説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2019年6月16日 主日礼拝メッセージ

「何があっても諦めない父なる神」 ルカの福音書15章11~24節

父の日である今日、天のお父さんである、神様がどういうお方なのかを、放蕩息子のたとえ話から学んでまいりましょう。

ある人に二人の息子がいました。ある日、弟息子が父親に自分が将来いただくことになる財産を求めました。父親がまだ生きているにもかかわらず、財産を求めることは異例であり、とても失礼な話です。ところが父親は、彼の求めに応じて財産を与えました。すると弟息子は、「すべてのものをまとめて(新共同訳:金に換えて)」旅立って行ったのです。大金を手にし、自由気ままに過ごしていた弟息子でしたが、やがて全てのお金を使い果たし、おまけに激しい飢饉が起こったことによって、食べるのにも窮します。何とか就いた仕事は、ユダヤ人がしない豚の世話をする仕事。彼はその豚の飼料に手を出したいと願うほど困窮していましたが、彼を助けてくれる人はいません。憐れな弟息子。しかし彼は、全てを失った事によって我に返り、父のもとに帰ることを決心します。彼は自分の過ちを認め、自分のいるべきところは父親の所だと気付いたのです。弟息子は父に対する謝罪の言葉と、雇人の一人として扱ってもらうことを心に定め、父のところへと向かいます。

一方、弟息子の帰りをずっと待っていた父親は、遠くにいる息子を見つけると、自分の方から走り寄って彼を抱きしめ、喜んで迎え入れたのです。弟息子は心に決めていた謝罪と悔い改めの言葉を父親に伝えました。彼はもう一つの決心を伝えようとしますが父親はそれを遮り、僕たちに彼の身なりを整えさせ、祝宴の用意をするよう命じます。弟息子が父親の息子としての身分を回復した瞬間でした。何もかも失い、父親に何一つ返すことができなかった弟息子でしたが、父親は彼が自分の過ちを認め、帰る決心をし、悔い改めた、ありのままの息子を最上の愛で迎え入れたのです。

この譬えは、天の父なる神様の側にいることこそ幸いであること、そして、天の父なる神様は、この世に心を奪われて放蕩するような、不信仰、不従順な私たちの帰りを、何があっても諦めないで、待っておられることを教えています。「もう少し信仰を、生活を見直してから帰ろう」ではなく、心に示されたその時が、神様の時です。何があってもあなたの帰りを待っておられる愛の神様のもとに帰り、留まりましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、アレカヤシ、ゆり、スターチス、グロリオーサです。

あじさいの美しい季節になりました。教会の庭にも赤紫色のあじさいが咲いています。今年の梅雨入りは異例の遅さですが、水不足にならないように祈りたいと思います。

2019年6月9日 主日礼拝メッセージ

「失望と希望の中に望まれた聖霊」 使徒の働き 1章12~14節、21章1~4節

イエスが約束された、父なる神から与えられる聖霊を待ち望んでいた弟子たち。時は五旬節、心を一つにして祈っていた彼らに聖霊が降られたのです。

Ⅰ.失望の中の希望

弟子たちはイエスの言葉どおりにエルサレムに戻りましたが、彼らにとってエルサレムは、イエスを裏切ったという大失敗の記憶が残る町であり、また身の危険が及ぶ町でもありました。できることなら早々と立ち去りたい町に彼らが留まった理由はただ一つ、イエスが語られた神の約束という希望でした。集まった人々は皆、イエスを裏切った弟子たち、イエスを神の子救い主と信じ抜くことができなかった人達です。彼らは自分に対する失望と弱さに嫌というほど向き合い、ただ一つの希望である聖霊を求めて、祈りに専念したのです。イエスは「どうして求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」と言われました。心からひたすらに聖霊を祈り求めるなら、必ず与えられるのです。

Ⅱ.聖霊が降ったペンテコステ

時は五旬節、突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のように分かれた舌のようなものが現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに色々の他国の言葉で語りだしたのです。

ペンテコステの日、助け主であり、真理の霊である聖霊が与えられました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。また聖霊の力が働く時、私たちは神の御言葉に目が開かれ、神の御心を知ることができるのです。このような素晴らしい聖霊の恵みは、求める全ての人に与えられます。しかし、神の御言葉や御心を無視して自己中心に生きるなら、聖霊の恵みに与ることはできません。御霊の神中心の生き方にシフトし、あなたの人生のハンドルを聖霊なる神に握っていただくのです。そうするなら、聖霊の素晴らしい御力を体験し、御霊の実を結ぶクリスチャンに変えられていくのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ナツハゼ、テッポウユリ、オンシジューム、スターチス、あじさいです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週のメニューは、カレーライス、野菜の浅漬けです。料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2019年6月2日 主日礼拝メッセージ

「生きるにしても、死ぬにしても」 ピリピ人への手紙 1章12~21節 金田洋介牧師

パウロはピリピ教会の信徒らに、獄中にある自分を支えてくれたことの感謝、彼らの成長に対する喜び、そして自らの証しも加えてこの手紙を送りました。特に本日の箇所では、彼がキリストを伝えたことによって捕らえられたことが福音の前進につながったことの証しと、彼の大胆な信仰告白が綴られています。

パウロの告白~全てはキリストが崇められるため~

パウロはイエスを伝えたことによって捕らえられ、軟禁状態になってしまいました。ところが、彼のもとに出入りする人々を通し、また、彼を見張る兵士たち(皇帝直属の兵士たち)を通して、イエスの福音が広がる結果になったのです。中には、パウロに対抗して伝える人も起こされる事態に。パウロは「 たとえ純粋な動機ではないにせよ、結果的に復活されたキリストが伝えられているのだから、私はそれを喜んで」いました。さらにパウロは、生きるにしても、死ぬにしても、キリストが崇められることを切望していると告白しました。それはすなわち、彼の人生の全てを指しています。「良いことも悪いことも、成功も失敗も、長所も短所も、誉れも恥も、たとえ死ぬことになったとしても、すべてがキリストの素晴らしさを伝えることに用いられるように」ということです。

新しい人生の目的~生きるにしても、死ぬにしても~

パウロの姿から、イエスを救い主として信じた人には新しい人生の目的が与えられることが分かります。それは、自分の人生をキリストが崇められるために生きるという目的です。強さも弱さも、成功も失敗もみな、キリストが崇められるために用いられるのです。ただし、御霊を無視し、自分中心に歩むなら、成功による誉れはその人にだけしかとどまりません。そして、失敗は失敗としてしか残りません。しかし、御霊を中心に、また神の御言葉を中心に歩んで行くなら、成功はもちろん、失敗でさえも神の栄光のため、神の御名が崇められるための証しとなるばかりか、全てを益に変えてくださる神の御力が現されていくのです。

「生きるにしても、死ぬにしても、ただキリストが崇められるように」と、告白できる信仰者とならせていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ゆり(カサブランカ)、ひまわり、グラジオラス、モンステラです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、血管イキイキ鯖缶寿司、お吸い物です。鯖は梅肉で和えてあり、さっぱりといただけました。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

 

 

2019年5月26日 主日礼拝メッセージ

「神の国を継ぐ者~御霊によって歩きなさい」 ガラテヤ人への手紙 5章16~26節 金田洋介牧師

パウロの伝道によって増え広がったガラテヤの諸教会は、違った福音(1章6節)によって正しいキリストの福音が曲げられ、惑わされていました。パウロは彼らを戒めるとともに、御霊によって信仰生活を歩んでいくことを勧めました。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。5章16節 「肉の欲」とは、御霊の働きや介入を拒絶する思いと主の御言葉に反抗する生き方、そしてそこから生まれる自己中心に生きようとする欲求のことです。肉の欲は御霊と対立し(17節)、醜い罪となって現れ(19~21節)、罪に囚われ続け、神の国を継ぐことができなくなってしまうのです。

御霊によって歩むとは

御霊を①認識すること。御霊が共におられ、見ておられると認識するのです。②信頼すること。御霊は傍らに立ち、あなたを助けてくださるお方です。③御霊に相談すること。どんなに易しいことも、難しいことも相談するのです。④御霊に従うこと。御霊は御言葉を通し、あらゆる人を通して教えてくださるお方であり、御霊自身が警告を与えられます。示されたのなら素直に従いましょう。⑤御霊に歩調を合わせて進むこと。自分のペースではなく、御霊のペースに合わせて信仰生活を歩むのです。時には待ち、考え、自らの歩みが神の御心に適っているかを吟味しながら、御霊と共に歩むことです。しかし これらの歩みは、一朝一夕で身に着くものではありません。日ごとに神の御前で静まり、祈り、御言葉に養われることが大切です。罪を示されたなら素直に罪を認めて悔い改めイ、エスの十字架を仰いで行くのです。そして、忘れていけないことは、御霊によって歩んでいても、誘惑が無くなるわけではないことです。御霊に逆らう思いが起こったり、罪に誘う悪魔の試みは常にあります。しかし、恐れてはなりません。神の介入を受け入れ、御霊によって歩み続けるなら、肉の欲という御霊への反抗、自己中心な歩みへの欲求、罪の行いに身を委ねようとする欲求に打ち勝つことができると聖書は約束しています。地上の歩みにおいては御霊の実を結び、後の世においては神の国を継ぐ者とされたいのなら、御霊によって歩きなさい!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、デルフィニュウム、グラジオラス、オリエンタルユリ、ひまわりです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、丸天うどん、ご飯、お漬物です。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。
初めての方も無料です。

 

 

2019年5月19日 主日礼拝メッセージ

「責められるところのない者として下さる神」 テサロニケ人への第一の手紙 5章23~24節 金田洋介牧師

パウロがテサロニケ教会に宛てた手紙です。パウロは教会が患難の中でも成長し、他の模範となっていることを喜んでいますが、その一方で幾つかの問題点を指摘しています。特に問題だったことは彼らのきよめのことでした。パウロは不品行を慎むように勧め、警告し(4章)、彼らの信仰の不足を補うために、顔と顔を合わせて伝えることができるように祈っていました。

偶像と罪が溢れていたテサロニケは、今日の私たちの環境とよく似ています。神はパウロの祈りの言葉を通して、私たちに語っておられるのです。

Ⅰ.きよめとは

「きよめ」は聖書にある「聖霊のバプテスマ」や「聖霊の満たし」のことです。以前、きよめとは神への完全な明け渡しであると語りました。自我が心の中心に居座るのではなく、聖霊なる神を全ての中心に置くのです。つまり、あなたの心の思いや意思、感情、価値観、行動、問題、罪、性質、性格といった、あなたの全領域に神が介入されることを受け入れるのです。あなたが神の介入を心から願い求めて明け渡すなら、神自ら働いて下さり、きよめの恵みに与ることができ、最後には神の御心と御言葉に喜んで従うことのできる者へと変えられるのです。

Ⅱ.責められるところのない者にしてくださる神

さらにパウロは、私たちが責められるところのない者として、神ご自身がきよめを保ち続けて下さると伝えています。聖霊なる神に満たされ、きよめられた後も、私たちは生来持つ弱さや、性質、性格の故に、罪の誘惑に襲われることがあります。しかし、きよめに与る者は神の介入を心から受け入れることができ、誘惑があっても罪に支配されず、たとえ過ちを犯してしまっても、常にイエスの十字架の贖いの恵みによって悔い改め、歩み直すのです。そして神ご自身が、責められるところのない者として、あなたを保ち続けて下さるのです。

きよめの恵みに与らせて下さる神は真実なお方です。真実な信仰をもって神を信じ、全生涯、全領域を神に明け渡し、神に介入していただきましょう。そして、神の御旨に生きる幸いな日々を歩ませていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、アリアム、ヘリコニア、グロリオーサ、ユーカリです。

2019年5月5日 主日礼拝メッセージ

「あなたの幸せを願われる神」 申命記6章1~9節  金田洋介牧師

1~3節は、これからモーセが語ろうとしている6章全体の言葉を要約したものです。①これから語る命令がモーセ自身からではなく、イスラエルをエジプトから導かれた神ご自身からの命令であること。②この命令はこれを聞く民だけでなく、彼らの子や孫の世代も共に守るべき命令、後の世代にも及ぶ命令であること。③この命令を神様が与えられたのは、命令を守る事によって彼らが祝福を受けるため、幸福な人生を過ごすことを目的として与えられたこと。

モーセは神の命令を、次世代も守り行うように強く勧めました。そして「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と、全身全霊を持って神を愛し、神の言葉を心に留めるようにと命じます。それは、神の命令や神の御言葉を守ることは、神を第一に愛することであり、神を第一に愛することは、神の命令、神の御言葉を守ることだからです。そして、今を生きる私たちにも、主なる神を心から全力で愛すること、すなわち神の言葉を守ることが求められているのです。

さらに、神は私たちの幸福の為に、ご自身の言葉を守るように命じておられます。主なる神はイスラエルの民だけにとどまらず、神を信じる全ての人々の祝福を願っておられるお方です。主なる神の命令と御言葉を、面倒に思ったり、煩わしく思ったりしてはなりません。素直に心を開き、耳を傾け、そして実行しましょう。それは、あなたを幸せな人生へと導く確かな道なのです。

最後に、神の命令と言葉を子や孫、次世代へと教え続ける使命があると語っています。私たちは神の命令、御言葉を守り行う事、神を心から愛する事の大切さを知りました。神から豊かな恵みを賜りました。私たちが体験した神の御言葉の真実、従う大切さと喜び、豊かな祝福の約束を、信仰というバトンに変えて、次世代に託していこうではありませんか。あなたとあなたの子孫の祝福を願われる神は、その場限りの祝福ではなく、永遠に至る祝福を与えることができる唯一の方なのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、白山木、ひまわり、アイリス、カラーです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、炊き込みご飯、ぎょうざスープ、キュウリの塩昆布あえ、です。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

 

2019年4月28日 主日礼拝メッセージ

「永遠の命を獲得しなさい」 テモテの手紙第一 6章7~16節 金田洋介牧師

真愛教会では、召天者を記念して一年に一度、 記念礼拝の時を持っています。先に天に召された敬愛する兄姉の在りし日を思い起こし、偲ぶ時としています。本日は信仰を全うされた先輩たちが握った聖書の御言葉を、私たちも共に分かち合って参りましょう。

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前で素晴らしい告白をしました。

パウロはテモテに、神よりも金銭を愛し追い求める生活、そして、ねたみや争い、ののしり、邪推(自分に悪いことを考えているのではと疑うこと)といったものを避けるように指導するよう教えました。避けるべきものを踏まえた上で、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めるよう勧めたのです。

義と敬虔と信仰は神に対するもの、愛と忍耐と柔和は人に対するものと言えるでしょう。義とは、神の御言葉を土台とする生き方であり、神との関係において誠実に生きることです。敬虔と信仰とは、天地創造の神のみを信じ、畏れ敬いつつ生きることです。一方、愛、忍耐、柔和は今さら説明する必要はないと思いますが、愛は神から与えられるものですので、神の愛の特徴である与え尽くす愛、見返りを求めない愛を追い求めていくのです。続いて忍耐ですが、愛を全うするためには忍耐が必要です。最後の柔和は、性格や性質が穏やかなさまという意味ですが、どんな相手であっても、態度を変えることなく柔和でいられるよう求めていくのです。これらは、自分の力や努力によって結ぶものではなく、聖霊によって結ばれる実です。日々、聖霊様の助けによって歩むことを求めましょう。

最後にパウロは、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠のいのちを獲得するよう勧めました。そうです、先に天に召された兄姉たちは、この永遠のいのちの望みを信仰によって握り、生涯をかけて神と共に歩む新しい命の人生を歩み抜かれたのです。私たちも、いつも共におられる神と共に信仰生活の日々を歩み、信仰の戦いを立派に戦い抜いて永遠のいのちを獲得しようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が生けられています。
今週のお花は、デルフィニウム、グラジオラス、アイリス、マトリカリアです。

この日は昼食の後、桃尾墓園にある教会の納骨堂にて、墓前礼拝もささげられました。

遅くなりましたが、4月21日のお花です。
オオデマリ、ピンポン菊、ストック、トルコキキョウです。

2019年4月21日 主日礼拝メッセージ

「よみがえられた主イエス」 マタイの福音書28章1節~14節 金田洋介牧師

イースターおめでとうございます。復活されたイエスの御名を賛美します。世界中で祝われるイエスの復活は、私たち一人一人に関わる大切な出来事です。

イエスが十字架の上で死なれてから三日目の朝、女弟子たちがイエスの納められた墓へと向かう途中、大きな地震が起こりました。天から降って来た主の使いが、イエスの墓を塞いでいた大きな石を動かしたからです(2節)。主の使いは彼女たちにイエスがかねてから言っておられた言葉が実現し、イエスが復活されたこと、そして、ガリラヤでイエスにお会いできることを弟子たちに伝えるよう告げました(5~7節)。 彼女たちは、喜びながら弟子たちのもとに走って行きました。すると、今度はよみがえられたイエスが彼女たちの前に現れました(9節)。そしてイエスも、弟子たちにガリラヤに行くように伝えなさいと、彼女たちに念を押して命じられたのです。イエスが復活された朝、素晴らしいことが起こりました。女弟子たちの絶望が希望に変わったのです。よみがえられたイエスを信じる者に、神は希望を与えてくださいます。その希望とは、罪と死の問題からの勝利です。イエスを信じる者は罪赦され、死は終わりではなくなり、永遠の命が与えられるのです。それが、神が私たちに与えてくださった希望、約束なのです。

最後に、イエスと御使いはガリラヤに行くように命じました。これはイエスが十字架にかけられる前にも語られていた言葉です。この言葉にどのような意味が込められているのでしょうか?ガリラヤはイエスの宣教の中心の場所であり、生活の中心となった場所です。「そこに行け、そこにわたしはいる。わたしに会える」と言われました。つまり、あなたの生活のただ中に、主イエスはおられるということです。喜びも、楽しみも、悩みも、痛みも、苦しみもある、あなたの日常の中に主イエスはおられ、そこでイエスにお会いできる。すなわち、イエスの御力に、ご栄光に与れると言う約束です。イエスは十字架で死んで終わったお方ではありません。よみがえられ、生きておられるのです。そして、あなたと共におられるのです。このお方が私たちの神であり救い主であるとは何という幸いでしょうか。「すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」(ローマ人への手紙10章11節)

この日は、地域の子どもたちを教会にお招きして、「イースターまつり」を行ないました。
みんなでイースターのお話を聞きました。

お話を聞いた後は、みんなでゲームをしたり…

各ブースに分かれて、輪投げをしたり…

射的をしたり…

いろいろ食べたり…

アームレスリング大会などもあり…楽しい一日でした。

 

 

2019年4月14日 主日礼拝メッセージ

「この人を見よ~十字架の上のイエス~」ルカの福音書 23章32~47節 金田洋介牧師

今年も受難週を迎えました。受難週は私たち一人一人の罪の為に十字架へと向かわれたイエスの受難を深く覚える大切な時です。本日は特に十字架の上のイエスの姿から学んでまいりましょう。

第一に、十字架の上で祈られたイエスの姿です。イエスは十字架の上で七つの言葉を語りました。その最初の言葉は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。(34節)これは神への祈り、しかもイエスを十字架へと追いやり、イエスの心と体を痛めつけた者たちの為のとりなしの祈りでした。さらにこの祈りは、神に、イエスに、周囲の人々に罪を犯していながら「分かっていない」私たちに対する祈りでもあるのです。

第二に、神の御心に従順であられたイエスの姿です。十字架の上のイエスに向かい「自分を救ってみろ」と罵る者たちがいました。この言葉はイエスにとって大きな誘惑でした。何故なら、神の御子イエスにはそれが容易にできたからです。しかし、十字架から降りるということは、全人類の罪の身代わりとなるという神の御心に反することになります。イエスは愛する神の御心に従い、また、愛する私たちの為に十字架の上で苦しまれたのです。

第三に、罪を赦す権威を持つイエスの姿です。イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人は、イエスの正しさと自分の犯した罪を認め、イエスこそ来るべき救い主であることを告白しました。イエスは彼の信仰告白を聞かれ、罪の赦しと救いを宣言されました。イエスこそが罪を赦す権威を持っておられる神の御子であり、神ご自身なのです。

十字架の上でイエスは、私たちの罪の為に苦しみ、悶えられ、神に捨てられるという絶望を味わわれました。神の御子イエスを十字架につける程に私たちが罪深いこと、このイエスの犠牲によって私たちが救われたことを心に深く覚え、心から感謝しましょう。

『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、リョウビ、ゆり、トルコキキョウ、菊です。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、カレーライス、野菜の浅漬けです。料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。
また今日は、教会の裏山に生えたタケノコを、金田先生があく抜きして、信徒に配ってくださいました。感謝!

 

 

2019年4月7日 主日礼拝メッセージ

「主イエスが結ばれた新しい契約」 マタイの福音書26章26~30節 金田洋介牧師

聖書箇所はイエスと弟子たちの最後の晩餐の場面です。この最後の晩餐の出来事は過去の話ではなく、今を生きる私たち一人一人に関わる事なのです。

イエスは一つのパンを割き、弟子たちに分け与えて言われました。「取って食べなさい。これは私のからだです。」割かれたパンは、一人一人のために死なれるイエスのからだを表していました。 このパンに譬えられたイエスの体は、この後十字架に両手両足を太い釘で打ちつけられることになります。

次にイエスは、ぶどう酒の入った杯を一つ取り、言われました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。杯に注がれたぶどう酒は、全人類の罪の身代わりのために、イエスが十字架の上で流される血を表していました。さらにイエスの血は、新しい契約を意味しています。その契約とは、イエスとあなたとの間に結ばれる契約です。聖書は、人は生まれながらに罪人であり、罪がもたらす結末は死と永遠の滅びであること、そして、罪は血を流すことなしに(ヘブル9章22節)、すなわち、命を犠牲にしない限り許されないと語っています。イエスが来られるまでは、動物の血(命)をもって罪を贖いました。しかし、イエスが結んでくださった新しい契約は、神の御子イエスご自身の血を、命を持って結ばれた契約です。このイエスの血(命)による契約を信じ、「イエスが十字架の上で流された血は、私の罪の身代わりです」と告白する全ての人に、神は罪の完全な赦しと救いを与えてくださるのです。

最後にイエスは、ご自身が十字架の死から復活され、天に昇られるが、再び地上に降りて来られること、そして、神の国で共に食卓に着く日が来ることを教えられました。この約束はイエスを信じる全ての人に与えられている約束です。今日、教会において聖餐式が行われているのは、イエスと共に御国の食卓に着くその日まで、私達の罪の身代わりとして十字架の上で裂かれたイエスの体、流された血を決して忘れないため、記念するためなのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、おおしまさくら、トルコキキョウ、アルストロメリアです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、五色どんぶり、そうめん汁です。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。