説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2021年3月7日 主日礼拝メッセージ

「ナアマンの癒し」Ⅱ列王記5章1~14節 金田洋介牧師

有名な、ナアマン将軍が登場します。彼はアラムの軍隊長でした。王からの信頼も厚く、アラムの勇士と称された彼でしたが、大きな悩みがありました。ツァラアトに冒されていたのです。深刻な、重い皮膚病でした。結論を言うと、彼は癒されます。ナアマンの癒しを通して、神の御力を体験するプロセスを見ていきましょう。

あらゆる状況に神の御力は現れると「信じる」

神の御力は、あらゆるところに現れます。何気ない日常のあらゆる場面、こんな事は無理ではないかと諦めたくなるような場面にさえ現れるのです。神が造られたこの世界に、神の御力が及ばないところは無いのです。異邦人のナアマンにさえ、その御力は及びました。あなたにも、あなたが祈っている人にも、神の御力は現れるのです。

神のプランがあることを覚えて「委ねる」

神の方法とプランがあることを心に留めましょう。ナアマンは期待しながらエリシャの処へと向かいますが、エリシャの予想外の対応と癒し(治療)の方法に、彼は怒りと不満を露わにします(11~12節)。勝手に思い描き、思い通りにならなければ腹を立て、失望する彼の姿は、私達も同じではないでしょうか。そして、ナアマンの一番の問題は、彼の考えとプランが神の御力を体験することを妨げる危険があったということです。このまま帰っていたら、彼のツァラアトは癒されなかったのです。神は、御力を現すために、プランを用意されています。その神のプランに、自分の思いが一致しないことがあります。しかし、神の思いとプランに委ねることが大切です。

神の御言葉に「従う」

怒り心頭のナアマンに部下は進言します(13節)。彼は部下の言葉を聞いて、従うことにしました。神が部下を通して従えるように導かれたのです。この後、ナアマンのツァラアトは癒されました(14節)。神は、私達が神の御言葉を信じて従えるように導いてくださるお方です。御言葉を信じて従う時、神の御力は体験できるのです。

この後、彼は神の御力を体験したことによって、まことの神を礼拝する者になります。神は彼をただ癒されて終わりはなされなかったのです。神を信じなかった者が神を崇め、礼拝する者となる。それこそが、大いなる神の御力なのです。皆さん一人ひとりが神を信じ、神のプランに委ね、御言葉に従うことによって、神の御力を体験させていただくことができますように。神を崇め、礼拝する者となりますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、グラジオラス、オンシジューム、ユリ、スターチスです。

2021年2月28日 主日礼拝メッセージ

「苦難の先にある計画」 金田ゆり牧師

出エジプト記2章1~10節、ヘブル人への手紙11章23節

 

モーセの生まれた時代、ファラオは、ヘブル人の男の子はナイル川に投げ込むようにと恐ろしい命令を下していました。危機的状況の中、生まれたモーセを救ったのは両親の信仰でした。彼らは、いかにして危機を乗り越えたのか。神はどのように彼らに応えて下さったのでしょうか。

①神のみを畏れ、従う信仰

この時代に結婚をする事自体、信仰が必要でした。妊娠出産はさらなるチャレンジでした。そして、彼らは生まれた男の子を隠したのです。ファラオの命に背く大きな挑戦でした。ヘブル11章23節を見ましょう。彼らはファラオの命を恐れませんでした。神のみを畏れ、御言葉に聴き従う信仰を持っていたのです。ですから、するべきことはわかっていました。ファラオの悪い命令には従いませんでした。

②神に全く委ねる信仰

しかし、生まれて三か月、遂に赤ちゃんを隠し切れなくなりました。追い込まれました。彼らはカゴを加工し水が入らないようにして、その中に我が子を入れ、ナイルの葦の茂みに置いたのでした。神の御手に全てを委ねたのです。彼らは、我が子のかわいいのを見、確かに神はこの子と共にいると直感していました。神は共におられる、そう直感できる、小さくも確かなしるしを、神は彼らに与えておられたのです。あなたにも、このような小さな確かなしるしを見せて下さっているはずです。見逃してはいけない。偶然と思ってもいけない。神は、確かにあなたと共におられるのです。

③苦難の先にある、神の計画

両親が神のみを畏れ、聴き従い、委ねた結果、驚くべき展開が待っていました。我が子はファラオの娘に拾われ、彼女の子となり、モーセと名付けられたのです。このモーセが、のちにイスラエルを出エジプトに導く大指導者になるのです。苦難は苦難だけで終わりません。神を畏れ、従い、委ねるとき、苦難の先に神の偉大な計画が待っているのです。あなたが、神の計画の一部を担っていることを信じますか。私たちが、神の偉大な計画を見させていただき、その中を共に歩むことができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、ユリ、カスミソウ、デルフィニュウムです。

2021年2月21日 主日礼拝メッセージ

「ほつれを繕うように」Ⅱ列王記 4章38~44節,6章1~7節  金田洋介牧師

本日の箇所には3つの出来事が書かれています。この出来事を通して、主が私たちの日常生活の中におられることを覚えたいのです。

1つ目の出来事:エリシャは学びにやって来た預言者の仲間たちのために、食事を用意するよう僕に命じます。僕が野に出て行くと、野生のつる草に瓜がなっているのを見つけ、収穫し、調理して鍋に入れました。ところが、その瓜は毒性の瓜だったのです。これでは食べたくても食べられません。そこでエリシャは麦粉を用意させて、それを鍋に入れました。すると不思議なことに毒は消え、食べられるようになったのです。

2つ目の出来事:ある人が、初穂の大麦のパンと、初穂の穀物、つまり一番良いパンと穀物をエリシャのところに持って来ました。するとエリシャは、ここでも預言者たちに振る舞うよう僕に命じます。しかし、「100人もの人が食べるには、全然足りません」と答える僕。すると、エリシャは主の言葉を告げます。「彼らは食べて残すだろう」と。エリシャの言う通りにパンと穀物を配ると、100人もの預言者たちは、お腹いっぱい食べることができました。

3つ目の出来事:ある時、エリシャたちが住む家が狭くなったので、移動して新しく家を建てることになりました。ところが、木を切っていた一人が借り物の斧の頭を、川に落としてしまったのです。「おお主よ、あれは借り物です!」と叫びます。エリシャは木の枝を一本投げ入れました。すると浮かぶはずのない斧の頭が浮かんで来たのです。無事に斧の頭を拾い上げ、事なきを得ました。

不思議な出来事ばかりですが、これらは彼らの日常の中に起こった奇跡。つまり、あなたの日常生活(緊急事態も)に、神が介入して下さることを示しています。神ご自身が、私たちの無知や足らなさを補い、フォローして下さるのです。それはまるで、ほつれを繕うかのように。そして、もう一つ注目すべきことは、全ては無駄に終わらなかったということ。一生懸命労して作った食事。精一杯のささげ物。皆の為にした労働。全ての思いと行動を、神は拾い上げて下さるのです。このお方に日々守られている事を信じ、感謝し、信頼して歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ブプレリューム、ユリ、カーネーション、アルストロメリアです。

2020年2月14日 主日礼拝メッセージ

「わが身を重ねるほどに」Ⅱ列王記4章18~37節  金田洋介牧師

預言者エリシャを献身的に支え、神の働きに加わった報いとして、子どもが与えられたシュネムの女性。ところが、思いもよらない事態が起こります。彼女の子どもが頭の痛みを訴え、死んでしまったのです。

Ⅰ.エリシャに助けを求めるシュネムの女性

愛する我が子の突然の死に、彼女は動揺したに違いありませんが、彼女はすぐに行動に移します。エリシャのために作った部屋に息子を運んで寝かせると、息子の状況を夫に告げずに、急いでエリシャの許へ向かったのです。彼女はエリシャの足元にすがりつき、愛する我が子の命が奪われた悲しみを訴えます。しかし彼女は、息子の命を諦めてはいません。神の人エリシャと彼を遣わされた神に、一縷の望みを抱いてやってきたのです。これらのことから一つ目に覚えておきたいことは、私たちは彼女と同じように助けを必要する側にいるということです。私たちの人生、何が起こるかわかりません。その時、誰に助けを求めますか。彼女は望みを捨てず、生きておられる神に望みを置いたのです。私たちも全能の神、主を呼ぶのです。(エレミヤ33:3)

Ⅱ.引き返すゲハジと繰り返すエリシャ

事態を悟ったエリシャは先にゲハジを遣わし、悲しむ彼女に寄り添いつつ子どもの許へと向かいます。すると、ゲハジがあっさり引き返して来ました。エリシャの命じた通りにしても、子どもに何の変化も起こらなかったというのです。エリシャが家に着くと子どもは死んでしまったままでした。エリシャは神に祈ると、自分の口をその子の口の上に、同様に目を、両手を置き、わが身を子どもの上に重ねたのです。だんだん子どもの体が温かくなってきました。さらにエリシャは繰り返します。すると子どもは生き返ったのです。シュネムの女性は、エリシャと神に心から感謝し、子どもを抱き上げて出て行きました。

二つ目に言いたいことは、私たちはエリシャのように誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側にもいるということです。シュネムの女性の悲しみ、心の痛みに寄り添い、わが身を重ねるように執り成し祈り、そして文字通り、子どもにわが身を重ね、諦めずに神の憐みを求めたのでした。神の子とされたクリスチャンは、エリシャのように、誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側に立つのです。わが身を重ねるほどに執り成し祈り続けようではありませんか。他でもなくあなた自身が、十字架の上で執り成し祈られた救い主イエスによって救われたのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、アルストロメリア、カラーです。

 

2021年2月7日 主日礼拝メッセージ

「報いて下さる神を知ろう」Ⅱ列王記4章8~17節  金田洋介牧師

本日登場するシュネムの女性は、先週登場した女性とは違い、とても裕福な人でした。この女性も、偉大な主の御力を体験することになります。
Ⅰ.親切なシュネムの女性

エリシャがシュネムの町を通ると、その町に住む一人の裕福な女性がエリシャをもてなしました。これを機にエリシャは、シュネムを通るたびに彼女のもてなしを受けるようになります。その後、交流を重ねるうちに、彼女はエリシャが聖なる神の預言者だと気付きます。すると今度は、夫の理解と協力を得てエリシャの為の部屋を家の屋上に整えます。この夫婦は、経済的な豊かさを用いて、エリシャと彼を遣わされた主なる神のお役に立ったのです。

Ⅱ.感謝を表すエリシャ

エリシャは献身的に遣えるこの女性に、感謝の意を表したいと申し出ます。しかし彼女は、「今の暮らしで満足です」と謙遜な態度で答えます。その後、エリシャは僕のゲハジから、彼女には子どもがいないことを知らされます。するとエリシャは、「来年の今頃、男の子を抱くようになる」と彼女に告げました。彼女にとって最大の望みでありながらも、諦めていたことだったかもしれません。しかし、エリシャの言葉が実現し、待望の子どもが与えられたのです。

Ⅲ.報いて下さる神を知ろう

預言者エリシャを畏れ敬い、受け入れ、最善のサポートをしたこの女性は、預言者の受ける神の報いを受けたのです(マタイ10:41)。その報いとは、「神が本当に生きておられ、全能であることをリアルに体験した」ということです。

イエスの名によってなされる全ての働きに加わる者(神の働き人を受け入れ、理解して助ける人)は、決して報いに漏れることはないのです。但し、どのような報いが用意されているかは分かりません。しかし、神はあなたの働きに御心をとめ、豊かに報いて下さるのです。そればかりか、あなたの信仰を理解し、協力してくれる人、教会に送り出してくれる人にさえも、神の報いは及ぶのです。

主の働きに積極的に関わる人への報いは大きいことを覚えましょう。そして、共に主のわざに積極的に加わり、励もうではありませんか。私たちの労苦は、主の前に決して無駄に終わることはないのですから。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、八重ユリ、メラレウカです。

 

2021年1月31日 主日礼拝メッセージ

「私のうちにあるもの」Ⅱ列王記4:章1~7節  金田洋介牧師

本日の聖書箇所には、神に忠実に従ってきたある預言者の妻と、その子どもたちが体験した奇跡が記されています。神はツァレファテのやもめの母子の時のように、エリシャを通してこの母子を救われます。

Ⅰ.危機の中からの叫び

一人の預言者が死に、その妻がエリシャの許にやって来ました。彼女は、神とエリシャに忠実に仕えてきた夫が死に、残った借金のかたとして大切な二人の子どもが奴隷とされようとしていることを伝えました。彼女の叫びには、経済的な危機、家族崩壊の危機を訴えていることの他に、「神に忠実に仕えてきたのに、なぜこのように苦しまなければならなのか」と、神への信頼や信仰も揺らいでいるように伺えます。彼女には霊的な危機も迫っていたのです。

Ⅱ.わたしの家(うち)にあるもの

エリシャは彼女に「家の中に何があるか」と尋ねると、彼女は全てを処分してしまったのか、ただ、油の壺が一つだけあると答えます。家にあるものなんだと聞かれ、改めて自分には何も残っていないということを痛感したのではないでしょうか。「油の壺が一つ。これが何になるのだろう」何の希望も見出すことはできない、絶望的な状況です。しかし、神の御業というのは、私たちが「何もない、絶望的だ」と考えるその状況から始まるのです。

Ⅲ.わたしの内(うち)あるもの

彼女はエリシャに言われた通り、近所から借りてきた沢山の空の器に自分の油壺から油を注ぐと、借りてきた全ての器に油が満ちるという奇跡を体験しました。その油の量は、借金を完済して、なお家族3人が暮らしていけるほどのものでした。彼女のうちにある神を信じ信頼する信仰は、油壺に残っていた少量の油のようなものでした。しかし、信じて従ったその信仰に、神は豊かに応えて下さったのです。

あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。詩篇81:10

あなたのうちには何がありますか。この神の御言葉を信じる信仰ではないでしょうか。今どんな危機的状況に在ったとしても、恐れないで信じようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ユリ、グロリオサ、アルストロメリア、菜の花です。

 

2021年1月24日 主日礼拝メッセージ

「神の御前に誠実に生きよう」Ⅱ列王記2章19~25節、 Ⅱコリント2章15~17節 

金田洋介牧師

本日はエリコとベテルの町で起こった出来事です。

Ⅰ.癒されたエリコの町

エリコの町は、ヨシュアの時代に神によって裁かれ、滅んだ町です。その際ヨシュアは、「町の再建を企てる者は主に前に呪われ、礎を据える者は長子を、門を建てる者は末の子を失う」と宣言します(ヨシ6:26-27)。その後、一時はエリコの町の名前がでなくなりますが、呪いの通りに長子と末子を失いながらも町を再建する者が現れます(Ⅰ列王16:34)。もともと、エリコはなつめやしの町(申34:3)で、住むには良い地でした。ところが、水が悪く多くの命が失われていました。エリコの人々は神の預言者エリシャに助けを求め、神はエリシャを通して、水の癒しを宣言したのです(21-22)。

Ⅱ.のろわれたベテルの町

 一方、ベテルの町にエリシャが訪れると、子どもたちがエリシャをからかいます(23)。エリシャは子どもたちをにらみつけ、主の名によって彼らを呪いました。すると二頭の雌熊が現れ、子ども42人をかき裂きました(24)。何とも痛ましい出来事です。ベテルは、遡ることヤコブの時代。彼の神体験がもとに「ベテル(神の家)」と呼ばれるようなりました。ところが、後に偶像礼拝に支配されてしまいます。それでも町には、神を畏れ敬う預言者たちが数名いましたが、町の人々はエリシャを快く思っていなかったようです。もしも、神を畏れる大人たちがいたならば、神の預言者をからかうことなど子どもにさせなかったはずです。かつて神に滅ぼされたエリコの町は癒され、ヤコブが神の祝福の約束に与ったベテルではのろいがもたられ、多くの命が失われてしまいました。

エリコとベテルでの出来事は、その歴史から全く真逆の結果を見ました。神はのろいを癒し、祝福を回復して下さる方であること、また、これまで祝福の道を歩んでいても、神の御前に不誠実であるならば、多くのものを失うことを真剣に受け止め、主の御前に誠実に生きたいものです。果たして、私たちは「芳しいキリストの香り、人々にいのちをもたらせる香り」とされているでしょうか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ネコヤナギ、ユリ、カーネーション、カラーです。

2020年1月17日 主日礼拝メッセージ

「あなたから離れません~エリシャの決心」Ⅱ列王記2章1~14節 金田洋介牧師

 エリヤの後継者として、神が選ばれたエリシャ。彼は常にエリヤと共に行動し、従ってきました。師であり、先輩であり、同労者でもあるエリヤを尊敬し、慕っていたであろうエリシャ。ところが、別れの時は突然にやって来ました。

Ⅰ.エリヤとの最後の旅

エリヤは神の導きに従って最後の旅に出かけます。彼はエリシャに留まるよう命じますが、「決してあなたから離れません」と聞きません。エリヤが去った後の不安や恐れがあったのではないでしょうか。やがてヨルダン川に着くと、エリヤは自分の外套を丸め、川を打ちました。すると川が左右に分かれ、二人は渇いた地を渡って行きました。エリシャはモーセやヨシュアと同じ様に、エリヤにも働かれる神の御力を見たのです。

Ⅱ.エリシャの望み

ヨルダン川を渡るとエリヤは「何をしてほしいか」とエリシャに尋ねます。するとエリシャは「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と答えます。この望みは、長子が父親の財産を相続する場合に、他の兄弟の2倍を受けるという、神の律法を基にしています。つまり、エリヤの正式な後継者として、エリヤが神から受けた権威と聖霊の賜物を受け継がせてほしいという願いを意味しているのです。しかしエリヤは、自分が地上を去ることを見ることができたら、与えられるであろうと、全てを握っておられる神に委ねました。

Ⅲ.エリシャと共におられる神

別れの瞬間は突然やって来ました。火の戦車と馬が二人の間を分け、エリヤはエリシャの目の前で竜巻に乗って天に上って行ってしまったのです。エリシャは残されたエリヤの外套を取って川を打つと水は左右に分かれ、来た時と同じように渇いた地を渡りました。エリヤと共におられた力ある神が与えられたばかりか、神ご自身が共におられることを確信したエリシャ。きっと「これからは、神であるあなたから離れません」と強く決心したことでしょう。

エリシャの神はあなたの神です。あなたが神に願うなら、あなたが心から敬う、敬虔で忠実な兄弟姉妹、信仰の篤い父や母のように、あなたにも霊の賜物を与えて下さいます。信じて大胆に願い求めようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ネコヤナギ、ユリ、トルコキキョウ、オンシジュームです。

2021年1月10日 主日礼拝メッセージ

「主の御後について進もう~エリシャの召命~」Ⅰ列王記19章19~21節、ルカの福音書9章23節 金田洋介牧師

 Ⅰ.エリシャへの招き

エリヤは神の山ホレブを降りて行くと、牛と共に畑を耕すエリシャを見つけます。そして、エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けた…。これは、エリシャが後継者として召されたことを意味しています。エリシャは両親への挨拶の了解をエリヤから得ると、これまで使用していた用具を処分し、召して下さった神への感謝と家族への別れの宴を催しました(21節)。エリヤの「私があなたに何をしたか(19節)」という言葉は、「私は神の命じられた通りにしたに過ぎず、神の招きに応答し、決断したのはエリシャ自身なのだから、別れを告げるなり何なり、自由にしなさい」ということ。エリシャはエリヤの言葉に、主の招きへの応答の重さを実感したことでしょう。覚えておきたい大切な事は、「私は(が)主に従って行くのだ」という、私たち一人一人の信仰と決断です。

Ⅱ.イエスからの招き

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)イエスを信じた人はみなイエスの弟子です。イエスの招きに応えようではありませんか。

①自分を捨てるとは、自分は自分のものではなく、神のものであると信じ、認めること。聖書は、私たちが代価を払って買い取られた存在であると教えています(Ⅰコリ6:20)。代価とはイエスの命です。イエスの尊い命を犠牲にして、私たちはサタンの支配、罪と死の支配から救われ、神の子とされました。ですから、神のものであることを自覚し、神中心に生きようではありませんか。

②自分の十字架を負うとは、神の御心に従うということです。イエスは神の御心、ご計画に従い、私たちの救いのために十字架を背負われました。私たちもイエスに倣って、神の御心とご計画に従って生きるのです。

自分を捨て、自分の十字架を負う歩みは、決して容易なことではありませんが、私たちの助け主であるイエスは、私たちと共に歩んでくださり、導いてくださいます。力強い主イエスの御後をついて歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、アルストロメリア、千両です。

 

2021年1月3日 主日礼拝メッセージ

「わたしの臨在がともに行く」出エジプト記 33章12~17節 金田洋介牧師

本日の33章の前に起こった出来事を確認しましょう。

モーセがシナイ山から戻らないことに不安を覚えた民は、金の子牛をエジプトから救い出した神として崇めるという、愚かな罪を犯してしまいます。神の激しい怒りが下り、大勢の民が打たれます。しかし、モーセの必死にとりなしにより、神は怒りを静められました。そして33章に入っていきます。

神はカナンの地に民を導くようモーセに命じますが、神ご自身は一緒に行かれないと告げます。いとも簡単に神の戒めを破ってしまう民を、ご自身の聖さのゆえに滅ぼしてしまわないようにするためだというのです。そこでモーセは、真実を全うされる神を信じて、誠実な態度と言葉で訴えます。神はモーセにわたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14節) と答えます。臨在とは、いつも共にいて下さる神が、私たちに分かるように、交わることができるように、ご自身を表して下さることですが、「臨在」と訳された語は、源語では「顔」を意味します。「わたしの顔がともに行く」と言われたのです。とても不思議に感じますが、「顔」はその人の存在を最もよく表します。ですから、神の存在そのものが一緒に行くということなのです。新しい年、どのような事が起こるか分かりませんが、神ご自身があなたとともに歩んで下さるのです。それも、明確に分かるように。何と幸いなことでしょうか。

さらにモーセはとりなして訴えます。「あなたの臨在が私たちとともにいて下さらないなら、進ませないで下さい」(15~16節)と。モーセは自分の無力さを認め、そして神の民イスラエルは、神の臨在があってこそ神の民であることを訴えます。神はモーセの訴えを聞き入れられ、イスラエルの民と共に進むと約束し、ご自身の言葉を果たされます(申8:4、ヨシュア24:13)。

この神が新しい一年もあなたと共に歩んで下さり、安息を与えて下さいます。そして、あなたの家族と共に歩んで下さるのです。「主よ、この年も私と、私の家族と、とも歩んで下さい。そして安息を下さい」と、心から祈り願って、新しい一年をスタートしようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、松、ユリ、オンシジューム、カーネーション、千両、スイートピー、ミニバラです。