週報より~霊的であるように見える落とし穴~

神様の御心かどうか?祈る時に求めることの中に何かを決断する時によく用いられることばです。それが分かれば苦労しないと誰しもが思うでしょう。信仰による決断を迫られる時、多くのクリスチャンが善悪や損得以上に注目するのはまさに神様の御心だと思います。しかし物事を判断する基準、私たちの心をどのようにしていくべきかということは聖書の中に多く書かれています。しかし聖書の中には超自然的な常識では考えられない決断と行動をするように神様に導かれ、そのことによって大きく歴史が動いたような出来事もあります。私たちはつい聖書に書かれている王道を逸れて自分と神様以外誰も理解できないような霊的な決断をしたいという思いを持つことがあります。簡単にいうと霊的である自分を演出してしまう危険性があるということです。結論をいうと神様の御心は神様にしか分かりません。そして私たちが祈りつつその時持ちうる最も聖書的な判断をしていく時にその決断の結果がどんなに悪いものであっても間違いではありません。初代教会の働きを見る時にもある街に行ったがために迫害に合って命の危険を感じることもしばしばあったことが書かれています。ではその街に行ったのは神様の御心ではなかったのでしょうか?そうではないと思います。いいことが起これば御心、悪い事が起これば御心ではないというような考え方から私たちは解放される必要があります。また御心だと思うよと他の人にいって考えを縛るような発言も気をつける必要があります。それ以外の決断をして悪いことが起こった場合きっと恐れを抱いたり、共依存に陥る可能性が高いからです。占い師のところにいくように信仰の先輩や教職のところにいくのは間違いです。あくまでアドバイスであり助言です。もちろんその人生経験や知識から出てくる答えは異なっていくでしょう。キリストが自分で苦悩し、祈り、ゲッセマネの園で十字架への道を現実的に受け入れ歩み出したように私たちも最終的に自分で決断し、そして自分で切り開くのが自分の人生であるべきです。それこそが主の御心だと感じます。

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