投稿者「mayumi」のアーカイブ

2022年7月31日 主日礼拝メッセージ

「神の責任」ヨブ記19章1~20節、イザヤ書46章3~4節  金田ゆり牧師

 

どん底のヨブを慰めるために、三人の友人がやってきました。しかし、ヨブと三人の友人は、激しい論戦を繰り広げることになります。ヨブに追い打ちをかけるような苦しみと失望を、この三人は与えてしまうのです。なぜ、このような論戦になってしまったのでしょう。

  • 神と人生とを正しく理解できていない友人たち

この三人の初めの行動は良かったのです(2章11~13節)。しかし、ヨブが自分の生まれた日を呪ったとき、この三人は、ヨブがこのような苦しみに遭ったのは彼の罪のせいだと思い込んだのです。友人の一人目エリファズは、潔白な者にはこのようなことは起きないと主張しました(4章)。二人目ビルダデは、ヨブは神以外のものに依り頼んだのだと決めつけます(8章)。三人目ツォファルは、ヨブは罪を隠しており、さらに重い罰を受けるに値すると断罪しました(11章)。しかし、これらの考えは、今のヨブには全く当てはまらない間違った考えでした。人生には、神様しかわからない、人間にはどうしてもわからないことがあるのです。私たちは、天の会議を知らないからです。しかし、三人の友人は、神とは人生とはこういうものだと、自分達の小さな知識の中でヨブに答えを与えようとしました。傲慢です。ヨブには、彼に寄り添い、主の前に遜って黙し、ただ涙を流してくれる友が必要であったのに。この傲慢で、この三人はヨブを苦しめ失望させてしまったのです(19章1節)。

  • 神を理解できないヨブ 19章6~20節

ヨブもヨブで、神と人生を理解できなくなっていました。神は私を不当に扱っている、私を敵のように見なしておられる、と叫びました。この論戦のせいで、彼がますます混乱したことは間違いありません。ヨブは苦しみのあまり、神が理解できなくなり、神を間違って考えるようになってしまいました。

  • 神が取られる責任 イザヤ書46章3~4節

しかし、この論戦で真の意味で傷つき、痛みを負われたのは神ご自身でした。お心を痛めつつ、この論戦を忍耐をもって聞き届けられたのです。神と人生がわからなくなる私たちに、神はイザヤ書46章のみ言葉を示されています。私たちがどんな試練の渦中にあろうと、神が全責任を負われる、これまでもずっと私たちを背負ってきたのだと。私たちがどんな文句を言おうと、神はひたすら忍耐し、静かに私たちを背負い続けられます。私たちは神のすべてを理解できませんが、これだけは知っていてほしいという、愛に満ちた神の主張なのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、パンパスグラス、ユリ、トルコキキョウです。

 

2022年7月24日 主日礼拝メッセージ

「不満の温床、神の温情」民数記11章1~23節、31~34節 金田洋介牧師

神様を中心に旅を続けるイスラエルの民でしたが、彼らの旅の全てが順調だったわけではありませんでした。これまでも民が不満を呟くことがありましたが、再び激しく不平を呟いたのです。すると神様は怒りの火をもって宿営の一部を焼かれますが、モーセの必死のとりなしによって事なきをえました(1~3節)。ところが、今度はイスラエルの民と共にいた外国人たちの激しい欲望がきっかけとなり、民の中から食べ物についての不満が再び爆発し(4~9節)、神様の怒りも激しく燃え上がります(10節)。すると、神様と民との間に立ってとりなしていたモーセまでもが、責任の重さと民の不信仰を嘆いて不満を訴えます(11~15節)。神様は苦しむモーセの為に長老たちの中から70人を選び、モーセの重荷を担う同労者を立てて下さいました。ここに神様の温情(思いやりのある寛大な心)を見ることができます。そして、欲にかられた民には、吐き気をもよおすほどの肉を与えると約束され、その御力をもって実現されたのです(31~32節)。ところが、神様への感謝を忘れ、肉を貪る民たちに神様の怒りが燃え上がり、激しい疫病をもって民を打たれたのでした(33~34節)。何とも悲しい結末です。

打たれた者たちは、神様によって奴隷状態から救われたことを忘れ、天のパンである「マナ」を毎日与えられていながら満足せず、感謝もせず、「マナしかない」などと不平をもらしていました。彼らの心を支配していたのは欲望(貪り)でした。この欲望(貪り)こそが、彼らの不満の温床(物事の起こる原因となる場所、物事)だったのです。そして、この貪りのゆえに神様に裁かれたのでした。

ヤコブの手紙1:14-15人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

民の呟きの始まりは、神様を畏れない、敬わない者たちの「欲望の声」でした。民は彼らの声に惑わされ、「貪り」に支配されてしまったのです。私たちの遣わされている世界は、神様を「主」としない世界、価値観の上に立っています。神様を信じることが無意味だと惑わし、神中心ではなく、自己中心の世界へと誘うのです。気を付けなければなりません。

民はマナを通して神様が主であることを体験し、神様に対する信仰、信頼が養われて行きました。イエス様はマナを例にして、ご自分のことを「天からのパン」、「命のパン」だと言われました。ですから、今日を生きる私たちも、日毎にイエス様の御言葉をいただくことが大切です。また、神様が貪る者たちを打たれたということは、私たちの内にある不満の温床、罪を生じさせる、「貪り」や「自己中心」を取り除いて下さるということでもあります。

御子イエスの血がすべての罪から私たちきよめてくださいます。1ヨハネ1章7節

御言葉を愛し、与えられている全てに感謝し、この一週間も歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、グロリオサ、コチョウランです。

 

2022年7月17日 主日礼拝メッセージ

「主の命に従って」民数記 9章15~23節  金田洋介牧師

 

テキストは、幕屋が設営された日の出来事です(出エジプトから1年後)。雲があかしの天幕を覆いました(15節)。この出来事は出エジプト40章にも記されています。そこには、主の栄光が幕屋に満ちたとありますが、それは神様ご自身がそこにおられるということを意味しています。つまりこの雲は、神様の臨在のしるしなのです。そして、この雲はいつもこのような状態にあって夜には火の様に見えたとあります(16節)。イスラエルの民は昼も夜も、この雲を見ることができ、神様がいつも共におられることを確認することができたのです。また、この雲はイスラエルの民を導くものでもありました。あかしの幕屋を覆っている雲が天幕から上ったときが出発の合図です。民は旅立ち、雲がとどまるとき、民はそこに宿営したのです(17節)。このように、イスラエルの民は雲の動きに従って行動したわけですが、それは「【主】の命による」と聖書は記しています。つまり、「神様の臨在のしるし」である雲は、「神様の命令を知るためのしるし」でもあったということです。雲が天幕を離れて上るとすぐに旅立ち、雲がとどまるその場所で宿営する。彼らの旅はその繰り返しでした。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立ったのです。イスラエルの民が、いかに神様の御言葉に従うことを大切にしていたかが分かります。イスラエルの民は、この後も神様に導かれながら進み、留まるという生活を繰り返しますが、それが簡単でないことを思い知ることになります。こんなにはっきりと見える形で神様が共におられることを体験しながら、民は不信仰、不従順に陥ってしまいます。不平や不満を神様に呟くようになってしまうのです。結果的に40年という長い期間を費やすことになります。大切なのは、見えても見えなくても、神様の御言葉(命令)に従順に従い続けることなのです。

今日を生きる私たちは何によって神様の御心を、命令を知ることができるでしょうか。それは、聖書の言葉を通して知ることができます。しかし、聖書を理解することは難しいと思われるかもしれません。前述しましたように、イスラエルの民を導いた雲は、神様の臨在を(神様が共にいることを)表しています。神様ご自身が民に示し、導かれたです。同様に、神様は今日を生きる私たちに、聖霊なる神様を通して導いてくださいます。聖霊様は目で見ることはできませんが、私たちの内に住み、私たちを導いてくださる神様です。私たちは聖霊様によって、御言葉の真理を理解し、聖霊様の助けをいただきなが、神様を中心とした生活を歩むことができます。聖霊様が道しるべとなって、私たちの歩みを導いて下さるのです。大切なのは、神様の御心を知り、神様の御言葉に従うことです。従い続けることです。そして、それは聖霊様の助けによって全うすることができます。共にいて下さる聖霊の導きに従って、昼も夜も、今日も明日も、この一週間も歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、カーネーション、ユリ、ユキヤナギ、トルコキキョウです。

2022年7月10日 主日礼拝メッセージ

「誰が中心?神様を中心に!」民数記8章5~22節  金田洋介牧師

 

民数記を通してイスラエルの民の姿を見る時、神様が民に対してご自身を中心にして歩むことを願っておられたことが分かります。たとえば、2章において会見の幕屋を中心とした12部族の配置について記されています。イスラエルの民は常に幕屋を中心に宿営し、移動しました。一番多い部族や一番強い部族でなく、また、民のリーダーであるモーセが中心でもありません。彼らをエジプトから導き出して下さった神様を中心とするのです。彼らの旅路は、平坦な道もあれば、ゴツゴツとした険しい道もあったでしょうし、天候に悩まされる日もあったと思います。しかし、神様が彼らの中心におられ、山あり谷ありの道のりをも共に歩んで下さり、守って下さったのです。結果的に40年という長い旅路となりますが、民の着物はすり切れず、足がはれることはありませんでした(申命記8章4節)。

私たちの人生の旅路も平坦な道ばかりではありません。神様を信じ、毎日祈っていても色んなことが起こってきます。しかし、イスラエルの民の中心におられたお方が、あなたの人生の中心にいてくださるのです。喜びの時は神様と共に喜ぶ機会に、悩み苦しみを通る時は、それを恵みの機会、取扱いの機会としてくださるのです。

さて、本日の箇所は、幕屋における働きに就くレビ人の為になされた事々が記されていますが、大変そうに感じますし、何でここまでしないといけないのだろうと思ってしまいます。しかし、モーセや祭司職を担っていたアロン、この任に就くレビ人、そしてイスラエルの民は皆一言も呟かず、文句も言わず、神様の御言葉(命令)を忠実に実行しています。これは彼らが神様を生活の中心にしていたからこその態度なのです。特に、会見の幕屋は神様との大切な交わりの場所です。御声を聴く場、ささげものが捧げられ、神様が礼拝される場です。何より神様は聖いお方ですから、聖い神様の御前でレビ人がその役割を果たすために必要なこと、当然のこととして民は理解し、忠実に行ったのです。彼らの様に誠実に、真実に、神様の御言葉に聴き従う者でありたいと思わされます。

今日、私たちが神様を礼拝できること、神様の御声を聴き、感謝のささげものを献げ、神様と親しく交わることができるのは、御子イエス様の贖いによるものです。いつもイエス様に感謝しつつ、神様を中心にした生活、人生を歩むお互いでありたいのです。神様を中心にした生活、人生とは、民の様に神様の御声(御言葉)をいつでも聴ける状態、いつでも従うことができる備えをして日々を過ごすということです。毎日、どこかで御言葉に触れる機会、時間を持つよう心がけましょう。もし心を動かされたのなら思い切って実行しましょう。たとえ、「御言葉に触れていない、祈っていない」と気付いても自分を責めず、気付かせて下さったことを神様に感謝して、御言葉と祈りを愛する者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、リンドウ、ヒメヒマワリです。

2022年7月3日 主日礼拝メッセージ

「主なる神による祝福の宣言」民数記6章22~27節  金田洋介牧師

 

本日からしばらくの間、民数記から学んで参りましょう。

Ⅰ.民数記~民の数が数えられているということ~

民を数えると書いて民数記。イスラエルの民の人口を数えることに一体何の意味があるのだろうと、誰もが疑問に思われると思います。しかし、注意深く読むと「およそ」ですとか「だいたい何人くらい」ではなく、最後の一人まで数えられていることに気付きます。数を数えることは神様の命令でした。つまり、神様は十把一絡げで民を見ていないということ。一人も漏れず、覚えておられるということなのです。同様に、今日を生きる私たちも、この神様に覚えられています。そればかりか、神様の目は私たちの家族にも注がれているのです。私たちはそれぞれの家族の中から、神様に召し集められた代表者でもあるということです。もちろん、家族全員で礼拝を守ることができたら何よりですが、現実は家族の中で一人、或いは二人、親族の中だけで私だけ、私の家族だけ、私たち親子だけ、夫婦だけ、そのようなものだと思います。しかし、神様の関心はここにいる私たちと共に、私たちの家族や親族にも注がれているということも覚えていたいのです。

Ⅱ.主なる神による祝福の宣言

本日の箇所である22節以降には、主なる神様による祝福の宣言が記されています。中心聖句の24~26節は三度にわたって「主が…あなたを(に)…」と繰り返されています。それは主なる神様が祝福の源であり、この祝福の対象は他でもなく「あなた」であるという意味です。その祝福は、主なる神様の守り(24節)であり、「御顔(25、26節)」が示す「神様の臨在(常に共におられること)」による恵みと平安(平和)です。そして、この祝福は、今日を生きる私たちにも及ぶ祝福なのです。私たちは、すでに神様の守りの内にあるということです。現実は多くの悩みや困難があるかもしれません。しかし、その悩みや困難、そして私たち自身もまとめて、神様の御手の守りの中にあるのです。何という慰めでしょうか。そして、常に共におられる神様の子どもとして恵みに満たされ、この罪の世の中にあっても光の子として歩むことができます。それは他でもなく、御子イエス様の贖いの十字架によるものです。イエス様によって、神様と私たちとの間に和解と平和(平安)がもたらされました。このゆえに、私たちは他者との関係においても平和がもたらされるのです。

礼拝の最後に祝祷がささげられますが、これほどの祝福の宣言を受けて、私たちはそれぞれの家庭、社会へと遣わされて行くのです。どうか、神様の祝福がもたらす恵みと幸せを実感できますようにと心から祈ります。主なる神様によってなされた祝福の宣言が、あなたがた一同の上に、世々限りなくとこしえまで。アーメン。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ケイトウ、リンドウ、カーネーションです。

6月26日は、教区一斉講壇交換のため、主日礼拝メッセージの投稿はありませんが、この日活けられたお花を紹介します。
ユリ、オンシジューム、あじいさい、ユキヤナギです。

 

2022年6月19日 主日礼拝メッセージ

「父なる神のもとへ」 ルカの福音書15章11~24節 金田洋介牧師

 

Ⅰ.父親のもとから出て行った弟息子

ある人に二人の息子いました。ある日、弟息子が父親に自分が将来もらうことになる財産を求めました。父親が生きているにもかかわらず、遺産を求めるとは本当に無礼な要求です。ところが父親は、彼の求めに応じて財産を与えました。すると弟息子は、「すべてのものをまとめて(新共同訳:金に換えて)」旅立って行ったのです。大金を手にし、自由気ままに過ごしていた弟息子でしたが、やがて全てのお金を使い果たし、追い打ちをかけるように激しい飢饉に遭い、食べることに窮します。何とかついた仕事は、ユダヤ人もしない豚の世話。彼はその豚の飼料に手を出したいと願うほど困窮していましたが、彼を助けてくれる人はいません。何と哀れな姿でしょうか。しかし、苦しみの底で彼は我に返ります。

Ⅱ.弟息子の回心

弟息子は全てを失ったことによって我に返り、父のもとに帰ることを決心します。彼は自分の過ちを認め、自分のいるべきところは父親の所だと気付いたのです。弟息子は父に対する謝罪の言葉と、雇人の一人として扱ってもらうことを心に決め、父のところへと向かいます。一方、弟息子の帰りを今か今かと待っていた父親は、遠くにいる息子を見つけると、自分の方から走り寄って彼を抱きしめ、喜んで迎え入れたのです。弟息子が謝罪と悔い改めの言葉を父親に伝えると、父親は僕たちに弟息子の身なりを整えさせ、祝宴の用意をするよう命じます。弟息子が父親の息子としての身分を回復した瞬間でした。全てを失い、父親に何一つ返すことができなかった弟息子でしたが、父親はありのままの息子を最上の愛で迎え入れたのです。

Ⅲ.父なる神様のもとにこそ幸せがある

時に、私たちも神様のもとにいるよりも、神様のいない世界に魅力を感じ、そこに自由や幸せがあると思いがちです。「神様を信じていると自由がない。」と不満を抱くこともあるかもしれません。しかし、放蕩息子の姿を思い起こしてほしいのです。放蕩生活に支配された弟息子の姿は、「父なる神様のもとを離れた私たち人間を襲う罪の誘惑と支配」を、突然襲ってきた大飢饉は「自分の手に負えない困難」を、貧しさと孤独は「何によっても満たされない虚しさ」を表していると言えるでしょう。それら力に対して、私たちは無力です。けれども、父親のもとに帰ってきた弟息子は、罪と罪の支配や大飢饉という困難からの救いと守り、父の愛と父の子である喜びに与ることができました。父なる神様のもとにこそ本当の幸いがあるのです。「もう少し生活を見直してからから帰ろう」ではなく、心に示されたその時が、神様の時です。躊躇わず、父なる神様の懐に飛び込もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、あじさい、ユリ、ダリアです。

2022年6月12日 主日礼拝メッセージ

「天の会議」  ヨブ記1章1~22節        金田ゆり牧師

私たちは、ヨブと形が違えど共通して人生の中で経験することがことがあります。それは、自分の人生の中で起こる様々な疑問に、答えを得ることができないという経験です。なぜこんなことが起こったのか。その答えを知りたいのに見いだせない苦しみ。これがヨブの苦しみでした。しかし、地上での災難だけに目を留めず、天において何が起こっていたのか目を留めるとき、神様からの希望と、愛のメッセージを受け取ることができます。

  • 神を畏れるヨブ 1~5節

ヨブは誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れ悪から遠ざかっている人でした。聖書の最上級の評価と言えます。彼がこのように歩んだのは、神を愛し敬うと同時に、災いを遠ざけたかったからでした。罪を犯したら、神の裁きがあると思っていたからです。それなのに、この後、彼はとんでもない災難に見舞われてしまいます。…正しく生きても災難が在るなら、罪を犯しても一緒だ、と思わないでください。42章で彼に起こる大逆転劇は、彼が神を恐れていたからこその結末なのです(ガラテヤ6章9節)。

  • 理不尽なサタン 6~19節

同時進行で、天ではなんと、神の会議が行われていました。この会議の中にサタンもいたというのです。黙示録12章10節をご覧ください。サタンは私たちをくまなく調べ、私たちを滅ぼそうと神に訴え続ける告発者なのです。ヨブは所有物を祝福されたから神を畏れるのだ、神を畏れる動機があるのだ、と訴えたのです。この後、訴え出たサタンからの故なき理不尽な災いが、ヨブを襲いました。私たちが遭う試練がすべてサタンからのものではありませんが、すべての試練にサタンは働きます。あなたの神様への信頼を失わせるためです。

  • 天の会議を知らないヨブ 20~22節、中心聖句12節

恐ろしい災難が降りかかった時も、ヨブは神の前に誠実で在り続けました。ヨブの信仰は素晴らしい、しかし、何とか持ちこたえたと言ったほうが正しいのです。天の会議を知らないヨブは、悲しみと苦しみのどん底に追いやられました。神は、なぜこの試練を許されたのか。一つだけわかること。神は、ヨブが迎える回復と祝福の結末を決めておられたからです。絶対的な神の主権で定められた祝福という結末です。人生の疑問に答えを見いだせないとき、あなたの為に開かれている天の会議に心を留めてください。あなたは、その内容を知ることはできない。しかし、知らないというところに、神への信仰と信頼が必要になるのです。あなたに用意されているのは、永遠に至る祝福です。これだけが、あなたにわかることです。サタンは主の前から出て行き働きますが、神の主権にあるご計画を変えることは決して出来ないのです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、グロリオサ、ユリ、アジサイ、グラジオラスです。

2022年6月5日 ペンテコステ主日礼拝メッセージ

「聖霊を受けよ」使徒の働き2章1~4節、ヨハネの福音書20章21~22節  金田洋介牧師

今年もペンテコステ礼拝をささげることができ感謝です。ペンテコステは、クリスマス、イースターとともに世界中で祝われる記念すべき日です。

Ⅰ.ペンテコステの出来事 

弟子たちは、「父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)とのイエスの言葉に従い、父なる神の約束である聖霊を求め、心を合わせて祈り始めました。そして時は五旬節、イエスが昇天されてから十日後のこと、突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに色々の他国の言葉で語りだしたのです。この出来事以降、弟子たちは主イエスの復活の証人として世界中に出て行きます。そして、他国の言葉で語りだした現象が象徴しているように、あらゆる言葉でイエスの十字架と復活が伝えられ、今日に至っています。

Ⅱ.聖霊は助け主、真理の御霊

イエスは弟子たちに、聖霊は助け主(ヨハネ14:16)であり、真理の霊(同15:26)であると教えました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。そして聖霊の力が働く時、私たちは神の御言葉に目が開かれ、神の御心を知ることができるのです。聖霊は、このような素晴らしい助けと解き明かしを与えて下さるのです。私たちの信仰の成長のため、健全な信仰を保つため、何より神の御心を行うために、聖霊の力と助けが必要なのです。

Ⅲ.聖霊を受けよ

十字架の死から復活されたイエスが「聖霊を受けなさい」と弟子たちに言われたように(ヨハネ20:22)、イエスは今を生きる私たちにも聖霊を求めるように迫っておられます。弟子たちは、約束の聖霊が降られるまで、ひたすら祈り求め続けました。この祈りの原動力は、霊的な渇き。すなわち「義への渇き」です。イエスは、「渇いている者は、わたしの元に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。言い表せぬ深い呻き、渇きを満たせるのは聖霊だけです。『天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。』(ルカ1113)。心から切に聖霊(聖霊のバプテスマ)を求めるなら与えられるのです。これを教会の一部の人達の話だと思わず、積極的に求めようではありませんか。聖霊を受ける時、あなたと神との関係の在り方、人との関係の在り方、日常生活の在り方が、根本から変えられます。これまで味わったことのない、喜びと感謝、信仰の確信を実感するでしょう。心から聖霊を求め、聖霊の支配(聖霊が全生活に介入されること)に委ねるのです。共に、聖霊に与り、聖霊によって歩む者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アスター、ユリ、ブルーベリー、アガパンサスです。

2022年5月29日 主日礼拝メッセージ

「主なる神こそ私の幸い~主を前にする人生~」詩篇 16 :篇1~11節 金田洋介牧師

 

この詩の表題として「ダビデのミクタム」とあります。「ミクタム」とは「黄金の詩」という意味があるそうです。ダビデは羊飼いからイスラエルの王となった人ですが、華やかに見えるその人生の大半は戦いの連続でした。青年時代はサウル王に、晩年は実の息子に命を狙われ、恐れと不安と苦悩を味わいました。また、罪を犯して取り返しのつかないような大失敗も経験しました。しかし、この16篇からはそのような激動の人生を歩んできたとは思えないほど、素直で大胆な信仰告白、神様に対する感謝、揺るぎない信頼と確信が伝わってきます。むしろ、激動の人生を歩んだからこその告白なのでしょう。

1.主の眼を意識して生活する

ダビデはいつも、「主を前にして」いたと言っています(8節)。常に主の眼を意識して生活していたのでしょう。ダビデは主が「あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られお方である(詩篇139:2)と告白しています。彼は常に主なる神と向き合い、神の御心、神の御言葉と向き合い、助言をいただき(7節)続けてきたのです。困難な時も、また、とても聖い神に顔向けできないと思えるような、取り返しのつかない罪、失敗を犯した時も彼は主を前にして来たのです。神様の目を意識していたダビデは、積極的に神様に喜ばれる生き方をしようと努め、導きを求めていました。だからこそ、夜の静まりの時を大切にしていたのでしょう(7節)。私たちも常に主を前にする日々を送りたいのです。

2.絶えず主の助けと導きを仰いで生活する

次に「主を前にしている」とは、主の助けと導きを絶えず仰ぐことです。ダビデは常に主の助けと導きを仰ぐことによって、順境の時、逆境の時、また、自分が犯した罪が招いた苦悩の時、神の御守りと御力、豊かな憐みを体験しました。これによってダビデは、「揺るがされることがない(8節)」と断言することができたのです。実際のダビデの生涯を見ますと、サウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でしたし、また、その後イスラエル王となってからは、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中に、全能の神様の助けと守りを経験したのです。それが、神様への揺るぎない信頼、「神ご自身が自分の幸いだ」という、告白へと至らせたのです。

もしあなたが、日々主を前にして生きるなら、現実に生きて働かれる神を体験します。そして、その神体験が、あなただけのミクタム(黄金の詩)という証しを生み出し、あなたの神への信仰と信頼はさらに揺るがないもの、「神こそ私にとっての幸いである」との信仰告白へと至らせるのです。世の声に惑わされないで、常に神を前にして日々を歩みましょう。そして、神が全ての物を満たされる事、目に見えるものも見えないものも、豊かに満たして下さることを体験させていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アンスリューム、ユリ、グロリオサ、バラです。

 

 

2022年5月22日 主日礼拝メッセージ

「恵み豊かな神を讃えよ」詩篇 65篇 1~13節 金田洋介牧師

 この詩がどのような背景で歌われたか諸説ありますが、この詩が現代を生きる私たちにとっても、大切なものであることは間違いありません。神様が私たちに与えて下さった恵みを数え、神様を心から讃える者とならせていただきたいと願っています。

1.恵みの大庭に住むことができる恵み 1~4節

作者は神様を「祈りを聞いてくださる方、背いた私たちの罪を赦してくださる方」と讃えています。神様に罪を赦され、賛美できる喜び、礼拝をささげられる喜びに溢れているのです。本日の中心の御言葉の65篇4節より、神様に選ばれ、引き寄せられた者は神様を礼拝する者となって神様の大庭に住むとあります。つまり、神様の御側に側近くに留まるのです。そこで大切なのは、神様の側近くに留まり続けることです。神様を礼拝し続けるのです。常に御声が聞こえるところ、また、聴く準備を整え、いつでも祈りをささげられる状態に、とどまり続けることが大切です。神様の御側に留まり続ける時、神様から良いもの、聖なるものが豊かに与えられ、満たされるというのです。

2.創造主である神様を信頼の的(対象)とすることができる恵み 5~8節

5節の「私たちの救いの神」とは、イスラエルをその歴史の中で救い、導かれた神ということでしょう。山々を堅く据えられた(6節)とあるように、すべての創造主であられる神様は、その大能(偉大な力)で治めておられます。そして、海のとどろき(響き)、大波のとどろき(響き)、諸国の民の騒ぎに表現されている、この世のあらゆる波風、私たちの人生に起る嵐を、神様は静めて下さるというのです。自分たちの力ではどうすることもできない問題から、「こんなことを祈っていいのだろうか、助けを求めてもいいんだろうか」と思うことまで、神様はその御力をもって最善に導き、解決に導いて下さるのです。

3.常に満ち足りていられる恵み 9~13節

9節からは繁栄をもたらされる神様を讃えています。ここでの繁栄は作物の豊作によって表されています。天と地を支配されている神様は、「神の川=天に蓄えられた水」を雨として地上に降らせ、その雨が畑を潤し、穀物を成長させてくださいます。「地を訪れ」は「顧みて」とも訳せる言葉が用いられています。神様は罪深い人間を顧み(心にとどめる)てくださるのです。特に私自身が素晴らしいと感じるのは10節です。人間の働きに豊かな実りをもって応えて下さる神様との祝福の調和の素晴らしさを思うのです。

詩篇34:9 -10【主】を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし【主】を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。神様の豊かな恵みを心から喜び、心から讃える者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オリーブ、ユリ、ヒマワリです。