日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年6月25日 「火と槌の御言葉」 今村あづさ伝道師
エレミヤ書23章18~29節、第二テモテ4章1~5節

エレミヤは、ベニヤミン領アナトトの祭司ヒルキヤの子であった、とエレミヤ書の最初に紹介されています。主の言葉がエレミヤに臨んだのは、ヨシュアの時代から、ユダ王国の最後まで、つまりゼデキヤの時代にエルサレムが陥落し、住民が捕囚となってバビロニヤに連れて行かれるまで続いたのでした。
エレミヤの召命、つまり神様がエレミヤを召されたのは、エレミヤがまだ若者の時でした。しかし、神様は、エレミヤを召す時を、今か今かと待ち望んでいたのです。「わたしは、あなたを母の胎内に作る前から あなたを知っていた。」エレミヤに臨んだ最初の主の言葉です。
今、木曜聖研祈祷会では、サムエル書上を読み進めています。預言者サムエルは、シロの神殿に捧げられた子供でした。シロの神殿には、年老いたエリと、二人の息子ホフニとピネハスが祭司として仕えていましたが、この息子たちはならず者で、主を知ろうとしない人々でありました。そこで神は、エリの家に裁きを下します。彼らが守っていた神の箱がペリシテ人によって奪われ、ホフニとピネハス、そしてエリもまた、その日に亡くなるのです。そして、神の人の預言のとおりに、彼らの子孫は祭司職を奪われ、アナトトへ追放されます。代わりに、ツァドクという祭司の一族が、神殿の大祭司職を独占するようになり、イエス様の時代まで、続くのです。
サムエル記上の物語の中で、エリの一族の末裔が追放された土地が、アナトトでした。そのアナトトから、祭司の息子である預言者エレミヤが出てきます。エリ一族の末裔の末裔であるということでしょう。エリの二人の息子、ホフニとピネハスの行った罪は、神を知ろうとしなかったということでした。しかし、その末裔であるエレミヤには、神の言葉が臨みます。神は永遠に赦さないではおかない。それどころか、想像することも出来ないような大きなご計画の中に、人間を置いてくださるのです。「わたしは、あなたを母の胎に作る前から あなたを知っていた。」この言葉の重みは、すさまじいものがあります。神様は、私たちには想像できないほど長い時間---数百年ということになります----ご計画を用意し、その時を待ち望んでいたということです。
ここで簡単に、「神様がご計画を用意し、その時を待ち望んでいた」と申しました。自分がこの一族のエリからエレミヤに至るまでの家系のどこかに生まれたとして、そんなふうに考えることはできないのではないか。長い長い数百年もの間、自分の一族は、あるいは皆殺しに遭い、あるいは追放に遭って来た。アナトトの地で、日々のパンにも事欠くような惨めな生活を幾世代も続けてきた。その間、一族に生まれた人々は、神様が自分たちに、み顔を向けてくださることを待ち望んで生き続けた…。簡単に考えると、待ち望んでいたのは人間の側であると考えがちです。しかし実は、待ち望んでいたのは人間ではなくて神様の方であった。「わたしはあなたを母の胎内に作る前から あなたを知っていた。」この言葉には、そのような神様の万感の思いを感じるのです。
しかし、エレミヤに臨んだ神の言葉は、すさまじいものでした。当時、ユダ王国は、バビロニヤからの軍事的な圧迫を受けておりました。実際、エレミヤの時代に、国は滅びて行くのです。エレミヤの預言はまさに、イスラエルの存亡を掛ける言葉だったのです。しかしそこで神の言葉は、この事態が、主なる神に逆らい続けてきたユダ王国に対する裁きであるということです。既にユダ王国よりも150年も前に滅びてしまっていた北王国イスラエルのように、ユダ王国も滅びると言う預言です。
神様の言葉を語っても、エレミヤの言葉は喜ばれませんでした。王国は確実に滅びる、それは神に背いたからだと言うのですから、聞く人々にはたまりません。国の存亡の危機を迎えて、どうしたら生きながらえることができるか、それが人々の聞きたい言葉だからです。エレミヤは、「ネブカドネツァルに従え、その帝国の中でしっかりと生活せよ、結婚して家庭を持て、そして主なる神への信仰を固く保て」と神の言葉を伝えます。しかしそれは、憎き敵であるネブカドネツァルをどのようにしたら倒すことができるのか、どの国が自分たちに味方して一緒に戦ってくれるかと思案する人々からすると、弱腰の敗北主義者に見えるのです。
ユダ王国の他の預言者たちは、さまざまに楽観的な預言をして、国王や人々を喜ばせます。王国の前国王、主だった人々が捕囚の民として連れ去られた後も、「二年待てばいいんだ、そうしたらみんな帰って来るんだ。だから希望を持て」と、預言者ハナンヤは語ります。しかし、その言葉は、主なる神から出たものではありませんでした。「誰が主の会議に立ち、誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。」「わたしが遣わさないのに、預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに、彼らは預言する。」主の言葉は語ります。
エレミヤの伝える主の言葉は明確です。イスラエルの国は、その罪のために滅びる。しかし、主なる神は、バビロニア帝国の中で、イスラエルの民を顧みる。それは、この世の王国はなくても、教会によって天に国籍を持つ、わたしたちの教会のことです。ご自分の名前をわたしたちの心に刻みつける。それは、わたしたちがイエス・キリストによって、この教会の中で実現されていることです。
今日の箇所では、主なる神のありようが、いろいろ語られています。少し考えていきたいと思います。
18節では、「主の会議」と言うものが出てきます。天上にはたくさんの神様がいて、会議をしながら、地上の出来事を決めていくのだろうかと、疑問に思うと思います。天上の会議のことは、詩編の中でも出てきますし、ヨブ記の最初でサタンがヨブを苦しめるために遣わさせることが決定するのもこの会議です。黙示録も、主なる神の玉座の周りには、24人の長老とか、聖なる生き物などが臨席しています。会議のメンバーは、神々ではなく、天使や、聖徒、時にはサタンまでも、主なる神の交わりの中に置かれているのです。この聖なる交流の中で、預言者は遣わされ、「語れ」と言われる言葉を語るのです。預言の言葉は、そのように重いものです。預言者の勝手な思い込みでもって語るものではありません。
23節に、「近くにいる神」「遠くからの神」と言う言葉があります。イエス様の生まれる前に、ヨセフに夢で現れた天使は、イザヤ書を引用しました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」「神は我々と共におられる」と言うのがインマヌエルの意味だ、と示されますと、わたしたちは神様は近くにいてくださる方なのだ、と思います。しかしここでは、神が近くにいると考えるのはとんでもない思い違いであって、「遠くからの神」が正解だと書いてあります。
それでは、ここで言う「ただ近くにいる神」と言う神様とは、どのような神様のことを示しているのでしょうか。ここを英語では「handy God」と訳している聖書もあります。手に取ることができる神様。持ち運びのできる神様と言うことです。
創世記や士師記などを読んで行きますと、このような「神」に関係するのかな、と言う物語が出てきます。たとえば、創世記でヤコブが叔父さんであるラバンの家を脱走する時、ラケルはお父さんであるラバンの家の守り神の像を盗んだという話しが出てきます。その像をらくだにまたがる時に使う鞍の下に隠したというのですから、小さなものだったのです。それから、士師記では、ミカと言う人がエフォドとテラフィムを作ったと言う話しがあります。彼は、自分の家族のために神殿を作り、息子の一人を祭司にしたのです。これらも後で、簡単に奪われてしまいます。
ですからここは、わたしは近くにいる守り神的な神に過ぎないのか?わたしは世界を創造した神ではないのか?あなたの都合に合わせて、自分で勝手に作った神なのか?そんなふうに問い掛けているのではないでしょうか。
「神は我々と共におられる」インマヌエルの神については、エレミヤ書のこことは違うところで、「イスラエルの希望、苦難の時の救い主」は、「我々の中におられる。」神であると言っています。
わたしたちは神から、逃れることができるでしょうか。神が存在しないところがあるでしょうか。天にも地にも、神は満ちておられる。ここでは、神殿に行く時だけ神に出会うのではない。普段は神を忘れていて、都合の悪い時だけ、神に出会いに行けばいい、というわたしたちの勝手な思いは、大変に浅はかなものだということが分かるのです。
神様に聞こうとせず、人々の聞きたいことだけを語る預言者たちを、「もみ殻と穀物が比べ物になろうか」と神は言われます。神の言葉は、もみ殻を焼き尽くす火に似ている。そして岩を打ち砕く槌のようだと、言われるのです。
あくまでも神の言葉を伝え、人々の喜ぶ言葉を伝えなかったエレミヤは、大変苦しい立場に追い込まれていきました。「わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」国のすべての人々に呪われ、争いといさかいの絶えぬ男と後ろ指を指されていたのです。「なぜ、私は母の胎から出て、労苦と嘆きに会い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」エレミヤは嘆き続けます。彼と同様の主張をしていた預言者ウリヤは、エジプトに逃亡しましたが、国王によって連れ戻され、王自身によって、切り殺されました。しかしそれでも、彼は語り続けるのです。

さて、今日は、「弾圧記念礼拝」として、礼拝を守っています。毎年言うことですが、1941年6月24日に日本基督教団が創立されました。それから1年が経った1942年6月26日、ホーリネス系の教会の牧師96名が一斉に検挙されたのです。その中には、この教会の牧師と前任の牧師も含まれていました。それから戦争が終わるまでの3年半、牧師は拘留され、取り調べを受け、治安維持法違反の裁判を受けることとなりました。その間、4名の牧師が亡くなりました。ホーリネス系の教会には解散命令が出され、宗教法人格を失いました。牧師は教職籍を剥奪され、就職の機会も奪われ、家族も含めて、困窮の中に暮すことになりました。
この教会には、当時の証言をまとめた分厚い「ホーリネス・バンドの軌跡」と言う本が、数冊もあり、毎年その本をこの時期は、少しずつ読んでいます。今回は、小池章三牧師の台湾での状況と、車田秋次牧師の手記を読ませていただきました。
治安維持法違反によって逮捕され、有罪の判決理由となったのは、キリストの再臨に関する千年王国説が天皇を中心とする日本の国体に反する、という点でした。もちろん、弁護士は霊界の主権と俗権の主権はその領域を異にしており、互いに侵略するものではないことを主張しましたが、受け入れられませんでした。警察での尋問や、裁判の公判陳述の内容は、まさに神学論争でした。牧師は、不十分ではあるかもしれないけれど、偽りは話さなかったと書いています。その時の裁判長は、後に洗礼を受けてクリスチャンとなったと書かれています。治安維持法違反での逮捕は、教会を反政府勢力と考えて破壊しようとするものでしたが、一人の人を神の身許に連れて行くことにもなったのです。
お祈りします。
在天のイエス・キリストの父なる神様。わたしたちは、あなたの御言葉の中から、自分に都合の良い所だけを聞こうとする愚か者です。しかしあなたは、そのようなわたしたちを火と槌の御言葉で清めてくださいます。どうか、わたしたちがあなたの前にへりくだり、あなたと共に生きることを得させてください。イエス様のお名前で祈ります。アーメン

2017年6月18日 「わたしが求めるものは憐れみ」 今村あづさ伝道師
マタイ12章1節~8節

物語は、「そのころ」と始まっています。「そのころ」とは、11章のイエス様の説教が行われたころ、と言うことでしょう。ヨハネが牢に囚われ、「来るべき人はあなたでしょうか。」と弟子に問わせた。弟子たちに、自分の亡くなった後には、この人がいる、と示したとも言えます。一方、弟子の宣教活動にも関わらず、悔い改めない町はたくさんある。イエス様に対する反対勢力も、段々大きくなっていくのです。12章では、まず安息日論争が二つありますが、今日の箇所の次の論争の最後、14節では、ファリサイ派の人々がイエスを殺す相談をしています。それは、結局、イエス様の十字架まで、続いて行くのです。緊張感が、段々、強まっています。今日の箇所は、たまたま、ファリサイ派の人々がイエス様と弟子を見ていたということではなく、粗探しをして、揚げ足を取ろうとしているのです。
ファリサイ派の人々の律法解釈を、イエス様はひっくり返しています。11章の28節で「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様は仰っていますが、「重荷を負わせたもの」とは、ファリサイ派であることが今日の箇所では明白です。
安息日に何をやったらいけないのか、やっても赦されるのは何か。これはユダヤ人にとって、大きな問題でした。十戒の一つである神様の命令ですから、真剣に受け止めなければなりません。理屈が通らないような気がしても、自分で勝手に解釈して、適当なことをすることは許されません。普通の人なら、立派なラビの律法の細かい解釈の言う通りに、生活の規定を守っていたのです。マカバイ記という旧約聖書の続編に含まれている書があります。マカバイ記一の2章では、ユダヤ人たちが安息日に攻撃を受けたけれども応戦せず、多数の犠牲者が出たという話が載っています。死を賭しても守るべき掟が、安息日だったのです。
ユダヤ教の律法解釈には、いくつか、異なった考え方のグループがあって、安息日に戦争をしないというのは、一部のグループです。今のキリスト教でも、さまざまな宗派や教派あります。聖書の解釈についても、自由に考えてよい、と言うところもある一方で、信徒の自由な解釈を問題とするところもあります。祈祷も、わたしたちがするように、自分で考えて自由に行う自由祈祷の伝統のところもありますし、祈祷書があって、その通りに祈らなければならないところもあります。そしてそのような違いは、さまざまな優れた神学者がいろいろな論争をして出来て来たもので、わたしたちの教会の伝統として守られていると言えましょう。
ファリサイ派の人たちも、イエス様と弟子たちを、このような感覚で見ているということです。つまり、ガリラヤ育ちの田舎者、それも漁師や徴税人。町の名士でもありません。律法を解釈するような権威を持っている者たちではないという訳です。そんな者が、律法の解釈をすることが、彼らにとっては信じられないことだし、秩序を乱す者として、危険人物とみなされた。自分たちの権威を蔑ろにする者として、腹立たしく感じられたのでしょう。
しかし、11章の27節を見てください。「すべてのことは、父から私に任せられています。」イエス様は、神様の意志を地上で示す方であるのです。すべてのことがそうだとするなら、安息日についても、当然、神様からイエス様は任されていることになります。だから、「人の子は安息日の主」なのです。
イエス様の「解釈」は、7節に示されます。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」これは、旧約聖書のホセア書(6章6節)にある言葉です。ホセア書を見ると、続けてこのようにあります。「焼き尽くすいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」律法の通りに厳格に神殿でいけにえを捧げるよりも、神を知ることを喜ぶ。
神を「知る」とはどういうことでしょうか。最近の木曜日の聖研祈祷会で学んだばかりなのですね。「知る」とは、気づき、見い出し、経験し、知り合い、世話をし、交流を持ち、気に掛け、相手として選び、理解するという様々な意味合いがあります。神に気づき、あるいは見出され、神に尋ね求め、また神に応える、そうやって徐々に神を理解していく。この過程全体が、神を知るということです。
神様は、どのようなお方でしょうか。神は憐れみ深く、恵に富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及び慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に三代、四代までも問う者。シナイ山で十戒を与えるモーセに対して、主なる神はこのように宣言されました(出エジプト記34章6~7節)。神様は、人間の被っているさまざまな悲惨な状況を、そのままにしておられる方ではありません。その人間の苦しんでいる悲惨な状況のただ中に入りこんで、神様の命によって生かそうとされる方なのです。
このような神様のご性格は、イエス様に幾度となく現れています。わたしたちは、イエス様が、人々を「深く憐れまれた」ことを、9章36節で読みましたし、ルカ福音書7章のナインのやもめの話の中では、やもめを憐れに思ったことが、その息子を甦らせた奇跡となったのでした。まことに神であるイエス様には、神様の性質が、現れているのです。
私たちが、このような神様に望まれていることは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。この、申命記(6章5節)でモーセの口を通して示された御言葉です。そしてホセア書からの引用は、この神様の憐れみを、確かに神様はわたしたちに求めておられることを示しています。マタイによる福音書の22章(39節)では、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」とイエス様は仰っていますが、同様のことを言っていると言えます。
さて、最初に戻りまして、何が問題となり、それをどのようにイエス様が言っているのか、見てみましょう。
安息日に、イエス様と弟子たちが、麦畑を通りました。「弟子たちは空腹になったので」とマタイは書いています。「麦の穂を摘んで食べ始めた。」これを、ファリサイ派の人々が見て、とがめます。見なさい、あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをやっている。安息日を守れ、働くな、という規定の中に、麦の穂を摘むことが含まれているという解釈です。
それに対して、イエス様はダビデの例を引きます。これは、サムエル記上21章に出て来る物語です。ダビデは、ゴリアトと言う巨人を、小石一つで倒しました(17章)。それは、人々の称賛を浴び、サウル王は彼を戦士長に取り立てます。ところが、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」女たちのこんなダビデを称賛する歌から、サウル王は「後は同意を与えるだけか」と、ダビデを妬み始めるのです(18章)。サウルは悪霊に苦しめられ、ダビデを殺そうとします。ダビデはそこで、サウル王のもとから逃亡します(20章)。空腹で苦しめられている時に、神殿に行って、祭司からお供えのお下がりのパンをもらって食べたのです(21章)。
物語の中で、その日は供え物のパンを取り替える日だったという説明があります(サムエル記上21章7節)。供え物を取り替える日だったから、お下がりをいただくことが出来たのですが、律法で安息日に供え物を取り替えることになっていました(レビ記24章8節)。取り替えたパンは、祭司が食べていいことになっていました(レビ記24章9節)。だから、ダビデが祭司の食べるパンを食べたのは、安息日だったということになるのです。
つまり、ダビデとお伴のものは空腹だったので、許されるということでしょう。それは、神が憐れみを持ってわたしたちを顧みてくださるように、わたしたちもお互いを憐れみを持って顧みましょうと言うことでしょう。ここに出て来るファリサイ派のように、厳格に規則を守ることよりも、互いに憐れみを持って接することを、神様は求めていますよ、こう言うことになるでしょう。
私たちは、なかなか人を赦すことができません。それは、自分が大事にしていることを蔑ろにされる気がする。自分の守ろうとする神様の秩序をめちゃくちゃにすることだ。こう考えると、自分自身も厳しく律するし、他人もそのようにすることを求めます。そうできない人間を、赦せないことになります。
特に、日本のクリスチャンは、道徳的な事柄に対して、厳しく自分たちを律します。日本の近代にプロテスタントのキリスト教が入って来た時、それを先ず受け入れたのは、旧幕臣の武士の人たちでした。明治になってからは士族ということになります。政治や経済の分野では、薩長の出身の人々が牛耳っていましたので、旧幕臣の人たちは教育や文化で日本を変えていこうと考えました。そして、中心となる倫理として、キリスト教を取り入れたという面があります。静岡に行きますと、お城の堀の内側に静岡教会があって、この教会は士族の人たちが建てたのだろうな、と思います。キリスト教は、新しい道徳として、取り入れられた面があります。
大正時代になって、より一般の人々にも、キリスト教は拡がって来ました。この場合も、新しい道徳の教えとして、広まった点では、変わりません。一夫一婦制とか、女子教育などは、実際、キリスト教が紹介されなかったら、現代の日本で、当然のことになっていたかどうか、大変怪しいことだと思います。明治の初めに、禁酒を唱え、教会の中で禁酒会などもやっていた訳ですけれど、これもまた、新しい教えであったのです。このような道徳的な面を強調したというのは、日本に入ってきたキリスト教の宣教師自体が、こう言った面を強調する人たちであったという点があります。
一夫一婦制、女子教育、廃娼運動、禁酒運動、そして最近は障害者、女性、原発、沖縄、外国人、人種、LGBTなど、論点はたくさんありますし、こう言った運動はして行かなくてはならないものです。しかしながら、その根底には何があるでしょうか。神様の、私たちに対する熱情、あつい思い、憐れみの心があります。その心があるからこそ、私たちは隣人を愛することを求められています。
イエス様が、十字架に掛ることになったのは、ファリサイ派の人々の陰謀でした。憐れみよりもいけにえ、神様を知ることよりも神様の決まりを厳格に守ることの方を大事にしてしまった人々によるものでした。自分の隣人を愛することができず、裁いてしまった人々によるのでした。
私たちが、人を赦すことは、とても難しいことです。しかし、十字架を前にして散り散りばらばらに逃げてしまった弟子たちを、復活のイエス様は豊かに赦して下さいました。敵を愛することは、とても難しいことです。しかし、主イエスの十字架によって、私たちもまた、赦されたのです。赦しの向こうに、豊かな世界が拡がります。神の国が地上で実現していきます。お互いに赦し合った兄弟姉妹として、終わりの日の主のご再臨を待ちたいのです。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」この言葉は、9章でも、既に出ていました。マタイによる福音書は、徴税人のマタイの召命の箇所で、この言葉を使っています。伝説では、このマタイこそが、マタイによる福音書を書いたのです。どんなに大事な御言葉であるのか。「わたしが求めるのは憐れみ」この言葉の重みを、心に刻みつけたいと思います。
お祈りします。
在天の父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を賛美いたします。あなたは、憐れみに富たもう方、わたしたちを愛してくださり、わたしたちを顧みて、イエス・キリストを与えてくださいましたから、感謝します。どうか、イエス様ゆえにわたしたちが赦されて生かされていることを、わたしたちの心に刻みつけてください。そして、赦された兄弟姉妹として、お互いに赦し合うことができますように、わたしたちを導いてください。このお祈りを、主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2017年6月11日 「祝福を告げる旅の始まり」 大木正人牧師
創世記11:31~12:5
2017年6月4日 「聖霊に満たされる」 今村あづさ伝道師
使徒言行録2:1~13

 ペンテコステは、五旬節というユダヤ教の祭りが元になっています。この祭りは小麦の収穫を祝い、シナイ山でイスラエルの民がモーセによって律法を与えられたことを記念する祭りでもありました。主なる神がイスラエルの民を選んでくださり、恵みのうちにおいてくださることを約束したのが、律法を与えられた出来事でした。
 イースターモペンテコステも、日曜日です。そこで、イエス様の復活と教会の誕生日を記念して、キリスト教徒は日曜日を主日とするようになりました。
 五旬祭の日、一同は一つになって祈り続けていました。イエス様が生きている間は「気がおかしくなったのではないか」と取り押さえに来たイエス様の母マリヤも、弟たちも一緒です。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」この新しい掟は、イエス様の昇天したこの時点で実現していたのでした。
 そこに、激しい風が吹いてくるような音が聞こえてきます。神様の起こす風と言うのは、雷のとどろき、大嵐です。聖霊は、枯れた骨に過ぎない人々に霊を与え、命へと呼び戻そうとしています。「炎のような舌」が一人一人のうちに留まったとは、注がれたという意味です。
 聖霊が注がれると、人々は霊が語られるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。創世記の11章のバベルの塔で神様の呪いとして、人々の言葉がばらばらにされ、それによって心もばらばらになってしまいました。しかし、今、心を一つにした人々に聖霊が注がれ、自分の言葉で福音を開くことができるようになったのです。イザヤ書の最後の章66章の予言「わたしは、すべての国、すべての言葉の民を集める」がここに成就したのです。エルサレムに集められていた主なる神を信じるあらゆる国の人々に福音がもたらされました。
 ペンテコステは、主なる神からイスラエルの民が恵みの印である律法を授けられ、神様に選ばれた民として祝福の契約をした記念の祭りです。今や、世界中の民が神様に選ばれた民として、聖霊を注がれ、祝福のうちには入れられるようになるのだという、まったく新しい契約の記念日となりました。すべての人々を、ご自分のもとに集めて救いたいという神様の決意が、聖霊の力となっているのです。
(礼拝説教要約)

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