SATTE CHURCH HOMEPAGE

2019年7月7日 「自己愛から十字架の愛へ」 マタイ22:36-40


ひとりの律法(旧約聖書)のユダヤ人専門家が、
イエス様を試そうとして質問しました。「律法の中で、
大切な戒めはどれですか。」 彼は律法を丸暗記して
おり、すべて守り行っていると誇示したかったので
しょう。
 
 しかし、彼にとって神の戒めは「義務」であり、
「重荷」だったのです。神は戒めを語られる前に、
こう語られました。「わたしは、あなたをエジプトの国、
奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」
神を知りながら意図的に反逆し、罪の奴隷となった者
を救い出したと、そのご愛を示されたのです。

 人は神の前に罪人です。これがあるがまま、裸の
自分です。滅ぼされて当然の存在です。しかし、
人は神の愛を注がれて、はじめて神を愛し、喜んで
従うようになります。その戒めが「心を尽くし、思いを
尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主(救い主)
を愛せよ」なのです。
これは愛ゆえの恵みです。この神の愛はイエス・
キリストの十字架によって、罪の身代わり(贖い)の
愛としてすべての人に明らかに示されました。

 イエス様は第二番目に大切な戒めとして「隣人を
あなた自身のように愛せよ」を引用されました。程度の
差はあれ、誰でも自己愛(自尊心、自己中心性)を
持っています。自己愛が強いと必ず周囲との関係が
崩れていきます。しかし十字架の愛を注がれると、
神を愛すると同時に、自己愛が必ず隣人への愛へと
転換・発展させられるのです。

 けれども自己愛が未熟のままでいると、神より自分
中心、隣人より自分中心のままになります。神は
すべてを見通されるお方です。この律法学者は自分を
良く見せようと偽装していました。神の前に罪を隠す
自己保身の態度です。これはクリスチャンであろうと
なかろうと、年数が経つことでは決して解決できません。

先ず神の前にあるがままの自分として罪を悔い改める
姿勢を取ることです。神はそうする人を必ずご自身の
かたちに似るよう、すなわちイエス様の姿へと内側から
変え続けて下さいます。


6月30日聖日礼拝
  「使徒たちの祈り」
       使徒4章23〜37節

 本日の聖書箇所には初代教会における使徒たちの
祈りが記されています。これは祈りのひな型です。

@祈りの友のところへ
 使徒ペテロとヨハネはユダヤ人指導者たちに捕まり、
これ以上イエス様の福音を語ってはならないと脅迫
されました。二人は釈放されると、すぐ仲間のところへ
行って自分たちが言われたことを残らず報告しました。
 すると、これを聞いた人々はすぐに神に向かって祈り
始めました。
このことは、私たちも困難や試練に遭った時に、先ず
祈りの友のところ行くべきだと示しています。

A神は全てにまさる主権者との告白
  彼らは「主よ」と神への呼びかけで祈り始めました。
神こそ、どのような権力者にもまさる真の主権者であり、
敵対者も自分たちも神の御手の中にあることを告白
しました。

Bみことばに基づく祈り
  彼らは旧約聖書の詩篇のみことばを引用して祈り
ました。"神は聖書を通して何と言っておられるか"を
祈りの軸にしたのです。みことばを通しイエス様の
十字架刑による救いとこの世の反逆を証ししました。

C宣教の前進のため
 彼らの祈りの結びは「願い」でした。第一は「大胆に
みことばを語れるように」、第二は「癒やすことができる
ように」という内容でした。彼らは自分たちの安全を第一
に求めたのではなかったのです。
 イエス様の御名によって、力あるわざが行えるよう
求めたのでした。

 こうして心と思いをイエス様にあって一つにしていた
結果、すぐに祈りは応えられ、大いなる恵みが彼ら
一同に注がれました。教会における十字架の愛の
交わりの生活こそが福音伝道の原動力となったのです。