SATTE CHURCH HOMEPAGE

2017年9月3日聖日礼拝   使徒行伝20章7〜12節


「どんな時も神により頼む」     田沼牧師
     
本日の聖書箇所には、初代教会も週の初めである日曜日に礼拝を守っていたことが記されています。礼拝の中心はパンを裂くことと説教でした(7節)。
「パンを裂く」とは夕食(愛餐)のことを指し、その中でキリストの十字架を記念して聖餐式も行われていました。これは信仰の交わりをもって共に食事をすることを意味します。
「聖餐」とはパンを裂く儀式のことで、キリストが私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、裂かれて死んで下さったことを記念する式です。

パウロは明日の出発を前に、二度と地上では会えないかも知れないという気持ちもあってか、説教が長く続きました。語る側の熱心と、聞いて応答する側の熱心が相乗効果をもたらし、長時間に及びました。
福音の真理はこのような呼吸を通して伝えられていくのです。

しかし、心は燃えていても日中にした仕事の疲労が限界に達した青年ユテコが眠りこけて、3階から転落死したのです。パウロは下に降りてきて祈りつつ彼を抱きかかえ「心配することはない。まだいのちはあります」(10節)と宣言しました。礼拝中の突然の出来事にも関わらず、「心配することはない」と断言したパウロの冷静さと信仰に注目したい。

パウロはこの危機的状況の中で一歩踏み込んで、それを背負いました。それによってやがて周囲に平安や喜びが訪れるのです。彼は「死者をよみがえらせてくださる神により頼」(Uコリント1:9)んで、「望みえない時に望みを頂いて信じ」(ローマ4:18)たのです。

これは肉体的には生きていながら、霊的には(神と断絶して)息絶えている者に、いのちの福音を与えていくパウロの伝道を象徴しています。
そして青年に「まだいのちがある」ことが分かると、いつまでも起きた出来事に心を残さず集会を続けました。何が一番大事であるかをいち早く見て取ったのです。
私たちも日々の生活態度において、神から知恵を頂いて物事の優先順位を素早くつけて、決断を成して行く者とさせて頂きたい。