日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2018年4月29日 「天国の門」 今村あづさ伝道師
ルカによる福音書16章15~19節
2018年4月22日 「自分の十字架を負え」 今村あづさ伝道師
ルカによる福音書9章23~27節

エルサレムの旧市街の観光では、エルサレム神殿に加えて、主イエスがご自分が掛られる重い十字架を背負って、市内を引き回されたという「十字架の道行」をたどることになります。この道程は、塀に番号がつけられているので、その通りにたどっていくと、最後に聖墳墓教会にたどり着くことになります。ここが、十字架につけられた「されこうべ」、カルバリという場所で、後代になってここに教会が建てられたのでした。
福音書には、イエス様の福音宣教の中で、「おびただしい群衆が」と書かれているところが、たくさん出てきますが、この十字架の道行こそ、周り中、おびただしい群衆で、暫く迷子になってしまって、恐ろしい思いをしたことでした。群衆の中には、白い衣を着て、縄を自分の体に打ちつけながら歩いている人とかもいます。
旧市街は、もちろん、ローマ時代そのままではないはずなのですが、四畳半くらいの店が、人がすれ違えるくらいの道幅の道の両側に軒を連ね、雨のためか日差しを避けるためか、シェードが張られています。食べ物であったり、装身具であったり、電気用品とかみやげ物屋とか、日常的な人々の営みの生活が、行なわれている訳です。
2000年前が、これよりも道幅が広かったというはずはなく、こんな軒先を、重い十字架を背負い、引き回されていった方がいたということに思いを巡らす時、不思議な心持になりました。
一方で、これから、死に赴く人がいる。他方で、その人と数メートルも隔てていない所で、日常的な、もちろん明日も同様の事柄が行われているであろう生活がある。その二つの間には、何も関係が感じられないような、周囲と隔絶されたすさまじい孤独の道行です。
この方は、この世のすべての人を救うために、これから十字架に掛ろうとしているのに!この世は、まったく、そのことに気づいていなかったのだろうか。そんなふうに思ったのです。しかし、この世との断絶の中で、この方は、父なる神と一致し、父なる神の御心、つまり、すべての人の罪を救うという栄光の道を、お一人で歩まれた。父なる神への道を、わたしたちのために開いてくださったのです。
今日の聖書箇所は、イースターの出来事からすると、かなりルカ福音書の中では前の方になりますけれど、このイエス様のご受難と復活を踏まえての箇所ということになります。わたしたち自身の十字架の道行ということでしょう。
この箇所、今回、教会学校のテキストに選ばれた箇所なので、選んだのですが、実は、結構、自分には怖い所でした。このまま読むと、どう見てもこれは、殉教の勧めではないのか。イエス様と同じように、あの十字架に掛れ、と。そして、2世紀にはたくさんの人が、実際に殉教の死を遂げています。日本がキリスト教国なら、自分の心の中を知られる機会はない。けれども、また、迫害の時期が来る可能性がないとは言えません。その時に自分は、敢然と、このみ言葉の通りに行動することはできるのだろうか。そう思うと、皆さんにどのようにお勧めをしたらいいのか、言葉が見つからないだろう、というのが、理由でした。
聖書を少し丁寧に読みながら、このことを考えていきたいと思います。
まず、23節で、「自分を捨て」という言葉があります。これはどう言うことかな、と24節を読んでいくと、「自分の命を捨てる」という言葉がそれにあたるのです。でも、25節を読んでみましょう。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」と書いてあります。となると、自分の命を救いたいと思う者が失うと言う24節の意味は、自分の身を滅ぼすという意味なんだ、ということが分かります。実際のところ、「救いたいと思う」とは「救いたいと望む」ということですが、ここには好きなようにするとか、楽しむと言う意味があるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」というのは、自分の人生を自分の好き勝手にして良いものだと思って、人生を楽しもうとする者は、自分の人生を破滅させる、という意味になります。イザヤ書50章の11節は、まさにこのことを言っているのだと思います。
逆に、「わたしのために命を失う者」とは、イエス様が理由となって、自分の人生を捧げるということです。自分を捨て、自分の命を失うとは、ロマ書12章1節にあるように、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げる」と言った意味でしょう。殉教ではないんだ、ということです。
23節の始まりで、「それから、イエスは皆に言われた。」とおっしゃいます。「皆に」とありますから、すでにクリスチャンの人にもクリスチャンにまだなっていない人にも、呼び掛けていることになります。「自分の十字架を背負う」ことと「わたしに従う」というのは、弟子の条件として、セットです。14章27節に、「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、わたしの弟子ではない。」とある通りです。、
「イエス様について行く」とは、イエス様の言うことに従って歩む、行動するということです。「「主よ、主よ」という者が皆、天の国に入る訳ではない。わたしの父の御心を行う者だけが入るのである。」と、マタイも7章21節で言っています。言うだけではだめ、行動で示しなさい、という訳です。イエス様に従うということは、主の道を行くということです。イエス様の場合は、それは栄光への道でした。わたしたちも、主イエスに従っていくことは、栄光の道を歩んでいることなのです。
イエス様が理由となる、というのは、イエス様のしるしがついていることを理由に、という意味だと考える人もいます。つまり、クリスチャンだと言うことです。自分勝手に行動するのではなくて、イエス様に従う者は、救われる。こんな意味になるかと思います。
富士吉田教会の設立に関わった荒井保という人がいます。この人は、牧師ではなくて信徒なのですが、聖書のセールスマンに出会って、聖書を読んで、物すごく感動して、新宿の中田重治の神学校に直ぐに行ってしまうのです。そして、洗礼を受けて帰って来て、この地で祈祷会を始めた。それから牧師を招聘し、この富士吉田教会の会堂を建てた。こうして、富士吉田教会が建ったのです。
ここで、イエス様に従う時には、「自分の十字架を背負う」ということが、必ず、付いてきます。そこで、自分の十字架とは何か、ということを、少し丁寧に考えてみなければならないのですが、多分、わたしたちには、一人一人、自分にとってはあれだな、と思うものがあるのではないでしょうか。そう、イエス様の十字架は、とても重いものでした。この世的には大きな重荷を、神に至る道に一緒に持って行け、そのようにイエス様は言っているのです。
ここで、大きな重荷、ということで、旧約聖書のヨブ記を考えてみたらいいのです。
ヨブ記の主人公ヨブは、正しく神を畏れ、悪を避けて生きている人でした。7人の息子と三人の娘、大変な財産家でもありました。このヨブに神の試練が訪れます。サタンは、ヨブから財産を奪い、子供たちを奪い、最後にヨブの健康を奪います。そうなれば、面と向かって神を呪うだろう、とサタンは言うのです。
ヨブ記の3章から、ヨブは自分の生まれた日を呪い、自分が生きていることを呪います。そして、神に、「なぜわたしと争われるのか」と問うのです。なぜ、自分は、こんなひどい目に遭わなければならないのか、自分のどこを探しても、神に対して何の罪も犯していないのに。自分を顧みてくれ、と。ヨブ記は、こんなヨブの訴えと、三人の友人の「いや、お前はどこかで神に対して罪を犯したのだろう、だから報いを受けているのだ」という詰問が延々と続きます。最後の方に年齢の若いエリフの言葉があり、そして最後に神の怒りの言葉が出てきます。お前は何も知らない、何もできないものではないかという訳です。いろいろな問いの多くが答えられないで終わっているようにも感じられますが、ヨブは神を仰ぎ見て、満足し、悔い改めるのです。それに対して、神は、ヨブを祝福し、健康を癒し、財産を戻し、息子と娘がもう一度、与えられ、長寿を保ち老いて死んだのでした。
ヨブ記では、良く分からないことはたくさんあるのですが、一つ言えることは、神は神に対して人間が自分の苦難を訴え、神を訴えることを通じて、人を癒し救われると言うことです。「自分の十字架を負って、わたしに従え」とは、自分の持っているさまざまな問題を携えて、神に向かう道を歩め、ということではないでしょうか。
ヨハネによる福音書の5章1節から、ベトザタの池でイエス様が病人を癒す話が出てきます。この話の中で、癒された病人は、38年間も、癒される日が来ることを待ちわびならが、この池の傍らで横たわっていた人でした。この人は、水が動くときに池の中に入れば、癒されるかもしれないという伝説の中で、自分自身で動くことができず、誰も自分を池の中に入れてくれないことを、悲しんで暮していたのでした。
ここで、イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われます。ところで、今日の23節で「十字架を背負う」と言われている言葉は、この「起き上がる」と同じ言葉です。そうすると、「背負う」と言うと、わたしたちはなんとなく、いつも重い荷物を背中で支え続ける、という意味合いに取りがちですが、まずは、「持ち上げる」という意味なんだ、ということです。今まで、下に置いていたものを、持ち上げる。ベトザタの池で「起き上がる」というのは、病人が自分の体を起こす、ということなのですが、ここでは十字架を持ち上げる、という意味です。今まで、下に置いて動かなかったものを持ち上げる。そして、担ぐとか、担うとか言う意味がありますから、背負う、というのは間違っていないのですが、もっと積極的に、取り除ける、とか、破壊してしまう、廃棄してしまう、という意味さえあるのです。となると、もしかしたら、背負うと言う言葉は、これまで解決できなかったものを、主の道に行く時に一緒に持って行くことによって、解決していく、という意味合いも持つことになる。そんな可能性があると言うことです。少なくとも、ベトザタの池で座り込んで、一人で我慢し続けることではないと言うことではないでしょうか。イエス様は、「治りたいのか」とおっしゃったのですから。一人で我慢することでは、解決はできないよ、神様の所に持っていらっしゃい、あなたの問題を。言われているのは、こう言うことではないかと思うのです。
そこで、「わたしの軛は負いやすい。あなた方を休ませてあげよう。」というイエス様の言葉がありました。マタイによる福音書の11章28節の言葉です。この意味も、少しは分かって来るような気がしませんか。イエス様の行かれた、神様へ向かう道を、わたしたちも自分の課題を携えて進むことで、解決へ向かう。そんなことが言えるのではないかと思うのです。
さて、では、どんなふうに、それぞれが課せられた軛、自分の十字架が軽くなるのか、ということなのですが。
イエス様の十字架の道行をもう一度思い出してみますと、これは、父なる神から受けた大きな大きな課題をイエス様は担っていた。それが、人々の贖いとなって十字架上で亡くなると言うことです。それが、イエス様の受けるべき怒りの杯であり、その杯を過ぎ去らせてくださいと祈るほどの、苦しいものだった。
「パッション」という映画がありました。司祭さんで映画を鑑賞中に心臓発作で亡くなった人がいたということで、話題となりました。この映画で、十字架の道行が出てきます。十字架の道行では、途中でキレネ人シモンという人が、倒れたイエス様に代わって十字架を運ぶ、という出来事がありました。ベロニカという女性が、イエスの汗を自分のハンカチでぬぐったと言う話しもあります。そして映画の中では特に、付き従っていた中に母マリアがいて、その母が苦しむイエスを見て、小さなイエスのことを回想したシーンがあります。小さなイエスが転びそうになる。痛い思いをするだろうと母は、手を差し伸べ、支えようとするのです。抱き留めて守りたい、できることなら、自分が苦難を代わってあげたいと言う母の思いがありました。
最初にイエス様の十字架の道行、ということをお話しした時に、買い物をする人々と、十字架を担って進むイエス様の間に、すさまじい断絶があると言いましたが、実は、十字架は、関連なさそうなこの世界に対して影響を及ぼして行き、わたしたちを変えていっている。だからこそ、わたしたちが担う十字架も、たくさんの人々が助けの手を差し伸べてくださり、共に担ってくださる可能性があるわけで、そうやってこの世においては、軽くなっていく可能性があります。
荒井保が、教会を建てた、その思いの中に、彼の十字架があると思います。彼は、資産家の息子で、わたしたちからすると、何の心配もないように見えます。けれども、弟たちが上の学校に進学させてもらった中で、小学校か中学校か、最低限の教育で我慢しなければならない現実がありました。彼は、家の仕事を顧みず、趣味にふけり、昼間から大酒を飲むと言う生活をしていたのです。しかし、彼は、キリストに出会うことにより、180度、変えられてしまいました。お酒もやめ、まじめに仕事と家庭に向き合うようになり、家族を礼拝へと招きました。
今日のテキストの最後の27節には、「神の国を見るまでは決して死なない者がいる」という言葉で終わっています。これは、世の終わりまで、という意味ではなくて、この地上に神の国を見るまでは、という意味に取るべきでしょう。地上に、教会ができて、共に祈る者がいて、共に歩いてくれる者がいて、重荷を担い合う兄弟姉妹がいる。そう言った意味での神の国を見て、その神の国が世の終わりまで、大きくこの世を救っていくようになるという幻を信じることができて…。それは、イザヤ書53章で主の僕が見る「自らの苦しみの実り」でありましょう。満足して死を迎えるということでありましょう。これこそが、「わたしのために命を失う者は、それを救う。」ということでありましょう。
「自分の十字架を背負って、わたしに従え」それは、主イエスがしたように、神に対して、自分自身を携えて向かい合うことです。自分ではどうしようもない、自分の担う怪物のような十字架を担った姿のまま、主にお目に掛りに行く。その時、自分の持ってきた問題も、軽くされ、時には破壊され、無力化される。一方で、人生を自分自身が受け取り、自由に過ごす時間なのだと考えた人は、実は現実に立ちはだかる大きな力の前に、うなだれ生きる力を失い、頑なになってうずくまるばかりになってしまう。そのような、パラドックスのような、でも真実を、イエス様はわたしたちに教えてくださり、神様に生かされる喜びへをわたしたちを招いていてくださっています。先ほど、イザヤ書50章11節を読みましたが、対照的な箇所を最後に読んで、終わりたいと思います。何度も参照していると思いますが、イザヤ書40章29節~31節です。

2018年4月15日 「喜びと平和の世界へ」 今村あづさ伝道師
ルカによる福音書24章36~49節
2018年4月8日 「恐れるな、喜べ」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書28章1~10節

復活!聖書の中で、一番信じられないことです。どうしても信じられない。どうしたら、信じられるのでしょう?
先週のイースター礼拝で、子どもたちにお話をしました。ルカによる福音書の24章の12節まででした。小学生三人に、前の方に来てもらって、お話をしました。だから、皆さんは、子どもたちの様子をご覧にはなれなかったと思います。
大人の皆さんは、それなりにうなずいて下さいましたが、子どもたちは、聞いていないな、というのがはっきり分かる様子でした。聖書の復活のお話しを、その通りに話しただけですけどね。
イエス様が復活したことを信じないと、クリスチャンにはなれないよ。こんなことは、子どもの時から、ずいぶん聞いてきました。でも、わたしはずっと、信じられませんでした。こんなこと、あり得ないよ、あり得ないから、信じられないよ。そんなふうに思って来ました。それなのに、洗礼を受ける決心をしたのは、「とにかく、救われたい」と思うようになったからです。でも、じゃあ、イエス様の復活はあったの?と言われると、このときも本当には信じていた訳ではなかったのではないか、と思います。
どうして、イエス様は復活したんでしょう。聖書に出て来る人たちは、どうして、イエス様の復活がうれしくて、力が湧いたんでしょう。
復活は、普通はないことです。人が死ぬと、甦ることは、普通はありません。普通はないことが起こった。人が死ぬのはどうしてですか?病気で死ぬ。事故で死ぬ人もいます。戦争で殺される人もいます。人が生まれるのは、どうしてですか?わたしたちが勝手に、生まれさせるわけではありません。どんな生き物も、もちろん人間も、わたしたち一人一人も、神様が生まれさせてくださいました。そして、神様が天に召すのです。
生きることも、死ぬことも、神様によって決められているんだ、と考えると、イエス様の復活はどうでしょう。やはり、神様が復活させたのではないでしょうか。じゃあ、どうして、神様はイエス様を復活させてくださったの?それは、イエス様が正しい、神様にとって価値のある、すばらしい方だからだったからではないでしょうか。
イエス様の死は、とてもとてもお気の毒な、苦しいものでした。それは、人々へ、こんな悪いことをした人なんだということを見せつけるためでした。残忍な刑罰は、悪いことをした人は、こんな風に裁きを受けるのだ、ということを、皆に教えて、二度と、悪いことをしようとする人が出てこないようにするためのものです。
この世界では、イエス様は、極悪人として、罪人の一人として、死刑になったのです。でも、神様の目から見ると、イエス様は何の悪いこともしていませんでした。そのことが分かるように、神様は、イエス様を復活させたのです。
イエス様が復活したのは、イエス様が正しい人だったからです。世界中の人々が、イエス様を罪人だと考えたけれど、それは神さまの考えではないよ、というのが、イエス様の復活の意味です。

でも、イエス様は、十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言って亡くなりました。27章の46節ですね。右側のページです。そしてこれは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味だと説明されています。これは、詩編22篇の冒頭の言葉です。そして、この詩編22篇は最後、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」という言葉で終わるはずでした。だから、イエス様は、父なる神の恵みの御業に信頼して亡くなったのだ、と思う訳ですけれども。
でも、神が見捨てたと思うのも、間違いではないのです。
十字架の上で死ぬということが、呪われた死ということなのでした。木に掛けられた死体というのが、呪われた死として申命記21章23節に出てきます。エステル記で悪人ハマンは木につるされました。ダビデの息子でアブサロムという王子が反乱を企てたことがありますが、彼は自慢の長い黒髪が樫の木の枝に絡まって宙ずりになって殺されました。
イエス様は、弟子の一人に欺かれて逮捕されました。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そしてゲッセマネの園で、「できることならこの杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、父なる神の御心は、変わることはありませんでした。
イエス様は、貧しさの中に生まれ、やもめの母を支えながら暮らし、そして人々を癒し赦し、教えましたが、呪いの最期を遂げました。とすれば、生まれたのは呪われるため、死ぬのは呪いを受けるためであって、呪いから滅びへ至るのが、イエス様の御生涯だったのでしょうか。
イエス様のご最期に、助け手は現れませんでした。「他人は救ったのに、自分は救えない。」と言われ、「そら、エリヤを呼んでいる」と人々は言いました。彼らは皆、死の瞬間まで、神がその命を救われるかどうか、見ていたのです。しかし最後まで、助けは来なかった。ということは、この人は、神に呪われた死を遂げた、と見ていたのです。
申命記でモーセは、呪われた人々を、滅びに定められた人として、こんな風に言っています。手の働きに懲らしめを送る。疫病があなたを速やかに滅ぼす。敵の前であなたを撃ち破らせる。地上のすべての王国にとってあなたは恐るべき見せしめとなる。あなたの死体はすべての空の鳥、地の獣の餌食になる。あなたは何をしても成功せず、だれひとり助ける者はいない。家を建てても住むことはできない。自分のものが奪い取られても、誰一人、あなたを助ける者はいない。これらの呪いは、ことごとくあなたに臨み、付きまとい、実現して、遂にあなたを滅びに至らせる。十字架の死だけではありません。呪われた人々には、このような恐ろしい滅びが待っているのです。
十字架に付けられたイエスを見て、多くの人々は、この人は罪を犯したからこのような刑罰を受けたのだ、と思いました。あまりにむごたらしい刑罰は、そうだとしか、考えられなかったでしょう。弟子たちは逃げてしまいました。逃げた弟子たちは、どう考えたでしょうか。イエスさまなんか知らないといったペトロは、心の中ではどう考えていたでしょうか。生き延びるためには、自分の思いを口に出すことはできなかった、ということでしょうか。
実は、神の呪いを受けるのは、神から心が離れている人たちです。神に逆らい、神の道を離れてしまっている人たちです。主に立ち返るなら、主は憐れんでくださるのです。神に立ち返るなら、豊かに赦して下さるのです。
主を信頼する人が、欺かれることはありません。主を敬い続ける人が、見捨てられることはありません。主を呼び求める人が、無視されることはありません。呪われるために生まれ、呪いを受けるために死ぬのは、不信仰なものたちです。
そうだとするなら、イエス様には、どのような呪いを受ける理由があるのでしょうか。主なる神と共に歩み、わたしたちを愛してくださり、わたしたちに救いの道を開いてくださった。この方が、父なる神から心が離れていることがあったでしょうか。多くの罪人と言われる人々を赦してくださり、神に立ち返らせてくださいました。ご自分が、神と共におられなかったら、誰が、こんなことができるでしょうか。
でも、それなら、この人の呪いは、どう考えたらいいのでしょうか。このお方の罪ではない。誰の罪なのか。イエス様を陰謀によって十字架に付けた祭司長、律法学者、ファリサイ派、死刑にあたる罪を犯してはいないと知っていながら十字架刑の判決をしてしまったポンテオ・ピラト、あざけり侮蔑した人々、十字架に付けた死刑執行人、それから罪や汚れを清めて戴いた人たちの罪や、裏切ったり逃げ去ったりしてしまった弟子たちの罪もあります。こう言った人々は、確かに罪があった。しかし、この方については、罪はなかった。とすれば、罪人のために、この方は罪を背負って十字架に付けられたのだ。そう考えるしかありません。
主に最期まで従った方が、助ける者もなく、殺されてしまった。主を信頼したのに、欺かれた。主を敬い続けたのに、見捨てられた。主を呼び求めたのに、無視された。それは、最期の瞬間まで、そう、死の瞬間までそうだった。
いいえ、死は終わりではありませんでした。死を超えて、主は働かれ、この方を復活させられたのです。
復活の出来事は、主を慕い求め、主に従った弟子たちによって、わたしたちに伝えられることになりました。マグダラのマリアが主に最初にお目に掛った物語は、ヨハネによる福音書の20章に出てきます。
マタイによる福音書の今日の箇所では、墓を見に行った婦人たちは、恐れながらも大いに喜んだ、とあります。一方、先週、大木先生に説教していただいたマルコによる福音書では、「恐ろしかった」とだけ書いてありました。大木先生の話の中で、マルコによる福音書が最初に書かれて、その後、マタイによる福音書とルカによる福音書がそれをもとに書かれたんだ、とお話しがありました。で、詳しい話は、わたしに聞いて、と先生は仰っていました。
この話は、仮説、つまり学者が「こうなのではないか」と考え、学会も大体そんなところだろう、と認めている説です。その根拠となっているのは、聖書だけなので、実際のところは、良く分からないとしか言えません。でも、その今、定説とされているのは、最初にマルコによる福音書が書かれたのが紀元70年のユダヤ戦争でエルサレム神殿が破壊された直ぐ後くらいだろうと言われています。マタイによる福音書とルカによる福音書は、このマルコによる福音書をもとにして、「イエス語録」と呼ばれるイエス様の発言をまとめた文書から追加して書いたのだろう、そしてマタイもルカも、それ以外に独自資料があったようだ、と考えられています。
要するに、マルコによる福音書が書かれてから、時間が経ってマタイによる福音書が書かれているので、復活の出来事をどう考えたらいいのかが、追加されていると考えます。だから、マルコによる福音書では、空の墓を見て、恐ろしくて逃げ帰っただけだった。でも、段々、復活の意味が分かって来て、喜ばしい出来事の始まりだったんだ、だから、マタイによる福音書では、大いに喜びながら、帰って言ったのだと思うのです。
喜びの中心には、何があるでしょうか。もちろん、イエス様の復活です。そしてここで婦人の人たちは、そのことを、天使から告げられて、そのまま信じて喜んでいます。イエス様に会うのは、その後です。でも、実際に、どうですか、マルコではそう言われたけれど、恐ろしくて、逃げ帰っているんです。正気を失うくらいに。言葉が出ないくらいに。
わたしはやっぱり、この「大いに喜んだ」というところに、復活のイエス様との出会いがあったのだろうと思う。その意味では、マタイによる福音書で最初に天使によって復活が告げられて、喜んでからイエス様にあった、というのは少し違うと思う。イエス様に出会って、復活の意味が分かって、喜んだ、という順番ではないかと思う。
マグダラのマリアは、イエス様に罪があるなんて、思っていなかったと思います。最期まで、この人は、イエス様を信じ続けていた。そうでなければ、復活したイエス様が、それも触ってはいけないからだだというのに、会ってくれるでしょうか。
マタイによる福音書で、天使が告げたことを聞いて喜んでから、イエス様に会うというのも、深い意味があります。それは、わたしたちが、イエス様に会うことはないけれど、信じなくてはならないからです。ヨハネによる福音書でも、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われています。
この世界の人々は、イエス様を罪人だと思いました。神によっても呪われた死だと思いました。しかし、神は、その死を超えて、この方の正しさを示されたのです。そして、それによって、わたしたちに、神様がわたしたちを顧みてくださる方だということを示してくださいました。そして、わたしたちが、このお方を通じて、神の国に至る道を開いてくださったのでした。

2018年4月1日 「主イエスは復活された」 大木正人牧師
マルコによる福音書16章1~8節

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