投稿者「mayumi」のアーカイブ

2021年12月26日 年末感謝礼拝メッセージ

「全てのことに関わられる神の御前に」伝道者の書 3 章 1~11節 金田洋介牧師

2021年も様々なことがありましたが、欠かすことなく神様を礼拝できたことを感謝しています。今年を振り返りながら、神様の恵みを思い起こして参りましょう。

聖書が語るメッセージで「主の時」という言葉を聞きます。主の時とは、神が全てのことをご計画され、神のタイミングで御心を行われることを意味しています。ただし、それは一方的になされるのではなく、私たちの状況や状態に最善の配慮をもってなしてくださいます。伝道者の書の著者は、この世の全ての理を見る時に「神がなされることはすべて時にかなっていて美しい」と告白しています。人間の限界を知り、それを謙虚に認め、人知を遥かに超える存在である神を信じた時、人間は神のなされる全てのことを理解することはできないが、神がなされることはみな時にかなっいて、素晴らしいと悟ったのです。

私たちも、「神のなされることはすべて時にかなって美しい」と告白したいと願いますが、現実は自分の思い通りにいかないことに不満を抱き、呟いてしまうことが少なくありません。そんな私たちに聖書は、信じるべき三つのことを語っています。

①神様のご計画は平安と希望を与える計画である、ということです。今年もコロナに翻弄された一年であったように思えます。しかし、覚えておきたいことは、神はあなたを祝福したいと願ってこの一年を導かれたということです。そして祝福とは、全てが平穏、無事ということだけで捉えるのではなく、むしろ「災いだ、最悪だ」と思えるよう中にあっても、「神の守りと助け、最善の導きを実感することができた」ということが、私たちにとっての本当の祝福なのです。

②神の御手の中で守られているということです。神を信じていても、悩み苦しみを避けることはできません。しかし神は、神を信じ従う者と共におられ、ことごとく守って下さるのです。『正しい人には苦しみが多い。しかし【主】はそのすべてから救い出してくださる。主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。』詩篇34:19-20

③神が全責任を負って下さるということです。創造主であられる神は、私たちを罪と死と滅びから救うために、罪のないご自身の御子イエスを、裁いて下さった程のお方。それほどまでに私たちを愛して下さったお方です。これ程のお方が、全責任を負って下さるのです。私たちは、自分の計画、方法、タイミングが最善であると思いがちです。しかし、神のご計画、方法、タイミングこそが全ての時にかなって美しいのです!この一年もあなたの全てのことに関わり導いて下さった神の御前に跪き、心からの感謝をささげようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオーサ、スカシユリ、バラ、カスミ草です。

2021年12月19日 クリスマス礼拝メッセージ

「世界で一番の贈り物」ヨハネの福音書 3章 16~21節 金田洋介牧師

 

本日の中心の御言葉(ヨハネ3章16節)は、聖書の中の聖書と呼ばれている箇所です。全ての創造主である神様が、私たち一人一人を愛しているという聖書が最も伝えたい事実がこの一節に集約されているのです。

ひとり子を与えられた神

16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。「ひとり子」はイエス様のことであり、「唯一の、代わりとなる存在はない」という意味です。「お与えになったほどに」とは、「お捨てになった」という意味。そして「世」は私たち一人一人を指しています。ですから、神様というお方は「ご自分にとってこれ以上ないほど愛している、唯一の御子イエス様を捨ててまで私たちを愛してくださった」ということなのです。

どうか、あなたに対する神様の愛の大きさを知って欲しいのです。

イエス様によってもたらされた素晴らしい救いと命

神様がひとり子イエス様をお与えになった理由は、私たちが滅びることのないためです。私たち人間は、神様の前にみな罪人であり、イエス様以外に正しい人はいないと聖書は断言します。そして、罪の結末は死であり、永遠の滅びであると語っています。しかし、神様は、私たちを滅びから救うため、罪のない御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に付けて裁くことを決断されたのです!何にも代えがたいイエス様を、私たちの為にお捨てになるのですから、お心が痛まないはずがありません。それにも関わらず、神様はイエス様を犠牲にしてまで、私たちを滅びから救い、私たちに対する愛と、罪に対して妥協のない聖さを証明されたのです。さらに、「永遠のいのちを持つためである」とあるように、イエス様を信じるもには神様と共に永遠に生きる命が与えられ、神様とあなたの生きた交わりが回復されるのです。しかし、信じない者は、この素晴らしい命を持っていないため裁かれます(18節)。19節以降にあるように、光に照らされて罪が明るみに出されることを恐れ続けるのです。一方、この素晴らしいいのちを持つ者は、裁かれません。常に、神様と生きた交わりの中を歩み、光の中に居るからです。この永遠の命を持つことが出来るようにと、神様は願っておられるのです。

クリスマスは、素晴らしい救いと命という、世界で一番の贈り物を与えるために生まれ下さった、救い主イエス様の誕生を祝う日です。だからこそ、世界中でイエス様の誕生を喜ぶのです。イエス様によってもたらされた救いと命を、信じてる受け取ろうではありませんか。また、受け取ることが出来たことを、心から感謝しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、バラ、金魚草、カスミ草です。

2021年12月12日 第三アドベント主日礼拝メッセージ

「キリストからの招き」ヨハネの福音書1章 37~42節 金田洋介牧師

 

本日は先週の続きで、二人の人がイエスについて行くところ(37節)から始まります、彼らはもともとバプテスマのヨハネの弟子で、一人はアンデレ、もう一人はこの手紙の著者のヨハネだと言われています。彼らとイエスとのやり取りから学んで参りましょう。

①耳を傾けて下さるお方~あなたがたは何を求めているのか~

イエスはご自分の後についてくる二人に向かって「何を求めているのか」と尋ねると「先生、どこにお泊りですか」と答えます(38節)。これは、単にイエスの滞在場所を尋ねているのではありません。「泊まる(38節)」や「とどまる(39節)」と訳されている語は、同じくヨハネ15章でイエスがご自身との結びつきをブドウの木と枝に例えて、「わたしにつながっていなさい」と言われた「つながって」と同じ語が用いられているのです。ですから、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した方がどういうお方なのかを知り、関係を築くために、イエスのおられる所に行き、そこで話を伺いたいということなのです。

面識のない彼らの求めを受け止め、耳を傾けて下さったイエスは、あなたの求めにも耳を傾けて下さるお方です。イエスご自身について、神様について、人生に起こる様々な出来事について、祈りを通して素直に求めるのです。その求めにイエスは必ず応えて下さるのですから。

②キリストからの招き~来て、見て、とどまれ~

イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と彼らに言われました。この招きは私たちにも向けられた言葉として受け取りたいのです。

「来なさい」…イエスの招きに応えて行く。イエスに心を向け、近付くのです。近付くとは、心を開くということ。素直な心と態度でイエスとの交わりを求めましょう。

「見なさい」…イエスの招きに応答し、素直に心を開いたならばイエスを見ましょう。見るとは肉眼で見るということではなく、聖書の言葉を読み、説教を聞き、聖書を学び、祈ることを通して、イエス様と出会うのです。それは、イエスがどういう方か、何を私達に求めておられるのかを、御言葉やメッセージ、祈りを通して、悟るということです。

「とどまりなさい」…とどまるというのは、イエスと繋がり続けるということです。それは、イエスの声がいつも聞こえる場所にいるということ。教会生活、御言葉と祈りの生活、兄姉との交わりから離れてはいけないということです。イエスにとどまって(つながって)いるならば、豊かな実を結ぶのです(ヨハネ15章)。もし、あなたがキリスト(救い主)であるイエスの招きに応えるなら、あなたにとってかけがえのない、特別な日、特別な瞬間が訪れるでしょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、葉牡丹、アルストロメリア、カスミソウです。

この日、キッズクリスマス会が開かれました。感染に気をつけて、屋外で開催しました。60名ほどの参加があり、大変感謝でした。

サンタクロースもやって来ました。今年のサンタさんは若かった!

子ども達に大人気!お菓子すくい

牧師家の保護猫、あめちゃんは今年初参加。しっかり看板猫を務めてくれました。

オリエンテーリングでクリスマスのクイズが5問出ました。答えが全部わかったら、ガチャができるというものでした。

2021年12月5日 第二アドベント主日礼拝メッセージ

「この人を見よ」ヨハネの福音書1章 29~37節 金田洋介牧師

 

今年のアドベントはイエスというお方がいかなるお方なのかをテーマに語っていますが、本日はバプテスマのヨハネの証言(紹介)に注目したいと思います。ヨハネは自分が見聞き(体験)したことに基づき、イエスについて証言しています。

①イエスは私より先におられたお方

1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

ヨハネは前日に語った(27節)ことを基に、イエスについて証言しました。これは先週の説教で語られたように、イエスが天地万物が創造される前から存在していたお方、神ご自身であるということです。だからこそヨハネは、イエスが自分より先におられたお方であり、私よりはるかにまさっておられるお方だと言っているのです。

②イエスは神の子であり、聖霊によってバプテスマを授けるお方

続いてヨハネは、イエスにバプテスマを授けた時、聖霊が鳩のように天から降って、イエスの上にとどまるのを見たことによって、「この方こそ神の子である」ことをはっきりと知ることができたと言っています(32~34節)。なぜなら、彼をこのような働きに遣わされた神様が語られたことを、彼自身が目撃したからです。

イエスの上に降り、とどまった聖霊は、今も私たちに注がれ、イエスによる救いへと導き、「イエスこそ神の子、救い主」という信仰告白へと至らせて下さるのです。そして、この聖霊によって私たちは力を受け、イエスの証人とされていくのです。

③世の罪を取り除く神の小羊なるお方

ヨハネはイエスを指して「神の小羊」と宣言しました(29節)。それは、イザヤ書53章2~7節に預言されていた「屠り場に引かれて行く羊」に表された「苦難の僕」こそが、イエスその人を指しているからです。苦難の僕は、自らは何の罪もないのに人々の罪のために痛めつけられ苦しめられます。その姿はまさに、十字架の上でご自身の命を犠牲にして人々の罪を贖ってくださったイエスのお姿そのものです。イエスこそ、世の罪を取り除く神の小羊として、私たちを罪の滅びから救うために神ご自身が遣わして下さったお方なのです。

バプテスマのヨハネは「見よ」と叫びました。すなわち、私たちの罪の身代わりとなられたイエスを信じよということ。そして、信じてからもこのお方を仰ぎ見続けるということなのです。「この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ」( 新聖歌99)

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、ユリ、アルストロメリア、ストックです。

2021年 クリスマス集会のお知らせ

熊本真愛教会では、2021年クリスマス集会を下記の通り開催します。新型コロナウィルス感染拡大防止に留意しつつ、今年も救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。皆様のお越しをお待ちしております。

2021クリスマス礼拝・クリスマスキャンドルサービス

2021年キッズクリスマスフェスタチラシ(表)

2021年キッズクリスマスフェスタチラシ(裏)

 

2021年11月28日 第一アドベント主日礼拝メッセージ

「ことばは人となって」ヨハネの福音書1章1~18節 金田ゆり牧師

 

アドベントに入りました。本日のテキストは、ヨハネの福音書の序文。クリスマスにお生まれになったイエス・キリスト、このお方はどのようなお方なのか。何のためにこの地上に来られたのか。どのようにして来られたのか…、十二使徒の一人ヨハネが紹介しているのです。

  • イエスはどのような存在か 1~5節

「初めに」という言葉は「永遠の初めに」という意味です。天地万物が存在する前から、ことばなるお方が存在していた。イエスは、神のお考えや感情、計り知れぬ知恵を体現された、ことばなるお方であるとヨハネは証言しました。そして、このことばなるお方イエスは、神ご自身で在られると言うのです。天地万物はこのことばなるイエスによって造られました。永遠、無限、絶大な力を持つ神のことば、イエスによって万物は造られ、あなたは造られたのです。そして、イエスこそ、すべての命を支配されているお方であり、永遠の命までもあなたに与えることのできる神で在られるのです。

  • イエスは何のために来られたのか 9~13節

人の心の内まで照らす、まことの光であるイエス。罪深い世は、彼を受け入れませんでした。しかし、イエスの名を信じる者には、神の子どもとなる特権を与えてくださいました。この特権を私たちに与えるために、イエスは来てくださったのです。血筋や立場、人の努力とは関係なく、ただイエスを信じる者に神の子どもとなる特権は与えられるのです。あなたは、わたしの子どもだよ。わたしの子どもとしての特権はあなたのものだよ、と御声をかけてくださるのです。

  • イエスはどのようにして地上に来られたのか 14~18節

天地を創造された、ことばなるイエスは、人となられて私たちが住む地上に来てくださいました。罪以外は、私たちと同じ人間になられたのです。ヨハネは、三年半イエスと生活を共にする中で、イエスは完全に栄光の神ご自身で在られ、完全に人であるという、私たちの理解を越えた唯一のお方であると証言しているのです。人としてお生まれになったイエスだけが、神というお方がどんなお方か、完全に体現されたお方です。神の在り方を捨てて、ことばは人となって、神がどれほどあなたを愛し、恵みを与えようとしておられるか、その生涯で現わしてくださったのです。あなたが、神の子どもの特権を受け、永遠に至るまでの神の満ち満ちた愛、恵みで満たされますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ストック、ユリ、トルコキキョウです。

アドベントクランツにも火が灯りました。

2021年11月21日 主日礼拝メッセージ

「あらゆる壁を突破する神の福音」ピリピ人への手紙1:章12~18節 金田洋介牧師

 

使徒パウロは回心後、精力的にイエスの十字架と復活を宣べ伝えました。ところが、神の御心であるはずの福音宣教に励めば励む程、多くの患難が彼を襲います(Ⅱコリント11章)。鞭打たれ、投獄され、時には命の危機に見舞われます。しかしパウロは、全ての背後に神のご計画があると信じ、どんな困難にも挫けず宣教を続け、その結果「私の身に起った事が、かえって福音の前進に役立った」(12節)ことを、喜びながらピリピの信徒に伝えたのでした。

Ⅰ.パウロの身に起った事 ーイエス・キリストが全ての人に明らかにー

パウロはイエスの福音を宣べ伝えたことによって捕らえられてしまいました。ところが、投獄されたことによって、①ローマ皇帝の親衛隊をはじめ、大勢の人々にイエスのことが広まったのです(13節)。また、②捕らえられたパウロの後を継ぐ者たちが次々に起こされ、大胆に御言葉を伝えます(14節)。さらには、③パウロを妬む者たち、敵対心を持つ者たちまで立ち上がるという事態に(15、17節)。しかし、パウロはどんな動機であれ、イエスが伝えられているのだから、私はそれを喜ぶ(18節)と告白しています。

Ⅱ.パウロが伝えたかった福音~イエス・キリストが示した神の愛~

パウロは神の福音、すなわちイエスご自身を伝え、イエスを通して現わされた神の愛を伝えました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:9~10 とある通りです。一人でも多くの人に、この事実が伝わることだけにパウロは集中し、自らの命を、全てをささげたのでした。

パウロが伝えた神の福音は、2000年の時を経てあなたに届きました。その間、神の福音は多くの壁に遮られました。言葉、国、文化、思想、誤った教えや惑わし、人の悪意による迫害、脅し、暴力、また、不信仰、疑い、恐れといった多くの壁に妨げられました。しかし、それらをみな突破して、あなたのもとに届いたのです。福音はグッドニュースとも呼ばれます。この良い知らせは、どんな壁をも突破する力があります。なぜなら、この福音は神があなたの為に与えられたものだからです。この福音を受け取っていない方は、是非受け取ってほしいのです。これは、ひとり子イエスを犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる神の願いです。そして、全てのクリスチャンは、臆せず、恐れず、この福音をあなたの大切な方に伝えてほしいのです。これは、あなたが大切に思う方を、あなた以上に愛している、神の願いなのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グラジオラス、スターチスです。

2021年11月14日 子ども祝福ファミリー礼拝式メッセージ

「神様を信じて踏み出そう」ヨシュア記3章 7~17節 金田洋介牧師

 

神の召しによって立ち上がったヨシュア。約束の地は目の前ですが、増水したヨルダン川は容易に渡れる状態にありません。

ヨルダン川を前に静まる

ヨシュアと民たちはヨルダン川岸に三日間留まることになりますが、彼らにとって大事な時間だったのではないでしょうか。ヨシュアは神の前に導きを求めて静まり、民はカナンの地の堅固な町と強い先住民を恐れて不信仰に陥った先人たちの罪と失敗を思い起こすとともに、目の前に立ちはだかる現実の障害に不安と緊張を覚えたのではないでしょうか。

自らを聖別しなさい

三日後、ヨシュアは神の命令に従い、まずは契約の箱を担ぐ祭司たちが川に進み行き、その後を民がついて行くよう命じます。そしてヨシュアは民に「自らを聖別するよう」命じます(5節)。神の前に徹底的にへりくだり、全てを神に明け渡しなさいというのです。川岸で過ごした3日間でこれまでの歩みを顧み、神を信じきれない、信頼しきれない思いと歩みから決別し、ただ神の御約束を信じなさい。そうするならば、神は不思議を行われる(驚くべき御力を目の当たりにする)からだとヨシュアは迫ったのでした。

神様の御言葉を信じて踏み出そう

「地の主である【主】の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」(13節)。かつてエジプトを脱出した時、神が紅海を分けられたことと同じように、神はヨルダン川を渡らせて下さるというのです。ところが、紅海を渡った時は海が分かれてから踏み出しましたが、ヨシュア一行がヨルダン川を渡るためには、激しく流れるヨルダン川の状況が変わらないまま、足を踏み入れなければなりません。しかし、彼らは神の御言葉の約束を信じて立ち上がりました。そして、契約の箱を担いだ祭司たちの足が激しく流れるヨルダン川に踏み出した瞬間、奇跡は起こりました。神のお言葉通り、ヨルダン川は上流でせき止められ、民はみな乾いた川底を歩いて渡り切ることができたのです。

ヨシュアとイスラエルの民が体験したこの奇跡の出来事は、私たち大きな希望を与えてくれます。神は私たち一人一人に数えきれないほどの祝福を用意しておられますが、それらを得るための秘訣は、ヨシュアらに倣って①神の前に静まってこれまでの歩みを顧み、②聖別するのです。そして、神のみ旨に心と思いを一つにし、③御言葉を信じて踏み出すのです。もしあなたが、神の御言葉を信じて一歩を踏み出すなら、神の大いなる御業を体験することできるのです。信仰によって踏み出し、約束された神の祝福に与らせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、オリエンタルユリです。

この日子ども祝福式が行われ、子どもたちの健やかな成長と、神様からの豊かな祝福をお祈りしていただきました。

 

 

2021年11月7日 主日礼拝メッセージ

「パウロの祈り」ピリピ1章8~11節 金田洋介牧師

 

神の愛が豊かにされるように

パウロは「ピリピの信徒たちの愛が豊かにされるように(9節)」と祈っていると書き送っています。この「愛」は「神の愛(犠牲をいとわず、見返りを求めず、与え尽くす愛)」のことです。パウロは、彼らの内に与えられた神の愛が豊かにされるように願っていますが、その「豊か」さは、私たちの想像を超える豊かさを意味しています。福音書にイエスが5つのパンと2匹の魚を5000人以上の人々に分け与えられた奇跡が記されていますが、そこには、「人々は食べて満腹し、パンくずの残りが十二のかごいっぱいになった」とあります。パウロが祈り求めている「豊かさ」とは、この「食べてなお余るほど」の豊かさ。つまり、「与えても与えても尽きない」豊かな愛を意味しているのです。

知識と識別力によって愛は豊かにされる 

パウロは、愛が豊かにされる為に必要なこととして、知識と識別力を挙げています。知識とは御言葉による知識といえるでしょう。つまり、イエスが何を語り、何を教え、どのように行動したのか、イエスを通して神の聖さや神の愛の性質を知ることができます。そして、聞いて終わりにせずに思い巡らし、心の内に留め、深めていくことが大切です。

次に識別力です。パウロは「あらゆる識別力」と言っていますが、今回は愛に絞りましょう。つまり、神の愛を正しく見分ける力です。パウロが知識を挙げたのは、彼らの愛が誤っていないか、偏っていないか、あやふやでないかを識別するためです。判断する基準(知識)がなければ神の愛を見分けることはできません。ですから、イエスを知り、神を知ることによって、正しい識別力が養われ、神の愛が分かり、その結果豊かにされるのです。しかし、イエスの愛、神の愛を知る程、私には愛がないことに気付かされます。しかし聖書は、「愛は神からくる」と教えています。「たとえ私には愛がなくても、神は愛を注ぎ、満たし、溢れるほどにして下さる」そう信じて祈り求めるなら、神の愛が内から溢れ出るようにされるのです。

キリストの日を意識して祈り求める

私たちは、必ずイエスが再臨される日を迎えます。そして、神の前に立つ日が来ます。その日は、私たちの日々の歩みが、愛が、問われる日でもあります。その日を喜びと平安を持って迎えられるように、知識と識別力を祈り求めて行きたいのです。互いに祈り合い、教え合い、励まし合いましょう。今が、永遠に繋がっていることを覚え、キリストの日を待ち望んで歩みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グロリオーサです。

2021年10月31日 主日礼拝メッセージ

「永遠の神の御名」出エジプト記3章13~22節 金田ゆり牧師

 

イスラエルの出エジプトの為に、神様が自分を召しておられることを理解したモーセでしたが、彼の中にはまだわからないことが多くあり、不安がありました。モーセは、父祖の神を限定する、このお方を現わすお名前は何か、神様のお名前を聞きました(13節)

  • 「わたしはある」という者である(14節)

神様は「わたしは、『わたしはある』という者である」とご自身の存在を現わす自己紹介をされました。ここで神様は、過去、現在、未来、すべてを網羅する動詞を使われ、神様の永遠性を現わされました。わたしは永遠の初めから存在し、永遠に至るまで存在する者である、とご自身を自己紹介されました。この御言葉を理解するために、へブル13章8節、黙示録1章8節、ヨハネ8章58節もご覧ください。

  • アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(15~17節)

神様は、ご自身の呼び名を紹介されました。ヘブル語で「ヤハウェ」、日本語では「主」と呼ばれます。アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を決してお忘れにならず、誠実に、真実に、忠実に、行われるお方は、「主」と呼ばれるお方だとモーセに告げられたのです。あなたの人生に、み言葉の約束を行われるお方、その名は「主」。主と言うお名前は、み言葉を忠実に果たされる、真実なお方として紹介されるべきお名前なのです。

  • あなたの人生すべてを引き受けてくださる主(18~22節)

神様は、ご自身を「わたしはある」という永遠の存在であること、契約、み言葉を忠実に果たされる「主」という呼び名をモーセに教えられた上で、18節以降の御言葉を語られました。今後、出エジプトに至るまでどのような出来事が展開されるのか、示されました。永遠であるお方は、み言葉を忠実に実行されるお方には、このれから先のことがすべて、見えておられ、ご計画がある。「わたしはある」「主」と言うお名前は、あなたにとって、予測することのできないすべての将来を、神様は引き受けて導かれるというお名前なのです。神様は、モーセに、起こることを何もかも話されたわけではありません。神様は、知る必要のないことは語られないのです。私たちが知る必要のあることは、「わたしはある」というお方、「主」というお方は、私たちの人生すべてを引き受けて導かれるということ。この事実に心を留め、み言葉を握り信頼して歩むことです。この永遠の神様の御名をいよいよ切に呼び続け、どこまでもこのお方だけを見て、信頼して歩めますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、オンシジュームです。