投稿者「mayumi」のアーカイブ

2020年9月27日 主日礼拝メッセージ

「私の目を開いてください」列王記第二 6章8~23節 金田洋介牧師

 北イスラエル侵攻計画が、預言者エリシャによって見抜かれていたことを知ったアラムの王は、エリシャの住む町に軍隊を派遣します。夜が明け、アラムの大軍に町が包囲されているのを見たエリシャの召使いは恐れ慄きます。エリシャは彼に「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(16節)」と言うと、「神よ、彼の目を開いてください」と祈ります。すると、彼の目は開かれ、神の軍勢が山にまで満ちているのを見、恐れから解放されたのです。その後、神の御力によって形勢が逆転します。ところが、エリシャはアラム軍を盛大にもてなし、無傷で自国へと帰らせました。それ以降、アラム軍が侵攻してくることはありませんでした。

神に敵対する愚かなアラムの王と軍隊

エリシャを敵とすることは、全知全能の神を敵に回すことと同じことでした。ところがアラムの王と軍隊はその事に全く気付いていません。実は私たちも、神に敵対することがあります。「神の御言葉と御心に逆らうことによって」です。神は侮られるような方ではありません(ガラテヤ6:7)。

神を見失う召使い ~神を見ているようで見ていない私たち~
この世界は目に見える恐れ、神を見させないもので満ち、神に対して疑いを起こす悪しき力が働いています。あなたは神をしっかり捉え、神を信頼しているでしょうか。聖書は、神以外のものに望みを置いてはならないと教えています。全知全能の神が我らの神であることを信じ、信頼しようではありませんか。

神だけを見ていたエリシャ ~主よ、私の目を開いて下さい~
 エリシャは神が共におられることを確信し、信頼していました。だからこそ彼は「助けて」ではなく、「神よ、あなたが確かにおられて、取り囲んでおられることを見させて下さい」と祈ったのです。たとえあなたが問題や悩みに取り囲まれても大丈夫。神は全責任を負って、あなたを最善に導いて下さるお方です。

神を信じ、確信して祈るのです!「神よ!あなたが大いなる御力をもって私の人生を取り囲んでおられることを実生活で見させて下さい!」と。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、パステルリンドウ、クルクマ、かすみ草、あじさいです。

 

 

2020年9月20日 主日礼拝メッセージ

「主の手の中にある幸い」エレミヤ書18章1~6節 金田洋介牧師

 聖書では神と人との関わりを、「羊飼いと羊」や「ぶどうの木とその枝」などに譬えます。本日の箇所は、神とイスラエルの関係を「陶器師と粘土(器)」にたとえています。神は預言者エレミヤに陶器師の所へ行くように命じられました。

エレミヤは神の言葉に従い、陶器師の下へと行きました。陶器師は手の中にある粘土を思いのままに扱い、器を作り上げました。神は陶器師の手の中にある粘土のように、イスラエルの民を自由に取り扱う権利があるということをエレミヤに示されたのです。この背景には、イスラエルの民の神に対する不信仰と不忠実がありました。創造主である神を畏れず、偶像を礼拝し、勝手気ままに歩んでいたのです。神はそんな民をご自身のお心のままに取り扱い、本当に信じ仕えるべき神に立ち返らせようとご計画されていることを明らかにされたのです。

イスラエルの民と同様、私たちの人生は神の手の中にあります。あなたの全生活、つまり、過去、現在、未来に神が関わられるということ。そして、神の手の中にあるということは、神は私たちの全てをご存じだということです。イスラエルの民は神を侮り、罪の闇へと落ちて行きました。「神は侮られるようなお方ではない」と聖書にあります。神の前に謙り、畏れ敬う信仰を持って生きようではありませんか。また、私たちが信じるべき神の御許に帰り、神と共に生きていく時、作品が年が増すごとに深みを増していくように、私たちの信仰も深まり、人格も整えられて行くのです。

私たちの人生には、思いがけないことが起こります。自分の至らなさに嘆くこともあるでしょう。しかし、神の手の中にある人生だということを覚えたいのです。喜びも悲しみも、信仰が揺さぶられ落ち込んでいる時も.、神はそれらをも私たちの信仰、人格の成熟のための、大切な過程として用いられるのです。そこにこそ、神の手の中にある幸いを思うのです。大切なのは、どんな状況の中でも、全知全能の神の手の中にあることを信頼し続けることです。神はご自身を心から信じ、信頼する者を必ず守って下さいます。もっとこのお方を信頼しようではありませんか。主の手の中にある幸いを実感する瞬間が待っているのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、菊(アナスタシア)、ゆり、オンシジュームです。

 

 

2020年9月13日 主日礼拝メッセージ

「主イエスを信じて仰ぐ~疑う者から信じる者に~」マルコの福音書 9章14~29節 金田洋介牧師

汚れた霊に苦しめられている息子を持つ父親が、イエスに助けを求めてやってきました。ところが、イエスは不在。代わりに弟子たちが対応しますが、悪霊を追い出すことができません。後に戻られたイエスが状況を聞かれると、弟子たちや人々の不信仰を嘆きました。父親は「できるならば、憐れんで下さい」とイエスに願います。イエスは「信じる者には、どんなことでもできる」と父親の薄い信仰を奮い立たせると、汚れた霊に命じて追い出したのでした。この出来事を注意深く見ると、私たちを不信仰に陥らせる要因が見えてきます。

期待どおりにいかなかった時

父親はイエスの御力に期待してやってきましたが想定外のことが起こります。イエスの不在。無力な弟子たち。全く期待通りにいかない現実。期待が裏切られるごとに、彼の信仰はすり減っていきました。私たちも同じではないでしょうか。

変わらない現実を思い知った時
 ようやくイエスがやって来てくださいましたが、イエスを見た悪霊は、息子の体ごと暴れだします。その光景は、父親にとって変わらぬ現実を突きつけられた瞬間でした。「ああ、何も変わらない」不信仰な思いが心を支配していくのです。

自分では手に負えない困難に陥った時

父親は「私たちをあわれんでお助けください」と言いました。息子だけでなく、家族の苦悩も伺えます。自分たちの力では全く手に負えず、苦しみだけが増していく。絶望が信仰を、望みを容赦なく奪い取っていくのです。

しかしイエスは、全能の主です。「信じる者には、どんなことでもできる(23節)」とは、イエスを信じる者に対して、イエスは余すところなく力を現わして下さるということです。父親が「信じます。不信仰な私を助けて下さい」と告白すると、イエスは御力を現わし、あっという間に悪霊を追い出して下さいました。

イエスはあなたに言われます。「信じる者には、どんなことでもできる」と!私たちも信じる者に力を現されるイエスを信じ仰いで、祈り求めようではありませんか。共に主イエスの御力を体験させていただきましょう!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ゆり、リンドウ、トルコキキョウ、アーティチョークです。

 

 

 

2020年9月6日 主日礼拝メッセージ

「イエスに褒められた異邦人の女性」 マタイ15章21~28節  金田洋介牧師

 異邦人の女性がイエスに助けを求めてやって来たこの出来事は、想定外のことで溢れています。イエスと異邦人の女性の姿に注目します。

①ツロとシドンの地方に行かれたイエス。ツロとシドンは旧約聖書では罪深い地方とされ、ユダヤ人ならば避けるところですが、イエスは敢えて向かわれました。

イエスに助けを求めるカナン人の女性。カナン人とユダヤ人が交流がない中で、この女性はイエスに助けを求めました。彼女の切羽詰まった状況が伺えます。

イエスに向かって叫んだ女性の言葉。彼女は「ダビデの子よ」と叫びます。これは救い主を意味します。異邦人でありながらイエスを信じ、助けを求めたのです。

一言も答えないイエス。イエスは、助けを求める彼女に一言もお答えになりませんでした。これは大変珍しく、聖書ではこの時だけです。まさに、想定外です。

⑤女性の願いを断ったイエス。イエスは救いはまず、ユダヤ人に与えられるべきだ」と彼女の願いを聞かれませんでした。これまで弟子たちを遣わす際にも、「失われた羊(ユダヤ人)たち」を優先されました。しかし、彼女は諦めません。

女性を子犬と呼ばれるイエス。子犬とは家の中で飼われている犬を指します。「子どもたち(ユダヤ人)を差し置いて、子犬(異邦人)にパン(あらゆる意味での祝福)を与えるのは良くない」という意味です。家族の一員である異邦人も、祝福に与る神の計画があるけれども、まだ時が満ちていないのです。

イエスの言葉を認めた女性。「女性はその通りです」と謙遜に自分の立場を認めつつも、「子犬であっても主人の食卓から落ちるパンくずをいただきます」と、ほんの僅かであっても、恵み(憐み)に与れれば十分なのだと大胆に求めました。

カナンの女性の信仰を褒めたイエス。イエスは「あなたの信仰は立派です」と褒められました。十二弟子ですら、そのように褒められることはありません。彼女の願いは聞き入れられ、悪霊に苦しめられていた娘は全く癒されました。

思うようにいかない現実、想定外の困難に悩まされると思いますが、どんなことがあってもイエスのお言葉を信じ、ひたすら求める続ける信仰を持とうではありませんか。あなたがイエスのお答えをその目で見させていただくその時まで。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ひまわり、アンティーチョーク、ゆり、トルコキキョウです。

 

2020年8月30日 主日礼拝メッセージ

「逆風の中で試される信仰」マタイの福音書 14章22~33節  金田洋介牧師

「五千人の給食」の奇跡を行なわれたイエス。その後すぐ、イエスは弟子たちを舟で対岸へと向かわせ、ご自分は祈るために山に登られました。一方、弟子たちの舟は逆風に阻まれ、漕ぎあぐねていました。

Ⅰ.逆風の中で悩む弟子たち~試練や困難という逆風~

強く吹く逆風に、弟子たちは悩まされました。私たちの人生は、よく大海原に漕ぎ出していく舟に例えられます。順風満帆の時もあれば、凪で全く進まないような人生の停滞期、無気力を経験し、激しい大風、大波に本当される人生の嵐を経験します。激しい逆風に悩まされる弟子たちのように、「試練や困難という逆風」に悩まされますが、その時こそ私たちの信仰が試されているのです。

Ⅱ.暗闇の中、弟子たちに御声をかけるイエス~罪の暗闇という逆風~

夜明け前の暗闇の中、湖の上を歩いて弟子たちに近付かれたイエスを、「幽霊だ」と恐れ怯える弟子たち。「暗闇」がイエスを見えなくさせ、彼らを恐怖へと追いやったのです。まるで「罪の闇」に支配され、イエスを見失っている私たちのようです。イエスは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。たとえ、罪の暗闇に陥ってしまったとしても、救い主イエスの御声はあなたに届き、そして御子イエスの血があなたの罪をきよめるのです。

Ⅲ.逆風の中で試される信仰~疑いの逆風に打ち勝つ秘訣~

ペテロはイエスからお言葉をいただき、湖の上を歩いてイエスの許へ進んで行きました(28-29節)。ところが、イエスから目を離し、強風を見た瞬間、恐れが彼を支配し、溺れてしまったのです。ペテロは「主よ、助けて下さい」と叫ぶと、イエスはすぐに彼を掴み「なぜ、疑ったのか」と言われました。そして二人が舟に乗りると風は止み、弟子たちはイエスを「神の子」と告白して礼拝したのです。信仰を妨げる「疑いの逆風」に勝利する秘訣は、イエスに「助けを求め」、イエスに「あなたの人生の舟に乗っていただく」こと。試練や困難、罪の暗闇、疑いの逆風が襲ってきますが、恐れるには及びません。共におられる主を信じ信頼しましょう。あなたは必ず、御名を崇めることになるのですから(詩篇50:15)。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユーカリ、トルコキキョウ、リンドウです。

 

2020年8月23日 主日礼拝メッセージ

「主の前に立ちなさい-エリヤの再起-」Ⅰ列王記19:8-18

 エリヤはイゼベルの脅しに怯え、逃げ出してしまいましたが、彼にはまだやるべき使命が残っていたのです。

.「ここで何をしているのか」と尋ねられる主

エリヤは40日40夜歩き、神の山ホレブ(シナイ山)に着きます。かつて、モーセが十戒を授かった山です。神は「エリヤよ、ここで何をしているのか」とみ声を掛けられますが、エリヤは自分の境遇をただ嘆くだけでした(10節)。神は静かに彼の言葉を聴かれます。エリヤに尋ねられたように、神はあなたにも尋ねておられます。神に聴いていただきたいことはありませんか。

.主の前に立って、御声に耳を傾ける

神は心の内を打ち明けたエリヤに、「外に出て、山の上で主の前に立て」と言われました。きっとエリヤは、期待して主の前に立ったことでしょう。あなたは神の御言葉を期待し、待ち望んでいますか?いつでも主の前に立つ備えが必要です。エリヤは静かにささやく御声を聞き、畏れながら主の前に出ました(13節)。彼は御声を聞いた時に、神の臨在を感じたのです。神は御言葉と共におられるのです。神はもう一度、エリヤに「ここで何をしているのか」と尋ねます。エリヤの思いを全て出し切らせるために、尋ねたように思えます。私たちも、畏れつつも神の前に立ち、神の御声を聴く者でありたいのです。

.新たな使命を与える主

エリヤの嘆きを聞かれた神は、新しい使命をエリヤに告げます(15-17節)。この使命の全てに、彼の訴えへの答えがあるのです。後に、エリヤの後継者となるエリシャによって油注がれた王たちによって、神の御言葉が成就します。また、エリヤは常に孤独であると訴えていましたが、真の神を信じる7000人もの同胞がいることを知り(18節)、慰めを得ます。神はどこまでもエリヤを愛し、大切にされたことがよく分かります。

「主の前に立ちなさい」と、神はあなたを招いておられます。あなたが真剣に神の御声を聴こうとするなら、あなたは神の御声を確かに聴くのです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、パンパス、テッポウユリ、トルコキキョウ、グロリオサです。

 

2020年8月16日 主日礼拝メッセージ

「嘆くエリヤと見守る神」第一列王記19章1~7節  金田洋介牧師

 三年半降らなかった雨が降り、イスラエルの神、主の栄光が現わされました。イスラエルの信仰復興は目の前です。ところが、最後の砦が立ちはだかります。

Ⅰ.逃げるエリヤ

アハブから一連の出来事を聞いた妻のイゼベルは怒り狂い、エリヤ抹殺を決意します(1節)。彼女は回心するどころか、ますます罪を重ねるのでした。一方、イゼベルの脅しを聞いたエリヤは、大慌てで逃げ出します。恐れの思いに支配されて心が折れてしまったのです。これまで「イスラエルの神、主は生きておられる!」と宣言していたエリヤも、イゼベルの前では宣言できません。

Ⅱ.嘆くエリヤ

エリヤは「主よ、もう十分です」と嘆きます。信仰を奮い立たせることができないほど疲れ果ててしまったのです。アハブもイゼベルも、そしてイスラエルも何も変わらない。その上、命まで狙われる始末。全てが振り出しに戻ってしまったかのような状況に、エリヤが嘆くのも無理はありません。疲れ果て、燃え尽きてしまったエリヤは、「自分の命を取ってください」と神に嘆いたのでした。

Ⅲ.見守る神

荒野に逃れたエリヤはエニシダの木の下で休みます。するとそこに御使いが現れ、彼にパンと水を与えます。彼は食べて飲み、また眠りました。しばらくすると、再び御使いがエリヤに現れ、「旅はまだ長いのだから」と、やるべき使命があることを明らかにしました。疲れ果てたエリヤに寄り添うみ使いの姿に、優しく見守る神のお姿が見えるようです。エリヤは立ち上がり、歩き出します。

弱り果てたエリヤ、そのエリヤに寄り添い、見守られた神のお姿を見ました。神はエリヤを見守られたように、あなたを見守って下さるお方です。日々の歩みに疲れ、弱り果てた時には、神の前に逃れ、心の内を正直に告白する者でありたいのです。神はあなたを休ませ、「旅はまだ長いのだから」と励まし、起こすべき行動と、進むべき道を示して下さいます。エリヤの全てを受け止め、寄り添って下さった神を信頼し、全てをお任せしようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユーカリ、ゆり、トルコキキョウです。

 

2020年8月9日 主日礼拝メッセージ

「屈するなかれ~祈り続けるエリヤ~」Ⅰ列王18:41-46 金田洋介師

 Ⅰ.一人残って祈り始めたエリヤ

エリヤはバアルの預言者との対決後、カルメル山の頂上に登り、『地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめ』ました(42節)。「主よ私に答えて下さい」と叫び求めていた姿とは対照的な姿です。神は「わたしはこの地の上に雨を降らせよう(1節)」と言われました。天から火は降りましたが、雨はまだ降っていません。神の御言葉はまだ成就していないのです。エリヤは雨を求めて祈っていたのでした。私たちも集中して祈ることがありますが、状況が落ち着くと祈りを止めてしまうことがあります。例えば、悩みやトラブルの解決のために祈り、病や人間関係の癒しと回復のために祈りますが、解決や快方の兆しが現れると祈りの熱が冷めて、早々祈りの手を下げてしまうのです。エリヤの姿から、神の御言葉の結末を見るまで祈ることを止めないように心がけたいのです。

Ⅱ.屈しないで祈り続けるエリヤ

地面に跪き、膝の間に顔を埋めるエリヤの姿は、とても窮屈そうに感じます。まるで、これから続く苦闘(苦祷)の姿を現わしているかのようです。エリヤは若者に雨の兆しがないかを確認させますが、何の変化も見られません。それでもエリヤは若者を遣わし続け、彼自身も祈り続けます。結局、雨が降るまで7回も繰り返しました。私たちも祈りがすぐに答えられる経験はあると思いますが、ほとんどの場合、何度も祈らされると思います。それこそエリヤの様な苦闘(苦祷)を経験します。しかし、諦めないで祈り続けるなら、必ず主の時が来るのです。

Ⅲ.エリヤのように祈ろう

天から火を呼び、雨を呼び、神に用いられたエリヤですが、ヤコブの手紙には、彼が「私たちと同じような人」であったと記しています(ヤコブ5:17-18)。彼も私たちと同じように悩み、苦しみますが、全能の神への信仰に立ち続け、神の栄光を見たのです。同じ神を信じる私たちも、エリヤと同じ「祈り」という、最大の武器が与えられていることを覚えましょう。そして、エリヤのように、どんな状況に置かれても屈しない、信仰と忍耐で祈り続けようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユーカリ、ゆり、トルコキキョウです。

 

 

 

インターネット礼拝のお知らせ

熊本真愛教会では新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、8月9日の礼拝よりインターネット礼拝のみといたします。

尚、現在全ての教会集会、行事を中止しております。再開につきましては、目途が立ち次第お知らせいたします。

一日も早い新型コロナウィルスの終息を、心よりお祈り申し上げます。

2020年8月2日 主日礼拝メッセージ

「火をもって答える神」列王記第一 18章30~40節  金田洋介牧師

 バアルの預言者たちとの対決は、エリヤの番になりました。彼は壊れた祭壇を築き直すと、そこに大量の水を注ぎかけました。献げものも薪も水浸しになり、彼が祭壇の周囲に掘らせた溝から水が溢れます。エリヤは人の手や自然現象では発火が起こり得ない状況を敢えて作り出し、主なる神への絶対的な信頼を現したのです。準備が整うと、彼は祈り始めます(36-37節)。彼の祈りから、神が民との関係回復をどれ程強く願っておられるのかが伺えます。彼が「【主】よ私に答えてください」と祈ると火が降って全てを焼き尽くし、溝の水をも蒸発させました。この光景を目の当たりにした民は口を開き、「主こそ神です」と告白したのです。

Ⅰ.火をもって答えて下さる神に期待しよう

イスラエルの民の姿をよく観察すると、人の心は言葉だけでは動かないことが分かります。民はエリヤが告げた神の言葉の通り、全く雨が降らない3年間を経験しましたが、彼らの心は動きません。「バアルか神か」エリヤが強く迫っても一言も答えず、黙り込む始末です。しかし、「火をもって答えて下さる神」を体験した民の心はついに翻り、「主こそ神」と告白しました。私たちは「見ないで信じる信仰」を持っていますが、「火をもって答える神」の御業、すなわち、私たちの現実のただ中に生きて、働いておられる神の御業を、私たちも体験できることを信じ、期待しようではありませんか。私たちの神、主は生きておられるのですから。

Ⅱ.「主よ私に答えて下さい」と祈り求めよう

「主よ私に答えてください」と祈るエリヤ。イスラエルの民の回心がかかっている大切な場面で、彼は「私たちに」ではなく「私に」と神と一対一で祈っています。まるで神を独り占めするかのような大胆な祈りです。天地創造の唯一の神を信じる私たちも、彼のように積極的に、大胆に、神に祈り求める信仰者でありたいものです。「主よ私に答えて下さい。あなたは、私の日々の生活の中に火をもって答えて下さる神、御力を大いに現わして下さる神です。」と確信と期待をもって、心から祈ろうではありませんか。その祈りの先に「主こそ神です」と告白せずにはいられない、素晴らしい神体験が待っているのですから。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、スカシユリ、ガーベラ、スプレー菊です。