神様に献げる礼拝とは~ローマ12:1

「礼拝」ということばを聞いてどういうイメージを持つでしょうか?ある方は恭しいイメージを持たれるかも知れません。またある方は荘厳な儀式というようなイメージを持つかも知れません。聖書には私たち自身を神に受け入れられるきよい生きた供え物として献げることが霊的な礼拝であると記されています。それは礼拝の時だけかたちを合わせるというものではなく、日々の生活の中で神のきよさをが現されていくように道徳的な純粋さ、霊的に健康であること、また悪から離れることなどがあります。そのためには時として世間的な生き方や慣習から離れて神様との深い関係を求めていくことが重要です。神様の愛の深さ、そしてきよさを知ること、また私たちの罪、そして罪を赦すために払われた尊い代価を知る必要があります。救いの必要性を知ると共に救いに関わる諸々の意味や価値を知ることで私たちは喜んで心から主に自らを献げる心を持って生活し、礼拝することが出来るようになっていきます。つまり礼拝とは共に集まって賛美し、祈り、みことばに耳を傾け、共に交わるという一定の時間的空間的なもの以上にそこに繋がる日々の歩みと神様との心の繋がりから溢れてくるものが大切なのです。そして主のことばに従って共に集まる時にそこに主の臨在と天にある喜びと平安が満ちあふれるのです。さらに主に心を向けて、主の思いに従い歩む者とされていきましょう。 [Read more...]

信仰と勝利と一致~Iヨハネ5:1-4

人は誰かを好きになるとその人が好きなものも好きになることがあります。それまでは興味のないものでも自分が好意を寄せている人が好きなものだから理解したいという思いだったり愛情がリンクすることがあるからです。聖書にはイエス・キリストを信じる者は神によって新しく生まれ、その救いを与えてくださった神様を愛するようになること、そして神様によって同じように救われた者を愛することが書かれています。 しかしそれは自然発生的な無理なく出来る範囲だけという風には聖書は教えていません。神を愛してその命令を守るならと書かれています。ここに私たちの信仰の決断と応答があります。世に打ち勝つ信仰とは世の基準、自分の価値観に信仰によって勝利するということです。人間的に考えて難しいこの一致を相互が目指す時に神の子ども達、神によって救われた者とはどういうものなのかを知るようになるとあります。 このことはとても高いハードルのように感じるかも知れません。しかし神様は私たちに神様に従いたいという思いと従う能力も与えてくださり、助け手として聖霊様が助けてくださいます。私たちが神様に向かって神様の御心に従って祈り求めるならばその祈りは答えられます。主にある勝利は自己中心的勝利ではなく神中心の勝利です。主の御心を聖書からしっかりと読み取って、従う者と日々造りかえられていきましょう。 [Read more...]

主にある管理者~使徒2:42-45

「高ぶり」は私たちが陥りやすく、そして気をつけてそうならないように祈り、主の前に遜ることによって対処していくべき問題です。信仰生活の中で主がしてくださった素晴らしい結果が伴うとそのことを証したりする機会もあると思います。主がしてくださったといいつつも自分の信仰が優れていたからとか良く祈ったからというどこか自分にフォーカスしてしまうこともあると思います。 もちろん信仰はとても大切なことです。疑うことなく主に期待することは簡単にできることではありません。しかし恵みは主のものであり、恵みを注いでくださるのも主であることを私たちはしっかりと覚えておく必要があります。そのうえで私たちは最善を備えていきます。 そこでこの「高ぶり」から守られるひとつの助けとなる考え方に管理者という考え方を聖書から導きだすことが出来ます。賜物の管理者であり私たちに与えられている時間や経済も主から与えられているものとして管理者として認識すると主の必要のためにどのように用いるかという考えになります。 管理者は管理を任せてくださっている主人に忠実であるべきでありまたそこには信頼関係があります。主との関係をそのように忠実であり、信頼があるものであり、そして私たちが喜んで従順していけるよう主は恵みも注いでくださいます。主は私たちを奴隷のようには扱わず、また使用人のようにも扱っておられません。私たちを子として扱ってくださるからです。そこにある関係は損得ではなくただ愛を土台とした相互関係です。主から多くを委ねられた者として主と共に歩んでいきましょう。 [Read more...]