週報より

罪を犯し罰を受ける時私たちは本当に嫌な、そして辛い思いをします。うっかり一方通行に侵入していたり、スピード違反で捕まった経験はありませんか?そういった軽いものも犯罪となります。しかし聖書の基準はもっと高く心の中で思ったこともご存じの神様という基準になった時にはまさに「義人はいない、ひとりもいない」と聖書に書いている通りの状態になります。どんな罪にしても裁きが終わった後には何があるでしょうか?それはもう同じ事を繰り替えさないようにという願いと期待があります。車の違反であれば同じ事をしないように=事故等につながる行為をしないように=命を大事に、とつながっていくと思います。時として規則だけが形骸化してしまうこともありますが違反があるから裁きがあるわけですが、違反というのはルールを破るから違反になります。ルールはなぜあるかというと私たちが安全に、そして幸せに過ごすことが出来るために本来あるものです。エレミヤ書は全体の流れとしてイスラエルの民が偶像礼拝から離れていくために神様が起こされた裁きのストーリーが一貫して綴られています。神様から離れ間違った思いや行いにふけっていた民をもう一度正すために一番辛い思いで忍耐し裁かれているのは神様ご自身だと思います。誰しもかわいい我が子を叱るのが好きという親はいません。子供が正しく育ってほしいからこそ叱るし、期待しているからこそ叱ります。そして子供が本当に分かってくれたら本当にうれしいし、そして子供に期待します。神様も同じように私たちがまっすぐ神様と向き合い、そして成熟していくことを期待し、喜んで下さいます。そして私たちが求める時に助けて下さるお方です。主にあってまっすぐ堅く立つ者となりましょう。

Follow me!