日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年10月30日 「人の子の権威」今村あづさ伝道師
マタイによる福音書9:1~8

床に寝かされたまま、イエスの所に病人が連れてこられました。イエスは、この人を連れてきた人々の信仰を見て、中風の人の罪の赦しを宣言しました。本人の信仰ではなく、連れてきた人々の信仰で、罪が赦されたのです。一人では来られない人々を、わたしたちは神の身許に連れて行くことができます。わたしたちの祈りは、天では高く覚えられています。主イエス・キリストを頭としていただく教会の力を、わたしたちは今日の聖書箇所で、確認していきたいと思います。
一人の中風の人を、何人もの人々がイエスの所に連れてきました。中風という病気、8章でも出てきました。文字どおりには麻痺と言うことです。体が動かない。ここでも床に寝ています。寝かされたまま、イエスの所に連れて来られています。子どもだったのか、それとも年寄りだったのか、男性だったのか女性だったのか、マタイによる福音書は何も教えてくれません。
しかし、マルコによる福音書では、運んできた人々の苦労というか、常軌に逸した行動を記しています。イエス様の居られた家の屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたというのです。マルコは、読む人に状況を詳しく伝え、運んだ人々は四人の男たちだったと、記しています。マタイにとっては、運んだ人がだれであろうと、構いません。とにかく、連れてきた人の信仰を主イエスが見て下さった。ここのところが大事なのです。
中風で寝ていた。この人は、一人では、イエスの許に来られないのです。しかし、イエスの許に来なければ癒されることはない。そこで、ほかの人々が手伝って、連れて来る。もしかしたら、中風の人は、自分で「行きたい」と言うことすら、できなかったかもしれない。言うことができなければ、考えていることも分からない。けれども、連れてきた人たちは、このお方なら、直してくださると信じていた。あるいは、そこまで信じ切ることができなくても、「ほかにお願いできるところはない、でももしかしたら、この方なら、なんとかしてくださるのではないか。」そう思った。そして、何よりも、中風で床に着き、元気のない人を何とかしてあげたかった。その思いが、常軌を逸したとまで思えるような行動に表れています。
本人の信仰がどうなのか、分からない。信じているのか、治りたいのか?主イエスに会いたいのか、そうでないのか。実は、よく分からないのです。実際、この人は、麻痺によって声に出して神に祈ることも出来なれば、神を呼ぶことも出来ない。もちろん、神に喜ばれることは、なにも出来ません。けれども、そのことはここでは問われていない。連れてきた人々の信仰が、主イエスによって見られ、赦しの根拠とまでされているのです。
キリスト教主義の学校や教会学校でよく問われるのは、「こんなことを教えても、分かってもらえないのではないか。」「信仰の押し付けではないか。」と言うことです。教務教師の先生方は、伝道の最前線で、初めてキリスト教に接し興味も示さない生徒たちの前で、愕然とするのです。ここで主イエスの言葉をよく見直してみると、「あなたの罪は赦される」と書いてあります。「赦された」ではない。実現していない。未来の約束なのです。けれども、「主イエス」が「赦される」と約束してくださっていることの重みがあります。
1章21節では、主イエスの誕生の次第の所で、ヨセフが天使にこう言われています。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「主は救い」という主イエスのお名前の意味が、ここで明らかにされていました。
麻痺と言うことが、自分で神の身許に来られない、自分で信仰を表すことも出来ない人々の状況だとするならば、中風で床に寝ている人とは、このように脳梗塞かなにかで半身まひといった状況とか、脳性マヒで車いすの生活の子供たちばかりではありません。教会学校や幼稚園、キリスト教主義学校の生徒、学童と言った子どもたちがいます。支援学校に通っている子どもたちも含まれますし、自分では礼拝に出てこられない高齢者もいる訳です。さらには、どうしても自分では神に立ち返れない人、さまざまな理由で神の身許から離れてしまっている人々も、この中に含まれるのです。こう言った人々を、けれども主イエスを信じる人々が、御もとへと連れて来ることができる、そして救いの約束をいただくことができる、と言うのです。
こんな地上の出来事で、神の前で罪が赦されるなどと言うことがあるのでしょうか。律法学者の人々の中で、「神を冒涜している」と考えた人が出てきたのも、無理からぬことでした。なぜなら、罪を許すかどうかは、父なる神の自由な判断によるのです。「権能」と言う言葉からして、もともとも意味は「選択の自由」と言うことです。神は、ご自分の自由に、人を許すことができるのです。そして、神は全能ですから、ご自分が赦した人間は、癒すことがおできになります。
神が、ご自分の自由に決めることができるのだからと言って、気まぐれな方である訳ではありません。罪の赦しとはどんなものだったでしょうか。
罪とは、神との関係が絶たれていることです。神との関係が絶たれてしまうのは、神が「こんな人間とは付き合いたくない」と思うからです。そんなふうに思うほど、わたしたちの行いや思いが神の思いから外れているからです。
今、「わたしは、あんなこともこんなことも、…」と思い、「罪赦されるはずはないな」と考える私たちに、だから、神は主イエスを送ってくださり、イエスの成し遂げられたことを以って、イエスではなく、わたしたちを赦してくださった。イエスの衣を着せていただいて、わたしたちは神によって「わが愛する子よ」と呼ばれる。父なる神との関係は修復され、神はわたしたちを呼び、御もとへと集めて下さる。そして、わたしたちは神の平安の中に生きると言うことです。
このような重大なことを、人間であるイエスが、なぜ言えるのか。律法学者の「神を冒涜している」と言う思いは、神ご自身の権能に関わることを、なぜこの人間が宣言できるのか、と言うことでした。
そこで、私たちは、マタイによる福音書の最後の28章18節を思い出すのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」十字架に付けられ、復活して召天なさった主イエスは、神の右の座に着かれた、つまりは神よりも上座に座られたと言うのです。神よりも上に引き上げられたという主イエスが、神の権能をすべてお持ちだと言うことは、当然のことです。
そこで次に、主イエスの問いがあります。「『あなたの罪は赦される。』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と。…どうでしょう。どちらが易しいと思いますか?
人間の目で見た場合と、神の目から見た場合があるのです。その二つの見えているものは、違うのです。人間の目から見た場合、「あなたの罪は赦される」と言われても、よく分からない訳です。罪が赦されるというのは、天国に行ける、と言う意味です。そうすると、死んでからのことですから、誰も正しいかどうか、判断できないからです。簡単に言うと、ハッタリだって、こんなことは言えるのです。一方で、「起きて歩け」と言うことは、相手がその通り、「起きて、歩く」ことができれば、「すごい!奇跡だ!」と言うことになります。目に見える奇跡だと言うことです。そして、目に見える奇跡と言うのは、この時代の人の理解によると、神の人しかできなかったのです。
一方、神の目から見ると、どうなるでしょう。結果は逆になります。主イエスが「あなたの罪は赦される。」と言う言葉は、神の自由な決定、つまり神様の気持ちをも動かすということです。一方、「起きて、歩け」と言うのは、神が人に付与できる能力です。神の御心を変えると言うことは、神の持っている能力を与えられて人々を癒すよりも、簡単に言ってしまえば、すごいことなのです。
しかしながら、人々は、主イエスが中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われ、その人はその通りに起き上がり、家に帰って行ったのを見て初めて、「怖く」なります。人間に「これほどの」権威を与えられた。それは、この人は、神の子だ、神と親しい関係を持っている、特別な人だと分かったということでしょう。この人たちは、病が癒されたのを見て初めて、信じたのでした。
もちろん、私たちは、この病の癒しは、先に罪の赦しがあって、行われていることを見ています。罪の赦しがあれば、身体が癒されるのは、当然のことなのです。
最後に、「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」と言って、この記事は終わっています。この文に大変なことが隠されています。「これほどの権威」をゆだねられたのは、当然、主イエスのことだ、とわたしたちは理解しているでしょう。ところが、です。この「人間」は、複数形なのです。つまり、きちんと訳すと、「人間たちにこれほどの権威をゆだねられた」と書いてあることになります。この「人間たち」とは、誰のことでしょう。イエス個人であれば、複数形になるはずがありません。この登場人物の中で、複数形なのは、誰でしょうか。中風の人ではない、律法学者でもない、それ以外と言えば、中風の人を連れてきた「人々」だと言うことになるのです。
このような人々、もちろんただの人々ではありません。「その人たちの信仰」と書かれているのですから、この人たちは主イエスを信じている人々です。と言うことは弟子たちです。
弟子たちに対しては、10章1節で十二弟子が選ばれ、派遣される時に汚れた霊に対する権能を授けられたことが書かれています。それから、16章13節~は、先々週に北紀吉牧師が説教してくださった箇所ですが、ここで「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と、主イエスは仰いました。先ほど読んだ28章でも、それに続いて「だからあなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言われました。実は、主イエスが授けられた権能の内、これらの権能は教会の弟子たちに授けられていると言うことです。特に、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」という10章の御言葉は、罪の赦しを教会が行うと言うことです。
教会が、イエス様の持っていたいろいろな権能を与えられているという話しをしました。つまりは教会の権威と言うことです。あまり重々しく考えないでください。もちろん、重大なこととして考えるのは大事なことですが。これは、教会とはどんなものか、と言うことを考えると分かるのです。教会の頭はキリスト、私たちはその身体であると、言われています。このことが、十字架で成し遂げて下さったことが、わたしたちに及んで、わたしたちが罪を赦される根拠となっているのです。そこで、教会の頭であるキリストは、手足である私たちに、ご自分の権能を授けてくださっているのです。
ですから、群衆が「これを見て恐ろしくなった」というのは、教会に集う人間たちにこれほどの権威がゆだねられている、わたしたちにこれほどの権威がゆだねられていると言うことに、怖くなったと言う意味でもあるのです。
わたしたちの教会には、どんな権威がゆだねられているのでしょうか。教会は、礼拝を行い、み言葉の説教を行います。教会の礼拝では司式者が祈りますが、その祈りの中で、公に罪の告白をし、赦しの御言葉を聞きます。また、わたしたちは個人の密かな祈りの中で、執り成しの祈りをします。幼い子どもたちを教会学校に連れて来て、信仰が養われることを願います。洗礼を恵みを与えられて会衆に加えられ、聖餐式で魂を養われます。
教会は、これに伴い、さまざまな権限を実は持っています。役員会は、洗礼志願者を諮問し、洗礼にふさわしいかどうかを決めます。転会を認め、この教会の会衆として受け入れるかどうかを来ます。それ以外に、信仰的に問題があった場合、教会はその人を陪餐停止、つまり聖餐式に加わることを認めなかったり、一番厳しい処置としては除名と言うこともあります。これらは、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という主イエスの言葉を思い返すと、大変に重い責任だと言うことが分かります。私たちは神に委ねて共に祈り、決めて行く。そして、判断の間違いは、自分たち教会に返ってくると言うこともまた、覚えておかなければならないのです。
マタイは、1章21節で、「この子は自分の民を罪から救う」と、主イエスの生涯が預言されたことをわたしたちに告げ、また26章28節では、最後の晩餐の場面に於いて、杯を取り「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」とおっしゃいました。主イエスの尊い血によって勝ち取られたわたしたちの罪の赦しです。その罪の赦しの権限が地上の私たちに委ねられていることを、わたしたちは主の晩餐によって思い起こします。なによりも私たちは、主の祈りによって、わたしたちの罪の赦しを祈ることができます。罪の赦しの権能は、十字架によって贖われました。その恵みは、教会の頭なるキリストをとおして、体であるわたしたちに与えられています。
身体が麻痺して、神を賛美することも出来ない、そもそも心さえも麻痺してしまい、神に向いて行かない。そのような人に対して、執り成しを行う人々の祈りを見て、主イエスは「あなたの罪は赦される」と宣言してくださいました。わたしたちの密やかな執り成しの祈りもまた聞かれ、それゆえに赦しが約束されることを信じ、赦しの確信を心に保ちつつ、御前に進み出ましょう。お祈りいたします。
在天の父なる神様。あなたに祈ることが許されている幸いをありがとうございます。あなたは、中風の人自身の信仰ではなく、その人を御許に連れて行った人々の信仰のゆえに、この人の罪の赦しを約束してくださいました。どうか、わたしたちが、あなたに聞かれているという確信を持って、祈り続けることができますように。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。アーメン

2016年10月23日 「まだ、その時ではない」今村あづさ伝道師

「まだ、その時ではない。」悪霊に憑かれた人々は、非常に凶暴で、周りは困り果てていました。ところが彼らは、悪霊を追い出されるのは苦しいと、主イエスの福音を拒否します。主イエスは、彼らに近づき、悪霊を追い出し、水に沈めて清めます。罪からの清めは、主イエスの洗礼によって罪に死に、新しい命をいただくことなのです。マタイによる福音書は、「今日、今、福音を受け入れ、罪に死に、新しい命に生きよ」とわたしたちに迫ります。
マルコによる福音書の並行箇所を読むと、悪霊に憑かれた人(ここでは一人)の状況が見えてきます。彼は鎖でつながれても、墓場や山へ行き、何かを叫び続けている。自傷行為もする。墓地に埋葬されている人への愛着があって、自分を悔いていたのです。悪霊がローマの軍団の姿をしていることから、ヘロデの政策に反対して家族を殺され、PTSDに苦しんでいた人だったのかもしれません。清められた後、イエスは彼に、家に帰り、家族伝道を命じます。彼には家も身内もありましたが、家族は彼の状況に心を痛め、非常に狂暴だった彼の暴力にも苦しめられていたのです。神の前で罪赦されたこの人は、今度は自分が壊してきたものに向き合い、修復していくことになります。家族との関係が癒されて初めて、本当に救われたことになるのです。
17日と18日の東海教区のキリスト教社会福祉フォーラムでは、山梨ダルク(薬物依存快復施設)と聖隷福祉事業団厚生園が紹介されました。
ダルクでは、入所者が体験を語り合いながら、薬物依存を脱することができるように励まし合うと言うことです。何人かの方たちから、証しを伺いました。それぞれ置かれた状況は異なっても、いずれも、本人が薬物依存になっていることで、被害を受けている身内の人がいることを感じました。主イエスが自分の家に帰れと命じたように、身内の人たちとの関係が修復されて初めて、この方たちの救いが完全に行われたということができるでしょう。
今日の悪霊に憑かれた人々を救えるのは、主イエスお一人です。主イエスは、わざわざこのような人たちのために、来て下さるのです。まるで、既に地獄に落ちてしまったような人を、ほかの誰が、救いに行くことができるでしょう。この方でなければできない。この方にこそ、依り頼んで、救われるのです。
主イエスが出会われる時、「まだその時ではない」は、「今がその時だ」と変わります。自分の本当の罪と向き合おうとせず、逃げ回っていた罪人は、主イエスに出会い、清められ、水によって罪に死に、神の命をいただいて、この世に戻って行くのです。主イエスの力は、そこまでのことを成し遂げる圧倒的な力を持って、わたしたちに働くものです。その圧倒的な力を信じて行きたいと思います。

2016年10月16日 「わたしの教会をたてる」
北紀吉牧師(松沢教会牧師・前東海教区議長)
2016年10月9日 「なぜ怖がるのか」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書8:23~27

18節で主イエスは、弟子たちに向こう岸に行くように命じられていました。23節では、舟はいよいよ向こう岸に漕ぎ出します。
主導権を握ってどこへ行くのかを決められるのは、主イエスです。弟子たちは、従っていくのです。しかし実は、どこへ行くのだろうかと、不安でいっぱいです。なぜなら、向こう岸は異邦人の土地なのです。
28節では実際に異邦人の土地につきます。ガダラというのは、もっと内陸にあったギリシア人の町です。着いたところはガダラの影響のあるギリシア的な習慣を持つ地方だったのでしょう。弟子たちにとっては不浄この上もない、墓地と豚が出てきます。まさに、思った通り、というところなのですが、ここではそんなひどいことになるのかどうか、まだわかりません。でも、不安はいっぱいなわけです。
弟子たちの心を反映しているのかどうか、湖に激しい嵐が起こります。対岸に行くどころか、舟は今にも、沈みそうになります。並行箇所のマルコによる福音書では、時刻は夕方でした。そして、夕方になるとガリラヤ湖は、しばしば突風が吹きました。マルコはあり得る自然現象として、「突風が吹いた」と書いています。けれどもマタイはそれを「嵐」だったと書いています。
突風なら風だけですが、嵐となると、湖の水が揺り動かされることになります。舟は波の動きに従って、上に持ち上げられ、次は谷底に落ちていくかのように沈み込んでいく。弟子の中には、ベテランの漁師が何人もいました。しかし、どうすることもできません。弟子たちは命の危険を感じます。
そんなときに主イエスは、眠っておられます。波に呑まれそうになる舟、舟酔いしそうな舟の中で、眠っておられたのです。天と地の一切の権能を預かっている主イエスです。主イエスにとっては何の心配もない。神の平安の中にいらっしゃるわけです。けれども、弟子たちはそうはいきません。死んでしまうかもしれない。主よ、なんで、こんな時に立ち上がってくださらないのですか。詩編で主なる神に懇願するように、弟子たちは主イエスに「主よ、助けてください。」と懇願するのです。
主は、私たちが祈る前から私たちの願いをご存知です。けれども、私たちのことをわたしたち自身よりもご存知の主は、私たちが祈ることを待ち望んでくださっています。主は、私たちがみそば近くにいて、主と共に生きていくことを喜んでくださいます。無作法なお願いも、私たちを救おうと決心している主は、喜んでくださるのです。
嵐を鎮めることなど、全能の主には雑作もないことです。しかし、弟子たちの「溺れそうです。」という言葉は、そのような安心しきった言葉であったでしょうか。むしろ、絶望の中の言葉でした。ですから、主イエスは「なぜ怖がるのかと」とおっしゃるのです。全能の主である方に依り頼むとき、心配することは何もなく、勝利が約束されているのです、神の平安がいつもあるはずなのです。しかし、怖れ疑う弟子たちの姿は、まさにそのことが確信できない信仰の薄い者たちのそれなのです。
主イエスが立ち上がる時、私たちが感じる絶望的な困難は、まさに雲散霧消してしまいます。最初からなかったかのように、あっという間に解決し、神の平安が訪れるのです。それは、主イエスが天と地のすべての権能を預かっておられる方だからこそですが、まだこの時点ではそのことは人々には明らかにされていません。だからこそ、人々は、「一体この方は、どういう方なのだろう。風や湖さえも、従うではないか。」と驚くのです。私たちは、マタイによる福音書の最後の28章20節まで読んで、主イエスの十字架と復活を目撃し、私たちに世界宣教を命じられる復活の主にお会いして、この方がどのような方かを知ることになります。
今日は、日本基督教団の暦の中では、神学校日として定められています。そして、今日の箇所、とは言ってもマルコによる福音書の該当箇所ですけれども、ここがわたしが神学校に行こうと決心した聖書箇所でした。
東京の東支区の小さな伝道所で説教を月に一度やっていましたが、ここの箇所を選んだ時、謎ときにはまってしまったのでした。それは、マルコによる福音書では、舟はシモン・ペトロの舟だということになっていて、イエス様はその舟に腰をおろして話をしています。舟の形は少し深めですが、大きさは手漕ぎボードより少し大きいくらい、せいぜい3メートルくらいの舟です。ところが、その舟が、この箇所ではやけに大きくなってくるのです。言葉が「小舟」から「船」に変わってきます。それに、ガリラヤ湖は直径数キロメートルで、周りには岸がすべて見えるくらいの湖なのに、ここでは「海」という言葉を使っています。明らかに、話しが大きくなっているのです。
それに、全体の話はヨナ書の1章によく似ています。そして、ヨナ書に似ているということは、もしかするとこれはイエス様の活動の報告ではなくて、マルコ福音書の記者の物語かもしれないと思ったのです。
そこで、そんなこんなを説教で語ったのですけれど、心の中に、これではまずいという思いが起こって来たのでした。聖書は、わたしたちに福音をどうにかして伝えようとして、書かれています。けれども、今の話の中で、福音を受け取ったと感じることがあったでしょうか。聖書は、自分の思いだけで読んではいけない。聖書がわたしたちに伝えようとしているもの、わたしたちが受け取るべきものを、伝えなければいけないと思ったのでした。

キリスト教の長い歴史の中で、舟は教会を意味していました。舟の浮かぶ湖は、教会の直面する社会のことです。荒れる湖は、教会の直面する様々な困難を意味しています。湖が荒れるとき、舟の舵取りを任されている弟子たちは、不安や絶望にかられました。今にも転覆しそうだ。今度こそ、波に呑まれるのではないか。マタイによる福音書が書かれた時代の教会は小さく、ローマ帝国の中で、あるいはユダヤ教の教会との関係の中で、いつも翻弄され、苦しめられる存在です。ここで描かれている弟子たちの状況は、マタイによる福音書が書かれた時代の、教会の状況を反映しているのだと思います。
ところで、木曜日の聖研祈祷会では、午前中の分は士師記を、夜はローマの信徒への手紙を読んでいます。夜のローマの信徒への手紙で、先週は14章の前半を読みました。パウロの手紙を読むと、この嵐とは何を意味していたのか、分かってきます。
ここでパウロは、兄弟を裁いてはならないと勧めています。教会の中に、野菜だけを食べている人と、何を食べてもいいと考えている人とがいるのです。手紙は、何を食べてもいいと考えている人に宛てて、書かれているようです。単なる食べ物の問題でも、律法のもとにいるユダヤ人と律法から自由なギリシア人との違いでもないようです。そこに、キリスト教徒としての信仰の問題があるのです。
市場で売られている肉は、当時、他の神々へのお供え物のお下がりであることが多かったのです。町の付き合いで、宴会に呼ばれることもあります。家々にはゼウスとかアルテミスとかと言った神々の神棚があり、まずは神棚にお供えをして、それからみんなで食べるわけです。お供えの肉を食べることが、父なる神に背くことになるのではないか、それならば、いっそ、全部食べないことにする。そんな人たちもいたのです。
問題は、それが教会で信仰の問題として、大問題となったということです。肉を食べる人が「異教の神に供えた肉を食べるなんて、不謹慎だ」と言われて、肉を食べない人によって裁かれます。逆に、肉を食べる人は、「あの人たちは、使徒ペトロが『何でも食べよ』と父なる神に言われたことを知らないのだろうか。行いによって天の国に行くわけではないのに、物を知らない人たちだ。」と思って軽蔑します。こうなると、教会の中で兄弟姉妹が、お互いに裁き合い、軽蔑し合うことになるのです。
こうなると、小さな教会は、どんなことになるでしょうか。それでなくても、周りは教会の小さなもめ事を見つけては、ほじくり返し、足を引っ張ろうとします。信仰上の問題は、教会の存立にかかわる問題になっていきます。突風が一回吹いたくらいの騒ぎではなく、湖が底から揺り動かされるほどの、大嵐となってしまうのです。
十字架で息を引き取る時まで、弟子たちのことを愛し、愛し抜いた主イエスは、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものとなりなさい。」と仰り、一人の子供の手を取って抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」と言われました。
先ほどのパウロの手紙の中では、肉を食べない人を信仰の弱い人と呼び、パウロは信仰の弱い人を軽蔑するのではなく、受け入れなさいと言っています。主イエスの「子供」とは、実際には教会の中のこのような兄弟姉妹のことも意味しているのでしょう。
わたしたちが、主イエスに出会い、新しい命に生きるようになったことを思い起こしましょう。それは、私たちに罪がなかったから、神の国に入る希望が与えられたということだったでしょうか。そうではなかったことは、私たち一人一人が知っています。
教会に新しい兄弟姉妹が迎えられるとき、私たちは生まれたことを喜び、その成長を祝います。私たち自身もまた、神様の命に新しく生きるようにと祈られ、生まれたことを喜ばれ感謝され、大事にはぐくまれてきました。そうやってお互いが、教会の中で成長していき、やがて天上の神の国に迎えられる時を待ち望みつつ、神の平安の中に生きるのです。
私たち、兄弟姉妹は、同じ主イエスによって神の命に生きるものとなり、永遠の命をいただく約束をもらっています。教会で何があろうと、そのことは変わりません。私たちは、お互いを裁き合い、軽蔑しあうのではなく、神に集められた民として、同じ教会の首である主イエス・キリストを見つめ、聖霊なる神に導かれて、教会で過ごしてまいりたいと思います。
お祈りいたします。
主イエス・キリストの父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を讃美いたします。あなたが立ててくださった私たちの教会が、創立百周年を迎えようとしています。どうか、私たちがこのことの意義を考え、喜びを持って過ごすことが出来ますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

2016年10月2日 「あなたのおいでになる所なら」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書8:18~22

先週は、夫の亡くなった後、娘の嫁ぎ先に引き取られ、肩身の狭い思いをして暮らしていたと思われる女性が、イエスに手を取っていただき、神の命に生き返り、弟子として教会の群れに仕えたというお話しをしました。
そこでそれに続く今日は、弟子の覚悟について、主イエスが教えて下さる箇所になる訳です。それは、普通のユダヤ教のラビに対して当時、こうすべき、と考えられていた態度よりも、格段に厳しいようです。
寝込んでいたペトロの姑に対して、主イエスは、手を触れられました。とても優しいと思います。一方、「先生」「主よ」と近づいてきた今日の聖書箇所の人々に対しては、とても厳しいことを要求しています。この落差をどのように考えたらよいのでしょうか。一方が庶民、他方は指導者のための聖書箇所なのでしょうか。そうだとすると、自分がどちらに属するかによって、先週の箇所は自分への説教、今週の箇所は自分には関係ない説教、と言う風に考えることになってしまいます。
「今日の説教は、わたしに向けたみ言葉が何もなかった」と感じて帰るのは、ありがちなことです。説教者は反省すべきです。説教する側になってみると、ひやりとします。そして確かに、福音書の場合、庶民に対しては笑顔で「いらっしゃい」とおっしゃる主イエスがおり、指導者に対しては怖い顔で裁きの言葉を述べる主イエスが居るように感じられるところがあります。それは、正しい感じ方なのでしょうか。
新約聖書の後半には、主にパウロの書いた書簡がたくさん納められています。パウロが伝道して回った教会へ宛てて書かれた書簡を、各教会で書き写し、何度も教会で読まれ、やがて聖書として集められたものです。教会の様々な問題について、パウロが教会の人々の問い合わせに対して格闘しつつ、答えています。その中で、どの書簡でも問題になっているのは、教会の中に対立があることです。
教会の中には、さまざまな人々が集まっています。自分の母親が殿様の子どもの乳母で、今の領主と兄弟同然に育った人もいます。生涯を領主と共に過ごしたことでしょう。一方、奴隷の身分の人もいます。主人がクリスチャンになったことで、一緒に洗礼を受けたのです。ユダヤ人の家の出身の人もおり、片親だけがユダヤ人の人もあり、全然関係のない人もいました。そのようなさまざまな出自の人々が、同じ父なる神、同じ御子キリストの内に集まり、同じ聖霊をいただいて、神の命に生きる者にされています。パウロは、あなた方は皆、新しく生まれたのだ、キリストとの関係では乳飲み子である、「だから、わたしはあなた方に乳を飲ませて、固い食物は与えなかった」、と語っている箇所があります。一方では、「信仰の弱い人を受け入れなさい。」と言っている箇所もあります。
だれもが、最初はキリストとの関係では乳飲み子、よちよち歩きも出来ず、世話をされ、愛され、生まれたことを祝福される存在なのです。一方で、大きくなり、大人になると、そういった人々を育て上げる存在となっていく。わたしたちの一生の歩みと同じように、キリスト者としての歩みもある。そのように考えるべきでしょう。
考えてみますと、主イエスに出会い、洗礼を受け、救われて、それで終わる訳ではない。神の国に受け入れられる約束はそこでできた訳ですけれども、それで立ち止まってもいいよ、とは聖書は言わない。この世界に生きながら、神様と共に生きるという生活が始まるのです。地上は、天上の神の国とは違う。けれども、「ここも神の、み国なれば」と讃美歌で歌っているように、私たちは神の民として教会に集められているのです。ここで、天上の神の国に向かって生きて行く。地上はただ、我慢して暮らして行くだけの場所ではないのです。
マタイによる福音書に登場する人々は、それぞれが、それぞれの方法で主イエスに出会い、自分自身の生き方を変えられて行きます。一人一人が私たちに似た人々であって、この人々を通じて、わたしたちは主イエスに出会うのです。聖書の登場人物を、自分と同じ種類の人とか、自分とは関係のない、裁きの対象と考えないで読んでいきましょう。神は、聖書を通して、もっともっとわたしたちに豊かに語りかけ、大きな恵みを与えてくださいます。

さて、今日の箇所では、二人の人の主イエスとの会話が記録されています。
一人は、律法学者です。律法学者、というのはユダヤ人の中で、聖書、これは旧約聖書ですが、聖書をいろいろ研究して、解釈する人たちです。こう言った人たちは、現在でも存在しています。ユダヤ教の教会であるシナゴーグの教師として礼拝を行い、ユダヤ人の人々の生活を指導します。神学校があり、ヘブライ語で書かれた聖書を学び、聖書の注解書であるタルムードやミシュナーを学びます。これらは、聖書の解説書であり、各時代に聖書の教える律法を、どのように生活に適用していくかを教えているものです。そして、ユダヤ人も現代生活の中で生きているのですから、現代の便利な生活の中で、どのように生活したら良いのか、と言った観点からの生活相談にも乗ります。どうしたら安息日を守ることができるのか。労働しないで温かい食事を準備するために、トースターもやかんも、すべてタイマーで前日の内にセットしていると言います。休日は、エレベーターのボタンを押すと言う労働をしなくてもいいように、各階に停車するようになっているとも言います。加工食品には、ユダヤ教の律法に基づいた食物であることを保証するラベルが付けられます。こう言った食品の加工についても、律法学者の知識が必要です。
話が脱線していますが、律法学者と言えば、こんな権威を持った人々だと言うことです。その律法学者が、主イエスに近づいてきたという訳です。
「近づいて」とは、どんな意味だろう、と考えていました。元の言葉は、「前の方に来る」と言う意味です。お話しをするために前の方に来る。一対一で話をし、ただ話すだけではなくて、心も通い合わせる。旧約聖書では、礼拝のために、神の御前に出る、と言う時に、普通に使われます。だから、この律法学者は、ただ主イエスと話をしているということではなく、もっと自分自身も変えて下さるほど、近くに来た、と言うことです。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」
「従って参る。」まずは、ついて行く、と言うことです。この時代の律法学者たちの勉強方法は、学校へ行って講義を聴く、と言うのではありません。学習塾とか、寺子屋のようなところに弟子入りするのです。日本のいろいろな習いごとには、内弟子という制度があります。師匠の家に住み込んで、家事などの手伝いもしながら、教えを受ける弟子です。当時の律法学者の養成方法も、これに近かったようで、師匠の行く所はどこでもついて行く、と言うのは基本でありました。この人は既に律法学者ですから、本当は人を指導できる「免許皆伝」の師匠の筈です。その人が、教えて下さい、とへりくだってやって来たのです。それは、当時の社会制度を踏まえた、謙虚な姿勢であったと言えます。
けれども、このような謙虚な姿勢を示す律法学者に対する主イエスの言葉は、厳しいものがあります。そして、この言葉は、従っていいのか、悪いのか、と言う返事ではなくて、従うと言うことは、大変だぞ、と言っているのです。
この「従う。」と言う言葉には、「ついて行く」と言う以上の意味があります。文字通り、弟子として従うと言うことです。それは、ただついて行くと言う以上の意味があります。主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」と言います。
人の子とは、主イエスのことです。主イエスには枕するところもない、というと、蒲団があって枕があって、手足を伸ばして寝るほどの場所もない、と言う感じがします。とても貧しいと言うことでしょうか。「枕する」とは、ギリシア語では「頭を横たえる」と書いてありました。立派な寝床がないというよりは、ゆっくり休むところがないと言うことかもしれません。休む間もなく、忙しいという意味かもしれません。
二人目は、主イエスの弟子です。「主よ、先ず、父を葬りに行かせてください。」父母の葬りは、遺族の最大の宗教的な義務でした。この義務を怠ることは、死者を辱めることだと考えられました。安息日には順延されましたが、そうでなければ、亡くなった日に土葬にしなければなりませんでした。暑い地域です。火葬は禁止されています。ある面では、当然の対応でした。
このもっともな言葉に対して、主イエスは「わたしに従いなさい。」と言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」主イエスに従っていない者たちに葬儀は任せなさい、と言う意味なのでしょうか。そんな無責任な、と思えてしまいます。
ここの箇所について、ルターは十戒の順番をわたしたちに思い出させ、父母よりも神ご自身が大事であることに注意を向けています。十戒では、神が最初で、父と母は神との関係が正しい中で初めて問題となります。それは、神との関係が正しければ、両親や隣人との関係も正しくなるはずだと言う前提もあります。
先ずは、主イエスに従え。それから、父母を敬え。その順番を間違えてはならない。そのように理解すべきだと考えられるのです。

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