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2023年7月2日 主日礼拝メッセージ

「主の日に備えて-神の招き-」ヨエル書 1:1-3、2:1-17  金田洋介牧師

ヨエルの第一声

「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたがたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。」ただならぬ危機を感じる呼びかけです(2節)。「このようなことが…」とは、4節に四種類のいなごによる災害(蝗害)が起こり、作物が尽く食い尽くされたのです。その被害の大きさは、5節以降に記されている、嘆きと悲しみの様子からも分かります。6 節で「いなご」が「ある国民」にたとえられています。これは、いなごが大量に襲ってきたように外国から大軍が押し寄せ、攻撃を仕掛けて来るという預言でもあるのです。未来に起こる出来事と、それによって受ける苦痛や被害が 「いなご」による苦痛と被害に重ねられているのです。

主の日に備えて、主を呼び求めよ

ヨエルは民に向かって訴えます。「【主】に向かって叫び求めよ」と(14 節)。彼は単なる災害として捉えるのではなく、神様の御手の中にあることを示したのです。待ち受けている困難は、民自身の不従順が招いた苦しみです。だからこそ、神様の前に集まって悔い改めるよう呼びかけたのでした。私たちの自身も、周囲も、日々色々なことが起こります。納得いかないことや理解できないことが起こると、すぐに落ち込み、呟き、不満を露わにします。しかし、一時の感情に流されず、全ては神様の御手の中にあることを覚え、神様に心を向けるのです。神様の御言葉を思い巡らし、神様と共に状況を振り返りつつ祈るのです。きっと、 隠れていた自分の罪や神様の御心に気付かされることを体験します。そのような積み重ねの日々が、私たちの信仰を養い、神様というお方を知る恵みの機会となるばかりか、来るべき主の日(世の終わりの日、裁きの日)のための備えとなっていくのです。

主の日に備えて、主に立ち返れ

2章は、主の日が間近に迫っていることの警告から始まり、その悲惨さがより一層強調されています。ヨエルは民に強く迫ります。「主に立ち返れ」と(13 節)。これは神様の切なる招きでもあります。「主の日」とは、世界の終わり(神様の裁きの日)という大いなる日を指しますが、ヨエル書を通して見えてきたように、彼らが経験した蝗害や他国からの侵略といった災害や困難、また、私たちの人生や日常生活の中に起こってくる様々のことも「主の日」 と呼べると思います。なぜなら、全て神様のご計画、神様の御手の中で起こっているからであり、神様がなさる事々を通して、私たちは神様を意識するからです(畏れること、遜ること、従うこと様々)。ですから、生活の中に起こる些細な事から大きな試練や苦しい困難も全て、やがて来る「主の日」のための備えであることを覚えて、日々を過ごしましょう。そして、神様に全身全霊を向けて歩んで行けるよう、今、神様に祈り求めましょう。

 

    今日のお花は、ひまわり、モンステラ、ユリ、トルコキキョウです。

2023年6月25日 主日礼拝メッセージ

「悔い改めへの招きと祝福の確約」ホセア書14:1~9   金田洋介牧師

14章を開いています。預言者ホセアはこの書をどのような言葉で閉じたのでしょうか。

悔い改めへの招き

ホセアは北イスラエルの民に罪の悔い改めを迫ります。1 節「イスラエルよ、あなたの神 【主】に立ち返れ。」これまで再三、語られてきた言葉です。ホセアが何度も何度も繰り返して語ったということは、それだけ民の心が頑なであったということです。しかし、一向に聞く耳を持たない民。それでもホセアは、神様から与えられた使命を放棄せず、諦めないで 最後の最後まで、真実な悔い改めをイスラエルに迫ります(2 節~)。
私たちもホセアに倣い、家族や親族、知人や友人が「罪を知り、自分の罪を認め、神様の前に罪の悔い改めるよう」祈り続けるのです。真理の御霊であられる聖霊様が助けて下さることを信じ(ヨハネ 16 章 7~8 節)、また、自分自身の罪に対しても鈍感に、頑なにならぬよう(ヘブル 3 章7~8 節)、日々、聖霊様の助けを求めて祈りましょう。

祝福の確約

4~7節に、イスラエルの悔い改めに対する神様の赦しと癒し、神様からの祝福と、神様との交わりの約束が語られています。彼らが悔い改める時、彼らの罪は赦され、神様の怒りはイスラエルから離れ去り、彼らの背信は癒されるというのです。そして、その瞬間から、 神様の祝福が豊かに注がれます。5 節で、神様はご自身を「イスラエルにとって露のようになる」と言われました。乾季のある北イスラエルの地方にとって、露は植物の命を保つため に欠かすことができないように、神様はイスラエルの命の源となるというのです。
同様に、私たち一人一人も、聖霊によってゆりの花のように美しく輝くキリスト者になり、レバノン杉のように力強く根付き(神様への信仰が揺るがないものとなり)、オリーブ の若枝のように生き生きと信仰が成長し、芳しいキリストの香りを放つ者とされるのです。

あなたに対する招き~主の道 or 我が道~

14:9 知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。【主】の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。「これらのこと」とはホセア書全体を指します。預言者ホセアは、彼が書き記した全ての言葉を、北イスラエルの民が、読者が聴く耳をもって聴き、信じて受け止め「悟ってほしい」と訴えています。彼が悟ってほしいこととは、【主】の道は平らだ。というこ と。「平ら」とは「正しい」、「真っ直ぐ」「歪んでいない」という意味です。あなたに「神様の正しさを認めてほしい。悟ってほしい。そして、正しい神様の御言葉に従って、神様の示される正しい道を歩むことを決断してほしい、選び取ってほしい、それが正しい者の歩む姿だ」と言っているのです。一方、背く者の結末は「躓き」です。どうか、【主】の道は平らである、正しいと認め、主の御言葉に従って生きると決断しようではありませんか。

今日のお花は、モンステラ、ひまわり、スターチス、スカシユリです。

2023年6月18日 主日礼拝メッセージ

「父なる神のお心を知ろう」  ルカによる福音書15 章 11~32 節 金田洋介牧師

放蕩息子のたとえ話

ある人に二人の息子いました。ある日、弟息子は自分が将来得ることになる父親の財産を求めます。これがいかに無礼な要求であるかは明白です。ところが父親は、彼の求めに応じて財産を分け与えました。すると弟息子は、「すべてのものをまとめて(新共同訳:金に換えて)」旅立って行ったのです。しかし、彼は放蕩の末、全てを使い果たしてしまいました。さらに激しい飢饉に遭い、食べることにも窮します。何とかついた仕事は豚の世話。彼はその豚の飼料に手を出したいと思うほど困窮していましたが、彼を助けてくれる人はいません。しかし、苦しみのどん底で彼は我に返ります。彼は自分の過ちを認め、自分のいるべきところは父親の所だと気付いたのです。弟息子は父に対する謝罪の言葉を心に決め、父のところへと向かいます。一方、弟息子の帰りをずっと待っていた父親は、遠くにいる息子を見つけると、自分の方から走り寄って彼を抱きしめ、喜んで迎え入れたのです。弟息子が謝罪と悔い改めの言葉を父親に伝えると、父親は僕たちに弟息子の身なりを整えさせ、祝宴の準備を命じます。弟息子が父親の息子としての身分を回復した瞬間でした。場面は変わり、 祝宴が開かれているところに畑仕事を終えた兄息子が帰ってきました。「何事か」としもべ に尋ねると、帰って来た弟の為の宴だというではありませんか。激怒した兄息子は、家に入 ろうとしません。すると父親が出てきて彼をなだめます。兄息子は弟への不満と怒りだけで なく、父親に対して抱いていた不満と怒りをもぶつけました。父親は優しく、そして諭すように兄息子に自分の思いを語り伝え、たとえ話は終わります。

父の心を知った息子たち~父なる神様のお心を知ろう~

彼ら兄弟を通して父親の心にフォーカスを当てます。まず、弟息子。彼は彼なりに自分の幸せを追い求めていました。それは「自分が望むように生きること」であり、その幸せは 「父親の許にいたら実現しない」と思っていたのです。それが全ての間違いの元であること に気付かずに…。彼の自己中心という罪が彼の人生を狂わせました。しかし、彼は回心し、 父親の許こそが幸いであることに気付いたのです。一方、兄息子は父親をどう見ていたのでしょうか。彼は「父親が自分を不平等に扱っている」と思い込んでいました。彼の不満と怒りは弟に対するよりも父親に対する不満と怒りだったのです。しかし、兄息子は、自分に対する父親の思いを聞いたことにより、いつも父親と共にいることによって守られ、満ち足り ていられることことに初めて気付き、さらには、父親は自分たちを「我が子」として全力で 愛してくれていたことを知ったのです(父親は神様を息子達は私たち人間を指しています)。
まとめ。神様の許にいることが幸いであること、神様の許から離れた全ての人々が罪から救われ、神様に立ち返ることを願っておられること、そして、私たちが神様に「神の子」と 呼ばれるために、ご自身の命まで与えて下さったことを信じ、心から感謝しましょう。

今日のお花は、ドラセナ、スターチス、カラー、ローズマリーです。

2023年6月11日 主日礼拝メッセージ

「神の情熱≠民の情熱」ホセア書7章 1~16 節 金田洋介牧師

7 章では、イスラエルの姿を4つものに例えています。 (1) パンを焼くときの燃えるかまど(4 節)…神様の御心に反することに心を燃やしている姿。ことごとく悪を行って神様に逆らい、その上神様に立ち返ろうとはしません。 (2) 片面しか焼けていないパン(8 節)…中途半端な信仰の姿。熱くもなく、冷たくもない。どっちつかずの、生ぬるい信仰の姿です。神様だけを信頼することができません。 (3) 愚かな鳩(11 節)…ここでも、大いなる神様の存在を忘れ、エジプトとアッシリアの両国の間をフラフラしています。とても不安定な姿です。(4) 欺きの弓(16 節)…神様という的を外していながら、神様に立ち返ろうとしません。
これまで神様がいかにイスラエルの民を愛しておられるのかを見て来ました。神様は民が ご自身の許に留まるよう、ご自身の愛を表されました。この 7 章においても同様に、逆らい続ける民に、神様は何度でも何度でも呼びかけています。(1) わたしがイスラエルを癒やす(1 節)、(2) わたしは彼らの上に網を張り(12 節)、(3) わたしが贖い出そう(13 節)、(4) わたしが訓戒し、彼らの腕を強くした(15 節)神様の民に対する情熱を思います。しかし、民は神様の御思いにことごとく反抗します。民の情熱は 神様に全く向いておらず、自分たちの思うままに振る舞うのです。
説教題は「神の情熱≠民の情熱」。「≠(不等号)」を「互いに向き合っていない。噛み合わない。」という意味で用いました。神様は常に民に向いておられますが、民は神様に全く向いていないのです。先週は「神様の愛を深く知ること」をテーマにしました。今週は、「果たして、自分は愛の神様に向いているか」ということを思い巡らしたいのです。神様に心を向けているか。中途半端ではないか。自分の都合の良いように神様を利用していないか。御言葉という的に向かっていっているか。仮に、的を外した時、正直に神様の前に罪を告白し、悔い改めているか。その様なことを思い巡らしたいのです。
「…あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」これは、ヨシュアの信仰告白です。彼は民に向かって、心から信じ仕えるお方を選ぶように求め、彼自身は唯一真の神様にのみ仕えることを宣言しました。私たちも、与えられたその日、その日を、真実な信仰告白を持って歩んで行きたいのです。しっかりと神様の方を向いて生きて行きたいのす。それがどのような生き方であるかは、皆さんそれぞれが神様との関係において、見出していただければと思います。そして、それが「できるか、できないか」ということに囚われず、全てを見通しておられる神様の存在を認め、神様を畏れ、神様の御前に潔く、ありのあままの姿を見せ、神様に助けていただきながら、神様と共に生きて参りましょう。

今日のお花は、オリーブ、ユリ、トルコキキョウ、ダリアです。

2023年6月4日 主日礼拝メッセージ

「わたしの愛に留まりなさい」ホセア 書3 章 1~5 節  金田洋介牧師

3章においても、神のイスラエルの対する愛がホセアとゴメルの関係を通して示されてい ます。ホセアを通して示された神の愛とはどんなものなのでしょうか。

神様の愛は「にもかかわらずの愛」

神様は「ゴメルを愛しなさい」と再度ホセアに命じられます。彼女は再びホセアを裏切って出て行ったばかりか、奴隷となってしまったのです。ホセアはどんな思いでこの命令を聞いたでしょうか。これは彼女自身が招いたことです。何より、ホセアに赦しを乞うて来たわけでもありません。それなのに神様は、ホセアの方から歩み寄って「ゴメルを愛しなさい。」つまり、「彼女を奴隷の状態から救い出しなさい」と命じられたのです。これは、偶像礼拝という霊的姦淫を止めないイスラエルに対して、神様がどれほど大きな愛をもって愛しておられるかをホセアが知るためでした。神様はイスラエルに裏切られ続けたにもかかわらず民を愛された事を、ホセアはゴメルを通して深く知ったのです。

神様の愛は「犠牲を厭わない愛」

ホセアは犠牲を払ってゴメルを買い戻し、奴隷の身から再び妻として迎え入れました。彼は犠牲を払うことによって、彼女に対する愛を表しました。そして、「私は誠実を尽くしてあなたを愛するから、あなたも応答してほしい、誠実を尽くしてほしい」と伝えたのです。 同様に、神様は後にイスラエルのみならず、全ての人々にイエス・キリストという大きな犠牲を払って下さり、私たちを罪の奴隷から解放して下さいました。ここに私たちに対する神様の愛が表されたのです。

神様の愛に留まり続けなさい

神様は民が偶像を捨て、真の神様にのみ頼るようになるために、民の中から偶像礼拝に関わるものを一切取り去られることが告げられます(4節)。そして、イスラエルはこの後、罪を裁かれ国は滅ぼされますが、必ず回復の時がやって来ることをホセアは預言しました。イスラエルの民は主なる神様に立ち返り、偶像ではなく、真の救い主イエス・キリストを尋ね 求めるようになること。そして、終わりの日に主は来られ、全てを治められる王となられる ことを民に告げたのです(5節)。
神様はホセアを通して、どれほどイスラエルの民を愛しておられるかを示されました。何よりもホセア自身が、ゴメルとの関係を通して神様の愛を痛感したことでしょう。この神様の愛は、今を生きる私たちにも注がれています。それは、御子イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架に死なれたことによって実現し、証明されました。イエス様という大きな犠 牲をもって私たちは罪の奴隷から解放され、神の子とされたのです。この神様の愛の奥深さを知り、イエス様を与えるほどに愛して下さった愛に留まり、この愛に応答し生きる者とならせていただきましょう。

今日のお花は、バラ、ひまわり、テッポウユリ、ナンテンです。

2023年5月28日 主日礼拝メッセージ

「父なる神の約束」 使徒の働き2:1~4、ヨハネの福音書 7:37~39     金田洋介牧師

父なる神の約束

復活されたイエス様は、40 日に渡って神の国について語られました(使徒 1:3)。そして 週報最後に、弟子たちに「父の約束を待ちなさい」(使徒 1:4)と告げ、ご昇天されました。父の約束とは、予てからイエス様が語っておられた聖霊様が降られるという約束でした。弟子たちはイエス様の言葉に従い、父なる神の約束である聖霊を求め、心を合わせて祈っていました。祈り初めてから10日後、時は五旬節です。突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ御霊が語らせるままに色々の他 国の言葉で語りだしたのです。父なる神の約束が成就した瞬間です。

聖霊様は助け主、また真理の御霊

イエス様は弟子たちに、聖霊は助け主(ヨハネ 14:16)であり、真理の御霊(同 15:26)であると教えました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。そして聖霊の力が働く時、私たちは神様の御言葉に目が開かれ、御言葉を悟り、神様の御心を知ることができるのです。このような素晴らしい助けと解き明かしを聖霊は与えて下さるのです。また、日常生活の様々な場面においも、神様の確かな臨在(はっきりと実感できるほどに神様 が共におられること)と、導きと助けを確信することができるのです。これはイエス様を信じ受け入れる全ての人に与えられる恵みです。

聖霊のバプテスマを求めよう

イエス様は「聖霊を受けよ」と言われていました(ヨハネ 20:22)。弟子たちは、約束の聖霊が降られるまで、ひたすら祈り求め続けました。この祈りの原動力は「渇き」。この渇きを分かりやすく言うなら、「共におられる神様を実感したいという渇き」、「信仰生活における渇き」、「神様の御言葉と御心に生きたいという渇き」、つまり肉体的な渇きではなく、霊的な渇きです。「神様の御言葉と御心を知りたい、神様を実感したい、揺るがない救いの喜び、揺るがない信仰や確信が欲しい。罪に勝利した毎日を過ごしたい」そのような渇きを覚えたことはありませんか?イエス様は、「渇いている者は、わたしの元に来て飲みなさい」 (ヨハネ 7:37)と言われました。「飲む」とは「信じ受け入れる」こと。聖霊様の支配(介入)を受け入れることです。あなたの、その言い表せぬ深い呻き、渇きを満たせるのは聖霊 だけなのです。ただ素直に、そして積極的に「聖霊様、私の心の間なんかにあなたをお迎えします」と祈り求めましょう。状況やタイミングはそれぞれ違うと思いますが、これまで味わったことのない、喜びと嬉しさ、確信を実感します。ペンテコステのこの日、助け主であり、真理の御霊である聖霊の満たしに与らせていただこうではありませんか。

今日のお花は、ユリ、グラジオラス、グロリオ、アジサイです。

 

2023年5月21日 主日礼拝メッセージ

「どこまでも愛し通される神」 ホセア 2:2~23 金田洋介牧師

本日の 2 章においても、偶像礼拝に囚われている北イスラエルの姿が、ホセアの妻ゴメルの行動に重ねられて語られています。ホセアは実体験を通して神様の悲しみと嘆きを知り、神様の御言葉を伝えました。

裁きの宣告 2~5 節

バアルの神は農耕の神として崇められていました。バアル崇拝者は皆、バアルの神によって雨が降り、地が潤され、豊かな収穫が得られると信じていたのです。北イスラエルの民はバアル崇拝にのめり込み、偶像礼拝の罪に囚われてしまいます。まるで、夫ホセアを捨てて 愛人を追って出て行ったゴメルのように、北イスラエルの民も拝すべき真の神様を捨て、偽りの神を追い求めたのです。神様はこの罪を裁かれると宣告しました。

裁きからの回復 6~15節

夫の許を去ったゴメルでしたが、神様は尽く道を閉ざされ、あらゆる楽しみを取り上げると宣言されました。これは、真の神様を捨ててバアルを慕い求めただけでなく、神様の恵みをバアルからの恩恵であると盲信していた北イスラエルに対する宣言でもありました。しかし、その宣言の背後には、愚かな民を悔い改めに導きたいという神様の深い愛が込められていたのです。神様は、神様との関係を自ら放棄した民に憐れみの御手を伸ばし、災いから望みの道へと導くとの約束を与えられ、どこまでも民を愛し通す決意を表されたのです。
16 節以降には、神様と北イスラエルとの関係に、完全な回復される日が来ることを預言しています。イスラエルはバアルを呼ぶことをやめ(16 節)、神様を真の夫として永遠の契りを結び(18~20 節)、祝福の実を結ぶこと。そして、「憐れまない、愛さない、わたしの民でない」との宣言が撤回され、神様の憐みを受ける者、神様の民と呼ばれ者となり、民もまた 「神様こそ私の神様です」と告白するようになると告げられました(23 節)。
ホセア書 2 章は、主の憐れみと赦しがどれほど深いものであるかを記しています。ゴメルの姿に重ねられている北イスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。どこまでいっても自己中心な私たち。神様がどれ程、私たちに心を配り、私たちの幸せを願っておられるかなど 全く気にも留めません。しかし、神様のお姿(言葉)に心を留めたいのです。神様は北イスラ エル(ゴメル)を荒野に招き(一対一の意)、優しく語り掛け、関係の回復と祝福を宣言されました。私たちが今あるのは、私たちの理解を遥かに超えた、この神様の愛と憐れみによるのです。神様の愛と憐みは、イエス様の十字架の死と復活によって私たちにもたらされましたが、ホセア書の学びを機に、再度、神様の憐れみと愛の深さを思い巡らせたいのです。
あなたは、神様の愛にどのように応えますか?思い巡らしましょう。そして、心に決心した(神様の愛に対する)あなたの応答を行動に起こし、この一週間を過ごして参りましょう。

今日のお花は、ユリ、アジサイ(アナベル)、アルストロメリア、デルフィニウムです。

2023年5月14日 主日礼拝メッセージ

「愛を持って生きて行こう」 コリント人への手紙 第一 13:4-8a,16:14    金田洋介牧師

16章は第一の手紙の締めくくりです。パウロの勧め「一切のことを、愛を持って行いなさい」に注目し、「一切のこと」と「愛を持って行う」を学びます。

あらゆる活動という一切

まず「一切のこと(全てのこと)」とは、私たちのあらゆる活動を指しています。真愛教会では様々な活動を通して愛を表しています。しかし、ここで語られている「一切のこと」とは、教会における活動だけに限ったものではなく、教会外の「日常生活の全ての領域」をも指しています。しかも、私たちの全ての状態、状況、つまり心の中や現実の状態と状況も含まれているのです。ですから、職場や学校、家庭や地域の中で起こる様々なことで、ストレスを感じたり、頭を悩ませたりするような中にあっても、愛をもって生きて行くのです。

あらゆる人間関係の一切

次に「一切のこと(全てのこと)」とは、私たちのあらゆる人間関係を指しているということです。教会の中の関係(牧師、兄弟姉妹)はもとより、ノンクリスチャンとの人間関係など、あらゆる人間関係が含まれているのです。そして、前述したように、私たちがどのような状態、状況に置かれていても、その人間関係において愛を持って生きて行くのです。イエス様は「神様は正しい者、正しくない者関係なく、すべての者に雨を降らし、太陽を照らして下さる。(マタイ5章 44~47節)」と言われました。私たちも、全ての人間関係において、その状況、状態に左右されず、態度を変えず、祝福と平和を祈る者でありたいのです。

愛を持って行うとは

「愛をもって行いなさい」とありますが、聖書が語る「愛」は単純なものでありません。 様々な形で現れるものです。愛は「寛容、親切、妬まず、自慢せず、高慢になりません。礼儀に反せず、自分の利益を求めず…」と実に豊かです。是非、その豊かさを知り、聖書が語る「愛」を持ってあらゆる活動の中に、あらゆる人間関係の中に生きて行きたいのです。
しかし、今私たちが置かれている世界はどうでしょうか。全く真逆の世界ではないでしょうか。今でこそ、コロナが落ち着いてきましたが、コロナ禍に在った三年間を振り返ってみるならば、人間の本性が露わにされてた 3 年間だったように感じます。また、社会はもとより、一つ一つの家庭の中にさえ、愛の危機が及んでいます。このような状況、このような世界に、真の愛を輝かせることができるのは、神様の愛を知り、神様の愛に満たされたあなただけです。13:8 愛は決して絶えることがありません。とあります。永遠に無くならない、 絶えることがない神様の愛が無限に供給され続けるのです。あらゆる活動、あらゆる関係に おいて、神様の愛を現わしてまいりましょう。その第一歩は、家庭からです。この一週間、 御言葉に応答して、愛を持って生きて行こうではありませんか。

今日のお花は、アオキ、ユリ、バラ、トルコキキョウ、カスミソウです。

 

2023年5月7日 主日礼拝メッセージ

「あなたがたは生ける神のこども」

ホセア書1章1節~11節    金田洋介牧師

預言者イザヤと同じ時代、ホセアは北イスラエルの預言者として遣わされましたが、彼は他の預言者たちとは変わった形で用いられます。まず、神様がホセアに命じたのは、姦淫の女性を妻に迎えると言う命令でした(2節)。これは、ホセアが夫婦関係を通して、北イスラエルに対する神様の愛と憐れみを悟り、伝えて行くため、神様がご計画されたのです。

ホセアは神様の命令に従い、ゴメルを妻として迎えます。その後、ゴメルは3人の子ども を出産します。第一子は「彼に」という言葉がありますが、第二子、第三子について「彼に」と言及されていません。二人はホセアの実子ではなく、ゴメルが姦淫によって授かった子どもであったようです(6-7 節)。このことがわざわざ記されていることには理由があります。それは、ゴメルがホセアに対して姦淫の罪を犯したように、北イスラエルが神様に対して霊的な姦淫である、偶像礼拝の罪を犯していることが、二重写しで表されているのです。きっとホセアは、神様を裏切って偶像礼拝に走って行く民の姿を見ている神様のお心の痛みを、自分自身の痛みのように感じ取っていたことでしょう。また、神様が命名された第二子、第三子の子どもたちの名前(ロ・ルハマ:愛さない、ロ・アンミ:民ではない)をとおして、北イスラエルの罪を断罪するという神様の強い決意を悟ったと思います。このように、神様はホセアの夫婦関係、家庭環境を通して、北イスラエルに対するご自身の御思いを明らかにされたのです。

ところが、北イスラエルを「わたしは憐れまない、わたしの民ではない」と言われた神様でしたが、一転して「生ける神の子である」と宣言されます(10 節)。これは、北イスラエルのみならず、後に裁かれ滅んでいく南ユダをも含みます。度重なる背信と裏切りの民に対し「もう愛さない、わたしの民ではない」と言われた神様は、「それでも愛そう。それでもあなたはわたしの民だ」と宣言して下さる、憐れみ深い神様なのです。

あなたの目に、神様というお方はどのように映っているでしょうか。また、神様の目にあなたはどのように映っているでしょうか。たとえ、あなたがイスラエルの民のように、神様の愛や戒めを知りながら、反抗して生きていたとしても、神様の前に言い訳ばかりで、言葉と実際の行動が伴わないような毎日を過ごしていたとしても、神様はあなたを「生ける神の子」と呼んで下さるのです。そればかりか、生ける神様の子どもに相応しく、神様はあなたを整えて下さるのです。そして最後に、私たちはホセアのように、大切な人の為にとりなし祈ることができます。私たちは、私たちの大切な人を神様がどれ程愛しておられるかを知っています。私たちは、私たちの大切な人が罪を犯していることを神様がどれ程悲しみ、心を痛めておられるかを知っています。あなたの大切な人たちが、神様の愛を知り、罪を悔い改めて、神様の子どもとされるようにとりなし祈ろうではありませんか。

今週のお花は、バラ、ユリ、アルストロメリア、ジャスミン、菊です。

2023年4月30日 主日礼拝メッセージ

「聖書が教える幸いな関係を築く秘訣」 エペソ人への手紙5章22節-6章4 節 金田洋介牧師

妻たちよ(5章 22~24節)

聖書は、「主に従うように自分の夫に従いなさい」と勧めていますが、「従いなさい」という言葉に抵抗を感じられる人も多いと思います。では、夫に従うということはどういうことなのでしょうか? 23 節に「夫は妻のかしらなのです。」とあります。これは、夫の方が上であるということではありません。かしらとは「代表者」ということ。つまり、夫に従うとは、夫を「夫婦、一家の代表者」であると認め、敬い、支えるということなのです。また、 創世記には、初めの人アダムの妻として創造されたエバは、アダムの助け手として相応しい存在であったことが記されています。ですから、神様が「代表者」である夫の「助け手」 として妻(自分)を選び、導かれたのだということを心に留めていただきたいのです。

夫たちよ(25~31節)

夫に対しては、「自分を献げ尽くすように妻を愛し」、「自分を愛するように妻を愛しなさい」と教えています。何よりも相手を尊重し、自分の心を満たすことよりも相手を思いや り、心を満たすことを大切にしたいのです。例えば、日常生活の中で、妻の言葉や話に耳を 傾け、共感する態度、妻の好きなものに興味や関心を向け、妻が聞いてほしい時に全力で聴き、助けてほしい時に面倒くさがらず助ける、といったものです。愛は「関係性」の中にこそ表れるもの、そして、愛は「具体的な行動」が伴うものなのです。

子どもたちよ、父たちよ(6章 1~4節)

「あなたの父と母を敬え」は十戒の人と人とにおける戒めの中の最初の言葉です。この言葉は、親子関係に幸福をもたらすだけでなく、家庭の秩序と平和を保つためのものです。しかしながら、現実の問題として、虐待やネグレクトによって傷を負わされた方々には受け入れ難い言葉だと思います。牧師は「自分が存在することを喜び、感謝する」ことも、「父と母を敬うこと」だと教えられています。あなたがあなたとして存在していることを、私(牧師)も共に喜びたいのです。そして、父(母)たちには、精神的に社会的に成長過程にある子どもたちを、いたずらに苛立たせてはならない、と聖書は教えています。躾や助言に、神様の義さや愛が感じ取れるように、神様に整えていただこうではありませんか。
幸いな夫婦関係、親子関係を願うなら、「妻たちよ」、「夫たちよ」、「子どもたちよ」、「父たちよ」と、それぞれに語られた神様の言葉をしっかりと心に留め、御言葉の勧めを実践することが必要不可欠です。ここに全ての関係における平和の秘訣があるのです。神様の御言葉に従い、夫婦、親子、家庭に幸いな関係が築かれていきますように。

今日のお花は、ユリ、トルコキョウ、スターチス、ユキヤナギです。