説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2021年12月12日 第三アドベント主日礼拝メッセージ

「キリストからの招き」ヨハネの福音書1章 37~42節 金田洋介牧師

 

本日は先週の続きで、二人の人がイエスについて行くところ(37節)から始まります、彼らはもともとバプテスマのヨハネの弟子で、一人はアンデレ、もう一人はこの手紙の著者のヨハネだと言われています。彼らとイエスとのやり取りから学んで参りましょう。

①耳を傾けて下さるお方~あなたがたは何を求めているのか~

イエスはご自分の後についてくる二人に向かって「何を求めているのか」と尋ねると「先生、どこにお泊りですか」と答えます(38節)。これは、単にイエスの滞在場所を尋ねているのではありません。「泊まる(38節)」や「とどまる(39節)」と訳されている語は、同じくヨハネ15章でイエスがご自身との結びつきをブドウの木と枝に例えて、「わたしにつながっていなさい」と言われた「つながって」と同じ語が用いられているのです。ですから、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した方がどういうお方なのかを知り、関係を築くために、イエスのおられる所に行き、そこで話を伺いたいということなのです。

面識のない彼らの求めを受け止め、耳を傾けて下さったイエスは、あなたの求めにも耳を傾けて下さるお方です。イエスご自身について、神様について、人生に起こる様々な出来事について、祈りを通して素直に求めるのです。その求めにイエスは必ず応えて下さるのですから。

②キリストからの招き~来て、見て、とどまれ~

イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と彼らに言われました。この招きは私たちにも向けられた言葉として受け取りたいのです。

「来なさい」…イエスの招きに応えて行く。イエスに心を向け、近付くのです。近付くとは、心を開くということ。素直な心と態度でイエスとの交わりを求めましょう。

「見なさい」…イエスの招きに応答し、素直に心を開いたならばイエスを見ましょう。見るとは肉眼で見るということではなく、聖書の言葉を読み、説教を聞き、聖書を学び、祈ることを通して、イエス様と出会うのです。それは、イエスがどういう方か、何を私達に求めておられるのかを、御言葉やメッセージ、祈りを通して、悟るということです。

「とどまりなさい」…とどまるというのは、イエスと繋がり続けるということです。それは、イエスの声がいつも聞こえる場所にいるということ。教会生活、御言葉と祈りの生活、兄姉との交わりから離れてはいけないということです。イエスにとどまって(つながって)いるならば、豊かな実を結ぶのです(ヨハネ15章)。もし、あなたがキリスト(救い主)であるイエスの招きに応えるなら、あなたにとってかけがえのない、特別な日、特別な瞬間が訪れるでしょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、葉牡丹、アルストロメリア、カスミソウです。

この日、キッズクリスマス会が開かれました。感染に気をつけて、屋外で開催しました。60名ほどの参加があり、大変感謝でした。

サンタクロースもやって来ました。今年のサンタさんは若かった!

子ども達に大人気!お菓子すくい

牧師家の保護猫、あめちゃんは今年初参加。しっかり看板猫を務めてくれました。

オリエンテーリングでクリスマスのクイズが5問出ました。答えが全部わかったら、ガチャができるというものでした。

2021年12月5日 第二アドベント主日礼拝メッセージ

「この人を見よ」ヨハネの福音書1章 29~37節 金田洋介牧師

 

今年のアドベントはイエスというお方がいかなるお方なのかをテーマに語っていますが、本日はバプテスマのヨハネの証言(紹介)に注目したいと思います。ヨハネは自分が見聞き(体験)したことに基づき、イエスについて証言しています。

①イエスは私より先におられたお方

1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

ヨハネは前日に語った(27節)ことを基に、イエスについて証言しました。これは先週の説教で語られたように、イエスが天地万物が創造される前から存在していたお方、神ご自身であるということです。だからこそヨハネは、イエスが自分より先におられたお方であり、私よりはるかにまさっておられるお方だと言っているのです。

②イエスは神の子であり、聖霊によってバプテスマを授けるお方

続いてヨハネは、イエスにバプテスマを授けた時、聖霊が鳩のように天から降って、イエスの上にとどまるのを見たことによって、「この方こそ神の子である」ことをはっきりと知ることができたと言っています(32~34節)。なぜなら、彼をこのような働きに遣わされた神様が語られたことを、彼自身が目撃したからです。

イエスの上に降り、とどまった聖霊は、今も私たちに注がれ、イエスによる救いへと導き、「イエスこそ神の子、救い主」という信仰告白へと至らせて下さるのです。そして、この聖霊によって私たちは力を受け、イエスの証人とされていくのです。

③世の罪を取り除く神の小羊なるお方

ヨハネはイエスを指して「神の小羊」と宣言しました(29節)。それは、イザヤ書53章2~7節に預言されていた「屠り場に引かれて行く羊」に表された「苦難の僕」こそが、イエスその人を指しているからです。苦難の僕は、自らは何の罪もないのに人々の罪のために痛めつけられ苦しめられます。その姿はまさに、十字架の上でご自身の命を犠牲にして人々の罪を贖ってくださったイエスのお姿そのものです。イエスこそ、世の罪を取り除く神の小羊として、私たちを罪の滅びから救うために神ご自身が遣わして下さったお方なのです。

バプテスマのヨハネは「見よ」と叫びました。すなわち、私たちの罪の身代わりとなられたイエスを信じよということ。そして、信じてからもこのお方を仰ぎ見続けるということなのです。「この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ」( 新聖歌99)

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、ユリ、アルストロメリア、ストックです。

2021年11月28日 第一アドベント主日礼拝メッセージ

「ことばは人となって」ヨハネの福音書1章1~18節 金田ゆり牧師

 

アドベントに入りました。本日のテキストは、ヨハネの福音書の序文。クリスマスにお生まれになったイエス・キリスト、このお方はどのようなお方なのか。何のためにこの地上に来られたのか。どのようにして来られたのか…、十二使徒の一人ヨハネが紹介しているのです。

  • イエスはどのような存在か 1~5節

「初めに」という言葉は「永遠の初めに」という意味です。天地万物が存在する前から、ことばなるお方が存在していた。イエスは、神のお考えや感情、計り知れぬ知恵を体現された、ことばなるお方であるとヨハネは証言しました。そして、このことばなるお方イエスは、神ご自身で在られると言うのです。天地万物はこのことばなるイエスによって造られました。永遠、無限、絶大な力を持つ神のことば、イエスによって万物は造られ、あなたは造られたのです。そして、イエスこそ、すべての命を支配されているお方であり、永遠の命までもあなたに与えることのできる神で在られるのです。

  • イエスは何のために来られたのか 9~13節

人の心の内まで照らす、まことの光であるイエス。罪深い世は、彼を受け入れませんでした。しかし、イエスの名を信じる者には、神の子どもとなる特権を与えてくださいました。この特権を私たちに与えるために、イエスは来てくださったのです。血筋や立場、人の努力とは関係なく、ただイエスを信じる者に神の子どもとなる特権は与えられるのです。あなたは、わたしの子どもだよ。わたしの子どもとしての特権はあなたのものだよ、と御声をかけてくださるのです。

  • イエスはどのようにして地上に来られたのか 14~18節

天地を創造された、ことばなるイエスは、人となられて私たちが住む地上に来てくださいました。罪以外は、私たちと同じ人間になられたのです。ヨハネは、三年半イエスと生活を共にする中で、イエスは完全に栄光の神ご自身で在られ、完全に人であるという、私たちの理解を越えた唯一のお方であると証言しているのです。人としてお生まれになったイエスだけが、神というお方がどんなお方か、完全に体現されたお方です。神の在り方を捨てて、ことばは人となって、神がどれほどあなたを愛し、恵みを与えようとしておられるか、その生涯で現わしてくださったのです。あなたが、神の子どもの特権を受け、永遠に至るまでの神の満ち満ちた愛、恵みで満たされますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ストック、ユリ、トルコキキョウです。

アドベントクランツにも火が灯りました。

2021年11月21日 主日礼拝メッセージ

「あらゆる壁を突破する神の福音」ピリピ人への手紙1:章12~18節 金田洋介牧師

 

使徒パウロは回心後、精力的にイエスの十字架と復活を宣べ伝えました。ところが、神の御心であるはずの福音宣教に励めば励む程、多くの患難が彼を襲います(Ⅱコリント11章)。鞭打たれ、投獄され、時には命の危機に見舞われます。しかしパウロは、全ての背後に神のご計画があると信じ、どんな困難にも挫けず宣教を続け、その結果「私の身に起った事が、かえって福音の前進に役立った」(12節)ことを、喜びながらピリピの信徒に伝えたのでした。

Ⅰ.パウロの身に起った事 ーイエス・キリストが全ての人に明らかにー

パウロはイエスの福音を宣べ伝えたことによって捕らえられてしまいました。ところが、投獄されたことによって、①ローマ皇帝の親衛隊をはじめ、大勢の人々にイエスのことが広まったのです(13節)。また、②捕らえられたパウロの後を継ぐ者たちが次々に起こされ、大胆に御言葉を伝えます(14節)。さらには、③パウロを妬む者たち、敵対心を持つ者たちまで立ち上がるという事態に(15、17節)。しかし、パウロはどんな動機であれ、イエスが伝えられているのだから、私はそれを喜ぶ(18節)と告白しています。

Ⅱ.パウロが伝えたかった福音~イエス・キリストが示した神の愛~

パウロは神の福音、すなわちイエスご自身を伝え、イエスを通して現わされた神の愛を伝えました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:9~10 とある通りです。一人でも多くの人に、この事実が伝わることだけにパウロは集中し、自らの命を、全てをささげたのでした。

パウロが伝えた神の福音は、2000年の時を経てあなたに届きました。その間、神の福音は多くの壁に遮られました。言葉、国、文化、思想、誤った教えや惑わし、人の悪意による迫害、脅し、暴力、また、不信仰、疑い、恐れといった多くの壁に妨げられました。しかし、それらをみな突破して、あなたのもとに届いたのです。福音はグッドニュースとも呼ばれます。この良い知らせは、どんな壁をも突破する力があります。なぜなら、この福音は神があなたの為に与えられたものだからです。この福音を受け取っていない方は、是非受け取ってほしいのです。これは、ひとり子イエスを犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる神の願いです。そして、全てのクリスチャンは、臆せず、恐れず、この福音をあなたの大切な方に伝えてほしいのです。これは、あなたが大切に思う方を、あなた以上に愛している、神の願いなのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グラジオラス、スターチスです。

2021年11月14日 子ども祝福ファミリー礼拝式メッセージ

「神様を信じて踏み出そう」ヨシュア記3章 7~17節 金田洋介牧師

 

神の召しによって立ち上がったヨシュア。約束の地は目の前ですが、増水したヨルダン川は容易に渡れる状態にありません。

ヨルダン川を前に静まる

ヨシュアと民たちはヨルダン川岸に三日間留まることになりますが、彼らにとって大事な時間だったのではないでしょうか。ヨシュアは神の前に導きを求めて静まり、民はカナンの地の堅固な町と強い先住民を恐れて不信仰に陥った先人たちの罪と失敗を思い起こすとともに、目の前に立ちはだかる現実の障害に不安と緊張を覚えたのではないでしょうか。

自らを聖別しなさい

三日後、ヨシュアは神の命令に従い、まずは契約の箱を担ぐ祭司たちが川に進み行き、その後を民がついて行くよう命じます。そしてヨシュアは民に「自らを聖別するよう」命じます(5節)。神の前に徹底的にへりくだり、全てを神に明け渡しなさいというのです。川岸で過ごした3日間でこれまでの歩みを顧み、神を信じきれない、信頼しきれない思いと歩みから決別し、ただ神の御約束を信じなさい。そうするならば、神は不思議を行われる(驚くべき御力を目の当たりにする)からだとヨシュアは迫ったのでした。

神様の御言葉を信じて踏み出そう

「地の主である【主】の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」(13節)。かつてエジプトを脱出した時、神が紅海を分けられたことと同じように、神はヨルダン川を渡らせて下さるというのです。ところが、紅海を渡った時は海が分かれてから踏み出しましたが、ヨシュア一行がヨルダン川を渡るためには、激しく流れるヨルダン川の状況が変わらないまま、足を踏み入れなければなりません。しかし、彼らは神の御言葉の約束を信じて立ち上がりました。そして、契約の箱を担いだ祭司たちの足が激しく流れるヨルダン川に踏み出した瞬間、奇跡は起こりました。神のお言葉通り、ヨルダン川は上流でせき止められ、民はみな乾いた川底を歩いて渡り切ることができたのです。

ヨシュアとイスラエルの民が体験したこの奇跡の出来事は、私たち大きな希望を与えてくれます。神は私たち一人一人に数えきれないほどの祝福を用意しておられますが、それらを得るための秘訣は、ヨシュアらに倣って①神の前に静まってこれまでの歩みを顧み、②聖別するのです。そして、神のみ旨に心と思いを一つにし、③御言葉を信じて踏み出すのです。もしあなたが、神の御言葉を信じて一歩を踏み出すなら、神の大いなる御業を体験することできるのです。信仰によって踏み出し、約束された神の祝福に与らせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、オリエンタルユリです。

この日子ども祝福式が行われ、子どもたちの健やかな成長と、神様からの豊かな祝福をお祈りしていただきました。

 

 

2021年11月7日 主日礼拝メッセージ

「パウロの祈り」ピリピ1章8~11節 金田洋介牧師

 

神の愛が豊かにされるように

パウロは「ピリピの信徒たちの愛が豊かにされるように(9節)」と祈っていると書き送っています。この「愛」は「神の愛(犠牲をいとわず、見返りを求めず、与え尽くす愛)」のことです。パウロは、彼らの内に与えられた神の愛が豊かにされるように願っていますが、その「豊か」さは、私たちの想像を超える豊かさを意味しています。福音書にイエスが5つのパンと2匹の魚を5000人以上の人々に分け与えられた奇跡が記されていますが、そこには、「人々は食べて満腹し、パンくずの残りが十二のかごいっぱいになった」とあります。パウロが祈り求めている「豊かさ」とは、この「食べてなお余るほど」の豊かさ。つまり、「与えても与えても尽きない」豊かな愛を意味しているのです。

知識と識別力によって愛は豊かにされる 

パウロは、愛が豊かにされる為に必要なこととして、知識と識別力を挙げています。知識とは御言葉による知識といえるでしょう。つまり、イエスが何を語り、何を教え、どのように行動したのか、イエスを通して神の聖さや神の愛の性質を知ることができます。そして、聞いて終わりにせずに思い巡らし、心の内に留め、深めていくことが大切です。

次に識別力です。パウロは「あらゆる識別力」と言っていますが、今回は愛に絞りましょう。つまり、神の愛を正しく見分ける力です。パウロが知識を挙げたのは、彼らの愛が誤っていないか、偏っていないか、あやふやでないかを識別するためです。判断する基準(知識)がなければ神の愛を見分けることはできません。ですから、イエスを知り、神を知ることによって、正しい識別力が養われ、神の愛が分かり、その結果豊かにされるのです。しかし、イエスの愛、神の愛を知る程、私には愛がないことに気付かされます。しかし聖書は、「愛は神からくる」と教えています。「たとえ私には愛がなくても、神は愛を注ぎ、満たし、溢れるほどにして下さる」そう信じて祈り求めるなら、神の愛が内から溢れ出るようにされるのです。

キリストの日を意識して祈り求める

私たちは、必ずイエスが再臨される日を迎えます。そして、神の前に立つ日が来ます。その日は、私たちの日々の歩みが、愛が、問われる日でもあります。その日を喜びと平安を持って迎えられるように、知識と識別力を祈り求めて行きたいのです。互いに祈り合い、教え合い、励まし合いましょう。今が、永遠に繋がっていることを覚え、キリストの日を待ち望んで歩みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グロリオーサです。

2021年10月31日 主日礼拝メッセージ

「永遠の神の御名」出エジプト記3章13~22節 金田ゆり牧師

 

イスラエルの出エジプトの為に、神様が自分を召しておられることを理解したモーセでしたが、彼の中にはまだわからないことが多くあり、不安がありました。モーセは、父祖の神を限定する、このお方を現わすお名前は何か、神様のお名前を聞きました(13節)

  • 「わたしはある」という者である(14節)

神様は「わたしは、『わたしはある』という者である」とご自身の存在を現わす自己紹介をされました。ここで神様は、過去、現在、未来、すべてを網羅する動詞を使われ、神様の永遠性を現わされました。わたしは永遠の初めから存在し、永遠に至るまで存在する者である、とご自身を自己紹介されました。この御言葉を理解するために、へブル13章8節、黙示録1章8節、ヨハネ8章58節もご覧ください。

  • アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(15~17節)

神様は、ご自身の呼び名を紹介されました。ヘブル語で「ヤハウェ」、日本語では「主」と呼ばれます。アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を決してお忘れにならず、誠実に、真実に、忠実に、行われるお方は、「主」と呼ばれるお方だとモーセに告げられたのです。あなたの人生に、み言葉の約束を行われるお方、その名は「主」。主と言うお名前は、み言葉を忠実に果たされる、真実なお方として紹介されるべきお名前なのです。

  • あなたの人生すべてを引き受けてくださる主(18~22節)

神様は、ご自身を「わたしはある」という永遠の存在であること、契約、み言葉を忠実に果たされる「主」という呼び名をモーセに教えられた上で、18節以降の御言葉を語られました。今後、出エジプトに至るまでどのような出来事が展開されるのか、示されました。永遠であるお方は、み言葉を忠実に実行されるお方には、このれから先のことがすべて、見えておられ、ご計画がある。「わたしはある」「主」と言うお名前は、あなたにとって、予測することのできないすべての将来を、神様は引き受けて導かれるというお名前なのです。神様は、モーセに、起こることを何もかも話されたわけではありません。神様は、知る必要のないことは語られないのです。私たちが知る必要のあることは、「わたしはある」というお方、「主」というお方は、私たちの人生すべてを引き受けて導かれるということ。この事実に心を留め、み言葉を握り信頼して歩むことです。この永遠の神様の御名をいよいよ切に呼び続け、どこまでもこのお方だけを見て、信頼して歩めますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、オンシジュームです。

2021年10月24日 主日礼拝メッセージ

「パウロの確信」ピリピ人への手紙1章1~6節 金田洋介牧師

 

この手紙はピリピのキリスト者たち宛ての手紙です。書き出しの言葉を読むと、パウロとピリピの人々との深く親しい繋がりが伺えます。本日は6節を中心に見ましょう。

ピリピで始まった良い働き

1:6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ここでパウロが言っている「良い働き」とは、何よりもまずピリピにおいて救われる魂が起こされたことでしょう。パウロ一行による第二次伝道旅行の際に救われたピリピのキリスト者たち(使徒16章)が礎となり、のちに教会が誕生します。そして、そこに集うキリスト者たちがパウロの伝道活動をサポートしたのです。このような素晴らしい出来事は、私たちの間にも起こることを覚えたいのです。

熊本真愛教会で始まった良い働き

真愛教会は来年、創立40周年を迎えます。真愛教会もピリピの教会の様にゼロからスタートしました。神様によって遣わされた丸山先生ご一家を通して開拓伝道が始まり、神様の導きによって一人、また一人と救われる方が起こされました。その後、長尾先生、私金田が遣わされ、今では70名を超える群れとなりました。そして世代は第一世代から、第二、第三世代へと信仰が継承されようとしています。この良き働きを始められた方は、パウロが6節で語っているように神様ご自身であり、さらに、イエス様の御再臨されるその日までに、この真愛教会を通して始められた宣教、委ねられた使命、役割を完成して下さるのです。

救われた私たちの内に始まった良い働き

最後に、神様が始めて下さった良き働きは、教会だけでなく私たちの内に起こされることを覚えたいのです。イエス様を救い主と信じた人はみな、イエス様に似た者になると聖書は約束しています。神様を愛し、神様の御言葉を愛し、御言葉に生きる者。隣人を愛し、受け入れ、寄り添い、人々に福音を伝える者とされていくのです。さらには、イエス様と同じ栄光の御姿に変えられると約束されています。けれども、「私の内にそんなことが起こるのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうか思い巡らしていただきたい。神様があなたの内に始められた良い働きが必ずあるはずです。御言葉に押し出されて始めたことはありませんか?伝道、デボーション、愛を与える (親切、善意による) 行動、とりなしの祈り…、それらは全て神様が始めて下さった素晴らしい働きです。必ず、神様が完成して(完遂できるように)下さいます。時にはくじけそうになるかもしれませんが、パウロをとおして私たちに与えて下さった神様の約束の言葉は真実です。私たちに教会に、私たちの内に良い働きを始めた下さった神様を信じ、忍耐と期待を持って共に歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ハイビスカス(枝)、グロリオーサ、オリエンタルユリです。

 

2021年10月17日 主日礼拝メッセージ

「苦難の中でも絶望しないために」創世記50章15~26節 金田洋介牧師

 

ヨセフは兄たちによって貶められてエジプト人の奴隷となり、さらに濡れ衣を着せられ投獄されてしまいます。ところが、奴隷であっても、囚人とされても彼の生き方は変わりませんでした。共におられる神と、置かれた場所でその日その日を生きたのです。

ヨセフ、囚人から宰相へ

ある日のこと、ヨセフは拘留されていた王の廷臣たちの夢を解き明かしたことをきっかけに(40章)、王の夢を見事に解き明かすします(41章)。そして、将来エジプトを襲う大飢饉を乗り越える方策を提案することによって王の信頼を得、ヨセフはあっという間にエジプトの宰相に上り詰めます。その後ヨセフは結婚し、マナセとエフライムを授かります。これまでの苦労が報われたヨセフでしたが、神様のご計画にはさらに先があったのです。

誰の考えも及ばない、神の壮大な計画

エジプトの宰相になったヨセフの采配により、7年間の大飢饉からエプトを救いますが、大飢饉は地の全面に及び(41:56)、ヨセフの父や兄たちがいるカナンの地にも影響をもたらします。しかし、ヨセフの功績と王の好意により、ヤコブ一族のエジプト移住が許されます(42~45章)。神様はヨセフを通してエジプトや諸国を救い、ヤコブ一族も救われたのです。

50:20 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

ヨセフの告白のごとく、神様はヨセフの兄たちの悪の企みを良きことに変え、多くの人々を救って下さったのです。そして、移住時70数名だったヤコブの一族は、400年後の出エジプトの頃には100万人以上に増え、神の栄光を現わす使命を担う神の民として歩むことになります。神には誰の考えも及ばない壮大なご計画と最善のアイデアがあるのです。

神様の憐みを知り、神様の憐みを求める

説教題にもある苦難とは、「身に降りかかる悩み、苦しみ、苦痛」です。ヨセフも兄たちも苦難の中を通りました。ヨセフは人の悪意と罪によって苦しみ、兄たちはヨセフに対して行った悪、つまり、自分たちが犯した悪と罪を悔いて苦しみ、さらに父ヤコブが死に、ヨセフの仕返しを恐れています(50:15)。このように、自分の犯した罪や他者の犯した罪によって苦しみ、絶望に追いやられることがあります。しかし、ヨセフや兄弟たちに、さらには神を信じないエジプトや周辺諸国にも、神の憐みの御手が及び、みな救われました。ここに、私たちが苦難の中でも絶望しないために覚えておくべき秘訣があります。ヨセフの物語を通して全ての人が神の憐みの対象であることを知った今、神の憐みを信じて求めるのです。神は私たち誰もが考えも及ばない壮大な計画を用意し、それを実現できる唯一のお方です。日々このお方の前に遜り、憐みにすがりつつ歩んで行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、クジャクヒバ、グラジオラス、ユリ、トルコキキョウ、スターチスです。

2021年10月10日 主日礼拝メッセージ

「神様と共に今日を生きよう」創世記39章5~23節 金田洋介牧師

 

本日はヤコブの息子ヨセフに注目します。ヨセフは12兄弟の11番目の息子ですが、父親のヤコブは彼を他のどの兄弟よりも愛しました。他の兄弟たちと明らかに違うヨセフへの待遇に、兄たちは面白くありません。そこにヨセフが見た二つの夢が決定的となり、兄たちはヨセフの殺害を企てます。幸い、寸前のところで思い止まりましたが、ヨセフは兄たちによってミディアン人の商人に売られ、エジプトのポティファルの奴隷となってしまいます。

命拾いしたとはいえ、奴隷となってしまったヨセフ。ところが彼は落ち込んだり、恨み言を呟いたり、家族の許に帰ろうと飛び出したりしませんでした。彼は酷い目にありながらもそれに縛られず、辛い現実から目を逸らさず、ポティファルの奴隷の一人として、今日という日を生きることを選んだのです。忠実に仕えるヨセフの姿を見た主人は、彼に家と財産の全ての管理を委ねます。これは、ヨセフと共におられた神様の取り計らいであるとともに、神様がヨセフを祝福しておられることをポティファル自身が知ったからでした。このことから、もし私たちが神様と共に今日を生きるなら(いつでもどこでも、神様の御心と御言葉をに生きる)、私たちを通して生きておられる神様が周囲に知られて行きます。たとえ、悩み苦しむことがあっても、共におられる神様を信頼して委ね、自分の置かれた所で役割を責任を果たして行こうとするなら、神様は私たちを守り支え、良きことを行って下さるのです。

ところが、神様と共に毎日を生きてきたヨセフの日常が破壊されてしまう出来事が起こり、状況が一転します。ヨセフはポティファルの妻からの誘惑に悩まされます。しかしヨセフは、それは神様の前に罪を犯すことであり、また主人であり、自分を信頼してくれているポティファルに対する罪であると宣言し、誘惑に負けて罪を犯すことはありませんでした。しかし、ヨセフはポティファルの妻に濡れ衣を着せられ、監獄に投獄されてしまうのです。あまりに理不尽な現実に、彼の心が折れてしまってもおかしくありません。ところがヨセフの生き方は、場所が変わっても、奴隷から囚人にまで貶められても全く変わることはありませんでした。そして、ヨセフと共におられた神様は、監獄の中にあっても彼を祝福し、看守の信頼を得させ、彼を成功させてくださったのです。

元々、ヨセフは性の誘惑だけでなく、権力とお金の誘惑にも晒されていました。彼はポティファルの家と財産の管理も任されていましたから、思うがままに振る舞うこともできたのです。しかしヨセフは「神様の前に、主人の前に罪を犯すことはできない」と誘惑に勝利しました。まさに、イエス様が「神を愛し、隣り人を自分自身のように愛しなさい」と教えられた、このご命令が鍵であることを私たちに示しています。神様と共に今日という日を生きたヨセフは、神と人とを愛し、置かれているとこで使命と責任を忠実に果たしました。私たちも彼に倣い、誘惑の多い世にあっても、神と隣り人を愛する日々を歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、グロリオーサです。