週報より

子供の頃学校の制服や、また学校によっては丸刈りであったりした経験はないでしょうか?みんな一律にそういった規則によって管理しやすいようにしているケースや、今までそうだったから、という理由で外面的な形だけが残っているケースなどいろいろあると思います。また会社によっても制服があったり決まりがあります。確かにまとまりがあっていいようにも見えますが、こと信仰においてそういう状況が起こったらどうでしょう?教会のオリジナルTシャツがあるのはまだいいかも知れませんが、事細かに髪型や食事などまで決まりがあったらそれはちょっとおかしいと思うのではないでしょうか?人は自分の持っている。また持っていたものさしで人を計ろうとしやすいものです。今日の聖書箇所でクリスチャンとなった元パリサイ人が異邦人からクリスチャンになった人にも割礼が必要だと論じます。しかし自分が割礼を受けたからあなたもそうしなさい。という理屈は時にずれたものになる、ということを知らなければなりません。恵みはそれぞれであり、種の導かれ方もそれぞれだからです。最低限の基準、というものを私たち人間が勝手に引き上げたり、変えたりしてはいけません。救いとはイエス・キリストによるのであり、割礼によるのではないということを当時の人々も知っていたはずですが、自分が受けているから、という理由で絶対的なものかのようにいうのは間違いです。私たちは外面的なもの以上に内面的な信仰の成熟を目指していきたいと願います。外面的なものでその人にとって必要なものは内面的な成熟に従って伴うものです。私たちはそれぞれ神様から与えられている導きに従い、そして成熟を目指していきましょう。

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