、この地上で生きている間に、「神様に会う備え」をしなければなりません。
神に会う備えのために祈りましょう。エペソ1章17~19 節。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

今日のお花は、ユリ、グロリオサ、リンドウ、オミナエシ、千日紅です。

2023年7月23日 主日礼拝メッセージ

「神である主が語られる!その時あなたは?」 アモス書 3:1-8 金田洋介師

神である主が語られる「わたしがあなたがたを選んだ」

アモスは、かつて神様がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを思い起こさせながら(1節)、神様が地上の民の中から選び出したイスラエルの民の咎を罰すると宣告しす(2節)。神様は、「わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エ 19:6)ため、イスラエルの民を選ばれました。民は神様の御言葉に従い、神様に仕え、神様の御旨を全世界に伝え、異邦人を神様に導く使命が与えられていたのです。ところが、果たすべき使命を果たすどころか、ことごとく神様の御旨に逆らい、御言葉に背き、神様の御前に罪を犯したのです。それゆえに、神様はイスラエルの民を罰すると言っておられるのです。
これは今日の私たちにも語られている言葉でもあります。神様であられる主は「あなたを選んだのはわたしである」と語っておられます。そして、私たちにご自身の御言葉に従い、 神の子、光の子として歩んで行くこと、どのようなところから救われたかを証しし、福音を宣べ伝えなさいと命じておられます(1ペテロ 2:9)。どうか、救いの恵みとともに与えられ た使命、責任を、聖霊様の助けをいただきながら全うしようではありませんか。

「神である主が語られる!その時あなたは?」

3~6 節はみな、因果関係を示しています(※因果関係とは、原因とそれによって生じる結果との関係のこと)。これを踏まえて 7 節。「まことに、【神】である主は、ご自分の計画を、 そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。」とあるように、神様がご自分の計画を行なわれる時、必ず預言者によってその計画を前もって示してから、実行されるというのです。これは、神様はアモスを通してイスラエルの民に悔い改めの機会を与えようとしておられることが分かります。アモスは神様の御心を悟り、【神】である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。と語ります(8 節)。「神様である主が語っておられるのに、預言せずにいられるだろうか。」と言っています。預言者エレミヤも同じでした。彼は 黙っていようとしても、語ることを抑えられませんでした。ペテロもヨハネも、見たこと、 聴いたこと、体験したことを話さずにはいられないと告白しています。
主の声にあなたはどう応答しますか?まず、証しし伝道することが挙げられますが、罪を指摘される声もありますから、悔い改めへの招きかもしれません。あるいは御心と御言葉を実行することへの招きもあります。あなたの周りに起こっている事々、あなた自身に起こっ ている事々を今思い起こしてましょう。今日、語られているように、神様の許しなしに起こ りません。必ず、神様の深いご計画があるのです。私たちの悟るべき理由があるのです。中には、今は分からなくても後に明らかにされることもあります。大切なのは、立ち止まって神様の御前に出てること。御言葉に心を留めることです。神様の御声を聴いた時、神様が求めておられる応答ができるように、聖霊様の助けを求めて参りましょう。

今日のお花は、パンプスグラス、トルコ桔梗、ひまわり、ビブハナムです。

2023年7月16日 主日礼拝メッセージ

「侮ることのできないお方の前に生きる我ら」  アモス書1:1-2, 2:6-16 金田師

本日からアモス書を開いています。アモスは南ユダの羊飼いであり、農夫でありました。そんな彼が、北イスラエルに神様の言葉を告げる預言者として召されたのです。

北イスラエルの背きの罪 2 章 6~8 節

お金と引き換えに正しい者を売り(賄賂によって不正が横行し)、履き物一足のために貧しい者を売った(貧しい同胞に誠意を尽くさず、奴隷として売り飛ばし)、弱い者の頭を地のちりに踏みつけた(弱い立場にある者たちを憐れまなかった)。また、父と子が同じ女のところに通い(偶像礼拝に伴う性的堕落に囚われ)、偶像が祀られている祭壇の前で、同胞から取り立てた服の上で寝そべり、酒を飲むという始末。イスラエルの民は真の神様を畏れず、偶像の前でやりたい放題。思いのままに振る舞っていたのです。神様の御言葉にことごとく背き、偶像崇拝者たちと同じことを行っていた。これが北イスラエルの罪です。

神様の叫び 2 章 9~12 節

神様は叫びます。「誰が、何のためにお前たちをエジプトから導き出し、40年間荒野で養い、取り扱い、誰が屈強なアモリ人を滅ぼしてまで、この地を与えたのか。わたしではないか」 (9 節) と。さらに神様は、祝福に与らせるために預言者を立て、ご自身の言葉を与え、 彼らの模範となるナジル人を立てました。ところが、イスラエルの民はどちらも拒みます。ナジル人には誓約を破らせ、預言者には「預言をするな」と命じたのです。自分たちのしていることがどんなに恐ろしいことか、まるで分かっていません。

神様の裁きの言葉 2 章 13~16 節

お言葉が告げられたアモスの時代から約70年後、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされます。II列王記 17 章には北イスラエルの滅亡の様子とその原因が記されています。 北イスラエルが裁かれたのは、彼らが【主】に対して、神様に対して罪を犯したからです。

アモス書 1~2 章からのメッセージ

本日は北イスラエルを取り上げましたが、1:3~2:5 には、北イスラエルに隣接する国々と民族の罪が指摘されています。つまり、神様は侮ることのできないお方だということです。私たちは「侮ることのできないお方の前に生きている」ということを覚えたいので す。最近、次々に不正が明らかになっていることが報道されていますが、それでも明るみ出てこないことの方が多いかもしれません。しかし、神様を侮ることはできません(ガラテヤ 6:7)。誘惑が多い世の中です。どうか神様の御声に、聖霊様の御声に聴き従い、平安のうちに日々を過ごしましょう。もし罪を示されたら神様の前に罪を告白し、自分の罪の身代わりとなって裁かれて下さったイエス様に感謝しましょう。また、イエス様を犠牲にしてまで 罪の闇から救って下さった神様に感謝しましょう。そして、光の中を歩き続けるとともに、 世界の全て人が闇から光へ、滅びから救いへ、死から命へと導かれるよう祈りましょう。

今日のお花は、グラジオラス、ヘリクリサム、テッポウユリ、ドラセナです。

2023年7月9日 主日礼拝メッセージ

「主の日に備えて-神の応答-」ヨエル書2:18~32            金田牧師

愛し憐れんで下さる神様

ヨエルは神様から心と歩みが離れている民に向かい、主の日に備えて神様の御名を呼び求め、神様に立ち返るよう民に告げました。神様の許に立ち返る時、神様は愛と憐みを持って応答して下さるのです(18節)。民同様、神様に逆らいやすい私たち。しかし、神様は御許に引き寄せて下さるお方です。躊躇せず、心を頑なにしないで、愛と憐みに満ちておられる神様を信じて心を開きましょう。

神様の祝福と守りの約束

民の不従順が招いた「神の裁き」によって地は荒れ果て、神の民イスラエルは他国からそしり(非難、悪口)の的となり、神様の御名も汚されてしまいました。しかし、民の悔い改めを聞かれた神様は、外敵から民を守り、不毛な土地を実り豊かな土地へと回復させ、「二度と国々の間でそしりとしない(19 節)」と約束して下さったばかりか、神様がいつも真ん中に おられることを知った民は、神様を讃える者となり(26節)、「恥を見ることは永遠にない」 (27節)とまで宣言して下さったのです。

成就した神様の約束

さらに、神様は祝福を加えて下さいます。それは聖霊が与えられるという約束です。特定の人だけにではなく、全ての人に聖霊が注がれるというのです(28~29節)。ヨエルの時代から約 800 年後、ペンテコステに成就しました。そして今、この時代に生きる私たちにも 聖霊は注がれます。聖霊様は私たちの歩みを助け、神様の御心を教え、導いて下さいます。
これらの素晴らしい約束を、現実を生きる私たちに当てはめると、私たちを全生涯を通して神様の御名が崇められるということです(神様の素晴らしさが証しされる。伝わる)。ところが、イスラエルの民がそうであったように、この願いとは反対のことが起こりやすい。 「こんな自分を見て、神様を信じたいなんて思ってもらえないだろうな。」と思うことはしばしばです。しかし、むしろ欠けだらけだからこそ、罪の赦しと救いが、神様の助けが必要 なのです。たとえ、証しにならない言動や行動をとってしまったとしても、ヨエル書から学んだように、私たちが神様の前に立ち返り、神様の方を向いて、神様の御言葉や御心が示す道に歩み直すなら、欠けだらけな私たちであっても、神様の御名があがめられるのです。神様は聖霊様を通して私たちの罪や欠点を取扱い、聖霊様の力によって私たちに変化を与えて下さいます。結果、そのことによって、神様の素晴らしさが証しされ(伝わり)、蔑まれたご自身の御名をも回復されていくのです。
日々御霊様と共に歩みましょう。助け主であり、真理の御霊である聖霊様に導きを仰ぎ求 めながら日々を過ごすことが、やがて必ず来る主の日への一番の備えなのです。

今日のお花は、ユリ(イエローウィン)、ケイトウ、チューベローズ、モンステラです。