説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2022年2月20日 主日礼拝メッセージ

「キリストの思いを抱いて生きる」ピリピ人への2章1~11節 金田洋介牧師

 

前章の後半から「キリストの福音にふさわしい生活」について語って参りましたが、2章に入ってからもそのテーマは続いています。パウロはピリピの信徒たちに、互いに励まし合い、慰め合い、御霊による交わり(神が中心にいる交わり)によって、思いも、愛も、心も一つとなって歩みなさいと勧めます。そして、心がけておくべてきこととして、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と教えています。これも「キリストの福音にふさわしい生活」と言えるでしょう。私たちも教会の兄弟姉妹の関係においてはもちろん、教会から一歩出ると神から遣わされ、置かれている場所(家庭、学校、職場)があります。そこでの関係においても、自分から進んでそのように努めていくということなのです。そして、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(5節)とあるように、これらのことは、キリスト・イエスの思いを、わが思いとして持つことによって実現するのです。模範とすべき方はイエス様だとパウロは教えます。イエス・キリストの心構えを自分の心構えとする。自己中心な心と虚栄心を捨てて、他者を顧み、大切にするという、キリストの心構えを抱くようになりなさいということです。6~8節において、イエスこそこれらの思いを常に抱き、体現されたお方であることをパウロは語ります。イエスは神であるのにもかかわらず、常に謙遜で、遜って、仕える姿勢で歩まれ、何よりも父なる神の御心である十字架の死と裁きにまでも従順であられたのです。

私たちは、5節の御言葉にあるように、イエスの思いを自分の思いとして歩んでいくことを目指したいのです。

①信仰の創始者であり完成者であられるイエスから目を離さない

ヘブル12章2節、ヨハネの福音書15章5節

②柔和で遜っておられるイエスから学ぶ

マタイの福音書11章28~29節

③イエスの心と自分の心を重ねる

イエスを常に見上げ、繋がり、イエスの柔和と遜りから学ぶことによって、私たちはこの世界をイエスの心でみることができるように変えられていきます。イエスがどれほど世界中の人々を愛しておられるかということを…。私たちは「キリスト・イエスのうちにある思い」と自分の心が重なったと実感できる瞬間に与れるのです。共にキリスト・イエスの思いを抱いて生きようではありませんか。徹底的にご自身を空しくされ、神の御心に従順に従われたイエスの心を自分の心とし、日々歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオサ、アルストロメリア、スターチスです。

2022年2月13日 主日礼拝メッセージ

「キリストの福音にふさわしく」ピリピ人への手紙1章27~30節 金田洋介牧師

パウロは「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」を勧めています。それはすなわち、「キリストによってもたらされた福音に与った者として、それにふさわしい生活をしなさい」ということです。

①イエスによってもたらされた命を握って生きる生活

福音にふさわしい生活とは、イエスを信じたことによってもたらされた、イエスと共に生きる新しい命とイエスと共に永遠に生きる命を握り、イエスの十字架と復活を証して生きることです。そして、天での報いを信じ期待しながら、主の証人として日々を過ごすことです。

②イエスによって現わされた神の愛に根ざした生活

次に、イエスの命によって現わされた神の愛に根ざした生活、つまり、神の愛、イエスの愛に応える生活をすることと言えます。この愛に応える生活は様々です。神に愛されている者として隣り人を愛するということの他に、神への愛を毎週の礼拝で表し、常に感謝し、神と祈り交わるなど、イエス在っての私であることを自覚し、日々を過ごそうとするならおのずとそのように生きるようになるのです。また、「自分にとってイエスの愛に応える生活は何だろう」と思い巡らし、神様に祈り求める生活もまた、福音にふさわしく生活すると言えるでしょう。

③イエスによって私たちの王となられた神を心に迎えて生活する

福音という言葉の元々の意味は、戦いにおける勝利を告げる知らせのことだそうです。では、聖書は福音をどう教えているのでしょうか。それは「神が私たちに何をして下さったか」ということに重きを置きます。イザヤ52:7~8より、「神が王となられた」これが福音なのです。「神が王として私たちの中心となられる」ということです。これはイエス・キリストを通して成就しました。イエスは十字架と復活を通して、罪の力、悪の力、死の力から勝利した。この勝利の知らせが福音なのです。私たちがこの福音を聞き、イエスを信じる時に、罪の力、悪の力、死の力による恐れから解放され、新しい生活がスタートするのです。

あなたにとってキリストの福音にふさわしく生活するとはどのような生活でしょうか。是非、神の御前に心を静め、「神様、私にとってキリストの福音にふさわしく生活するとはどのような生活、生き方でしょうか」と祈り求めてはいかがでしょうか。王であられる神(イエス)が私たちの内に生きていて下さいます。日々イエスと御言葉の前に出る生活を歩もうではありませんか。そして、王なるイエスに相談しながら生きるのです。この素晴らしい王は、私たちの為に命を捨ててまで愛し、救って下さった程のお方です。イエスを心から信頼して、福音にふさわしい歩みをイエスと共に過ごしましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、金魚草、ユリ、スターチス、梅です。

本日活けられた梅は、教会にある梅の木から切られたものです。春の訪れを知らせてくれる一輪です。

2022年2月6日 主日礼拝メッセージ

「愛によって全うする」ガラテヤ人への手紙 5章1~14節  金田ゆり牧師

ガラテヤ人への手紙が書かれた背景には、ユダヤ人信徒と、異邦人信徒との問題がありました。一部の極端なユダヤ主義者は、異邦人が神に受け入れられるためには、律法と伝承に従わなければならないと教えていました。パウロは、ガラテヤ諸教会の信仰を純粋な福音に呼び戻すためにこの手紙を書いたのでした。

①私たちを縛る奴隷のくびき 1~5節

イスラエルは、神の民のしるしとして割礼を受け(男子)、律法を与えられましたが、戒めを守ることはできず、神に逆らいどおしの歴史でした。人は行いによって神の前に義とされないのです。ですから、イエス・キリストは私たちの罪のみがわりに十字架に掛かり復活されました。この十字架と復活を信じる信仰によってのみ、義とされる道を開かれたのです。この話はクリスチャンはわかっています。しかし、世の評価、人の評価、何ができるできないで自分や人を評価し、追い求めて生きるなら、あなたは奴隷のくびきを負わされているのです。行いによって義とされないと知っていながら、実生活にその信仰を適応できていないのです。

②真理に従わせない力 7~13節 イザヤ43:4

ガラテヤ諸教会には、純粋な信仰を邪魔する力が働いていました。私たちも同じです。神のお考えとはかけ離れた、信仰を邪魔する価値観、環境の中にいる私たちは、その影響からなかなか抜け出せません。行いによらず、信仰によって義とされた私たちは、世の価値観に囚われた奴隷のくびきから、ただ神がどう思っておられるかを基準に歩む、自由を得るために召されているのです。神は、あなたに何ができて、何ができなくても、あなたを愛しておられます。

③愛されていること、愛することで人生を全うする 6節、13~14節

マルコ12:31、コロサイ3:23もご覧ください。神に愛されていることを知っている人は、キリストの自由を得た人です。愛されていることを知った人は、隣人を愛し仕える為に生きるのです。隣人を愛するというのは、神を愛することです。隣人に愛を現わし、誠実に仕えることができるかは、結局のところ、神とあなたとのことなのです。すべてのことは、あなたが愛することを学ぶ為に起きていることです。キリストによる自由を得た者として、神を愛する如く隣人を愛する。愛する、この一点において人生を全うすることができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、テッポウユリ、ストック、オンシジューム、マンサクです。

2022年1月30日 主日礼拝メッセージ

「生くるにしても死ぬるにしても」ピリピ人への手紙1章19~26節 金田洋介牧師

本日からピリピに戻ります。改めてパウロという人物を知り、彼の生き方から学びましょう。

①パウロの人生の目的 20節

パウロには願いがありました。それは、囚われの身から解放されるよりも、自分の身に起こった全てを通してキリストが崇められることでした。「生きるにしても死ぬにしても…」とありますが、まさに彼の全人生を表しているように思えます。パウロにとって、生きること全てがキリストの為に生きる良い機会であり、たとえ死んでも、それは更に素晴らしいことに与れるのだと語ります。彼の人生の目的は、ただキリストの為にだけにあったということでしょう。

②パウロの葛藤 22、23節

次に、彼は自分が生きながらえれば、福音は更に前進する。しかし、自分が死んでも、御国で永遠にイエスと共にいられる。むしろ、その方が遥かに望ましいと本音を漏らします。福音の前進か永遠の御国か、彼はこの二つに挟まれて葛藤していたのですが、パウロにはピリピの信徒たちの信仰と喜びの為に、神は自分を生きながらえさせて下さるという確信が与えられていたようです。彼の人生の目的も、葛藤からの答えも、全てキリスト・イエスに繋がっていることに注目するべきだと強く思わされます。

③パウロが握っていた素晴らしい命

最後に、彼が持っていた素晴らしい命に注目しましょう。彼が「生きることはキリスト」と告白できた理由。それは、イエスを信じ受け入れる全ての人に与えられる、新しい命を持っていたからです。この命は、自分自身の為だけに生きる古い生き方(命)から、イエスの為に生きる新しい生き方(命)をもたらすのです。次に「死ぬことも益」と告白できたのは、死んでも永遠にイエスと共にいられる、永遠の命を持っているからです(ヨハネ3章36節)。パウロにとっての「生」と「死」は、全てキリストに在る命の下にあったということなのです。

あなたも、キリストの為に生きることを願いませんか。誰でも、このキリストの命を持ち、この命に生きるようにと招かれているのです。その招きに対し、「永遠の命だけで十分」「私は私の人生だけを一番にしたい」と思われるかもしれませんが、あなたがクリスチャンとして生きていること自体が、神の愛とイエスの救いの証しなのです。何か特別な事が出来ていなくても、あなたは既にキリストの為に生きている。その事を喜ぼうではありませんか。そして「生くるにしても、死ぬるにしても。私の身に起こった全てのことによって、神がほめたたえられますように。」と願う者とならせていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、ユリ、金魚草、ネコヤナギです。

 

2022年1月23日 主日礼拝メッセージ

「主の前に立つ日に備えて」マタイの福音書 25章31~46節 金田洋介牧師

 

本日の箇所は、世界の終わの時に成される審判について語られたイエスの言葉が記されています。イエスは王としての栄光を纏い、再臨されます。そして、イエスご自身が私たちを裁かれるのです。イエスは王であり、救い主であり、裁き主でもあられるのです。(イザヤ33:22)

裁き主であられるイエスは、羊飼いが羊とやぎをより分けるように、全ての人々をご自身の右と左に置かれます。右に置かれた人は父なる神に祝福された人々であり(34節)、御国を受け継ぐ人々、すなわち永遠の命を頂き、天国に入る人々を指します。一方、やぎにたとえられ、左に置かれた人々は呪われた者と呼ばれます(41節)。彼らはイエスのそばにいることが許されません。悪魔とその使いたちと共に永遠の火の中、すわなち、地獄の火の中にいれられ永遠に苦しむのです。

ここで忘れてならないことは、全ての人々が神を信じ、イエスの十字架と復活を信じ受け入れ、永遠の命を得ることが神の御心であることです(1テモテ2:4)。神は一人として滅んでほしくないと願っておられるのです。しかしながら、裁きの時には滅びる人々がいることが告げられています。今、生かされている私たちは、この事実を厳粛に受け止め、父なる神に祝福された者、御国を受け継ぐ者とされたいのです。

では、右に置かれた者たちと、左に置かれた者たちの違いは何なのでしょうか。それは、何よりもイエスを救い主として信じる信仰を持つこと(ローマ10:9-10)と、この地上に生かされるいている間、神の御心、御言葉に従うことを追い求めて行くことです(マルコ7:21)。イエスは「もっとも小さい者にしたことはわたしにしたことであり、しなかったということはわたしにしなかったことなのだ」と語られました(25:40)。この「もっとも小さい者」とは、あなたが一番親切にできない、関わりたくない人の事です。この「もっとも小さい者」した愛の業、愛のない業はみな、イエスに対してしたことなのです。私たちはこのイエスの言葉を真摯に受け止めなければなりません。私たちは神に愛され、赦された者として、聖霊の助けをいただきながら、全ての人に対して愛の実を結びたいのです。イエスは再びこの地上に来られます。主イエスの前に立つ日に備えて、どのように生きるべきかを考え、決断しなければなりません。あなたの永遠に関わる決断は、あなたが生きている間にしかできないのです。わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。この言葉は、あなたに対するイエスの切なる願いでもあるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ネコヤナギ、ロウバイ、ユリ、アルストロメリア、ストックです。

2022年1月16日 主日礼拝メッセージ

「喜びの日に備えて」マタイの福音書 25章1~13節 金田洋介牧師

 

テキストは、イエスが世界の終わりの時の様子や前兆について語られた後、再臨の時に備えてどう過ごすべきかを、たとえを用いて語られているところです。イエスが再びこの地に来られる「再臨」に備えて、心に覚えて日々を過ごしたいのです。

この譬えに花嫁のお世話をする10人の娘が登場しますが、5人は愚かで(思慮が浅く)、5人は賢い(思慮深い)娘たちでした。彼女たちは、花婿の到着を待っていましたが、花婿の到着が遅れたために居眠りをしてしまいます。すると思いがけないタイミングで花婿の到着の声が上がりました。娘たちは急いでともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちは予備の油を備えていませんでした。彼女たちは慌てて買いに出かけます。一方、予備の油を用意していた賢い娘たちは、無事に花婿を迎えることができ、婚宴の戸は閉められました。するとそこに、油を買いに出ていた娘たちが帰って来ますが、時すでに遅し。彼女たちは祝宴に加わることができませんでした。

これは、第一にイエスの再臨の時が必ず訪れることを示唆しています。「わたしは必ず来る」とイエスは言われました。私たちはこの言葉を信じて受け止め、備えなければならないのです。その日は「盗人の日」のように襲ってくる」(Ⅱペテロ3:10)と聖書は教えています。主の時は必ず来るのです。

第二に、私たちはともしびと油を用意しなければなりません。ともしびを持って花婿の到着を待っていたように、イエスは再び来られると信じる信仰を持ってその日を待つのです。そして油がないと炎が消えてしまうように、真理の御霊である聖霊、助け主なる聖霊によって、信仰の炎を燃やし続けるために、いつも聖霊に満たして下さいと求めて待つのです。

イエスは再びこの地に来られます。それは、私たちが死んだ後か、もしかしたら、生きている間かもしれません。明日かも、明後日かもしれません。私たちはともしびを備えなければなりません。御言葉に根差した生活を、聖霊の助けによって歩んで行きたいのです。主イエスが来られる喜びの日を心から待ち望みつつ、過ごして参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、マトリカリア、ユリ、ストックです。

2022年1月9日 主日礼拝メッセージ

「主は我が牧者なり」詩篇23篇1~6節 金田洋介牧師

 

詩篇23篇はダビデによる詩で、多くの人々に愛されている詩でもあります。ダビデは一国の王ですから、平和で何不自由ない生活を歩んできたから、このような詩ができたのだと思ってしまいますが、彼の人生の半分は戦いと逃亡生活の日々だったのです。忠実に仕えた王に命を狙われ、愛する息子には命も王位も狙われました。また、彼が犯した数々の罪をも聖書は記しています。痛みと悩み、罪と失敗も多い彼の人生と、詩篇23篇は結びつかないように思えますが、むしろそれは逆で、悩みと失敗の人生だったからこそ生まれた詩だったのです。ダビデは神との関係を、羊飼いと羊とにたとえ、彼の心にある平安や、全てに満ち足りている確信を告白します。

①神が羊飼いとなってくださる安心

ダビデは聖なる神を「わたしの羊飼い」であると告白しました。羊は自分の力で生きて行くことはできません。羊飼いは羊のために常に心を配り、世話をするのです。ダビデは神あっての自分であると自らの弱さを認め、神に全く信頼することで、常に満ち足りる確信と安心を得たのです。

②どんな状況下に置かれても、神が共におられる安心

ダビデは神がいつも共におられることを体験したからこそ、逃亡の日々の中でも安心を得たのです。また、神と人との前に罪を犯した時も、共におられた神はダビデを正しい道に導かれました。神のむちと杖が彼の慰めとなったのです。ですから、どの様な状況に置かれたとしても、共におられる神を信頼しようではありませんか。

③神の慈しみと恵み、御国の住まいがある安心

ダビデは羊飼いである神に信頼し、従ったことによってもたらされる大きな望みを確信していました。それは、神が地上の生涯において恵みと慈しみに溢れさせてくださるばかりか、地上の生涯を終えた後も神の御国に永遠に住むことができる望みです。ダビデとはいかずとも、私たちの人生も戦いと悩みの連続です。しかし、羊飼いである神に全信頼を置くなら、安心と祝福の人生となるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、ストック、菊、千両、葉牡丹、テッポウユリです。

 

2022年1月2日 新年礼拝メッセージ

「キリストの愛があなたに平和をもたらす」コロサイ人への手紙 3章12~17節 金田洋介牧師

 

神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者への勧め  12~14節

イエスを信じた者は、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者。だからこそ、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」とパウロは勧めます。これらはみなイエスのご性質です。クリスチャンはイエスのご性質に与ることができるのです。さらにパウロは、互いに忍耐し合い、赦し合うよう勧めます。これらのことは愛の力によってのみ実現します。見返りを求めるのではなく、与える愛で、これらのことを実践するように勧めているのです。

私たちは既に、教会における神の家族(兄弟姉)の交わりを通して、これらのことを実際に体験しています。礼拝や祈り会で聞いた御言葉を互いに実行し合い、共に喜び、悲しみ、祈り合う姿は本当に尊く、神の為、他者の為に労苦や犠牲を惜しまず仕え合う姿は麗しいです。これはイエスの愛の性質が、教会の土台にあるからなのです。しかし、それが教会の中でだけで終わってはいけません。むしろ、私たちの実生活の場でイエスのご性質と麗しい愛の姿が現れることを、イエは願っておられるのです。神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、それぞれの家庭、社会に出て行きましょう。

神様からのチャレンジ~キリストの愛があなた平和をもたらす~ 15節

a.神との平和を得なさい…神ご自身との関係においての平和は、何より重要です。私たちはイエスの十字架の死と復活によって、敵対関係にあった神と和解し、平和が回復されたのです。ですから、イエスの愛の犠牲によってもたらされた神との平和を常に保ち続けましょう。神の御前に常にへりくだり、神の御言葉と御心に耳を傾け、応答することを心がけましょう。

b、他者との平和を保ちなさい…「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2章3節)イエスは互いに愛し合うこと、仕え合うこと、赦し合うことを教えられました。鍵は謙遜になることです。

c、他者と他者との平和をとりなしなさい…「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5章9節) 神は人と人との関係において、あなたが平和をつくり出すことを願っておられます。人と人との平和をとりなし、祈るのです。

他者との平和、他者と他者との平和のために、イエスはどのようにされるだろうと思い巡らし、行動に起こしましょう。そして、神とあなたの間に。あなたと他者との間に。そして、他者と他者との間に、平和をもたらす者とならせていただきましょう。この平和は、イエスと一つにされることによって、そしてイエスの愛によってはじめて実現するのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、千両、ユリ、葉牡丹、オンシジュームです。

2021年12月26日 年末感謝礼拝メッセージ

「全てのことに関わられる神の御前に」伝道者の書 3 章 1~11節 金田洋介牧師

2021年も様々なことがありましたが、欠かすことなく神様を礼拝できたことを感謝しています。今年を振り返りながら、神様の恵みを思い起こして参りましょう。

聖書が語るメッセージで「主の時」という言葉を聞きます。主の時とは、神が全てのことをご計画され、神のタイミングで御心を行われることを意味しています。ただし、それは一方的になされるのではなく、私たちの状況や状態に最善の配慮をもってなしてくださいます。伝道者の書の著者は、この世の全ての理を見る時に「神がなされることはすべて時にかなっていて美しい」と告白しています。人間の限界を知り、それを謙虚に認め、人知を遥かに超える存在である神を信じた時、人間は神のなされる全てのことを理解することはできないが、神がなされることはみな時にかなっいて、素晴らしいと悟ったのです。

私たちも、「神のなされることはすべて時にかなって美しい」と告白したいと願いますが、現実は自分の思い通りにいかないことに不満を抱き、呟いてしまうことが少なくありません。そんな私たちに聖書は、信じるべき三つのことを語っています。

①神様のご計画は平安と希望を与える計画である、ということです。今年もコロナに翻弄された一年であったように思えます。しかし、覚えておきたいことは、神はあなたを祝福したいと願ってこの一年を導かれたということです。そして祝福とは、全てが平穏、無事ということだけで捉えるのではなく、むしろ「災いだ、最悪だ」と思えるよう中にあっても、「神の守りと助け、最善の導きを実感することができた」ということが、私たちにとっての本当の祝福なのです。

②神の御手の中で守られているということです。神を信じていても、悩み苦しみを避けることはできません。しかし神は、神を信じ従う者と共におられ、ことごとく守って下さるのです。『正しい人には苦しみが多い。しかし【主】はそのすべてから救い出してくださる。主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。』詩篇34:19-20

③神が全責任を負って下さるということです。創造主であられる神は、私たちを罪と死と滅びから救うために、罪のないご自身の御子イエスを、裁いて下さった程のお方。それほどまでに私たちを愛して下さったお方です。これ程のお方が、全責任を負って下さるのです。私たちは、自分の計画、方法、タイミングが最善であると思いがちです。しかし、神のご計画、方法、タイミングこそが全ての時にかなって美しいのです!この一年もあなたの全てのことに関わり導いて下さった神の御前に跪き、心からの感謝をささげようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオーサ、スカシユリ、バラ、カスミ草です。

2021年12月19日 クリスマス礼拝メッセージ

「世界で一番の贈り物」ヨハネの福音書 3章 16~21節 金田洋介牧師

 

本日の中心の御言葉(ヨハネ3章16節)は、聖書の中の聖書と呼ばれている箇所です。全ての創造主である神様が、私たち一人一人を愛しているという聖書が最も伝えたい事実がこの一節に集約されているのです。

ひとり子を与えられた神

16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。「ひとり子」はイエス様のことであり、「唯一の、代わりとなる存在はない」という意味です。「お与えになったほどに」とは、「お捨てになった」という意味。そして「世」は私たち一人一人を指しています。ですから、神様というお方は「ご自分にとってこれ以上ないほど愛している、唯一の御子イエス様を捨ててまで私たちを愛してくださった」ということなのです。

どうか、あなたに対する神様の愛の大きさを知って欲しいのです。

イエス様によってもたらされた素晴らしい救いと命

神様がひとり子イエス様をお与えになった理由は、私たちが滅びることのないためです。私たち人間は、神様の前にみな罪人であり、イエス様以外に正しい人はいないと聖書は断言します。そして、罪の結末は死であり、永遠の滅びであると語っています。しかし、神様は、私たちを滅びから救うため、罪のない御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に付けて裁くことを決断されたのです!何にも代えがたいイエス様を、私たちの為にお捨てになるのですから、お心が痛まないはずがありません。それにも関わらず、神様はイエス様を犠牲にしてまで、私たちを滅びから救い、私たちに対する愛と、罪に対して妥協のない聖さを証明されたのです。さらに、「永遠のいのちを持つためである」とあるように、イエス様を信じるもには神様と共に永遠に生きる命が与えられ、神様とあなたの生きた交わりが回復されるのです。しかし、信じない者は、この素晴らしい命を持っていないため裁かれます(18節)。19節以降にあるように、光に照らされて罪が明るみに出されることを恐れ続けるのです。一方、この素晴らしいいのちを持つ者は、裁かれません。常に、神様と生きた交わりの中を歩み、光の中に居るからです。この永遠の命を持つことが出来るようにと、神様は願っておられるのです。

クリスマスは、素晴らしい救いと命という、世界で一番の贈り物を与えるために生まれ下さった、救い主イエス様の誕生を祝う日です。だからこそ、世界中でイエス様の誕生を喜ぶのです。イエス様によってもたらされた救いと命を、信じてる受け取ろうではありませんか。また、受け取ることが出来たことを、心から感謝しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、バラ、金魚草、カスミ草です。