投稿者「mayumi」のアーカイブ

2020年7月26日 主日礼拝メッセージ

「主が結ばれる契約」創世記15章1~21節  金田ゆり牧師

 アブラムは、元々偶像の地で生まれ育ちましたが、特別な神様の選びによって、神様が示された地、カナンに入っていきます。神様はアブラムに、祝福されなさい、あなたの子孫にこのカナンの地を与える、と壮大な約束をされましたが、彼には子どもがいませんでした。

  • アブラムの不安と失望 1~3節

前章の王たちの戦いの後、神様はアブラムに温かい励ましと報いを約束されます。しかし、跡取りのいないアブラムの顔は曇っています。しもべを養子にして跡取りにすることはアブラムにとって非常に残念なことでした。子どもがいないのに、一体どんな報いがあるというのか。神様の御言葉に失望しかけています。私たちは、目の前の状況を見て、み言葉に失望しかけてしまうことがあるのです。

  • 義と認められたアブラム 4~6節

神様はアブラムの気持ちをよく理解され、アブラムから生まれ出る者が跡継ぎにならねばならない、と明言されました。そして間髪を入れずに彼を外に連れ出し、星空を見せ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。アブラムは神様の思いに応え、その約束を信じました。神様はその信仰を良しとされ、神様と正しい関係にあると認められました。神様の御言葉をそのまま信じる者は、神様の前に義とされ、神様と正しい関係にあると認められるのです。

  • 主の壮大な計画、結ばれた契約 7~21節

神様は、義とされたアブラムと初めて契約を結ばれます。動物を切り裂き、契約者がその間を通る方法が当時の儀式でした。契約を破ればこの動物のようにされる、というものです。しかしこの時、神様だけが燃える炎として間を通りすぎ、一方的に契約を結ばれたのです。神様の強いご意志により、この契約は実行されるということなのです。神様は、あなたと契約を結ばれます。想像できない壮大な計画の契約を。あなたの信仰がその契約についていけないことがあったとしても、あなたの弱さを知る神様は、全責任を負って一方的にその契約を実行されるのです。ただ神様を信じ続け、誠実に契約を行われる主の素晴らしさを体験させていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ヤマテラシ、ゆり、ひまわり、グロリオサです。

 

 

 

 

2020年7月19日 主日礼拝メッセージ

「壊れた祭壇を築き直すエリヤ」列王記第一 18章22~30節  金田洋介牧師

Ⅰ.バアルの預言者との対決

カルメル山にエリヤ、バアルとアシェラの預言者合わせて850人。どっちつかずのイスラエルの民も集められました。祭壇に雄牛を置き、互いの神の名を呼び、火を下す神を神とすることになりました。まず、バアルの預言者たちが叫び求めます。長時間叫び、踊り、慣わしに従って身を切りつけ、血を流しても、何も起こりません。

聖書は偶像礼拝の愚かさと空しさ、そして、いかに人の心が偶像に向きやすいかを教えています。不安や試練に遭い、神が共におられるという確信が揺らぐような時、いかに容易に神を見失い、偶像という拠り所を造りだそうとする性質を持っているか、イスラエルの民の歴史からも知ることができます。案外、私たちの生活の中に、偶像となりうるものが潜んでいるかもしれません。イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われました。どんな場面、試練、困難に直面しても、イエスにつながり続けることの大切さを改めて思わされます。

Ⅱ.祭壇を建て直すエリヤ

続いてエリヤが立ち上がり、彼は壊れていた祭壇を築き直しました。壊れていた祭壇は、主なる神が礼拝されていなかったこと、神との関係が完全に崩壊していたことを意味しています。直されていく祭壇を、民はどのような思いで見ていたでしょうか。きっと心が痛んだに違いありません。エリヤの叫びに、民が一言も答えなかったのは(21節)、僅かながらも、彼らの中に主なる神に対する信仰が残っていたからです。神は彼らの僅かな信仰にさえ、目を留めて下さるお方です。エリヤを通して、民との関係の回復を願っておられるのです。

今日、私たちはいつでもどこでも、主なる神の御前に出ることができます。主を讃え、主に祈り、感謝し、罪を告白し、イエスによる贖いを確かにします。目には見えなくてもそこには、あなたと主なる神との交わりという祭壇があるのです。何と幸いでしょうか。もし、神との交わりよりも他のことが優先され、神との交わりが失われているなら、「今更…」などと諦めず、すぐにでも築き直すのです。神はいつでも「わたしの側に近寄りなさい」と招いておられるのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、白菊、スプレー菊、トルコキキョウ、グラジオラスです。

 

2020年7月12日 主日礼拝メッセージ

「信仰を揺さぶられる王と民」列王記第一 18章16~21節 金田洋介牧師

 Ⅰ.アハブ王の訴え~民を煩わせたのはエリヤ~

アハブ王は宮廷長官オバデヤから、エリヤが自分に会いたがっていることを聞くと、自ら進んでエリヤのもとへとやってきました。どれ程この時を待ち侘びたことでしょうか。アハブはエリヤを見るや否や「お前か、イスラエルに災いをもたらす(煩わす)者は」と怒りを爆発させます。一方、エリヤも負けていません。

Ⅱ.エリヤの訴え~民を煩わせたのはアハブ王~

神はイスラエルと契約を結ばれ、神の宝の民として下さいました。民は神あっての神の民であり、この神のみを礼拝する民です。しかし、王自ら偶像礼拝に没頭し、民の信仰を惑わし、偶像崇拝に引きずり込んだのです。「アハブ王、あなた方こそが民と国に災いをもたらした(煩わせた)のだ」とエリヤは訴えます。

Ⅲ.王と民を煩わせたのは、エリヤを遣わした主なる神

災いをもたらすとは、心を煩わせるという意味でも用いられています。雨が降らなくなったことによって干ばつと飢饉という災いが国を襲い、アハブ王と民の心を煩わせました。しかし、単純に彼らの心を煩わせるために災いが起こったのではありません。王やイスラエルの民の信仰を揺さぶり、彼らが本当に向き合うべき問題、すなわち神との関係を顧み、偶像礼拝の罪を悔い改めて、神との関係を回復させるために彼らの心を煩わせたのです。アハブ王と民を煩わせたのはエリヤではなく、エリヤを遣わされた神ご自身だったのです。

エリヤはどっちつかずの民に向かって「主なる神が神であるなら主に従い、バアルが神であるならそれに従え」と決断を迫りました。しかし、エリヤの問いかけに民は一言も答えられませんでした。『私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。』(申28:14)私たちが信じている神は天地を造られた神のみであることを、神と人との前で常に告白できる者、その本気を常に示す者であり続けましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、グラジオラス、ゆり、リンドウです。

 

2020年7月5日 主日礼拝メッセージ

「この世に生きる信仰者~エリヤとオバデヤ」列王記第一 18章1節~15節

 この世に生きる信仰者の姿を、預言者エリヤと宮廷長官オバデヤの二人から学んで参りましょう。

Ⅰ.この世に生きる信仰者は、神の御言葉に押し出されて生きる者

雨が降らなくなって三年目、いよいよ神の時が来ました。エリヤはアハブ王に会いに出かけます。神は全てを備えた上でエリヤを押し出されたのです。神はエリヤと同じ様に私たちにも「行け」「信じよ」「喜べ」「悔い改めよ」「伝えよ」と押し出されることがあります。それは、神が私たちに見せたいことや気付かせたいこと、伝えたい真理があるからです。神は全てを備えた上で、御言葉によってあなたを押し出されお方です。神を信じ信頼して、神の御言葉に従いましょう。

Ⅱ.この世に生きる信仰者は、神を畏れつつ世に仕える者

道すがら、エリヤは宮廷長官オバデヤに会います。彼は神を畏れ敬う人で、主の預言者100人をイゼベルの手から救い出した人物です。彼のような人が国の要職に就いていたのです。この世に生きる信仰者である私たち。時に、理不尽な扱いを受けたり、神の国の価値観から遠く離れた愛のない世界に息苦しさを感じ、疲れ果てることがあります。しかし、オバデヤを遣わされた神は、私たちをも遣わされたことを覚え、神を畏れながら忠実に仕える者でありたいのです。

Ⅲ.この世に生きる信仰者は、神が言われたことは必ず成ると信じる者
 エリヤは王に謁見する仲介をオバデヤに依頼しますが、アハブ王の恐ろしさをよく知っているオバデヤは躊躇します。エリヤはアハブ王に会うことは神ご自身が言われたことであるから、「私は必ず、今日、アハブの前に出ます」と宣言しました。オバデヤは、エリヤに告げられた神の御言葉を信じ、従って行ったのです。

あなたをこの世に生きる信仰者として選び、この世に遣わされた神は、常にあなたを守り、あなたのために戦って下さいます(申命記20:1~4)。この世に生きる信仰者の一人として、立って行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、グラジオラス、オリエンタルユリ、グロリオーサ、トルコキキョウです。

 

2020年6月28日 主日礼拝メッセージ

「生きておられる神を知る時」第一列王記 17章17~24節  金田洋介牧師

 雨が降らない日が続き、飢饉や干ばつが広がる中、やもめの家の粉と油は今日も無くなりません。生きておられる神の力が働いていたからです。「このまま無事に暮らして行ける」と思っていたであろうやもめに、思わぬ試練が襲い掛かります。

Ⅰ.信じた神を見失いかけるやもめ

ある時やもめの息子が病気にかかり、死んでしまいます。やもめは、「神は恵みの神なのか、それとも、私の咎を容赦なく裁く恐ろしい神なのか」と、信じた神がどういうお方なのか分からなくなってしまいました。なくならない粉と油を見るたび、彼女は神の憐れみと力を実感したに違いありません。しかし、愛する息子が死んでしまった今、神の憐みも力も、彼女にとっては何の意味もないことのように思えてしまったのでしょう。彼女が抱いた心情は、現代を生きる私たちにも起こりうることだと思います。困難や問題の大きさに、あまりの苦しみのゆえに、神を疑い、信仰が揺れ動き、神を見失うそうになることがあると思うのです。

Ⅱ.信じた神を決して見失わないエリヤ

 一方、エリヤも少なからず動揺したと思いますが、彼は神を見失いません。エリヤは神に憐みを乞うことさえできない彼女に代わり、とりなし祈ります。「私の神、主よ」と、彼がこれまでの人生の中で体験した全能の神に信頼し、「死んでしまった子どもを生き返らせて下さい」と諦めずにとりなし祈りました。すると、神はエリヤの祈りを聞かれ、やもめの子どもは生き返ったのです。神を見失いかけていたやもめは、神が生きておられることを明確に知ったのです。

やもめの体験から私たちが学ぶべきこととは、神が生きておられることを体験した者は、いかなる困難に遭おうとも、「私の神、主よ」と神を信じ続ける信仰を持つことができる。そして、神を見失いかけた時、また信仰の危機的状況の時こそ、「生きておられる神を知る」時であり、あなたの信仰が成長する瞬間であるということです。神があなたの信仰がさらなる深みへと導かれますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、菊、オンシジュームです。

2020年6月21日 主日礼拝メッセージ

「生きておられる神への信頼~一握りの粉とわずかな油~」列王記第一 17章8~16節 金田洋介牧師

 神の言葉に従い、ケリテ川のほとりに身を寄せていたエリヤ。川の水を飲み、朝夕にカラスが運んで来るパンと肉を食べて生きながらえていましたが、とうとう川も干上がってしまいました。すると、神は再びエリヤに語られ、今度はツァレファテにいるやもめによってエリヤを養うというのです。目の前のことばかりに心奪われやすく、明日を思い煩いやすい私たちに、神が常に先手を打ち、最善の道を備えて下さるお方であることを教えておられます。

エリヤが町の門に着くと、「ちょうどそこに」一人のやもめが、薪を拾っていました(10節)。彼女が神が備えられた女性であることを確信したエリヤは、彼女とその息子が絶望的な状況であることを聞きつつも(12節)、自分のためにパンを焼いて持ってくるよう求めました。そうするなら、「神が再び雨を降らせるその日まで、神が彼女と息子を養ってくださる」というのです。彼女にとって大きなチャレンジでしたが、エリヤに言われた通りに行うと、告げられた神の言葉通り、かめの粉は尽きず、壺の油は絶えない(16節)という神の奇跡を体験したのです。

時に、私たちは生きておられる神への信頼を試されることがあります。「あなたはわたしを信頼するか」と挑戦的に迫られるのです。やもめの状況は人間的には絶望的でした。しかし神は、やもめが持つ一握りの粉とわずかな油に目を留められ、それらを祝福の源とされました。彼女がエリヤを通して与えられた神の約束を信じて従ったことによる信仰と、神への信頼の結果でした。

私たちの神への信仰、信頼は、吹けばすぐに飛んでしまうような小さいものかもしれません。しかし神は、あなたが「わずかしかない」と思っている、その信仰に目を留め、「わたしのところに持って来なさい」つまり、「わたしを信頼しなさい」と迫っておられるのです。生きておられる神に信頼する時はいつでしょうか。今がその時です!『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、夏はぜ、菊、トルコキキョウ、あじさいです。

ある方からいただいたのですが、教会でメダカを飼うことになりました。
たくさんいただいたので、教会員のほしい人にも分けてもらいました。
玄関横の軒下に置いています。下の段はカルキ抜き中の水です。お世話は金田先生ご一家がしてくださっています。

この品種は楊貴妃(ようきひ)というそうで、オレンジのきれいな色です。

 

このシルバーのメダカ、珍しいでしょう?幹之(みゆき)という品種だそうです。とってもきれいです。

教会に来てから、メダカの赤ちゃんが産まれました。(ただしくは、卵から孵化ですが…)
ちっちゃい赤ちゃんメダカ、みえますか?別水槽に入れて育てています。

2020年6月14日 主日礼拝メッセージ

「主は生きておられる~信仰告白の先にあるもの~」列王記第一  17章1~7節 金田洋介牧師

エリヤは北イスラエルの王アハブの時代の預言者です。アハブ王は歴代のどの王よりも悪を行い、どの王よりも神を怒らせた悪王でした。

Ⅰ.アハブが仕える神、エリヤが仕える神

エリヤはアハブ王と対峙し、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と宣言しました。この告白こそが、エリヤが仕える神とアバブが仕える偶像の神々との決定的な違いです。天地を創造し、私たちに命を与えられた主なる神だけが生きておられるのです。人間によって作られた物に命はありません。

私たちがエリヤのように告白する時、畏れを持って告白する者でありたい。なぜなら、神は全知全能の主であられ、生も死も、救いも滅びも、そのほか一切の事を御手に握っておられるからです。

Ⅱ.信仰告白の先にあるもの

神はエリヤにケリテ川のほとりに身を隠すよう命じ、彼を養う為にカラスを遣わすことを約束されました。エリヤが神の言葉に従い行くと、カラスが朝と夕にパンと肉を運んで来るのです。時に主は、ユニークな方法でご自身の栄光を現されます。告白したエリヤ自身が「生きておられる神」を体験したのです。エリヤを養われた神は、私たちの神です。彼のように「私の仕えている神、主は生きておられる」と信じ告白した先に、確かに生きておられる神の御力、そして御言葉の真実を体験するのです。この体験は神を信じると告白した先にあるのです。

信仰告白の先にあるもの、それは、信じた者だけが与れる、リアルな神体験です。そして、その体験の積み重ねが、あなたの神への信仰をさらなる深みへと導いて行くのです。あなたが「私の神、主は生きておられる」と告白する者であるならば、エリヤのように神の御言葉に黙って従うのです。その先に、素晴らしい神体験が待っています。今週も生ける神を体験する一週間でありますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ナナカマド、オリエンタルユリ、オンシジュームです。

2020年6月7日 主日礼拝メッセージ

「心を合わせた人々~それぞれの選択~」使徒の働き 4章31節~5章11節  金田洋介牧師

 先週はペンテコステ礼拝でした。今週も、聖霊が降られた初代教会を見ましょう。本日の箇所は、神の御前にどうあるべきか…身につまされる箇所です。

心を合わせた人々~聖霊の導きに従うことを選択したクリスチャン

イエスを救い主と信じたクリスチャン達は、心と思いを一つにして、持ち物を共有していました。自らの資産を売ってささげ、共に分け合い、共有しました。これは自発的に、彼らは自ら進んでそうしたのです。貧困に苦しむ人々に寄り添い、イエスの愛を表したのです。また、使徒たちはどんなに脅されても堂々と福音を宣べ伝えました。彼らは聖霊の導きに従って、イエスの御言葉を忠実に行ったのです。その結果、彼らの中に乏しい者はいませんでした。信仰も、実際の必要も、心の内も満たされていったのです。神が彼らを祝福されたのでした。

心を合わせた人々~聖霊を欺くことを選択したアナニアとサッピラ

ところが、一つの事件が起こります。アナニアとサッピラ夫婦が自分の土地を売った代金を献金しましたが、代金の一部を自分たちの手元に取って置きながら、全てを献げたと偽ったのです。しかも、お互い承知の上でそうしたと聖書は記しています。これは神と聖霊を欺く愚かな行為でした。みなが心を一つにし、聖霊の導きに従うことに心を合わせていた時に、二人は聖霊を欺くことに心を合わせていたのです。神を畏れず、聖霊を軽んじたアナニアとサッピラは、あっという間に命を失ってしまいました。

とても対照的な姿ではないでしょうか。聖霊の導きに従うことに心を合わせるか、それとも、自分の欲望と悪魔の囁きに心を合わせるか。何に心を合わせるか、その選択を誤ってはいけません。悪魔は食い尽くすべき者を求めて、獅子の如くに狙っていると聖書は語っています。油断しないで、身を慎み、目を覚まして、聖霊の導きと助けを常に求めて参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、カスミ草、バラ、ゆり、アリウムです。

 

2020年5月31日 主日礼拝メッセージ

「約束のペンテコステ~渇いていた者たちの叫び」使徒の働き 2章1~4節,ヨハネの福音書7章37~39節 金田洋介牧師

Ⅰ.約束のペンテコステ

イエスは弟子たちに「父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と告げ、ご昇天されました。弟子たちは父なる神の約束である聖霊を求め、心を合わせて祈っていました。時は五旬節、突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ御霊が語らせるままに色々の他国の言葉で語りだしたのです。父なる神の約束が成就した瞬間です。

Ⅱ.聖霊様は助け主、また真理の御霊

イエスは弟子たちに、聖霊は助け主(ヨハネ14:16)であり、真理の霊(同15:26)であると教えました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。そして聖霊の力が働く時、私たちは神の御言葉に目が開かれ、神の御心を知ることができるのです。このような素晴らしい助けと解き明かしを聖霊は与えて下さるのです。これはイエスを信じ受けいれる全ての人に与えられます。

Ⅲ.渇いていた者たちの叫び

イエスは「聖霊を受けよ」と言われていました。弟子たちは、約束の聖霊が降られるまで、ひたすら祈り求め続けました。この祈りの原動力は「渇き」。それも霊的な渇きです。霊的な渇きとは「義への渇き」のことです。「揺るがない救いの喜び、決してブレない信仰や確信が欲しい。罪に勝利した毎日を過ごしたい。」そのような渇きを覚えたことはありませんか?イエスは、「渇いている者は、わたしの元に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。言い表せぬ深い呻き、渇きを満たせるのは聖霊だけです。「義に飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるからです」(マタイ5;6)とイエスは約束されています。自分の弱さを認め、「聖霊を私の内に満たしてください」と叫び祈りましょう。聖霊こそが、あなたの人生の全てを最善に導かれるお方です。渇き、叫び求める人に聖霊は臨むのです。

熊本真愛教会では、5月31日のペンテコステ礼拝より、教会での礼拝を再開しました。
今週も講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、カスミ草、ゆり、ひまわりです。

新型コロナウィルス感染拡大防止のために、講壇にアクリル板の仕切りを設けました。これは、金田牧師の手作りです。
また、換気を心がけ、教会員も手指消毒やソーシャルディスタンスを意識しながら、教会に集まっています。

教会での礼拝再開のお知らせ

熊本真愛教会では、熊本市の外出自粛要請解除を受けまして、5月31日から教会での礼拝を再開いたしました。引き続きインターネットでの配信も継続しつつ、感染予防を徹底して礼拝を行なってまいります。

なお、日曜日の愛さん(昼食)と午後の行事、また平日の行事については現在も休止中です。新型コロナウィルスの一日も早い終息を、心からお祈りいたします。