投稿者「mayumi」のアーカイブ

2022年5月15日 主日礼拝メッセージ

「主よ、とこしえの道に導き給え」詩篇 139 編 1~24節 金田洋介牧師

この詩篇139篇の表題は「ダビデの賛歌」とあります。ダビデの実体験に基づくこの告白を読む時に、父なる神がどのようなお方であるかを私たちに教えてくれます。

まず、神は何でも知っておられるお方です。神は私たちが立つのも座るのも、心に思い計ることもみな知り尽くしておられるというのです(2~4節)。この全知の神の前にごまかしは一切通用しません。ダビデは自分の罪を神の前に隠そうとしたことで苦しみましたが、その罪を悔い改め、赦された喜びを告白しています(詩篇32篇)。全知の神を畏れ、神の御前に誠実に歩む者でありたいですね。神が全てを知っておられるということは、私たちにとって不都合なことではなく、むしろ私たちに平安をもたらすことであることを覚えましょう。

次に、神は全知であると同時に遍在 (どこにでもおられる) の神です。神は私たちの全生活の中におられるのです。あなたはそれを聞いてどう思われるでしょうか。もしかしたら、慰めや平安よりも、気まずい思いや窮屈感を感じるかもしれません。しかし、あなたの人生をより良いものとしたいと願っておられる神を信じ、神と人の前に裏表のない生活を目指してはいかがでしょうか。いつも共におられる神の助けをいただき、聖霊の導きに従い、イエスの十字架による赦しに与りつつ生きて行く時、私たちの歩みは共におられる神の前に、そして生活の場にいる人の前に、裏表のない誠実な歩みとなっていくのです。

次に、神は造り主なるお方です。特に作者は、私たちが神によって創造されたことに注目しています。神によって、私たちの内臓の一つ一つが組み立てられ、母親の胎内にあるときから、神の書物に記録されているというのです(13~16節)。私たちを造られた神は責任をもって私たちの全生涯を持ち運んでくださるお方です。造り主なる神を心から信頼し、全てを委ねようではありませんか。

最後に、作者はこの全知の神、遍在の神、造り主なる神の御前に謙り祈りました。「神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。」(23~24節)と。

神は目に見えないお方ですが、神は御言葉の中にご自身を現わされると聖書は教えています。今、私たちも御言葉を通して神というお方を知りました。ですから、もっと御言葉を通して実際的に、体験的に神を知ることができるように求めていきましょう。そして、ダビデのように「主よ、私を悪の道にではなく、そこにとどまるのではなく、神の道、すなわち永遠の命にいたる義の道へと導いて下さい」との信仰告白へと至らせていただけるよう祈り求めようではありませんか。神は、この祈りが私たちの祈りとなるように、神のひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架上で裁いて下さったのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、ユリ、カスミソウ、ドラセナです。

2022年5月8日 主日礼拝メッセージ

「苦しみの先にあるもの」詩篇 119 :篇  65~72節 金田洋介牧師

 65~72節を読みますと、作者はすでに苦しみを乗り越え、その苦しみの意味を見出すことができたことが伺えます。作者は苦しみを通して、神様の御言葉、教え、掟、戒めを守ること、学ぶことが大切であること、そして、神様ご自身が自分に良くしてくださったことを、身をもって体験したようです。その尊い体験は、「苦しみにあったことが自分にとって幸せだった」との告白をも生み出すほどものだったのです。

人生における苦しみを神様の視点から見るならば、苦しみは私たちを実り多い祝福へと導く入り口であると言うことができます。しかし、苦しみに直面している時にそのように受け止めることは容易ではありません。けれども、神様は悲しみを喜びに、苦しみを祝福に変えて下さるお方だと信じる者でありたいのです。もちろん、祝福までの過程は様々だと思います。時には、ヨブのように、サタン(悪魔)が関わることによって味わう苦しみがあるかもしれませんし、不意に襲ってくる苦しみもあります。しかし、たとえ苦しみの原因が自分にあったとしても、また、他にあったとしても、その苦しみには、必ず神様のお考えや目的があることを覚えたいのです。困難と屈辱を味わったイスラエルの民も、「神様がおられるのに、なぜこのようなことが起こることを許されるのだろうか」と思ったことでしょうし、呟いたことでしょう。しかし、神様はイスラエルを何度も、何度も顧みて下さいました。特にバビロン捕囚という苦難を通して、神様の計画、神様の御言葉が真実であることを民は知りました。神様が彼らを苦難に遭わせられたのは、彼らがより真剣に神様を求めるようになるためです。イスラエルの民の幸せを願われる神様は、彼ら自身が蒔いた罪による苦難という刈り取りを、そのまま苦難で終わらせず、神様に立ち返る機会として用いられたのです。

同様に、神様はあらゆる苦しみを通して私たちに悟らせてくださいます。時に、神様に不従順であったことを悟らせるため神様を信じるようになるため、或いは、信仰を訓練するためこれまで経験したことのない新しい祝福に与るためです。そして何より、私たちが神様を崇めるようになるためです。全ては、目的が伴った苦しみなのです。これらはほんの一部分です。皆さんそれぞれに相応しい、神様の悟りが備えられているのです。。

どんな苦しみも、苦悩も、痛みも、過ちも、困難も、行き詰まりも、最後には、その経験を通して悟った神様の御言葉の真実と、力、恵みの故に、72節にある『幾千の金銀にまさる恵み』の体験だと、感謝で終わる時が来るのです。激しい苦しみ、損失、喪失、絶望を経験したヨブも、最後には神様の偉大さを知ることができたばかりか、全てを失う前の2倍の祝福を得ました。詩篇の作者やヨブの体験を例にしましたが、神様は苦しみの先にそのような素晴らしい神体験を用意しておられるのです。ですから、どんなことがあっても最後まで主を信じ、信頼しようではありませんか。ひとり子を犠牲にしてまで救って下さったお方が、必ず責任を持ってあなたの信仰を励まし続けて下さるのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ジャスミン、ユリ、カーネーション、グラジオラスです。

 

2022年5月1日 主日礼拝メッセージ

「主が御目を注がれる者」詩篇33篇1~22節 金田洋介牧師

 神様への讃美の勧め 1~5節

私たちは正しい者、直ぐな人(1節)には程遠いかもしれませんが、神様の御顔を避けるのではなく、ありのままの姿で神様を賛美し続けたいのです。主イエスが十字架の上で流された血によって、全ての罪から私たちをきよめ、真に正しい者とされたのですから、救われた者、赦された者として神様を讃えましょう。

神様の創造の御業 6~8節

神様は全てを造られた創造主であり、秩序を持って支配しておられるお方です(6節)。聖書は、神様が私たちの考えや力が及ばない世界を治めておられることを教えています。少しもズレもなく、秩序が保たれている自然のサイクルに目を向ける時、神様の偉大さを認めずにはいられません。創造主の前に畏れを持ち、御名を崇めつつ歩みましょう。

神様の統治の御業 9~12節

今、世界とそのリーダーたちの姿、あらゆる形で人々の生活が脅かされている姿を見る時、将来に不安を覚えさせられます。しかし、恐れることはありません。本当にこの世界を治めておられるお方は、創造者であられる神様です。神様の御言葉の力が及ばない領域は、この世界のどこにもありません。神様の力ある御手の中にあることを信じて歩みましょう。

人の心を見通される神様 13~17節

神様は全ての人の心を見通し、私たちの行動の動機さえも見通しておられます(13~15節)。『神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。』(ヘブル4:13)全てを見通することのできる神様の前に、この世のいかなる力も、権力も、無力なのです。人の全てを見通さられる神様を畏れ、神様の御前に遜りつつ歩んで参りましょう。

主(神)が御目を注がれる者 18~21節

主が目を注がれる者(18節)、すなわち神様の大いなる御力と恵みに与ることができる人とは、主を畏れる者であり、神様の恵みを、切に期待して「待ち望む人」のことです。「待ち望む」とは、①将来なされる神様の良きわざを信じて、期待すること。つまり、今日も神様が御手を動かして下さると信じ、期待して静かに待つことです。そのような人は、神様の豊かな恵みと力ある助けに与ることができます。そして、②主と共にいることを待ち望む人。つまり、神様の守りを心から信頼して、神様と共に居続けることを渇望することです。

神様を知った作者は、神様の偉大さを確信し、恵みを祈り求め続けています(22節)。私たちも神様の御力を体験し、豊かな恵みに与り、神を賛美する者とならせていただきましょう。そして、毎日、何度でも何度でも、神様を求め続けるのです。この命ある限り、神様を畏れ、神様を、恵みを、心から待ち望み、期待し続ける者となろうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、八重ユリ、アルストロメリアです。

2022年4月24日 主日礼拝メッセージ

「あなたはわたしを愛するか~主の招きに応えて~」ヨハネの福音書 21章15~19節

 復活されたイエスは、ガリラヤ湖畔で弟子たちの前に現れ、彼らと食事を共にしました。食事の後、イエスはペテロに「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と尋ねられました。イエスの十字架以前のペテロであれば「もちろんです」と自信満々で答えたでしょう。十二弟子のリーダー的存在であったペテロは、最後の晩餐において、「あなたのためには命も捨てます(ヨハネ13:37)。」と豪語していました。ところが、自分の身に危険が及ぶと、あっさりとイエスを裏切り、逃げてしまいました。その後、捕えられたイエスを追い、裁判の行われている所にやってきたペテロは、そこにいた人々にイエスとの関わりを疑われると、「そんな人は知らない」と三度もイエスを否定したのです。このペテロの否認は、すでにイエスによって預言されていました。彼はイエスの言葉を思い出し、激しく泣き崩れたのでした(ヨハネ18:15-27)。この大きな失敗から、今さら「誰よりも愛しています」などとは言えません。それでも彼は、イエスに対する愛に偽りがないことを表すために、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。たとえ最上級の愛ではなくても、心からイエスを愛し慕っていることは間違いないことを精一杯伝えたのです。このやりとりは三度続きました。ペテロがイエスを否定した回数と同じなのは偶然ではありません。これは、①イエス自身の痛みをペテロが知るためであり、②イエスへの愛をペテロ自身が確認すため、そして、③愛を告白することを通して彼が立ち直るためでした。イエスはペテロの失敗を許され、彼に「神を信じる者たちを信仰を養い、育て、牧する使命を託されました。後に、ペテロは愛するイエスの命令に命を懸けて応答したのです。

今、主イエスはあなたにこう尋ねられます。「あなたはわたしを愛しているか」と。この問いかけに対して、どう答えるでしょうか。イエス・キリストの言葉を今、深く黙想していただきたいのです。「あなたはわたしを愛するか」、クリスチャンにとっては聞きなれた言葉です。でも、今一度、真剣に考えていただきたいのです。イエスはあなたの罪の身代わりとして十字架に死に、神様に捨てられて下さいました。イエスが十字架で死んだのは、あなたが永遠の命を得るため、罪から救われるためです。それ程まで愛して下さったイエスの愛が強く迫って来ないでしょうか。

そして、このイエスの言葉は、クリスチャンでない方に対しても語られている言葉です。「あなたはわたしを愛するか」とは、「イエスの十字架と復活に表れる神の愛、あなたを救うために命を注ぎつくしてまであなたを愛しておられるイエスの愛を、あなたは信じて受け取るか?」という意味です。まず、イエス様の愛を信じ、受け取ることから始めましょう。そして、イエスの招きに応えて、御言葉を通して示して下さった具体的な行動を実行し、イエスへの愛に応答しようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オオデマリ、ユリ、カーネーションです。

 

 

2022年4月17日 イースター礼拝メッセージ

「主イエスの復活-悲しみが喜びに、絶望が希望に-」マタイの福音書 28章1~15節

 イースターおめでとうございます。世界中で祝われるイエスの復活は、私たち一人一人に関わる大切な事実です。

イエスが十字架に死に、墓に葬られてから三日目の朝を迎えました。まだ夜が明けきらない早朝、女弟子たちはイエスの葬りの為に香油を携え、イエスの亡骸が納められた墓へと向かいました。すると、突然地震が起こりました。それは天から降って来た御使いが、イエスの墓を塞いでいた大きな石を動かしたからでした(2節)。恐れおののく彼女たちに、御使いは言いました。『あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。』(5~6節)。さらに御使いは、イエスが復活された事実を他の弟子たちに知らせるよう命じます。彼女たちは大喜びで走って行きました。

女弟子たちが見て確かめた、この空の墓から、私たちの信仰は始まったのです。「イエスは死から復活された!」この事実が私たちの信仰の原点であり、この事実を信じる者がクリスチャンなのです。

彼女たちが弟子たちのもとへと向かう途中、今度はよみがえられたイエスが彼女たちの目の前に現れ、「おはよう」と声を掛けられました(9節)。この挨拶の言葉は、「喜びなさい」という意味を持つ言葉です。彼女たちを覆っていた深い悲しみと絶望の暗闇の夜は明けたのだ!喜びなさい!というメッセージなのです。絶望が希望に、悲しみが喜びに変わったのです。さらにイエスは、ご自分を裏切った弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいます(10節)。なんと憐み深いお方でしょうか。私たちも神様を悲しませることが多い者ですが、イエスの憐みに与ることできます。イエスの十字架は、あなたのどんな罪も、どんな過ちも赦して救うのです。何度でもやり直すことができるのです。

私たちの生きているこの世界も、女弟子たちが経験したような絶望の暗闇が覆っています。疫病に悩まされ、戦地の悲惨な状況に心痛める毎日。未来に希望が持てないと不安に感じる人も多いと思います。しかし、どんなに世の中の状況が悪くなったとしても、イエスの復活がもたらす希望と喜びは決して失われません。たとえ暗闇と絶望が襲ってきたとしても、喜びの朝が、復活がもたらす希望が必ず訪れるのです。死と罪の問題を打ち破り、よみがえられたイエスが、解決出来ない問題は何一つありません。復活の主が、あなたの絶望を希望に、悲しみを喜びに変えて下さるのです!それが、イエスの十字架と復活を信じる者だけが与れる希望です。どうか、決してなくならないこの希望と、喜びを握り続けて行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヤマブキ、ユリ、アルストロメリア、トルコキキョウです。

3年ぶりに、教会有志のみなさんで墓前礼拝をおささげしました。

墓前礼拝の中で、納骨式も執り行われました。

 

 

 

2022年4月10日 棕櫚の主日礼拝メッセージ

「我ために見捨てられたキリスト」マタイの福音書27章45~56節 金田洋介牧師

 

受難週は私たち一人一人の罪の為に十字架へと向かわれたイエスの受難を深く覚える大切な時です。心を静めて十字架の上のイエスの苦しみを覚えましょう。

まず、イエス様が十字架に磔にされるまで、あらゆる苦痛、苦悩を味わわれたことを覚えたいのです。ゲツセマネにおける苦祷、弟子たちの裏切り、不当な裁判、人々やローマ兵の嘲りと暴力…精神的、肉体的苦痛が止めどなくイエス様を襲い、その苦しみは十字架に磔にされると激しさを増します。ところが、ここまでイエス様は何の恨み言も、弁明の言葉も発していません。まさに、イザヤ書にある苦難のしもべの姿そのものでした。

イザヤ53:7 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

イエス様が十字架につけられてから3時間後の12時から午後3時まで「闇が全地をおおった」とあります(27:45)。「闇が全地を覆う」という状況は、旧約聖書にある「主の日(神の裁き)」を想起させます(イザヤ、ヨエル、アモス他)。つまり、この暗闇は罪に対する神様の怒りがイエス様に向けられているということなのです。しかし、この罪はイエス様の罪ではなく私たちの罪です。Ⅰペテロ3:18 「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」イエス様は罪がない正しい方なのに、罪人として裁かれたのです。そして、罪に対する神様の激しい怒りは、イエス様ただお一人の上に下りました。罪人である私たちが、神様の怒りを受けるべきであったのに、その怒りと裁きはイエス様に下ったのです。

マタイ27:46 『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』神様の怒りと裁きは、神様との断絶です。神様に完全に見捨てられるということなのです。それがどんなに恐ろしい裁きであるかは、イエス様がゲツセマネの園で祈っておられた姿から分かります(26章37~39節)。そこには、イエス様が「悲しみのあまり死ぬほどです」と、弟子たちにその苦しみを告白せずにはいられないほどのものであることが記されています。神様に捨てられるはずのないお方が、私たちの罪の身代わりとなって裁かれ捨てられた事実、そしてイエス様が味わわれた苦しみをしっかりと心に受け止めたいのです。

あなたの罪のために、あなたを罪の滅びから救うために、罪のない神の御子イエス様が神様に裁かれたことによって、罪の赦しと永遠の命が与えられたことを信じますか。どうかこの尊い救いに与り、この救いがもたらされるためにどのような苦しみをイエス様が味わわれたのかを思い巡らしつつ、この受難週を過ごして参りましょう。また、イエス様の尊い犠牲に感謝しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、ユリ、トルコキキョウ、アルストロメリアです。

2022年4月3日 主日礼拝メッセージ

「新しい契約の成就」 マタイの福音書26章26~30節 金田洋介牧師

聖書箇所はイエスと弟子たちの最後の晩餐の場面です。この最後の晩餐の出来事は過去の話ではなく、今を生きる私たち一人一人に関わる事なのです。

Ⅰ.割かれたパンとイエスの杯

イエスは一つのパンを割き、弟子たちに分け与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」割かれたパンは、「これはわたしのからだです」と言われているようにイエスの体を象徴し、裂かれて分け与えられたことは、イエス様が一人一人のために死なれること、すなわち十字架の死を意味していました。イエスの十字架の苦しみは、他でもなく私たちのためであることを忘れてはなりません。聖餐の席に着くたび、自らの手で「取って食べる」たびに、イエスは私のために死なれたのだということを思う者でありたいのです。

次にイエスは、ぶどう酒の入った杯を取って言われました。「みな、この杯から飲みなさい。」イエスは、パンは割いて分け与えられたのに対し、今度はイエスの杯を回し飲みしなさいというのです。これは弟子たちが同じ杯から飲むことを通して、この後明らかにされるイエスの血の契約に与る一つの共同体であることを教えるためでした。そして、さらにイエスの杯にはとっても大切な意味が込められていました。

Ⅱ.主イエスの血による新しい契約

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。イエスの杯に注がれたぶどう酒はイエスの血を表しています。そして、イエスの血は、「多くの人のために、」流される血であり、「罪の赦しのために流される、」「…契約の血」だと言うのです。契約の血とは、イエスの血を持って契約が結ばれたということです。杯に注がれたぶどう酒は、全人類の罪の身代わりのために、イエスが十字架の上で流される血を表し、さらにはエレミヤ31章31節に預言されていた新しい契約を意味していました。それは、全人類が対象であり、いつの時代にも有効な契約です。ですから、今を生きる私たちにも及ぶ契約なのです。イエスはあなたの罪の身代わりとして十字架にかかり、血を流して死んで下さいました。もしも、あなたが自分の罪を告白し、「イエス様が十字架の上で流された血と十字架の死は、私の罪の身代わりです」と信じ告白するなら、どんな罪でも赦されるのです。これがイエスが用意して下さった新しい契約。成就した契約なのです。

最後にイエスは、御国(天国)における宴の日まで、ぶどうで作られた酒を飲むことはないと言われました(29節)。イエスを信じる人は全て、御国においてイエスと共に食卓に着くのです。ですから、私たちもイエスと共に食卓に着くその日まで、ご自身の命を捨てて、新しい契約を結び、成就して下さったイエスに心から感謝し、聖餐に与りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、利休梅(リキュウバイ)、スカシユリ、ベニバナ、ヤマブキです。

 

2022年3月27日 主日礼拝メッセージ

「主は近いのです」ピリピ人への手紙4章4~7節 金田洋介牧師

Ⅰ.主にあって喜びなさい

パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、再度ピリピの信徒たちに喜ぶよう勧めます。私たちはこの手紙を通して、神様が教会や私たちに良い働きを始めて下さり、志を立てさせ、それらを完成して下さるのも神様であることを教えていただきました(1~2章)。また、神様は私たちがこの地上においてどう生きるべきかを、パウロが語る勧めや命令の言葉によって教え、私たちを良い物で満たし、楽しませ、悪いものは何なのか教え、注意と警告を与えて下さるお方であることも教えていただきました。それは、神様の偉大さ、イエス様の素晴らしさを知った私たちが、この主を喜ぶためです。つまり、このお方が私の神であられる。救い主であられることを喜ぶということです。このお方は私たちを救うために、この恵みに与るにふさわしい者とするために、神としての栄光をお捨てになることに一切躊躇されなかった程のお方です。そればかりか、私たちと同じ人間となられ、さらにしもべの姿を取り、十字架の死に至るまで従順でした。それが父なる神様のご計画であり、私たちを心から愛するゆえの行動だったのです。神様はイエス様を見捨て、死なせ、裁いてまで、救う価値のある存在としてあなたを見ておられるということなのです。この事実を知った時、喜ばずにはいられなくなります。この喜びを、日々の生きて行く力、原動力としていくことを神様は願っておられるのです。

Ⅱ.主は近いのです

次にパウロはピリピの信徒たちに、「寛容な心をすべての人に知られるようにしなさい」と命じます。この言葉は、後に続く「主は近いのです」にかかっています。まず、この言葉を二つの意味で考えましょう。一つは『主イエス様のご再臨が近い』ということ、もう一つは『主がいつも共におられる』ということです。イエス様の再臨は、しばしば「主の日」とも言われています。主は近い、主イエス様のご再臨が迫っている。それはすなわち、この世界の終わりの日が迫っているということです。イエス様は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われました。主の日が今にも、明日にも、迫っていることを覚え、共におられる主と日々歩み、寛容な心を全ての人に知られるよう生きるのです。『寛容』は御霊の実の一つであり、愛の性質の中で最初に挙げられています(Ⅰコリント13章)。寛容こそキリスト者の証だということなのでしょう。神様によってもたらされたこの愛の品性を持って、寛容な心とは無縁の世の中に証しするのです。そして、寛容なお心で私たちを贖い、赦して下さった神様の救いの御業を宣べ伝えるのです。たとえ、多くの思い煩いが私たちを惑わし、証しや伝道を妨げたとしても、避けどころであり、助け主である神様に祈りを通して知っていただきましょう。神様はイエス様に在って人知を超えた平安で私たちを満たして下さいます。この主にあって喜び、寛容な心が全ての人に知られるように歩んで参りましょう。『主は近いのです』から!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、コデマリ、ユリ、スプレー菊、スターチスです。

 

2022年3月20日 主日礼拝メッセージ

「天に国籍を持つ者として」ピリピ人への手紙3章17~21節 金田洋介牧師

Ⅰ.パウロの涙の訴え

17~18節。パウロはこれまで教えてきたことを踏まえ、私(パウロ)や私に倣って歩んでいる人たちに目を留めてほしいと涙ながらに訴えます。それは、「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるから」(19節)だというのです。この「多くの人」とは、イエス様を信じない人たちだけでなく、クリスチャンたちも含まれていると思われます。パウロは、彼らの最後が滅びであることに心痛めつつ、ピリピの信徒たちもそうならぬよう念を押して注意したのです。そしてパウロは、キリストの十字架を敵として歩む者たちの特徴を語ります。

Ⅱ.キリストの十字架を敵とする者たちとは

十字架を敵とする者たちは、①欲望を神とする者、②恥ずべきものを栄光とする者、③地上のことだけを考える者だと教えています(19節)。先週もお話ししましたが、私たちの普段の生活が天国へと繋がっていることを意識することが大切です。私たちを喜ばせ、楽しませて下さる神様。しかし、その神様を忘れ、自分の欲を満たすことだけを考えたり、悔い改めるべき罪を誇ったり、目に見えるこの地上のことだけに心と思いが支配されないよう気を付けなければなりません。パウロが涙ながらに訴えていたのは、イエス様の十字架が軽んじられていたことに対するものだったのかもしれません。イエス様の尊い犠牲が、私たちに対する神様の愛が、軽んじられ、侮辱されているように感じたのでしょう。「何のための十字架だろうか。罪人である私たちのためではないか!」そのような訴えが聞こえてきそうです。

Ⅲ.天に国籍を持つ者とは

パウロは「私たちは天に国籍を持つ者だ」と言っています(20節)。天に国籍を持つ者は、イエスの再臨を待ち望む者(心待ちにする者)です。地上のことだけを考える人(19節)との大きな違いはここです。基本、地上は私たちの生活の場ですから、全く考えないわけにはいきません。けれども、地上のことだけに囚われないようにしなさいと注意しているのです。何事もバランスが大切です。パウロは前のものに向かって生きるよう教えています。私たちも、天において神様から賞(栄冠)をいただくことを目指して、この地上ですべきことに全力を注ぐのです。それと共に、私たちにはイエス様の偉大な御力によって栄光の姿に、朽ちる体から朽ちない体に変えて下さるという素晴らしい約束があることも忘れてはなりません。

イエス様を信じた者はみな、天に国籍を持つ者です。地上は仮住まいです。聖書はこの地上において、私たちは旅人であり、寄留者であると教えています。天に国籍を持つ者として、この地上でどのように生きるべきか、しっかりと御言葉から教えていただき、それに従う者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ストック、アルストロメリアです。

 

2022年3月13日 主日礼拝メッセージ

「前のものに向かって」ピリピ人への手紙3章12~16節 金田洋介牧師

 前回のメッセージで、パウロの内に起こった価値観の逆転を知りました。けれども、彼はそこで留まらず、さらにイエス様を人格的に知ることと神様に与えられた使命に生きました。彼は「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」(Ⅱコリント5:15)ことを追及していたのです。

3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。「すでに捕らえた」とは「目標に達していない」。つまり、私が目指していることはもっともっと先にあるんだとパウロは語ります。そして、3:13bただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

イエス様に捕らえられ(救われ、神の子どもとされた)、新しい命に生きる者とされたパウロ。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2:20)。もう過去のような古い生き方、価値観、考えに囚われない。ただひたすらに、全力でキリストの福音にふさわしく生き、いつの日か天の御国において、神様からいただける賞を(栄冠を)目標にして、自分は走っているんだ。あなたがたも私と同じ考えを持ち、キリストの十字架を誇りとして生きなさい」と、ピリピの信徒たちに強く勧めたのでした。

神様は私たちに対しても、パウロと同じ考えを持って歩んでほしいと願っておられます。イエス様によって捕らえられた者、救われた者として、神様の御国に、天国に召し入れられる日、栄冠に与る瞬間が来ることを覚え、その時を目指して日々歩んでいくのです。どのように日々を過ごしていくかは、これまでピリピの信徒たちにパウロが教え、勧めた言葉から語ってきたことを思い起こし、神様の御言葉に従い、神様の御心を行うことに日々努めるのです。神様が始めて下さった良い働き、神様が立てて下さった志に従って、疑わず呟かずにそれを行い続けるのです。もちろん、私たちはイエス様を信じたことによって天に召されること、神様から栄冠をいただける確約をいただいています。何か特別な行いをしたからではなく、信仰によって与えられる約束です。しかし、私たちはパウロを通して「生きることはキリスト」を教えられました。私たちは神様に生かされている限り、神様に与えられた使命に生きたいのです。

この地上の歩みは天国に繋がっています。曲がった邪悪な世にあって、光の子として歩み、前を向いて(天のゴールに目を向けて)、日々を過ごして参りましょう。神様からの賞(栄冠)に与るその時まで!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ミモザ、ユリ、トルコキキョウ、マトリカリアです。