説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2018年8月19日 主日礼拝メッセージ

「健やかな信仰」箴言4章20節~27節 金田洋介牧師

ある人は自分の身体のために心を配り、健康維持に努めます。その一方で、自分の健康を過信し、身体に心を配ろうとしない人もいます。これは私たちの信仰にも当てはめることができます。もし私たちが、自らの信仰を健やかに保つことに対して努めるなら、いつも命に溢れる信仰生活を送れるでしょう。しかし、自らの信仰の健康を保つことに無関心でいるなら、不摂生を続けたことによって、身体に思わぬ大病を招くことがあるように、信仰も危機的状況に陥る恐れがあります。命に溢れる信仰生活どころか、クリスチャンとしての成長も止まってしまいます。では、どのようにしたら信仰を健やかに保つことができると聖書は言っているのでしょうか。

信仰を健やかに保つためには、神の御言葉をよく聞くことから始まります。20節「わたしの言葉に心をとめ、私の語ることに耳を傾け」とあります。すなわち、神の言葉をよく聞きなさいと言っています。イエスも「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである。」と言われました。ですから、霊の糧であるみことばを毎日読みましょう。御言葉によって霊の健康はもちろん、心身も健やかに保たれるのです。

次に、力の限り心を守らなければなりません。23節に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、ここから流れ出るからである。」とあります。心は全人格を表しています。神の御言葉によって私たちの心は育まれ、神の御心を行うことができるようになるのです。つまり、私たちの心にあるものが実生活の中に言動や行動となって現れるのです。ですから、普段の生活を顧み、健やかであるか点検することが大切です。

私たちのの周りには、神の御言葉を妨げるもの、引き離すもの、聞こえなくするもので溢れています。私たち自身の力で自分の心を守り切ることはできません。常にイエスに守っていただきましょう。そして、御言葉を信じ受け取り、神の御心を喜んで行う、健やかな信仰生活に励みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、パンパスグラス、ドラセナ、ピンクッション、トルコキキョウ、リンドウです!

2018年8月5日 主日礼拝メッセージ

「あなたは私の同労者」 使徒行伝18章1節~5節 金田洋介牧師

アクラとプリスキラ夫婦の信仰姿勢から学びましょう。

まず、彼らは伝道者パウロを命懸けで支えました。アクラは、アテネでの伝道が失敗に終わり、ひどく怯え、弱り果てていたパウロを家に迎え入れると、パウロと共に天幕作りに汗を流します。元気を取り戻したパウロは、安息日にイエスの福音を宣べ伝えるようになりました。やがて、シラスとテモテとの合流を機に本格的に宣教に専念します。アクラ夫妻はパウロが宣教に専念できるように、全面的にサポートしました。その結果、パウロはコリントで1年半の間、宣教に専念することができたのです。アクラ夫妻は、陰でパウロを支えることによって、共に宣教の使命を担いました。しかし、 宣教の使命を担うということは、喜びと共に苦しみも味わうということです。事実、アクラ夫妻は「命の危険を顧みず、わたしの命を守った」とパウロが告白しているように、命の危機に晒されます。それでも彼らは、忠実に主の働き人を支え、仕えたのです。

次に、彼らは学んだことを活かし用いました。アクラたちがエペソにいた時、アポロという雄弁家の人物に出会います。ところが、アポロがヨハネのバプテスマしか知らないということを聞いたアクラ夫妻は、彼を家に招き入れ、詳しく神の道を説き聞かせ(26節)ました。するとアポロは、これまでよりもさらに大胆に福音を語ることができるようになったのです。アクラ夫妻はパウロから学んだ霊的教育を十分に活かし用いたのです。

パウロは、アクラ夫妻を同労者と呼びました。私たちもアクラたちのような信仰者でありたいと願いますが、現実は簡単ではありません。同労者と呼ばれるに値しないとさえ思ってしまいます。しかし、たとえ私たちが、アクラたちの様にできなかったとしても、たった一度でも「主のために」とした働きをイエスは喜ばれ、その故に「あなたは私の同労者」と呼んでくださるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が生けられています。今週のお花は、パンパスグラス、テッポウユリ、りんどう、あじさい(ミナヅキ)です!

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週のメニューは、丸天うどん、ゴーヤとベーコンの苦くないサラダです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

 

2018年7月29日 主日礼拝メッセージ

「罪赦された恵みを喜ぼう」 詩篇32篇1節~11節  金田洋介牧師

この詩篇は、ダビデの恐ろしい罪と過ちが背景にあります。しかしダビデは、神の大いなる憐みによって罪の赦しをいただきました。ダビデはこの詩篇を通して悔い改めの大切さと、罪が赦された恵みと喜びを伝えています。

罪赦される恵み(1節~2節)

まず、ダビデは1~2節で、主なる神に罪を許された彼自身の体験を告白します。「とが」「罪」「不義」に表れる、神への反抗と背信、神の御言葉への不従順による罪(的外れ)の歩み、不道徳や不誠実の罪を赦される者は幸いであると歌っています。

罪を隠していた時の苦しみ(3節~4節)

3節~4節は、罪を告白する前のダビデの苦悩です。「言い表さなかった」とは、神の前に罪を隠している状態です。「あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かった」という表現の中に、悔い改めを迫る神の存在を自覚していることが伺えます。

認罪と悔い改めと神の赦し(5節~7節)

「その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。」(5節)この「ゆるされた」とは、神の記憶から消し去られることを意味します。神のゆるしは、私たち人間のように、思い出して責めると言うことがないのです。ダビデが「自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった」と告白しているように、自分の罪を認め、罪を告白し、悔い改めることによってもたらされるのです。

教訓的勧め(8節~11節)

ダビデは自分の失敗と神の赦しの経験を通し、神の前に頑なであってはならないこと(9節)、不信仰者には心の痛みがともない、信仰者には神の恵みと慈しみが取り囲み(10節)神への感謝と喜びがあふれることを教えています。

今日、私たちはイエスの十字架の贖いによってもたらされた救いによって、ダビデのように、「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」と告白することができます。赦しの恵みに心から感謝し、日々主と共に光の中を歩み続けましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、やまてらし、あじさい、トルコキキョウ、フロックス、アルストロメリア、かすみ草です!

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、炊き込みご飯、ホクホクかぼちゃの天ぷら、かきたまじるです。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2018年7月22日 主日礼拝メッセージ

「あなたの心の戸を叩くイエス」 黙示録3章20節  金田洋介牧師

CS サマーキャンプのテーマに合わせて本日のテキストを開いています。今年は①「気付いて!神様の愛」②「気付いて!十字架の意味」③「気付いて!イエス様のノック」の3回のメッセージ。合同礼拝では③を共に分かち合いたいと思います。

①では、群れからはぐれた一匹の羊を見捨てず探し出した羊飼いのたとえ話から、神は私たちを愛しておられることが語られました。羊飼いの話では、羊は遠目では綺麗に見えても、近づくととても汚れていて、他の羊の真似をして失敗することが多く、臆病なのに強がるそうです。人間も羊と同じで、表向きは綺麗に見えても、心の内は汚い思いで一杯になることがあります。無理やり周囲に合わせようとして空回りすることがあります。また、弱さや欠点を見せないように強がって見せることも。しかし神は、私たちのありのままを、存在そのものを尊び、最高の愛で愛してくださるのです。

②では、私たちはみな神の前に罪人であり、罪の結末は永遠の死と滅びであると語られました。ところが、罪の自覚は個人によって異なります。それは聖書を基準としていないからです。そして、罪があるにもかかわらず、「自分は神に『罪を許してください』と求めるほどではない」とさえ思うのです。しかし聖書は、人はみな罪人であり、イエスがその罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださったことを教えています。この事実を信じ、自分の罪を認めて、罪を悔い改めましょう。

そして③のメッセージに入ります。私たちのために十字架に死んでくださったイエスは今も生きておられ、今も世界中の人々に語っておられます。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

イエスはあなたの心の戸を叩いておられます。もし、あなたが心を開いてイエスを迎えるなら、永遠の命と、神と共に生きる新しい人生が与えられるのです。

すでにイエスの前に心の戸を開かれたあなたの心は、常に開かれているでしょうか?一度開けた扉を、自分の都合の良し悪しで開け閉めしてはいけません。神はあなたの心が常にイエスの前に開かれているようにと願っておられます。御言葉と祈りの生活を通してイエスと交わり、信仰生活を豊かなものとしていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、グラジオラス、ひめヒマワリ、トラのオ、ゆきやなぎです!

本日は教会学校のサマーキャンプに合わせて、年に一度のそうめん流しの日でした。酷暑の一日も、美味しく楽しく!

2018年7月15日 主日礼拝メッセージ

「キリストが崇められるために 」ピリピ人への手紙1章12節~21節 金田洋介牧師

きよめ派連合聖会の3回のメッセージから語ってきました。本日で最後です。パウロはピリピ教会の信徒らに、獄中にある自分を支えてくれたことの感謝、彼らの成長に対する喜び、自らの証も加えてこの手紙を送りました。特に本日の箇所では、キリストを伝えたことによって捕らえられたことが福音の全身につながったこと、そして自分がどのような状況にあっても、この身によってキリストが崇められること(20節)を切に願っていると告白しています。「崇められる」とは、「拡大する」という意味もあります。私たちもパウロのように、キリストが崇められる(キリストを拡大する)ための使命が与えられていることを覚えたいのです。

御霊によってつくり変えられた品性を通して

聖会において「私たちはキリストの拡声器、そして拡大鏡です」と語られました。私たちの存在によってキリストが人々に伝えられ、キリストが現されるのです。しかし、私達がきよめられていなければ、すなわち御霊の介入を拒否し、御霊によらず、自分中心に生きるなら、歪んだキリストが伝わってしまい、キリストが崇められるどころの話ではなくなります。もし、これまで語られてきたように、私たちがきよめ(全領域に御霊の介入を受け入れること)を求め、肉の欲(御霊の思いに反抗し、自我のまま生きる欲求)に従って生きるのではなく、御霊によって生きるなら、御霊によってつくり変えられた私たちの品性(人柄)を通して、キリストの愛、親切、柔和(穏やかさ)、誠実さ、素晴らしさが現され、その結果、キリストが崇められるのです。

罪へと誘う肉の欲(御霊に逆らう自我)に抵抗しなさい

神は御霊によって作り変えられた私たちの品性を通して、キリストが崇められるようになることを願っておられます。この神の御旨を全うするために、私たちは徹底して肉の欲に抵抗しなければなりません。『あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。』(へブル人への手紙12章4節)とあります。御霊に逆らう肉の欲に無抵抗のまま身を委ねてはいけません。御霊に逆らう自分と徹底的に向き合い、最後には御霊に全てを明け渡して(自我に死んで=自己中心から御霊中心にシフトして)、キリストが崇められる(拡大される)ために用いていただきましょう。

先週、召された方の記念会があり、その時に飾られたものを、今週そのまま講壇に飾らせていただきました。

メッセージする金田牧師

礼拝の後、毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、親子丼と豆腐サラダです。

2018年7月8日 主日礼拝メッセージ

「御霊によって歩きなさい」 ガラテヤ人への手紙 5章16節~26節 金田洋介牧師

熊本きよめ派連合聖会のメッセージから語っています。本日は2回目。ガラテヤ人への手紙からのメッセージ。パウロの伝道によって増え広がったガラテヤの諸教会は、違った福音(1章6節)によって正しいキリストの福音が曲げられ、惑わされていたのです。パウロは彼らを戒めるとともに、御霊によって信仰生活を歩んでいくことを勧めました。私は命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。5章16節

「肉の欲」とは、肉体に備わっている自然的な本能ではなく、御霊の働きや介入を拒絶する思いと、そこから生まれる自己中心に生きようとする欲求のことです。肉の欲は御霊と対立し(17節)、醜い罪となって現れ(19節~21節)、罪に囚われ続け、神の国を継ぐことができなくなってしまうのです。

御霊によって歩むとは

1)御霊を認識することです。御霊が共におられ、見ておられると認識するのです。

2)御霊を信頼することです。御霊は傍らに立ち、あなたを助けてくださるお方です。

3)御霊に相談する。どんなに易しいことも、難しいことも相談するのです。

4)御霊に従うことです。御霊は御言葉を通し、あらゆる人を通して教えてくださるお方であり、御霊自身が警告を与えられます。示されたのなら素直に従いましょう。

5)御霊に歩調を合わせて進むことです。自分のペースではなく、御霊のペースに合わせて信仰生活を歩むのです。時には待ち、考え、自らの歩みが神の御心にかなっているか吟味しながら、御霊と共に歩みましょう。

これらの歩みは、一朝一夕で身に着くものではありません。日ごとに神のみ前で静まり、祈り、御言葉に養われることが大切です。罪を示されたなら素直に罪を認めて悔い改め、イエスの十字架を仰いで行くのです。忘れていけないことは、御霊によって歩んでいても、誘惑がなくなるわけではありません。御霊に逆らう歩み、罪に誘う悪魔の試みは常にあります。しかし、恐れてはなりません。神の介入を受け入れ、御霊によって歩み続けるなら、肉の欲という御霊への反抗、自己中心な歩みへの欲求、罪の行いに身を委ねようとする欲求に打ち勝つことができるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ドラセナ、ゆり、ひまわり、ケイトウです!

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、カレーライス、大根、パプリカ、キュウリの浅漬け生姜風味です。新鮮なブルーベリーの差し入れもありました。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2018年7月1日 主日礼拝メッセージ

「責められるところのない者に」

テサロニケ人への第一の手紙 3章10節~13節、5章23節~24節 金田洋介牧師

先月行われた「熊本きよめ派教会連合聖会」のメッセージから、きよめの転機について学んで参ります。テキストは、パウロがテサロニケ教会に宛てた手紙です。パウロは教会が患難の中でも成長し、他の模範となっていることを喜んでいますが、その一方で幾つかの問題点を指摘しています。特に問題だったことは彼らのきよめのことでした。パウロが不品行を慎むように勧め、警告し(4章)、彼らの信仰の不足を補いたいと日夜祈っている(10節)ことからその深刻さが伺えます。偶像と罪が溢れていたテサロニケは、今日の私たちの環境とよく似ています。神はパウロの祈りの言葉を通して、私たちに語っておられるのです。

Ⅰ.きよめとは

「きよめ」は聖書にある「聖霊のバプテスマ」や「聖霊の満たし」のことです。以前、きよめとは神への完全な明け渡しであると語りました。自我を自らの中心に置くのではなく、聖霊なる神を中心にお迎えするのです。つまり、あなたの心の思いや意思、感情、価値観、行動、問題、罪、性質、性格といった、あなたの全領域に神が介入されることを受け入れるのです。あなたが神の介入を心から願い求めて明け渡すなら、神自ら働いて下さり、きよめの恵みに与ることができ、最後には神の御心と御言葉に従うことのできる者へと変えられるのです。

Ⅱ.責められるところのない者に

さらにパウロは、私たちが責められるところのない者として、神ご自身がきよめを保ち続けて下さると伝えています。きよめられた後も、私たちは生来持つ弱さや、性質、性格の故に、罪の誘惑に襲われることがあります。しかし、きよめに与る者は神の介入を心から受け入れることができ、誘惑があっても罪に支配されず、たとえ過ちを犯してしまっても、常にイエスの十字架の贖いの恵みによって悔い改め、歩み直すのです。そして、責められるところのない者として保ち続けて下さるのです。 きよめの恵みに与らせて下さる神は真実なお方です。真実な信仰をもって神を信じ、全生涯、全領域を神に明け渡し、神に介入していただき、神の御旨に生きるきよめの日々を歩ませていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ヘリコニア、スカシユリ、グロリオーサ、アレカヤシです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、炊き込みご飯、ウインナー、かきたま汁です。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。

2018年6月24日 主日礼拝メッセージ

「限りない神の愛」

ヨナ書4章1節~11節、エペソ人への手紙3章16節~19節 金田洋介牧師

神はニネベの悔い改めをご覧になり、彼らに対する裁きを思い直されました(3章)。神がヨナに託された預言は成就しませんでしたが、ニネベの人々が神の裁きを免れたことは幸いなことです。ところがヨナは、この結果に不満を爆発させました。ヨナは神が恵み深く憐れみ深いお方であること(2節)を知っていましたが、イスラエルの敵であり、罪深いニネベに神の憐れみが臨んだことに納得がいかず怒ったのです。神は「あなたの怒りは正当なのか」とヨナに問いますが、彼は何も言えず黙っていました。ヨナの複雑な気持ちが伺えます。ヨナは神が何事かをニネベの町に行われるのではないかと期待し、町の様子を眺めていました。すると神は、ヨナを厳しい陽射しから守るために唐胡麻を備えてくださいました。彼はこれを非常に喜びました。ところが、神が備えた虫によって唐胡麻は枯れてしまったのです。唐胡麻を惜しんだヨナはまたもや怒りますが、神はこの怒りに対しても「あなたの怒りは正当なのか」と問われます。さらに神は、ヨナが「労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びた(10節)」唐胡麻でさえ惜しんだように、たとえ善悪の判断がつかないようなニネベの人々であっても、彼らに対する愛と憐みを惜しむことはできないと語られたのです。

ヨナの書は神の問いかけで終わっていますが、限りない神の愛を知ったヨナは、神の内に満ちている憐れみと愛に満たされて、その生涯を全うしたのではないでしょうか。なぜなら、本日ヨナ書とともに開いたエペソ3章16節~19節で、パウロは祈りの中で「神の愛に根ざし、この愛を基として生活することによって(17節)、その神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ(18節)、神に満ちているものの全てを守って満たされる(19節)と告白しています。ヨナのように狭く(限定された人だけ)、短く(長続きしない)、低く(神の高い御思いに全く及ばない)、浅い(上辺だけ)かもしれません。イエスの十字架に現された限りない神の愛を知り、その愛に根差し、 愛を基として生きていくなら、神の愛の性質を知ることができるばかりか、その愛に私たちも満たされていくのです。

神の御言葉の約束を信じ、限りない神の愛によって愛の実を広く、長く、高く、深く結ばせていただこうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、アレカヤシ、カサブランカ、ひまわり、グラジオラスです!

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。
今週のメニューは、丸天うどん、ご飯、お漬物でした。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。
初めての方も無料です。

2018年6月17日 主日礼拝メッセージ

「キリストに仕える者として 」コロサイ人への手紙 3章18節~25節  金田洋介牧師

コロサイ3章には、エペソ人への手紙5章や、ペテロ第一の手紙2、3章でも語られているように、妻、父、子、僕(誰かのもとで働く人)についての勧めの言葉が綴られています。本日はこれらの勧めの言葉とともに、中心聖句の「あなたがたは、キリストに支えているのである」(24節)という言葉に注目したいと思います。

Ⅰ.主に仕えるとは、主と共に生き、主の御言葉に従うこと

主に仕える者とは、主イエスと共に生きる者、主イエスの御言葉に生きる者のことです。それまでは、自分の価値観によるところの人生を歩み、神を無視して自己中心に生きてきました。しかし、私たちはイエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によって主に仕える者、イエスの御言葉、聖書の言葉を土台として、神の御心に従って生きる者にされたのです。パウロは、「妻たる者よ、夫たる者よ、子たる者よ、父たる者よ、僕たる者よ」と呼びかけ、イエスに仕える者に相応しい生き方を教えています。神は私たちが必ず直面する夫婦間、親子間に代表される人間関係に平和をもたらせたいと願っておられるのです。まず、御言葉に対して、普段自分がどのように生き、どのような態度をとってきたかを顧みるところから始めましょう。

Ⅱ.主に仕える者が受ける報い

パウロは主に仕える者が受ける報いを語ります。主に仕える者(イエスと共に生き、イエスの御言葉に生きる者)は「御国をつぐ」(24節)というのです。御国をつぐとは、神の国で永遠に生きる命のことです。さらに、この報いの素晴らしいところは、神の御国が私たちの現実の生活にも現れるということです。御言葉にありますように、あなたの夫婦の間、親子の間、家庭や職場の中に、神の支配による平和と喜びに満ちていくのです。主に仕えることによってもたらされる報いは、生きている間も死んだ後も与ることができる神の祝福です。その一方で、パウロは不正を行う者はその不正に対して報いを受ける(25節)と注意します。不正とは不義とも訳される言葉で、神の前、人の前の正しくない行動や思い、すなわち罪を指します。聖書は、神は善悪ともに裁かれると語り、そこに差別扱いはない(25節)と語っています。

主に仕える者としての日々を歩み、現実と将来にももたらされる報いを頂きましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、カサブランカ、リアトリス、ミニバラ、カラーです!

 

2018年6月10日 主日礼拝メッセージ

「悔い改めたニネベ ~憐み深い神~」 ヨナ書 3章1節~10節  金田洋介牧師

魚の腹から吐き出されたヨナは、神から再び召命を受けます(2節)。以前は神の御顔を避けたヨナでしたが、「主の言葉に従い、立って、ニネベに」かいます(3節)。

Ⅰ.すべてを裁かれる神

ヨナは、ニネベへの神の裁きを叫びました。ニネベの人々からすれば、ヨナを遣わされたイスラエルの神と自分たちとは無関係のように思えるでしょう。これは今日の日本にも通ずることで、「キリスト教は外国の神で、日本には日本の神がいる」との言葉をよく聞きます。しかし、真の神の御前にそれらの理屈は通じません。聖書の神は「人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばく」(Ⅰペテロ 1章17節) 唯一のお方です。聖書は、善悪共に裁かれる神を恐れ(認め、信じ)、その御言葉を守ることこそが人間の本分であることを教えています(伝道の書 12章13節 )。

Ⅱ.悔い改めの姿を見ておられる神

神の御言葉にはたましいを救う力があります。(ヤコブ 1章21節)。ヨナの言葉を聞いた人々は、身分の高い低い関係なく、全ての人が罪を悔い改めたのです。その悔い改めは、行動の伴うものでした。彼らは悪い道から離れ、暴虐と横暴なふるまいを止めたのです。「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ」(10節)とありますように、神はその悔い改めが真実であるかを見ておられます。神の御前にごまかしは通用しないということです。どうか、私たちの悔い改めが神の御前に真実で、実際の行動の伴うものでありますように。

Ⅲ.ニネベの罪を赦された憐れみ深い神

ニネベの人々の悔い改めをご覧になられた神は、「彼らの上に下そうと言われた災いを思いかえして、これをおやめになった」(10節)。ニネベの悪が大きいことは神ご自身が認めるところでした。(1章)。真の神を恐れず、その行いは強暴に満ちていました。しかし、愛なる神は深い憐みをもってニネベを赦して下さったのです。神は「あわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな」(詩篇 86篇15節)お方です。神は聖書の御言葉を通して、常に私たちに語っておられます。日々、御言葉に生き、もしも罪が示されたなら、神の憐れみを求めて御前に悔い改めましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ゆり、トルコキキョウ、ベニバナ、アルストロメリア、あじさいです。

礼拝の後、ほぼ毎週愛さん会(美味しく、楽しいランチタイム)があります。今週のメニューは、シチュー・オン・コーンライス、きゅうりと昆布の漬物です。このコーンは缶詰でなく、生コーンをご飯と一緒に炊いたものです。お当番さんの「本気」が表れています。
料金は大人250円、中学生200円、小学生150円、小学生未満は無料です。初めての方も無料です。