週報より
主の祈りに我らに罪を犯す者を我らが赦すごとくわれらの罪をも赦したまえという箇所があります。教会で頻繁に用いられる祈りのことばですが、よくよく読み解いていくと自分がまず赦すことによって自分の罪が赦されるという順番があることと、赦しを成される御方は神様ですが、それを適応するために備えるのは自分の決断であることを発見します。他人の罪は大きく見えるし責めることは簡単です。しかしそれを赦していく時に自分の罪も赦されること、罪に関して寛容になるということとは違いますが、よりきよくなっていくこと、そして赦しとは感情ではなく信仰による決断であることをしっかりと認識した上で罪を赦していく時に自分の心に起こる変化を体験すると私たちの信仰はシンボルや形式的なものから生きた神様との交わりへと変化していきます。私たちが自分の罪を神様の前に悔い改めていく過程で自分の周りにいる方達との関わり方にも変化が出てくるということです。神様との関係を深くしていけばいくほどこんどは人々との関係にも変化が出てくる。なぜなら私たちの人々への接し方が多かれ少なかれ変わっていくからです。それがひとつの信仰の実践でありまた実となるのです。神様の前に罪赦されたという確信に満ちて、多くの人々の弱さや罪をも補い覆うことが出来るように成熟していきたいですね!