週報より~主にあって誇る~

私たちは多かれ少なかれ誇りやプライド、またこだわりなどを持って生きています。それは時として大きな力を生み出しますが、逆にそれがある故に犠牲を伴ったり、範囲を狭くしてしまうこともあります。そういった自分自身の存在価値を維持するために持っている意識はとても大切なものではあります。しかし聖書には信仰の原理によって私たちの誇りが取り除かれていると記している箇所があります。それはどういうことかというと私たちの中には決して人には誇れない弱さや汚い心があります。いくら誇らしく振る舞ったとしても誰しも内面まですべて見渡す時に苦々しいものがあります。自己中心的な考えであったり優越感であったり、聖書ではそういうものまで含めて的外れな考えなども指したうえで「罪」と教えています。犯罪だけが罪ではないということです。そこまで内面を見たときに私たちは決して誇ることが出来ません。信仰が働く時に私たちは神様のきよさを知ると同時に自分達のそういった罪に気がつき、絶対的に赦しが必要な存在であることを知るからです。自分の内面には誇るところはありません。しかし神様がそれでも愛して下さるからこそ私たちは神様にあって誇ることが出来ます。自分を誇示する生き方から神様にあって誇る生き方に変えられていく時に、私たちの見える世界は大きく変わって見えることでしょう。神様が備えて下さったと思える時に感謝が沸き上がってくることでしょう。神様が与えて下さった良いと思える事にも一見悪いと思えることでも、すべてのことに感謝し、神様にある自分を誇る生き方をしていきましょう。

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