ゆるしあう心

イエス様は主の祈りの中で私達に罪を犯す者を私達がゆるすように私達の罪をもゆるして下さいと祈るように教えられました。ゆるしの前提として被害者と加害者がまず存在します。そして高いところから低いところへ下るように裁きが流れていくのが一般的な感覚だと思います。裁かれる方は当然身構えます。またその裁きはおかしいと反論するかもしれません。起こった痛みは時としてすぐには消えないでしょうし、そのため失ったものもあるかも知れません。それでもイエス様は自分に少しでも有利に裁きを展開したり、また自分に少しでも負い目がないように努力したりすることではなく、赦しなさいと言われました。その背景として王の律法とも言われるあなたの隣り人を愛しなさいという愛によって関係を築いていくことを考えに入れる必要があります。さらにその前提として自分を愛すること、愛することを知るために神様の愛を知っていくこと、マラキ書にあるように父の心と子の心が向き合うことを通してのろいから解き放たれてこそ我慢大会の赦しではなく、真の赦しが可能となります。赦すことは神の子としてのアイデンティティの回復であり、主にある祭司として罪の代価を支払うことを主の前にする存在となっていくこと、そして聖所から至聖所へと進むことが出来る祭司の特権を知る者こそ正しくその職務を全う出来るのです。主の臨在の中で私達がつくりかえられる時に主は私達の心を特に癒し、整え、用いたいのです。自分自身を生きたそなえものとして主に献げ、神様にあって建て上げられる者となりましょう。

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