週報より
一致というものを考える時に、サッカーやバスケットボールなどのスポーツを見ると優れた一致は優れた結果を生み出すことがよく分かります。いくらすごい選手が集まっても、一致がなければある程度の結果は出せても、本来の力にふさわしい働きはできないでしょう。聖書には熱心に一致を求めること、それも神様の召しにふさわしく歩むようにとかかれています。自分が召されていることと同じように神様に召されている人々と協力しあうことが書かれているのです。そこには柔和、寛容が欠かせないでしょう。そして愛がなければ理解し合うことは不可能です。私もそういう傾向がありますが、目的を持つと周りが見えにくくなってしまうことがあります。召しが明確になってくると他のことがどうでもよくなったり、また自分の働きにプラスかマイナスか?という損得に近い発想で片付けてしまいやすくなるものです。確かに本筋を明確にし優先順位をはっきりとつけることは大切です。しかしそれ故に他をないがしろにしてしまっては「愛」というより「効率」になってしまうでしょう。私たちは信仰によって愛に根ざし、そしてそこに効果的に働かれる神様の御業に期待して歩むことがとても大切です。そうした価値観を持つ時にいままで気がつかなかった神様の大きな働きを垣間見ることができるでしょう。ともに主のすばらしさを見て、そして歩んでいきたいですね。