週報より

私達の生活の中でいいことにしても悪いことにしても判断基準の中に「前例」というものがあります。前例は場合によっては前科という表現になることもあります。例えば犯罪を犯したことが一度あって2回3回と同じことを繰り返すと常習犯となりますよね。これはまさに罪の性質です。しかし本当に赦しを受け、人は変わっていくことが出来ます。自分が受け入れられている、期待されていると知らなければなかなか変わることはできません。そればかりか帰って悪い方向に走っていきます。さらにそれを周りのせいにしてしまったり・・・このような状態を今日の聖書では真理から迷い出た状態と説明しています。これはクリスチャンであったにも関わらず離れてしまったケースまたずれた思想に陥っているケースも指してます。もちろん神学となるとある程度の幅がありますが聖書が書いている中心から大きくそれてしまっては意味がありません。神、罪、救い。十字架と復活、再臨などです。例えば罪という部分をきちんと理解していなければ、十字架の意味がなくなります。また救いの意味すらなくなってしまいます。それは聖書のいっている罪の基準を自分がこえれる基準まで下げていたり、エバやアダムがしたようにサタンのせいにしているだけかも知れません。しかしそういったずれは修正していけば良いだけのことに過ぎません。なぜなら最初から正しく理解している人はひとりもいないからです。神様はそんなずれまくっている私達を裁くのではなく、愛し、赦し、包みそして導いて整えて下さるお方です。日々主に従って整えられていきたいですね。

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