「健やかな信仰」箴言4章20節~27節 金田洋介牧師
ある人は自分の身体のために心を配り、健康維持に努めます。その一方で、
信仰を健やかに保つためには、神の御言葉をよく聞くことから始まり
次に、力の限り心を守らなければなりません。23節に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、ここから流
私たちのの周りには、神の御言葉を妨げるもの、引き離すもの、聞こえなく
ある人は自分の身体のために心を配り、健康維持に努めます。その一方で、
信仰を健やかに保つためには、神の御言葉をよく聞くことから始まり
次に、力の限り心を守らなければなりません。23節に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、ここから流
私たちのの周りには、神の御言葉を妨げるもの、引き離すもの、聞こえなく
アクラとプリスキラ夫婦の信仰姿勢から学びましょう。
まず、彼らは伝道者パウロを命懸けで支えました。アクラは、アテネでの伝道が失敗に終わり、ひどく怯え、弱り果てていたパウロを
次に、彼らは学んだことを活かし用いました。アクラたちがエペソにいた時、アポロという雄弁家の人物に出会います。ところが、アポロがヨハネのバプテスマしか知らないということを聞いたアク
パウロは、アクラ夫妻を同労者と呼びました。私たちもアクラたちのような信仰
礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週のメニューは、丸天うどん、ゴーヤとベーコンの苦くないサラダです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。
この詩篇は、ダビデの恐ろしい罪と過ちが背景にあります。しかしダビデは、神の大いなる憐みによって罪の赦しをいただきました。ダビデはこの詩篇を通して悔い改めの大切さと、罪が赦された恵みと
罪赦される恵み(1節~2節)
まず、ダビデは1~2節で、主なる神に罪を許された彼自身の体験を告白
罪を隠していた時の苦しみ(3節~4節)
3節~4節は、罪を告白する前のダビデの苦悩です。「言い表さなかった」とは、神の前に罪を隠している状態です。「あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かった」という表現の中に、悔い改めを
認罪と悔い改めと神の赦し(5節~7節)
「その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。」(5節)この「ゆるされた」とは、神の
教訓的勧め(8節~11節)
ダビデは自分の失敗と神の赦しの経験を通し、神の前に頑なであってはな
今日、私たちはイエスの十字架の贖いによってもたらされた救いによ
CS サマーキャンプのテーマに合わせて本日のテキストを開いています。
①では、群れからはぐれた一匹の羊を見捨てず探し出した羊飼いのたとえ話か
②では、私たちはみな神の前に罪人であり、罪の結末は永遠の死と滅びで
そして③のメッセージに入ります。私たちのために十字架に死んでくださったイエスは今も生きておられ、今も
イエスはあなたの心の戸を叩いておられます。もし、あなたが心を開いてイエスを迎えるなら、永遠の命と、神と共に生
すでにイエスの前に心の戸を開かれたあなたの心は、常に開かれている
きよめ派連合聖会の3回のメッセージから語ってきました。本日で最後です。パウロはピリピ教会の信徒らに、獄中にある自分を支えてくれたこと
御霊によってつくり変えられた品性を通して
聖会において「私たちはキリストの拡声器、そして拡大鏡です」と語られ
罪へと誘う肉の欲(御霊に逆らう自我)に抵抗しなさい
神は御霊によって作り変えられた私たちの品性を通して、キリストが崇められるようになることを願っておられます。この神の御旨を全
熊本きよめ派連合聖会のメッセージから語っています。本日は2回目。ガラテヤ人への手紙からのメッセージ。パウロの伝道によって増え広がったガラテヤの諸教会は、違った福音(
「肉の欲」とは、肉体に備わっている自然的な本能ではなく、御霊の働きや介入を拒絶する思いと、そこから生まれる自己中心に生き
御霊によって歩むとは
1)御霊を認識することです。御霊が共におられ、見ておられると認識するのです。
2)御霊を信頼することです。御霊は傍らに立ち、あなたを助けてくださるお方です。
3)御霊に相談する。どんなに易しいことも、難しいことも相談するので
4)御霊に従うことです。御霊は御言葉を通し、あらゆる人を通して教えてくださるお方であり、御霊自身が警告を与えられます。示されたのなら素直に従いましょう。
5)御霊に歩調を合わせて進むことです。自分のペースではなく、御霊の
これらの歩みは、一朝一夕で身に着くものではありません。日ごとに神の
先月行われた「熊
Ⅰ.きよめとは
「きよめ」は聖書にある「聖霊のバプテスマ」や「聖霊の満たし」のこ
Ⅱ.責められるところのない者に
さらにパウロは、私たちが責められるところのない者として、神ご自
神はニネベの悔い改めをご覧になり、彼らに対する裁きを思い直さ
ヨナの書は神の問いかけで終わっていますが、限りない神の愛を知っ
神の御言葉の約束を信じ、限りない神の愛によって愛の実を広く、長く、
コロサイ3章には、エペソ人への手紙5章や、ペテロ第一の手紙2、3章でも語られているように、妻、父、子、僕(誰かのもとで働く人)についての勧めの言葉が綴られています。本日はこれらの勧めの言葉とともに、中心聖句の「あなたがたは、キリストに支えているのである」(24節)という言葉に注目したいと思います。
Ⅰ.主に仕えるとは、主と共に生き、主の御言葉に従うこと
主に仕える者とは、主イエスと共に生きる者、主イエスの御言葉に生きる者のことです。それまでは、自分の価値観によるところの人生を歩み、神を無視して自己中心に生きてきました。しかし、私たちはイエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によって主に仕える者、イエスの御言葉、聖書の言葉を土台として、神の御心に従って生きる者にされたのです。パウロは、「妻たる者よ、夫たる者よ、子たる者よ、父たる者よ、僕たる者よ」と呼びかけ、イエスに仕える者に相応しい生き方を教えています。神は私たちが必ず直面する夫婦間、親子間に代表される人間関係に平和をもたらせたいと願っておられるのです。まず、御言葉に対して、普段自分がどのように生き、どのような態度をとってきたかを顧みるところから始めましょう。
Ⅱ.主に仕える者が受ける報い
パウロは主に仕える者が受ける報いを語ります。主に仕える者(イエスと共に生き、イエスの御言葉に生きる者)は「御国をつぐ」(24節)というのです。御国をつぐとは、神の国で永遠に生きる命のことです。さらに、この報いの素晴らしいところは、神の御国が私たちの現実の生活にも現れるということです。御言葉にありますように、あなたの夫婦の間、親子の間、家庭や職場の中に、神の支配による平和と喜びに満ちていくのです。主に仕えることによってもたらされる報いは、生きている間も死んだ後も与ることができる神の祝福です。その一方で、パウロは不正を行う者はその不正に対して報いを受ける(25節)と注意します。不正とは不義とも訳される言葉で、神の前、人の前の正しくない行動や思い、すなわち罪を指します。聖書は、神は善悪ともに裁かれると語り、そこに差別扱いはない(25節)と語っています。
主に仕える者としての日々を歩み、現実と将来にももたらされる報いを頂きましょう。
魚の腹から吐き出されたヨナは、神から再び召命を受けます(2節)。以前
Ⅰ.すべてを裁かれる神
ヨナは、ニネベへの神の裁きを叫びました。ニネベの人々からすれば、ヨナを遣わされたイスラエルの神と自分たちと
Ⅱ.悔い改めの姿を見ておられる神
神の御言葉にはたましいを救う力があります。(ヤコブ 1章21節)。ヨナの言葉を聞い
Ⅲ.ニネベの罪を赦された憐れみ深い神
ニネベの人々の悔い改めをご覧になられた神は、「彼らの上に下そうと言わ