説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2024年1月21日 主日礼拝メッセージ

「主に招かれたあなたへの勧め」エペソ人への手紙 4:1-6   金田洋介牧師

主の招かれたあなたがたへ

4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
パウロが語っている「召された」という言葉の意味とは、イエス様の救いの中に召された(招き入れられた)ということが一般的な捉え方ですが、もっと広い意味で理解してよいと私は考えます。直接的には、イエス様を信じるクリスチャンとなったことを指していますが、神様の言葉を聞くことができる環境に置いて下さったこと、神様を礼拝する場にいること、神様の存在を知ることができたことと言ってもよいでしょう。ですから、今ともに同じ時間を共有している皆さんは主に召された方々であるということです。そして、神様はこのエペソの手紙を通して「このような生き方をしてほしい」と願っておられることを伝えるために、あなたを招かれたのです。
あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。とありますように、主に招かれた皆さんへの勧めの御言葉を受け取り、積極的に御言葉に応答してほしい、そう願っています。

主に招かれたあなたがたへの勧め

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
ここで語られている勧めの言葉をどう捉えるか(解釈するか)が大切なんですが、まず、謙遜、柔和、寛容、耐え忍ぶ愛、平和の絆、御霊による一致、これらを熱心に求めなさい。という勧めとして捉えることが言えるでしょう。言葉をそのまま受け取って、その実現に努めるということです。さらに深く読み取ると、謙遜、柔和、寛容、愛、平和と聞いて、思い浮かぶ人物がいます。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容で、愛を与え尽くし、愛を全うするために激しい痛みと苦しみを耐え忍ばれ、神様と私たちの間に平和と和解をもたらして下さった、イエス様です。このイエス様にこそ望みがあるのです。私たちはイエス様に似た者とされると聖書は約束しています。一向に変わらない自分にガッカリしたり、できない自分を責めたり、諦めたりするのではなく、イエス様と一つされるように求めるのです。「御霊による一致を熱心に保ちなさい」とは、人と人との間の一致を指していると理解することができますが(むしろそのような解釈が一般的です)、今回はそのような解釈と共に、「イエス様の霊である御霊と私たち一人一人が一つとなるように(一致できるように)熱心に求め続ける」と解釈し、受け取らせていただきたいのです。謙遜、柔和、寛容、愛、平和、これらはみな、御霊が結ぶ実です。聖霊様の力によって結ばれる実です。私たちの力や努力で結ばれるものではありません。御霊の実を結ぶためには、御霊(聖霊様)と一つとなること、明け渡しが必要です。明け渡しとは、御霊様があなたの中心になること、あなたの王となることです。御霊による一致を熱心に求め続けましょう。

 

今日のお花は、ブプレニュウム、キンギョソウ、ダリア(ピーチマカロン)、トルコキキョウです。

2024年1月14日 主日礼拝メッセージ

「主と共に世を渡れ」ヨシュア記 3:1-17   金田洋介牧師

神様の召しによって立ち上がったヨシュア。約束の地は目の前ですが、増水したヨルダン川は容易に渡れる状態にありません。

ヨルダン川を前に静まる

ヨシュアと民たちはヨルダン川岸に三日間留まることになりますが、彼らにとって大事な静まりの時間でした。ヨシュアは神様の前に導きを求めて静まり、民はかつてカナンの地の堅固な町と強い先住民を恐れて不信仰に陥った先人たちの罪と失敗を思い返しつつ、彼ら自身も神様への信仰が試されていることを考えたことでしょう。今日を生きる私たちも、様々な場面で困難に直面しますが、神様の前に静まるという選択肢があることを覚えましょう。

自らを聖別しなさい

三日後、ヨシュアは神様の命令に従い、契約の箱を担ぐ祭司たちがまず川に進み行き、その後を民がついて行くよう命じます。そしてヨシュアは民に「自らを聖別するよう」命じます(5節)。それは、力ある神様の前に徹底的に遜り、全てを神様に明け渡すという意味です。ヨシュアは、川岸で過ごした三日間でこれまでの歩みを顧み、神様を信じきれない、信頼しきれない思いと歩みから決別し、ただ神様の御約束を信じるなら、神様は不思議を行われる(驚くべき御力を目の当たりにする)と迫ったのです。

神様の御言葉を信じて踏み出す

「全地の主である【主】の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」(13節)。かつてエジプトを脱出した時、神様が紅海を分けられたことと同じように、神様はヨルダン川を渡らせて下さるというのです。ところが、紅海を渡った時は海が分かれてから踏み出しましたが、ヨシュア一行がヨルダン川を渡るためには、激しく流れるヨルダン川の状況が変わらないまま、足を踏み入れなければなりません。しかし、彼らは神様の御言葉の約束を信じて立ち上がりました。そして、契約の箱を担いだ祭司たちの足が激しく流れるヨルダン川に踏み出した瞬間、奇跡は起こりました。神様のお言葉通り、ヨルダン川は上流でせき止められ、民はみな乾いた川底を歩いて渡り切ることができたのです。

本日はヨシュア記を開きましたが、私たちの生きている世界とかけ離れた世界の話のように思われるかもしれません。しかし、彼らは私たちが生きるこの世界に在って神様の御言葉を信じ、神様と共に進み出ました。その結果、彼らは神様の不思議を、奇跡を体験したのです。そして、忘れてならない事実、信じるべき真理は、彼らに不思議を行われた主は私たちの主(神様)であるということです。時代や場所が違っても、信じている主は同じです。私たちは、この主と共にこの世界を生きているのです。主の御力、御言葉の力が及ばない領域はこの世のどこにもありません。この主と共にこの世を渡ろう(生きよう)ではありませんか。

今日のお花は、アレカヤシ、オリエンタルユリ、トルコキキョウ、スプレーストックです。

2024年1月7日 主日礼拝メッセージ

「たとえ項垂れることがあっても」I列王記 17:17-24節   金田洋介牧師

預言者エリヤの宣言後、北イスラエルでは雨が降らない日が続き、干ばつや飢饉が広がっていました。しかし、やもめも家の粉と油は今日も無くなりません。生きておられる神様の力が働いていたからです。やもめたちは、生きて行くために必要な食事の問題が解決し、平穏な日々を過ごせると思ったでしょう。しかし、思いもよらない試練が彼らを襲います。

信じた神を見失いかけるやもめ

ある時、やもめの息子が病気かかり、死んでしまいます。やもめは、「神様は恵みの神様なのか、それとも、私の咎を容赦なく裁く恐ろしい神様なのか」と信じた神様がどういうお方なのか分からなくなってしまいました。なくならない粉と油を見るたび、彼女は神の憐れみと力を実感したに違いありません。しかし、愛する息子が死んでしまった今、神様の憐みも力も、彼女にとっては何の意味もないことのように思え、神様を信じる信仰が揺らいでいたのです。私たちも神様の恵みと憐みを実生活で体験します。「神様に守られ、祝福されてる。神様を信じて良かった。」と。しかし、その一方で、「何でこの様な目に遭わなければならないのか。神様は本当に私を守って下さるのだろうか。私は見放されたのではないだろうか。」と思うほどの、困難や試練に直面します。そのあまりの苦しさのゆえに、神様が信じられなくなり、神様がどのようなお方であるのか分からなくなるのです。これは私たちの身近に起こる現実でもあります。

信じた神を決して見失わないエリヤ

一方、エリヤは神様を見失いません。彼は神様に憐みを求めることができない彼女に代わり、必死でとりなし祈ります。「私の神、主よ」と、彼がこれまでの人生の中で体験した全能の神様(折にかなった助けと導きを与えて下さった神様)に信頼し、「死んでしまった子どもを生き返らせて下さい」と諦めずにとりなし祈りました。すると、神様はエリヤの祈りを聞かれ、やもめの子どもは生き返ったのです。神様を見失いかけていたやもめは、神様が生きておられること(現実にその力を現すことができること)を明確に知ったのです。説教題の「項垂れる」とは、(心配事・考え事・悲しみ・恥ずかしさのため)首を前にたれることです。やもめは、神様の御力を毎日目の当たりにしながらも、病で息子を失い、神様を見失いかけました。きっと彼女は項垂れてしまったことでしょう。しかし、最後には現実に現れる神様の御力、奇跡を体験することができました。新年早々、立て続けに悲しい出来事が起こり、日本中が表現しがたい不安に覆われました。希望と期待をもって向かえた新年が、初日から躓き、心が挫かれました。しかし、たとえ私たちの未来に項垂れるようなことが起こっても、私たちの現実に、神様の力が現れると信じましょう。私たち神、【主】は、私たちの祈りに応えることができるお方です。神様の御言葉の約束は真実です。互いに励まし合いながら、今年も神様を見上げて参りましょう。

今日のお花はドラセナ、デルフィニュウム、オリエンタルユリ、オンシジューム、松、千両です。

2024年1月1日 元旦礼拝メッセージ

「わたしのところに持ってきなさい」 I列王記 17:8-16   金田洋介牧師

北イスラエルの地に雨が降らなくなったため、干ばつと飢饉が国中を襲いました。エリヤは神様の言葉に従い、ケリテ川のほとりに身を寄せていました。彼は川の水を飲み、朝夕にカラスが運んで来るパンと肉を食べて生きながらえていましたが、とうとう川も干上がってしまいました。すると、神様は再びエリヤに語られ、今度はツァレファテにいるやもめによってエリヤを養うというのです。目の前のことばかりに心奪われやすく、明日を思い煩いやすい私たちに、神様が常に先手を打ち、最善の道を備えて下さるお方であることを教えておられます。

エリヤが町の門に着くと、「ちょうどそこに」一人のやもめがいて、薪を拾っていました(10節)。彼女が神様によって備えられた女性であることを確信したエリヤは、彼女とその息子が絶望的な状況であることを聞きつつも(12節)、自分のためにパンを焼いて持ってくるよう求めました。そうするなら、「神が再び雨を降らせるその日まで、神が彼女と息子を養ってくださる」というのです。彼女にとって大きなチャレンジでしたが、エリヤに言われた通りに実行すると、告げられた神様の言葉通り、かめの粉は尽きず、壺の油は絶えない(16節)という神様の奇跡を体験したのです。

時に、私たちは生きておられる神様への信仰と信頼を試されることがあります。「あなたはわたしを信じ、信頼するか」と挑戦的に迫られるのです。やもめの状況は人間的には絶望的でした。しかし神様は、やもめが持つ一握りの粉とわずかな油に目を留められ、それらを祝福の源とされました。彼女がエリヤを通して与えられた神様の約束(御言葉)を信じて従ったことによる信仰と、神様への信頼の結果でした。

私たちの神様への信仰、信頼は、吹けばすぐに飛んでしまうような小さいものかもしれません。しかし神様は、あなたが「わずかしかない」と思っている、その信仰に目を留め、「わたしのところに持って来なさい」つまり、「わたしを信頼しなさい」と迫っておられるのです。生きておられる神様に信頼する時はいつでしょうか。今がその時です!新しい年も生きておられる神様を信じ、信頼しようではありませんか。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』エレミヤ書 33章3節

素晴らしい神様の御力を体験する一年でありますよう祈ります。

今日のお花は、金魚草、松、千両、アルストロメリア、ユリ、スターチスです。

2023年12月31日 主日礼拝メッセージ

「今日という日が過ぎ去る前に」詩篇 103 篇 1:1-5 節   金田洋介牧師

中心の御言葉である 103 篇 2 節で『わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 』は神様の恵みを忘れることなく心にとめるべきことを教えています。今年最後の礼拝をささげるにあたり、神様の恵みを覚えて心から感謝したいのです。まず、私たちが心にとめるべき恵みとは神様の御言葉です。

心にとめるべき神の恵みとは、神の御言葉

今日、私たちは礼拝や祈祷会といった集会以外にも、聖書やスマホのアプリ、ラジオやインターネットなどからも御言葉を聞くことができます。心にとめたいこと、感謝したいことはまさにそのこと。御言葉に触れること(聴く、見る、読む、学ぶ)ができたことを感謝したいのです。聴いているのか、聴いていないのか、はっきりしないような自分の周りにさえ、神様の御言葉が溢れ、常に供給されていたことを心にとめましょう。神様の御言葉は、私たちの信仰生活の指針であり、私たちが悩み苦しむ時に力を与え、慰めと励ましをもたらします。一年を振り返ってみる時、神様の御言葉の恵みや力を体験したことが一度や二度ではなかったはずです。改めて御言葉の恵みを思い起こそうではありませんか。

心にとめるべき神の恵みとは、御子イエスによる罪の赦しと永遠の命がもたらす平安

次に心にとめたい恵みは、イエス様を通して与えられた罪の赦しと永遠の命がもたらす平安です。イエス様を救い主と信じる全ての人は、この罪の赦しと永遠の命がもたらす平安に与ることができます。それは、私たちがいつ召されても、御国(天国)へとあげられるという確約が与えられているからです。これはイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、その尊い命を犠牲にしてくださったことによります。イエス様の命という尊い犠牲によってもたらされた平安は、この世がもたらすどんな安心にも勝る平安です。心にとめるべき神の恵みとは、神様を礼拝することができたこと最後に私たちが心にとめるべき恵みは、今日このように神様を礼拝できたという恵みです。私たちに御言葉を語り、罪の赦しと永遠の命の平安に満たして下さった神様を礼拝できたことを心から感謝したいのです。この一年を振り返ると色々なことが思い出されると思います。良かったこと、嬉しかったこと、困ったこと、悲しかったこと、辛かったことなど、色々とあったことでしょう。日常生活、人間関係において「もう駄目だ、もう限界」と何度も思うことがあったかもしれませんが、全ての背後におられた神様の介入と御手の守りによって今日があり、礼拝をささげていられるのです。
御言葉を与え、罪の赦しと永遠の命からくる平安を与えられた神様は、あなたの一生を良き物で満たして下さると、約束しておられます(詩篇 103 篇 5 節) 。今日は今年最後の日です。どうか、今日という日が過ぎ去る前に、神様の御前に心を静めてこの一年を振り返り、神様から与えられた恵みを一つ一つ数えて感謝しようではありませんか。

今日のお花は、ドラセナ、ユリ、アスター、スターチスです。

 

2023年12月24日 主日礼拝メッセージ

「あなたの為に生まれたキリスト」ヨハネの福音書 1:9-12   金田洋介牧師

この世界を造られた神様は、私たち人間の為に救い主(キリスト)を生まれさせて下さったと聖書は教えています。

救い主は「私たちの罪を照らす光」として生まれた

神様は、「すべての人を照らすまことの光としてのイエス様」をこの世に生まれさせたというのです。この「まこと光であるイエス様」の目的は、私たちの心の闇、罪の闇を照らすこと。自分しか知らない罪も、忘れてしまった罪も全て、神様の前に明るみにされるということです。この事実を聞いて動揺しない人はこの世界に一人もいないと思います。しかし、神様はいたずらに私たちの罪を露わにして、責め立てたり、恥をかかせたりしようとしているのではありません。私たちが神様の前に罪人であることを認め、神様の前に罪を悔い改めるため、そして、私たちの罪を赦し、罪がもたらす「永遠の死」から救うためです。ところが、人間は光であるイエスを受け入れません(10-11 節)。罪の結末が死であることを知りながら、光ではなく闇を愛し、神様に反抗するのです。しかし神様は、そんな私たち人間に対して、ある約束を与えて下さいました。

救い主は「私たちを神様の子どもとするため」に生まれた

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとなる特権をお与えになった。これは救い主イエス様を信じ、受け入れるなら、その人は神の子どもとなるという約束です。「神の子どもとなる特別な権利を得る」これが、イエス様が私たちの為に生まれて下さった目的です。神の子どもとされた人には、永遠の命が与えられます。なぜなら、神様はこの世界を造られる以前から存在されているお方、永遠に生きておられお方だからです。あなたという存在は、死んでもなくならない。あなたはあなたとして、神様と共に永遠の生きるのです。しかしながら、 「神様の子どもとなれる、永遠の命を得ることができる」と聞いても素直に受け入れられないかもしれません。「神の子どもとなること、永遠の命を得るよりも、今起きてる数々の困難を何とかしてほしい」そう思われる人がほとんどかもしれません。確かに、今日私たちを取り巻く環境は決して良い状況にはありません。貧困や物価高騰といった問題も身近にあります。しかし神様は、私たちの生活を考えて下さらないお方ではありません。神様は私たちの苦しみを知り、痛みを知し、求めを知っておられるお方です。大切なのは、うわべだけで神様を理解しようとするのではなく、神様を知ることです。神様が私たちをどう思っておられるのか、本当に知った時、キリストが私たちのために生まれてくださったことの本当の価値を理解することができます。そして、このキリストが私たちの現実のあらゆる問題にも大いなる力を持って介入して下さることを必ず体験することができるのです。クリスマスの今日、あなたの為に生まれてくださった救い主に、そして救い主を遣わされた神様に心を向けてみてはいかがでしょうか。

今日のお花は、ドラセナ、オリエンタルユリ(マロン)、アルストロメリア、スプレーカーネーション、飾り枝です。

2023年12月17日 主日礼拝メッセージ

「花婿を迎えに」マタイの福音書 25:1-13   金田ゆり牧師

アドベントは、クリスマスにお生まれになったイエスが、再び地上においでになる再臨を待ち望む時でもあります。旧約時代の人々がクリスマスを待ち望んでいたように、新約時代を生きる私たちは、イエスの再臨を待ち望む終わりの時代を生きているのです。

1. 賢い娘たちと愚かな娘たち (1~5節)

イエスは婚礼のたとえを通して再臨について語られます。当時の婚礼では、花婿が花嫁を迎えに行く時、花嫁のお付きの娘たちが花婿を迎えに出ました。花婿の到着が遅れた場合、ともしびに灯りをともして迎え、婚礼会場まで付き添うのです。10人の娘の内5人は賢く、花婿がどんなに遅くなろうと、いつ来ても灯りを絶やさぬよう、油の用意をしていました。しかし、愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが何の準備もしませんでした。花婿が来る、いつになるかわからない、と全員が同じことを聞いたのに、準備をする、しないで結末が全く変わってしまうのです。

2. 突然来た花婿 (6~12節)

夜中になり娘たちが眠ってしまった時、突然、花婿がやってきました。夜中に起こされるというのは誰でも驚くものですが、イエスは、花婿が突然やってくることを強調しておられます。賢い娘たちは喜んで花婿を迎えましたが、愚かな娘たちは、その時点で既にともしびが消えかかっています。賢い娘たちに油を分けてもらおうとしますが、その分はなく、買いに行きます。その間に花婿は来てしまい、追いかけましたが、会場の戸は閉められてしまったのです。

3. 喜んで花婿を迎える者でありたい (13節)

油を用意している、いないは、具体的に何を意味するのでしょうか。それは、花婿を迎えることに関心があるか、ないかなのです。賢い娘たちの一番の関心事は、花婿を迎えることであり、日々心を向けて歩んでいたのです。しかし、愚かな娘たちは、うっかり油を忘れたのではなくて、関心を向けていなかったのです。他に関心事があっても良いのです、しかし、花婿を迎える準備がおろそかになる、忘れてしまうような関心事が心を支配していることはないでしょうか。また、愚かな娘たちは油を分けてもらおうとしましたが、花婿なるイエスを迎える準備は、他の誰かにあげたり、貰ったりはできないのです。

イエスが再び来られるとき、私たちは大勢の人々に紛れてお迎えするのではなく、あなた自身が、イエスと顔と顔を合わせてお迎えするのです。目を覚ましていなさい、花婿をいつでも迎えに出られるように備えていなさい。それは、日々の生活をおろそかにすることではありません。どんな時も主と共に歩み、御言葉を聞いて行う歩み。毎週の礼拝も日々の主との交わりも、大切な備えと言えるでしょう。備えができている者にとっては、最高の喜びの日です。共に、喜びをもって、花婿なるイエスを迎えに出ようではありませんか。

今日のお花は、ドラセナ、オリエンタルユリ(マロン)、アルストロメリア、スプレーカーネーション、飾り枝です。

2023年12月10日 主日礼拝メッセージ

「メシア預言II~希望の萌芽(ほうが)~」イザヤ書 11:1-5   金田洋介牧師

預言者イザヤが活動した時代、南ユダは大変苦しい状態にありましたが、これらの原因はみな、彼らの背信と偶像礼拝の罪が招いた結果でした。しかし、神様はご自身の御力をもってアッシリアの脅威から救って下さるというのです(イザヤ 10:33~34)。このお言葉通りに南ユダは難を逃れることができました。ところが、背信と偶像礼拝の罪から一向に離れることができない南ユダは、後に神様の裁きの結末としてバビロンに滅ぼされ、まるで切り倒されて切り株しか残っていない、死んだも同然の状態に陥ってしまいます。しかし、そのような絶望的な状況にあっても決して失われない希望の萌芽(ほうが=芽生え)が訪れることをイザヤは告げます。

メシア預言~希望の萌芽~

11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。エッサイとはダビデ王の父の名です。彼は平凡な一羊飼いにすぎませんでした。「エッサイの根株」とは、死んだも同然の切り株、すなわちこの世的には低く見られ、顧みられないようなところから、偉大なダビデ王に遥かに勝るメシア(救い主)が誕生することを意味しているのです。約2000年前、イエス様は家畜小屋で、人知れずひっそりとお生まれになられました。しかし、このお方こそ、どのような絶望的状況にあっても決して失われない希望の萌芽(ほうが=めばえ)、救い主なのです。

主の霊がとどまるお方

エッサイの根株からお生まれになる救い主は、「その上に【主】の霊がとどまる」(2節)とあります。その預言が成就したことが福音書に記されています(ルカ 3:22、4:18)。そして、救い主(イエス様)は(1)「知恵と悟りの霊」(2)「思慮と力の霊」(3)「【主】を恐れる、知識の霊」に満ちておられると告げられています。(1)イエス様は、過去のことも未来のことも、全てを計算に入れた上で、現在を見つめ、ご自身のご計画を進められるお方。(2)あらゆることを深く考えて最善の計画を立て、神様の御力をもって実行されるお方。(3)単に知識として神様を知っているというのではなく、深い人格的な交わりによって、父なる神様がどのようなお方であるかを知っているということです。

この主の霊に満たされたイエス様が、あなたの救い主となって下さるお方です。これほどのお方があなたの人生の全てに関わり、折にかなった助けと導きをもたらして下るとは何と幸いなことでしょうか。たとえ、切り株のような人生に陥っても(自分の力で切り倒される前の状態に戻ることも、改めて新しい芽を生やす力すらわかないほどの落ち込み、絶望の状況に追いやられたとしても)、イエス・キリストによって私たちの内に希望が芽生えるのです。救い主イエス様は素晴らしい神様の霊と力に溢れ、今も、これからも私たちを守り導いて下さるお方です。私たちのために生まれて下さった救い主の誕生を心から祝いましょう。

今日のお花は、ユリ(イエローウィン)、スプレーストック、カーネーション、モンステラです。

2023年12月3日 主日礼拝メッセージ

「メシア預言Ⅰ~揺るがない勝利~」創世記 3:14-19   金田洋介牧師

今週からアドベント(待降節)に入りました。第一週は創世記から「原福音(聖書最初のメシア預言)」と呼ばれる箇所を開いて参ります。

罪の始まり

神様はエデンの園の中央にいのち木と善悪の知識の木を生えさせました。そして、アダムに「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(2:16-17)と言われました。「思いのままに」という言葉から、人間は自由に決断し、選択することができる存在として造られたことが分かります。そしてそれは、神様から与えられた自由意志を、神様の言葉を守り、従うことに用いることを神様が望んでおられたということ。何が善で何が悪かを定める判断基準は神様のものであり、神様の領域であるということ明確にするためです。ですから、神様の言葉に従わずにこの木の実を食べるということは、人間が神様に代わって自分勝手に善悪の判断をし、自分の意のままに生きると、自分(人)が神のようなることを意味しています。しかし、アダムとエバはヘビ(サタン)に惑わされ、善悪の知識の実を食べてしまいます。二人はヘビ(サタン)の言葉に従い、神様に逆らう罪を犯したのです。彼らが罪を犯した瞬間から、人と人との関係、人と神様との関係が破壊されてしまいました。

メシア預言~揺るがない勝利~

そして本日の箇所に入り、神様はヘビすなわちサタンを呪います。3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」おまえとはサタンのこと。女とはエバや人を指します。神様はエバ(人)とサタンとの間に敵意を置くと言われました。それは、エバ(人)が神様に敵意を向けてしまったことを修正され、罪に誘い、神様に背かせるサタンにこそ敵意を持つようにエバ(人)の歩みを正して下さるという約束です。そして、女の子孫とは、エバの子孫から生まれるイエス様のことです。「彼のかかとを打つ」とは、サタンがイエス様を十字架に追い詰め、苦痛を味わわせ死なせることを意味しています。しかし、それはかかとを打ったにすぎません。なぜなら、イエス様は十字架の死から復活されました。死に打ち勝たれたのです。そして、イエス様はサタンの頭を打ち(砕き:口語訳)とありますように、イエス様はサタンに完全に勝利されるのです。この勝利は絶対に揺るぎません。
イエス様がサタンに完全に勝利される日まで、サタンの惑わしや攻撃は続きます。また、誰もが持つ原罪と罪がもたらす数々の苦悩と苦痛との戦いも続きます。しかし、2000年前に誕生されたイエス様は十字架の上で私たちの身代わりとなり、呪われた者となって下さいました(ガラテヤ 3:13)。救い主イエス様を信じる者はどんな罪も赦され、死んでも生きる永遠の命が与えられるのです。今年のクリスマスもこの救い主の誕生を心から祝いましょう。


今日のお花は、トルコキキョウ、丸葉オリーブ、スターチス、アルストロメリアです。

2023年11月26日 主日礼拝メッセージ

「あなたのためのプラチナシート」ルカの福音書 10:38-42   金田洋介牧師

先週に続き、福音書に出て来る女性の信仰者たちにスポットを当てます。今週はマルタとマリアの姉妹です。二人はイエス様を家に迎えようとしていました。

二人の行動

まず、マルタですが、大切なお客様をお迎えしたわけですから、「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず(40 節)」 、忙しくていました。イエス様をお迎えしたのですから、普段以上に心を配っていたことが容易に想像できます。マルタにとって最も関心のあった事は、「イエス様をどのようにおもてなしするか」でした。一方、マリアは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入って(39 節)」いました。おもてなしのことで落ち着いていられない姉をよそに、自らは何の接待もせずに、ただ座って静かにイエス様の御言を聞いていたのです。その態度は、まるで師の教えを聴く弟子の姿のようでした。

必要なことは一つ~本当になくてならぬもの~

何もしないマリアに対し、姉のマルタは怒りを爆発させます。そして、「妹に自分の手伝いをするように言ってください」とイエス様に求めました。マルタの頭の中はイエス様の御言葉を聴くことよりも、もてなしの事で頭が一杯だったのです。イエス様は、色々なことに心を配り過ぎて落ち着かないマルタに向かって「必要なことは一つだけです。」と言われました。つまり、彼女の心が乱れる原因となった思い煩い、すなわち接待のこと(おもてなしのこと)を全て脇に置いて、マリアのようにイエス様の御言葉に関心を払い、熱心にイエス様の御言葉を聞くことだと教えられたのです。

ありふれた日常生活の中に起こっている事々が、時に私たちの心を占め、御言葉が届かないほどになってしまうことがあるということを教えています。もしも、あなたの日常生活の中で、マルタと同じように、イエス様の御言葉が入る余地がないほどの思い煩いがあるならば、それを脇に置いて(そのことばかりを考えることを止めて)、静かに御言葉に耳を傾けてはいかがでしょうか。

あなたのためのプラチナシート

プラチナシートという言葉をご存知でしょうか。簡単に言いますと特等席のことです。イエス様と共に過ごす時間、すなわち御言葉を読み(聴き)、思い巡らす、その様な素晴らしい時間を、神様があなたのために用意しておられるのです。その時間や場所に制限はありません。いつでも、どこでも用意されています。自分の部屋。車の中。カフェの席。公園のベンチ。今座っている場所。パソコンの前。ベッドの上。教会の座席もそうです。御言葉を求めて他の場所と、他の時間とを聖別した全てが、あなたのためのプラチナシートなのです。

どうか、御言葉に関心を持ち、当時の常識を覆すほど御言葉を求め、聴き入ったマリアの姿に倣い、心を静め、御言葉に聴き入る姿を共に目指していこうではありませんか。

今日のお花は、カスミソウ、トルコキキョウ、オリエンタルユリ、ブプレリュームです。