投稿者「mayumi」のアーカイブ

2021年3月28日 受難週礼拝メッセージ

「ゲツセマネの祈り-イエスの苦しみのゆえに-」マルコの福音書 14章32~42節

 

本日は受難週礼拝です。今年の受難週はゲツセマネの祈りの場面から、イエスの苦しみを覚えながら過ごしていきたいのです。

Ⅰ.苦しみの伴う祈り(苦しみながら祈るイエス様)

福音書にはイエスの祈りの姿が多く記されていますが、ゲツセマネの祈りは悩みもだえながら(33節)祈るイエスの姿が記されています。弟子に「悲しみのあまり死ぬほどです」と告白するほどに苦しまれるイエス。父なる神に「この杯をわたしから取り去ってください」と跪いて何度も祈ります。イエスがこれほどまでに取り去ってほしい苦しみとは何なのでしょうか。

Ⅱ.十字架の苦しみ

イエスが必死に願うほどに避けたかった苦しみとは、十字架の苦しみです。本来ならば、罪のないイエスが十字架にかかる理由はありませんから、「この杯をわたしから取り去って下さい」と願うまでもなく、十字架にかかる必要がないのです。しかしイエスは「わたしの望むことではなく、あなたがお望みなることを行われますように」と神の御心に従う決心をし、十字架へと向かわれます。イエスの十字架は、私たちの罪の身代わりの十字架。神との完全な断絶。極限の苦痛と絶望の死をもたらす神の裁きの十字架。世の罪を取り除く神の小羊として死ぬための十字架なのです。

Ⅲ.イエスの苦しみのゆえに

ゲツセマネの出来事、それはイエスが十字架の苦しみ、十字架の死、神に捨てられるという絶望と向き合い、血が汗とともに吹き出す程のストレスにさらされながら祈られた場所。苦祷の末に、その苦き盃を受けることが神の御心であると受け入れ、従うと立ち上がって行かれた場所なのです。イエスがこれほどまで苦しみ、十字架の上で死なれたのは誰の為でしょうか?私たちの為です。イエスの苦しみのゆえに私たちの罪は赦され、神の子どもとされ、神と親しく交わり、神の御心に生きる喜びに与ることができたのです。さらに、イエスの苦しみ(痛み、悲しみ、孤独、絶望)のゆえに、たとえ私たちが、不安、苦しみ、悲しみ、痛み、孤独の中を通っても、決して絶望を味わうことがないのです。それは、神に見捨てられるはずのないお方が、私たちの代わりに見捨てられて下さったからなのです。

イエスの苦しみは他でもなく、自分の為だったのだと、信じ、受け止め、そして心から感謝して過ごしましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オオシマサクラ、カスミソウ、アルストロメリア、オンシジュームです。

 

2021年3月21日 主日礼拝メッセージ

「主よ見えるようにして下さい」Ⅱ列王記 6章8~23節 金田洋介牧師

 

北イスラエル侵攻計画が、預言者エリシャによってことごとく見抜かれていたことを知ったアラムの王は、エリシャを捕えるためにサマリアの町を包囲します。夜が明け、アラムの大軍に町が包囲されているのを見たエリシャの召使いは恐れ慄きます。エリシャは彼に「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(16節)」と言うと、「神よ、彼の目を開いてください」と祈ります。すると、彼の目は開かれ、神の軍勢が山にまで満ちているのを見、恐れから解放されたのです。その後、神の御力によって形勢が逆転し、争うことなく平和的な解決がもたらされたのです。

神を恐れなさい

アラムの王は、エリシャさえ捕えれば勝利であると思っていました。しかし、それは大きな誤りでした。エリシャを敵とすることは、神を敵に回すことと同じこと。エリシャの背後に全知全能の神がおられることを王は身をもって体験します。圧倒的な軍事力を誇っていたアラム軍でしたが、全能の神の前では無力でした。神が味方であることは何と心強いことでしょうか。ところが、私たちも神に敵対することがあります。「神の御言葉と御心に逆らうことによって」です。神は侮られるような方ではありません(ガラテヤ6:7)。神を恐れ、神の御前に遜る者でありたいです。

神を見失わないようにしなさい
私たちが住むこの世界は、神を見失わせるもので満ちています。神を疑わせ、信じさせない悪しき力が働いているのです。あなたは神をしっかり捉え、神を信頼しているでしょうか。聖書は、神以外のものに望みを置いてはならないと教えています。全知全能の神が我らの神であることを信じ、信頼しようではありませんか。

エリシャように祈りなさい

エリシャは神が共におられることを確信し、信頼していました。だからこそ彼は「助けて」ではなく、「神よ、あなたが確かにおられて、取り囲んでおられることを見させて下さい」と祈ったのです。たとえあなたが問題や悩みに取り囲まれても大丈夫。神は全責任を負って、あなたを最善に導いて下さるお方です。

神を信じ、確信して祈るのです!「神よ!見えるようにして下さい。あなたが大いなる御力をもって私の人生を取り囲んでおられることを見させて下さい!」と。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、木イチゴ、ヤマブキ、ユリ、アルストロメリアです。

 

2021年3月14日 主日礼拝メッセージ

「どんな時にも、どんな場所でも」Ⅱ列王記5章15~27節 金田洋介牧師

 

わが身をもってイスラエルの神の御力を体験したナアマンが、携えてきた豪華な品々をエリシャに渡そうと戻ってきたところから今日の話は始まります。

Ⅰ.感謝するナアマン~神が喜ばれる贈り物~

ナアマンはイスラエルの神を讃え、エリシャに感謝の品を贈りますが「すべては生きておられる神がしたことです」と頑なに拒否します(15-16)。するとナアマンは、感謝はエリシャに対してするのではなく、彼を通して働かれたイスラエルの神にするのだと気付きました。そして、神が喜ばれる一番の贈り物は、まことの神のみを礼拝することであると悟ったのです。ナアマンは異教の地アラムでイスラエルの神への礼拝と信仰を守り続ける覚悟を決め、アラムへと帰って行きました(17-19)。

Ⅱ.嘘だらけのゲハジ~神は全てを見ておられる~

次にエリシャに仕えていた若者ゲハジに注目します。聖書は彼の強欲な下心を記しています(20)。彼はエリシャの名前を使い、嘘の作り話でナアマンを騙して贈り物を受け取ると、自分の部屋に隠します(22-24)。そして何食わぬ顔でエリシャに会いました。「どこへ行っていたのだ」とのエリシャの問いかけにも彼は嘘で応答します。ところがエリシャは、ゲハジの全てを見抜いていました。彼がくすねた金銀でしようとしたことも(26)。ゲハジは神に裁かれ、エリシャの許から去って行きました。

Ⅲ.どんな時にも、どんな場所でも

とても対照的な姿を見ました。彼らから学ぶべきことを3つあげます。

①まことの神だけを礼拝し続ける。ナアマンのように、この国で神を信じ続けること、礼拝し続けることは、決して容易なことではありません。しかし、神は真実に誠実に神の前を歩む者を守ってくださるお方であることを覚え、励んで参りましょう。

②神に栄光を帰する。エリシャのように神に栄光をお返しするのです。全てのことに神が介入されることを認め、神に感謝し、その御業を証し続ける。これはとても大切なことです。神の栄光を自分の為に利用したゲハジの様になってはいけません。

③神が私たちを見ておられることを覚えて生活する。ゲハジは神に仕える立場にありながら神を欺き、裁かれました。神は見ておられ、聞いておられ、知っておられるのです。生活の身近なところにこそ、罪の危険が潜んでいます。罪から身を守る方法は、神が私たちを見ておられると、常に覚えて生活することです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、カーネーション、トルコキキョウ、ストックです。

2021年3月7日 主日礼拝メッセージ

「ナアマンの癒し」Ⅱ列王記5章1~14節 金田洋介牧師

有名な、ナアマン将軍が登場します。彼はアラムの軍隊長でした。王からの信頼も厚く、アラムの勇士と称された彼でしたが、大きな悩みがありました。ツァラアトに冒されていたのです。深刻な、重い皮膚病でした。結論を言うと、彼は癒されます。ナアマンの癒しを通して、神の御力を体験するプロセスを見ていきましょう。

あらゆる状況に神の御力は現れると「信じる」

神の御力は、あらゆるところに現れます。何気ない日常のあらゆる場面、こんな事は無理ではないかと諦めたくなるような場面にさえ現れるのです。神が造られたこの世界に、神の御力が及ばないところは無いのです。異邦人のナアマンにさえ、その御力は及びました。あなたにも、あなたが祈っている人にも、神の御力は現れるのです。

神のプランがあることを覚えて「委ねる」

神の方法とプランがあることを心に留めましょう。ナアマンは期待しながらエリシャの処へと向かいますが、エリシャの予想外の対応と癒し(治療)の方法に、彼は怒りと不満を露わにします(11~12節)。勝手に思い描き、思い通りにならなければ腹を立て、失望する彼の姿は、私達も同じではないでしょうか。そして、ナアマンの一番の問題は、彼の考えとプランが神の御力を体験することを妨げる危険があったということです。このまま帰っていたら、彼のツァラアトは癒されなかったのです。神は、御力を現すために、プランを用意されています。その神のプランに、自分の思いが一致しないことがあります。しかし、神の思いとプランに委ねることが大切です。

神の御言葉に「従う」

怒り心頭のナアマンに部下は進言します(13節)。彼は部下の言葉を聞いて、従うことにしました。神が部下を通して従えるように導かれたのです。この後、ナアマンのツァラアトは癒されました(14節)。神は、私達が神の御言葉を信じて従えるように導いてくださるお方です。御言葉を信じて従う時、神の御力は体験できるのです。

この後、彼は神の御力を体験したことによって、まことの神を礼拝する者になります。神は彼をただ癒されて終わりはなされなかったのです。神を信じなかった者が神を崇め、礼拝する者となる。それこそが、大いなる神の御力なのです。皆さん一人ひとりが神を信じ、神のプランに委ね、御言葉に従うことによって、神の御力を体験させていただくことができますように。神を崇め、礼拝する者となりますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、グラジオラス、オンシジューム、ユリ、スターチスです。

2021年2月28日 主日礼拝メッセージ

「苦難の先にある計画」 金田ゆり牧師

出エジプト記2章1~10節、ヘブル人への手紙11章23節

 

モーセの生まれた時代、ファラオは、ヘブル人の男の子はナイル川に投げ込むようにと恐ろしい命令を下していました。危機的状況の中、生まれたモーセを救ったのは両親の信仰でした。彼らは、いかにして危機を乗り越えたのか。神はどのように彼らに応えて下さったのでしょうか。

①神のみを畏れ、従う信仰

この時代に結婚をする事自体、信仰が必要でした。妊娠出産はさらなるチャレンジでした。そして、彼らは生まれた男の子を隠したのです。ファラオの命に背く大きな挑戦でした。ヘブル11章23節を見ましょう。彼らはファラオの命を恐れませんでした。神のみを畏れ、御言葉に聴き従う信仰を持っていたのです。ですから、するべきことはわかっていました。ファラオの悪い命令には従いませんでした。

②神に全く委ねる信仰

しかし、生まれて三か月、遂に赤ちゃんを隠し切れなくなりました。追い込まれました。彼らはカゴを加工し水が入らないようにして、その中に我が子を入れ、ナイルの葦の茂みに置いたのでした。神の御手に全てを委ねたのです。彼らは、我が子のかわいいのを見、確かに神はこの子と共にいると直感していました。神は共におられる、そう直感できる、小さくも確かなしるしを、神は彼らに与えておられたのです。あなたにも、このような小さな確かなしるしを見せて下さっているはずです。見逃してはいけない。偶然と思ってもいけない。神は、確かにあなたと共におられるのです。

③苦難の先にある、神の計画

両親が神のみを畏れ、聴き従い、委ねた結果、驚くべき展開が待っていました。我が子はファラオの娘に拾われ、彼女の子となり、モーセと名付けられたのです。このモーセが、のちにイスラエルを出エジプトに導く大指導者になるのです。苦難は苦難だけで終わりません。神を畏れ、従い、委ねるとき、苦難の先に神の偉大な計画が待っているのです。あなたが、神の計画の一部を担っていることを信じますか。私たちが、神の偉大な計画を見させていただき、その中を共に歩むことができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、ユリ、カスミソウ、デルフィニュウムです。

2021年2月21日 主日礼拝メッセージ

「ほつれを繕うように」Ⅱ列王記 4章38~44節,6章1~7節  金田洋介牧師

本日の箇所には3つの出来事が書かれています。この出来事を通して、主が私たちの日常生活の中におられることを覚えたいのです。

1つ目の出来事:エリシャは学びにやって来た預言者の仲間たちのために、食事を用意するよう僕に命じます。僕が野に出て行くと、野生のつる草に瓜がなっているのを見つけ、収穫し、調理して鍋に入れました。ところが、その瓜は毒性の瓜だったのです。これでは食べたくても食べられません。そこでエリシャは麦粉を用意させて、それを鍋に入れました。すると不思議なことに毒は消え、食べられるようになったのです。

2つ目の出来事:ある人が、初穂の大麦のパンと、初穂の穀物、つまり一番良いパンと穀物をエリシャのところに持って来ました。するとエリシャは、ここでも預言者たちに振る舞うよう僕に命じます。しかし、「100人もの人が食べるには、全然足りません」と答える僕。すると、エリシャは主の言葉を告げます。「彼らは食べて残すだろう」と。エリシャの言う通りにパンと穀物を配ると、100人もの預言者たちは、お腹いっぱい食べることができました。

3つ目の出来事:ある時、エリシャたちが住む家が狭くなったので、移動して新しく家を建てることになりました。ところが、木を切っていた一人が借り物の斧の頭を、川に落としてしまったのです。「おお主よ、あれは借り物です!」と叫びます。エリシャは木の枝を一本投げ入れました。すると浮かぶはずのない斧の頭が浮かんで来たのです。無事に斧の頭を拾い上げ、事なきを得ました。

不思議な出来事ばかりですが、これらは彼らの日常の中に起こった奇跡。つまり、あなたの日常生活(緊急事態も)に、神が介入して下さることを示しています。神ご自身が、私たちの無知や足らなさを補い、フォローして下さるのです。それはまるで、ほつれを繕うかのように。そして、もう一つ注目すべきことは、全ては無駄に終わらなかったということ。一生懸命労して作った食事。精一杯のささげ物。皆の為にした労働。全ての思いと行動を、神は拾い上げて下さるのです。このお方に日々守られている事を信じ、感謝し、信頼して歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ブプレリューム、ユリ、カーネーション、アルストロメリアです。

2020年2月14日 主日礼拝メッセージ

「わが身を重ねるほどに」Ⅱ列王記4章18~37節  金田洋介牧師

預言者エリシャを献身的に支え、神の働きに加わった報いとして、子どもが与えられたシュネムの女性。ところが、思いもよらない事態が起こります。彼女の子どもが頭の痛みを訴え、死んでしまったのです。

Ⅰ.エリシャに助けを求めるシュネムの女性

愛する我が子の突然の死に、彼女は動揺したに違いありませんが、彼女はすぐに行動に移します。エリシャのために作った部屋に息子を運んで寝かせると、息子の状況を夫に告げずに、急いでエリシャの許へ向かったのです。彼女はエリシャの足元にすがりつき、愛する我が子の命が奪われた悲しみを訴えます。しかし彼女は、息子の命を諦めてはいません。神の人エリシャと彼を遣わされた神に、一縷の望みを抱いてやってきたのです。これらのことから一つ目に覚えておきたいことは、私たちは彼女と同じように助けを必要する側にいるということです。私たちの人生、何が起こるかわかりません。その時、誰に助けを求めますか。彼女は望みを捨てず、生きておられる神に望みを置いたのです。私たちも全能の神、主を呼ぶのです。(エレミヤ33:3)

Ⅱ.引き返すゲハジと繰り返すエリシャ

事態を悟ったエリシャは先にゲハジを遣わし、悲しむ彼女に寄り添いつつ子どもの許へと向かいます。すると、ゲハジがあっさり引き返して来ました。エリシャの命じた通りにしても、子どもに何の変化も起こらなかったというのです。エリシャが家に着くと子どもは死んでしまったままでした。エリシャは神に祈ると、自分の口をその子の口の上に、同様に目を、両手を置き、わが身を子どもの上に重ねたのです。だんだん子どもの体が温かくなってきました。さらにエリシャは繰り返します。すると子どもは生き返ったのです。シュネムの女性は、エリシャと神に心から感謝し、子どもを抱き上げて出て行きました。

二つ目に言いたいことは、私たちはエリシャのように誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側にもいるということです。シュネムの女性の悲しみ、心の痛みに寄り添い、わが身を重ねるように執り成し祈り、そして文字通り、子どもにわが身を重ね、諦めずに神の憐みを求めたのでした。神の子とされたクリスチャンは、エリシャのように、誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側に立つのです。わが身を重ねるほどに執り成し祈り続けようではありませんか。他でもなくあなた自身が、十字架の上で執り成し祈られた救い主イエスによって救われたのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、アルストロメリア、カラーです。

 

2021年2月7日 主日礼拝メッセージ

「報いて下さる神を知ろう」Ⅱ列王記4章8~17節  金田洋介牧師

本日登場するシュネムの女性は、先週登場した女性とは違い、とても裕福な人でした。この女性も、偉大な主の御力を体験することになります。
Ⅰ.親切なシュネムの女性

エリシャがシュネムの町を通ると、その町に住む一人の裕福な女性がエリシャをもてなしました。これを機にエリシャは、シュネムを通るたびに彼女のもてなしを受けるようになります。その後、交流を重ねるうちに、彼女はエリシャが聖なる神の預言者だと気付きます。すると今度は、夫の理解と協力を得てエリシャの為の部屋を家の屋上に整えます。この夫婦は、経済的な豊かさを用いて、エリシャと彼を遣わされた主なる神のお役に立ったのです。

Ⅱ.感謝を表すエリシャ

エリシャは献身的に遣えるこの女性に、感謝の意を表したいと申し出ます。しかし彼女は、「今の暮らしで満足です」と謙遜な態度で答えます。その後、エリシャは僕のゲハジから、彼女には子どもがいないことを知らされます。するとエリシャは、「来年の今頃、男の子を抱くようになる」と彼女に告げました。彼女にとって最大の望みでありながらも、諦めていたことだったかもしれません。しかし、エリシャの言葉が実現し、待望の子どもが与えられたのです。

Ⅲ.報いて下さる神を知ろう

預言者エリシャを畏れ敬い、受け入れ、最善のサポートをしたこの女性は、預言者の受ける神の報いを受けたのです(マタイ10:41)。その報いとは、「神が本当に生きておられ、全能であることをリアルに体験した」ということです。

イエスの名によってなされる全ての働きに加わる者(神の働き人を受け入れ、理解して助ける人)は、決して報いに漏れることはないのです。但し、どのような報いが用意されているかは分かりません。しかし、神はあなたの働きに御心をとめ、豊かに報いて下さるのです。そればかりか、あなたの信仰を理解し、協力してくれる人、教会に送り出してくれる人にさえも、神の報いは及ぶのです。

主の働きに積極的に関わる人への報いは大きいことを覚えましょう。そして、共に主のわざに積極的に加わり、励もうではありませんか。私たちの労苦は、主の前に決して無駄に終わることはないのですから。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、八重ユリ、メラレウカです。

 

2021年1月31日 主日礼拝メッセージ

「私のうちにあるもの」Ⅱ列王記4:章1~7節  金田洋介牧師

本日の聖書箇所には、神に忠実に従ってきたある預言者の妻と、その子どもたちが体験した奇跡が記されています。神はツァレファテのやもめの母子の時のように、エリシャを通してこの母子を救われます。

Ⅰ.危機の中からの叫び

一人の預言者が死に、その妻がエリシャの許にやって来ました。彼女は、神とエリシャに忠実に仕えてきた夫が死に、残った借金のかたとして大切な二人の子どもが奴隷とされようとしていることを伝えました。彼女の叫びには、経済的な危機、家族崩壊の危機を訴えていることの他に、「神に忠実に仕えてきたのに、なぜこのように苦しまなければならなのか」と、神への信頼や信仰も揺らいでいるように伺えます。彼女には霊的な危機も迫っていたのです。

Ⅱ.わたしの家(うち)にあるもの

エリシャは彼女に「家の中に何があるか」と尋ねると、彼女は全てを処分してしまったのか、ただ、油の壺が一つだけあると答えます。家にあるものなんだと聞かれ、改めて自分には何も残っていないということを痛感したのではないでしょうか。「油の壺が一つ。これが何になるのだろう」何の希望も見出すことはできない、絶望的な状況です。しかし、神の御業というのは、私たちが「何もない、絶望的だ」と考えるその状況から始まるのです。

Ⅲ.わたしの内(うち)あるもの

彼女はエリシャに言われた通り、近所から借りてきた沢山の空の器に自分の油壺から油を注ぐと、借りてきた全ての器に油が満ちるという奇跡を体験しました。その油の量は、借金を完済して、なお家族3人が暮らしていけるほどのものでした。彼女のうちにある神を信じ信頼する信仰は、油壺に残っていた少量の油のようなものでした。しかし、信じて従ったその信仰に、神は豊かに応えて下さったのです。

あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。詩篇81:10

あなたのうちには何がありますか。この神の御言葉を信じる信仰ではないでしょうか。今どんな危機的状況に在ったとしても、恐れないで信じようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ユリ、グロリオサ、アルストロメリア、菜の花です。

 

2021年1月24日 主日礼拝メッセージ

「神の御前に誠実に生きよう」Ⅱ列王記2章19~25節、 Ⅱコリント2章15~17節 

金田洋介牧師

本日はエリコとベテルの町で起こった出来事です。

Ⅰ.癒されたエリコの町

エリコの町は、ヨシュアの時代に神によって裁かれ、滅んだ町です。その際ヨシュアは、「町の再建を企てる者は主に前に呪われ、礎を据える者は長子を、門を建てる者は末の子を失う」と宣言します(ヨシ6:26-27)。その後、一時はエリコの町の名前がでなくなりますが、呪いの通りに長子と末子を失いながらも町を再建する者が現れます(Ⅰ列王16:34)。もともと、エリコはなつめやしの町(申34:3)で、住むには良い地でした。ところが、水が悪く多くの命が失われていました。エリコの人々は神の預言者エリシャに助けを求め、神はエリシャを通して、水の癒しを宣言したのです(21-22)。

Ⅱ.のろわれたベテルの町

 一方、ベテルの町にエリシャが訪れると、子どもたちがエリシャをからかいます(23)。エリシャは子どもたちをにらみつけ、主の名によって彼らを呪いました。すると二頭の雌熊が現れ、子ども42人をかき裂きました(24)。何とも痛ましい出来事です。ベテルは、遡ることヤコブの時代。彼の神体験がもとに「ベテル(神の家)」と呼ばれるようなりました。ところが、後に偶像礼拝に支配されてしまいます。それでも町には、神を畏れ敬う預言者たちが数名いましたが、町の人々はエリシャを快く思っていなかったようです。もしも、神を畏れる大人たちがいたならば、神の預言者をからかうことなど子どもにさせなかったはずです。かつて神に滅ぼされたエリコの町は癒され、ヤコブが神の祝福の約束に与ったベテルではのろいがもたられ、多くの命が失われてしまいました。

エリコとベテルでの出来事は、その歴史から全く真逆の結果を見ました。神はのろいを癒し、祝福を回復して下さる方であること、また、これまで祝福の道を歩んでいても、神の御前に不誠実であるならば、多くのものを失うことを真剣に受け止め、主の御前に誠実に生きたいものです。果たして、私たちは「芳しいキリストの香り、人々にいのちをもたらせる香り」とされているでしょうか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ネコヤナギ、ユリ、カーネーション、カラーです。