日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年8月27日 「福音を正しく宣べ伝えよ」 今村あづさ伝道師
使徒言行録8章26節~39節

フィリポは、使徒言行録6章で、日々の分配をするために選ばれた7人の評判の良い人々の内の一人です。フィリポの名前は、最初の殉教者となったステファノの次に出てきます。先週、20章を読みましたが、この後、21章でパウロは、このフィリポの家に滞在しています。
使徒たちは、この7人に食事の世話を任せて、自分たちは祈りとみ言葉の奉仕に専念することにすることにしました。教会の制度の中で、この人たちはディアコニア、執事と呼ばれることになり、ローマ教会では助祭のことですので、司祭からも一段低く見られていることになります。
けれども、先ほどの21章では、フィリポは「福音宣教者」と呼ばれていて、宣教活動、伝道者として認められていることが分かります。そして、今日の箇所は、フィリポの伝道を具体的に伝えるところです。
使徒言行録を読んで行くと、ペンテコステの出来事で、エルサレムに集まっていた200人ほどの人々に、聖霊が下りました。2章の終りには、ペトロの説教で、3000人ほどが仲間に加わったと書かれています。この後、福音は、外へ、外へと拡がっていきます。3章では障害者、6章ではギリシア語を話すユダヤ人、8章ではサマリヤ、そして今回のエチオピアの高官です。さらに、その後にパウロの回心があって、本格的な異邦人伝道が始まって行くのです。
今日の箇所のエチオピアの宦官への伝道は、ユダヤ地域を越えた外国への伝道ということと、律法的に排除されていたユダヤ人の赦しという二つの面があります。
一つ目の点ですが、現代のエチオピアというと、国土は高地で、陸上の長距離の選手を輩出するところだ、と思い出すと思います。その通りなのですが、古代は、エジプトの南部地域に接し、東アフリカ一帯を意味する、より広い地域の名称だったようです。広いエジプトの遥か南の地域。福音は、この高官によって、アフリカまで、もたらされることになるのです。
使徒言行録は、後半は特にパウロの活躍が書かれ、ローマ帝国内の伝道活動について詳しいのです。けれども、福音伝道は、ローマ帝国に限定されていた訳ではありません。このようにアフリカにもたらされ、また十二使徒のひとりであるトマスについては、「トマス行伝」が伝えられて、インド伝道をしたことが伝わっています。実際、エチオピア人の半分以上はキリスト教徒ですし、ケララ州というインド中西部の州には、確かにトマスが伝道したというキリスト教会が残っているのです。
エルサレムからガザへ向かう道は、寂しい道でした。ガザは廃墟の町でした。道は、ガザを通っており、寂しいというのは荒廃した町を通って行くからでしょう。
エチオピアの高官は、イザヤ書を朗読していました。エルサレムへ礼拝に行った帰りにイザヤ書を読んでいたということは、高官はユダヤ人だったということです。女王の全財産を管理していたというのは、大変名誉なことです。当時は、聖書と言えば、羊皮紙に手書きで書かれた巻物で、かさばりもするし、大変高価です。高価な聖書を、自分用として馬車の中で読んでいた。彼の裕福さを示しています。
けれども、彼には満たされない思いがありました。26節で、「そこはさびしい道である。」と言ったのは、彼の心を現しているのだという人もいます。高官は、「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。」と書いてありますが、彼は宦官でした。申命記23章によれば、エルサレム神殿の境内に入ることも、ユダヤ人教会に所属することも、できなかったはずです。遠い地からはるばる、エルサレムまでやってきても、主の御前に出ることはできないのです。心に晴れないものがあったとしても、当然のことでしょう。
聖霊は、この高官の主を求める心をご存知でした。フィリポを遣わし、彼に福音を告げさせるのです。読んでいたのはイザヤ書の苦難の僕の箇所です。まさに主イエスを預言していると考えられているところです。聖霊の導きによるとしか、考えられないのです。しかし、フィリポが手引きしなければ、この箇所を読んだからと言って、福音は示されません。聖霊の働きによって、主を求める者が福音宣教者に出会い、福音を告げ知らされるのです。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」水さえも、聖霊の導きによって見つけたように感じられます。
フィリポは、宦官に洗礼を授けるや、直ぐに主の霊によって連れ去られてしまいました。けれども、宦官から救いの出来事は去りません。彼は、喜びにあふれて旅を続けます。エチオピアに帰り、彼は人々に福音を伝えるでしょう。主の教会が、エチオピアに建てられて行くのです。
さて今日は、今年度の日本基督教団東海教区の動きを確認しようということで、「福音を正しく宣べ伝える教会」という題で、説教箇所を選んでいます。この言葉は、日本基督教団信仰告白の第四段落目の言葉に基づいています。日本基督教団信仰告白は、週報の裏面、左側の段に印刷されていますが、第一段落は聖書主義、第二段落が三位一体の神、第三段落が信仰義認、そして四段落が教会についてです。
教会はキリストの体、そして教会はイエス・キリストに於いて示された神の恵みによって召された者たちの集い、人の集まりです。これが基本で、では教会は具体的にはどんなものか。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の業に励みつつ、主の再び来り給うを待ち望む。」とあります。公の礼拝、つまり国籍、身分、性別、年齢等を一切問わず、すべての人が参加できる礼拝、福音を正しく宣べ伝える教会、洗礼と聖餐式という主が制定した聖礼典を行う教会、そして教会の中で互いに愛し合い、励まし合い、仕え合い、祈り合いつつ、主が再びいらっしゃる日を希望を持って待つということです。
「東海教区五カ年計画」は、教区が伝道に力を集中するために決められました。昨年度から始まり、四段落目の「公の礼拝を守る教会」「福音を正しく宣べ伝える教会」「聖礼典を執り行う教会」「愛の業に励む教会」「主の再び来り給うを待ち望む教会」と、それぞれを一年ごとのテーマにして、教区として学んでいこうというものです。その主な目的は、教団の信仰告白に基づいて、教会について理解を深めるということです。
今年の5月の教区総会で、教区議長が交代しました。この5カ年計画を発表したのは、前の教区議長だった松木田博 甲府教会牧師です。昨年、この五カ年計画を策定する時には、議長が変わったらどうなるんだ?という疑問も出た訳ですけれど、新しい教区議長の沼津教会の宮本義弘牧師も、この課題はそのまま踏襲するのではないかと思います。
伝道に特化しようと呼び掛けている理由として、信徒が増えない、高齢化が進んでいるという危機感があります。伝道の主体は教会ですが、それは牧師だけが伝道するということではありません。信徒も、伝道者です。神様、イエス様を伝えるためには、私たち一人一人が、主の言葉によって、主の御前で自らをふさわしく整えて行くことが必要です。そのために、毎日の信仰生活を、もう一度見直すということです。わたしたちの信仰生活が、恵み豊かになって行くということが、伝道に繋がるのです。
わたしたちの信仰生活が、恵み豊かになって行くことが伝道に繋がるという、松木田博牧師の言葉は、牧師自身の幼いころの経験によるものです。松木田先生のご家族は敬虔な信徒で、毎晩の聖書朗読と祈りによって、松木田先生自身が信仰に導かれて言ったと言います。
一人一人が、恵み豊かな信仰生活を送っていることで、教会がキリストの体としてふさわしいものに整えられて行く。そのことが、伝道に繋がるのです。「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなた方は何もできないからである。」主イエスが、ヨハネによる福音書の15章で言っています。
東海教区には、いろいろな部門があります。伝道部、婦人部、青年部、農伝部、教育部、教師部、社会部とあります。それぞれ、集会を開きます。伝道協議会とか、婦人部研修会、信徒修養会、教会学校教師研修会などなどです。今年は、多くが「福音を正しく宣べ伝える教会」と題して集会が開かれています。
東海教区には、静岡県、山梨県、長野県が含まれます。一緒に何かをやるのは広すぎる、と思うことも、しばしばあります。たとえば、10月23日、24日には、大月新生教会で、どんぐり牧場の横山さんを講師に、キリスト教社会福祉フォーラムが開かれます。24日には、野澤廣子さんにも、証しをしていただくことになっています。教区全体の行事と言っても、実際には浜松や軽井沢あたりから集まるのは、大変です。この間、下見をやりましたが、伊東教会の上田彰先生は、鉄道で新横浜、八王子経由だということで、3時間も掛けて来ていました。山梨県で行う行事は、皆で出席し、応援したいと思います。

SNSをやるようになってくると、「伝道の主体は教会」という、東海教区では常識のように言われていることが、挑戦を受けているな、と感じることがしばしばあります。キリスト者を対象としたグループの発言の中に、「具体的な教会に繋がらなくても、見えざる全体教会に繋がっていればいいのだ」という発言がたくさん見受けられます。教会にも、そのような趣旨のパンフレットが送られてくることもあります。皆さんも、そう言った発言を聞いたり、読んだりしたことがあるのではないでしょうか。
聖書を読み、あるいは伝道集会などでキリストに触れ、救われたいと思って教会に通ってみたけれど、何か違う。SNSの発言には、教会への不信の言葉が満ちています。心の中の理想形の信徒の交わりに比べると、現実の教会では、牧師も含めて、欺瞞と偽りに満ちているのではないだろうか。心で信じていればいい。自分で聖書を読み、祈ればいいのではないか、という訳です。
実際のところ、たくさん教会があっても、これはと思う教会に現実に出会うことは、かなり難しいことなのです。「手引きをしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう。」それはその通りです。けれども、実際に教会に通い始めると、手引きをしてくれるはずの人に、躓くのです。説教者の無神経な言葉の選び方に、許せないと思うこともあるでしょう。教会に集う人々は、聖なる人々だと思って来たけれど、実際は俗物ばかりだ、とがっかりすることもあるでしょう。
教会は、罪ある者が神の前でキリストのゆえに罪赦され、神の子どもとして集うことが赦されている場です。さらに聖霊は、罪赦された人間を教会に集め、神様にふさわしく潔めます。さまざまな欠けがあっても、キリストに似た者とされていくのです。周りを見て、「なぜこの人がクリスチャン?」と考える前に、自分自身がふさわしくないままで教会へ呼ばれていることの恵みに気づかなければなりません。
もともと、人との交わりが苦手な人もいます。「ドラムや電子機器を使った賛美が、うるさくていやだから礼拝に出られない、どうしよう」という発言も読みました。「ああ、日本基督教団の教会なら、まず、そんなことはありませんよ。是非、うちの教会へ」と思いましたけれど、山形の人だと書いてありましたから、「ちょっと無理か」と思いました。
昨日の晩は、東京神学大学の後輩のために祈りました。彼はガンを患っていて、今日から抗がん剤治療が開始されるということでした。神学生としての学びはもちろん、教会生活を守ることさえ、大変な努力が必要です。教会の隣の病院に入院していて、退院したらあの教会の礼拝に行こうと考えながら、入院生活をしていたという証も、聞いたことがあります。ネットで説教を聞いたり読んだりしている人たちの中には、いろいろな事情を持っている人たちがいることでしょう。私たちは、主の恵みが、今日、豊かにあなたに注がれることを、祈っています。
なかなか、礼拝に出られないにしても、最初は手引きをしてくれる人に教えてもらうのがいいと思います。教会では、キリスト教入門講座を開いています。その教会でやっていなくても、「キリスト教入門講座」をお願いします、と言って、断る牧師はいないでしょう。日本基督教団信仰告白ではなくても、使徒信条や主の祈り、十戒を学びます。聖書とお祈りは、信仰生活の要です。これらを学ぶことで、聖書のキリスト教としての読み方を学びます。祈りを学びます。
とにかく、ひたすら自分で聖書を読み込むことが第一だと考える人もいます。聖書を自分で読むことは大事です。御言葉に生きて働いていただくこと、生活の中でそれが行われるように読むということです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章10~11節)
けれども、一人で聖書を読んでいても、生きている間に真理に到達することは難しいのではないでしょうか。旧約聖書は、今やユダヤ教、キリスト教、イスラム教の正典です。それぞれの宗教が、それぞれの解釈で読んでいます。キリスト教にとっては、今日の宦官が読んでいたイザヤ書53章の苦難の僕も、先ほどの55章の「わたしの言葉」も、イエス・キリストのことです。でも、それは、「手引きしてくれる者がなければ、どうして分かりましょう。」教会に連なる人が、教えてくれなければ、分かることはできない。イエスを主と告白することはできない。つまり、救いに入ることはできないということだと思うのです。使徒言行録で、ペトロやパウロ、ヤコブ、ステファノという人たちが戦ったのは、この点、「イエスが主である」ということについてでした。
わたしたちの苦しみのただ中で、共に立ってくださる神、わたしたちの苦しみをご自分で味わい、神の命に生かしてくださるお方。わたしたちは、今週も、このお方と共に、一週間を過ごしてまいりましょう。御言葉と共に、一週間を過ごしてまいりましょう。
お祈りいたします。在天の父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を賛美いたします。どうか、わたしたちの日々の生活を、イエス様が共に生きてくださいますように。わたしたちを整えてください。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2017年8月20日 「滅ぼさないでください」 今村あづさ伝道師
詩編57篇
2017.8.20 「Be merciful unto me」 Psalm 57

<日本語版 Japanese>
礼拝で読まれる聖書箇所は、教会の伝統によって決まっているようです。出席した教会では、富士吉田教会のように聖書箇所を1か所だけを読む教会、旧約聖書一か所と新約聖書一か所を読む教会、そして旧約聖書、新約聖書の福音書、さらに新約聖書の書簡の三か所を読む教会がありました。とは言え、礼拝の説教は、やはりこのうちの一か所が中心となります。
今は、マタイによる福音書を続けて読んでいますけれども、こういうスタイルを連続講解と言います。カルヴァンが好きだったスタイルですね。その前は、多分アウグスティヌスもこの形式の説教集がありますから、カルヴァンは大好きな古代の教父、神学者に合わせたのかもしれません。
一方、聖書日課に合わせて聖書箇所を選ぶ方法もあります。多分、監督制を取っている教会、ローマ・カトリック教会とか、聖公会とか、ルター派の教会は、全世界でこの方式を取っているのではないかと思います。日本基督教団は、いろいろな教派が集まった合同教会なので、聖書日課も「日毎の糧」という名前で決められていますけれど、使うかどうかは、教会の自由です。
聖書日課には、中世からの長い歴史があります。まず、教会暦というものがあります。今、聖霊降臨節という時期を過ごしている訳ですけれども、これが教会暦です。クリスマス、イースター、ペンテコステを中心に構成されています。イースターは移動祭日、つまり毎年、カレンダーで日付が異なってくる祭日ですから、この教会暦がないと、イースターも祝えないことになってしまいます。聖書箇所は自由に選ぶ教会でも、教会暦には従っている訳です。
この教会暦の中で聖霊降臨節は、ペンテコステの出来事の後の時期で、「教会の半年」と言われる時期です。教会が、聖霊の導きのもとに宣教に励むことを覚える期間です。
教会暦や聖書日課に対しては、連続講解をする立場からは、一回限りのイエス・キリストの救いの御業を、毎年繰り返される行事の中に閉じ込めてしまうという批判があります。けれども、この救いの出来事は、折りに触れ、思い起こすということがなければ、過去に押しやられ、忘れ去られてしまうのではないでしょうか。わたしたちは、教会暦を通して、キリストの御業を周期的に記念し、わたしたちの信仰を新たにし、また深めて行くのです。
今日は、聖霊降臨節第12主日。「苦難の共同体」という主題が掲げられています。選ばれている聖書箇所の一つが、詩編57篇です。
詩編57篇の内容を確認してみましょう。1節が小さな字で字下げして書かれています。…「指揮者によって。」と。讃美歌21にも詩編を歌詞にして歌う讃美歌が、113番~172番まで、納められています。使徒言行録でも、詩編を賛美したという箇所があります。そして、これからは推測になってしまうので、実は分からないのですけれど、こんな風に考えられています。「『滅ぼさないでください』に合わせて。」とは、58篇にもあるし、59篇もそうです。この「滅ぼさないでください」というのは、歌のメロディーだったと考えられます。「滅ぼさないでください」という歌のメロディーを使って、替え歌で歌ってください、ということです。それから、ミクタムと書いてありますが、これについては、さらに推測です。贖罪の詩をミクタムと呼んだのだ、という説があります。
「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいた時。」これは、サムエル記上24章4節にあります。ざっと、状況をお話ししましょう。サウル王は、イスラエル全体の最初の王として、即位しました。ダビデは、その従者として召し抱えられました。神様の霊がサウルから離れたので、サウルは悪霊によって苦しめられるようになったからです。ダビデは、竪琴を上手に弾いて、サウルの気分を慰めていたのです。
このダビデは、勇敢な戦士でもありました。ある時、ゴリアトという戦士と一騎打ちをして打ち果たします。このゴリアトは、背丈が聖書の記述によって計算すると、3メートルあったという計算になって、巨人でした。その巨人を、石投げ紐を使って飛ばした一で額を撃って倒したのでした。
この出来事によって、ダビデは大変有名になります。人々は、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った」と、ダビデを称賛する歌を歌います。サウルは、アンモン人やペリシテ人の脅威に対して、苦労して戦ってきた人です。しかし人々は、そのサウルの働きよりも、ダビデのゴリアトを倒した一撃の方が大きかったと、ほめそやしたのです。
既に精神的に不安定になっていたサウルは、これを聞いて妬みと怖れに捕らえられます。サウルを慰めるために傍らで竪琴を引くダビデを突然、槍で突き殺そうとしたりします。ダビデは、南の荒れ野やヨルダン川の向こう岸にまで行き、サウルから逃げ回るのです。
洞窟にいた時、と書いてあるこの場面は、エン・ゲティという場所の洞窟にダビデが潜んでいるところに、サウルがやってくるという場面です。サウルは、イスラエル全軍から、えりすぐりの3000人の兵を伴っています。ダビデの兵は、400人くらいだったと22章にありますが、兄たちや家の者はよいとしても、そのほかは生活困窮者、借金に追われている者、社会の不平分子という、半端者ばかりです。
洞窟のあるエン・ゲディというのは、死海の西側の地域です。これが、大月のあたりのように、死海から傾斜のきつい山々が立ち上がっています。谷川が何本も流れ、草木が生い茂り、滝があり、ライラックス、つまり岩ダヌキなども住んでいます。なかなかきれいなところですし、草木が生い茂っているので、洞窟などに身を潜めるには便利なところです。
かくれんぼにはいいところですが、これは命懸けのかくれんぼです。サウルが入った洞窟は、奥にダビデとその兵たちが潜んでいたのです。見つかってしまったら、3000人のえりすぐりの兵たちが、すぐに踏み込んでくるでしょう。兵隊は、サウルの事情などには関係なく、命令されていることをやるだけです。つまり、ダビデとダビデの手勢を、ダビデの家族を含めて、すべて皆殺しにしたはずです。まさに、「憐れんでください。神よ、わたしを憐れんでください。」というべき場面でしょう。
ダビデ絶体絶命の場面ですが、サウルはなんと、この洞窟に用を足すために入ったのでした。無防備なサウルを見て、ダビデの兵たちは言います。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思い通りにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」と。しかしダビデは、そうする代わりにサウルの上着の端を切り取るだけに留めます。サウルを殺せるのに殺さなかった。反逆の心がないことを示したのです。
詩編57編では、絶体絶命の場面で、作者は神様のみ翼の陰を避け所とします。神様の翼については、申命記32章のモーセの歌にもあり、ルツ記の2章でも出てきます。神の翼は、鷲の翼のようです。そして、その翼は、避難してきた人をお宿りが雛をかくまうように、暖かく守る翼です。
絶対的な場面で、ダビデは「わたしの魂はあなたを避け所にします」「憐れんでください。」と歌うのです。ところで、信仰を持とうとしない人がよく口にする言葉があります。「俺はいろいろ悪いことをして来たからさ、神様の前に出るなんて、怖くてできないよ。」あるいはまた、「わたしはいろいろ、辛い思いをし続けてきました。わたしは最初から、神様に選ばれていない人間なのではないでしょうか。」
ダビデは、罪を犯したことのない人間でしょうか。ここで、彼には、「神様にいまさら、助けてくださいとお願いしたって、これまで散々、神様に逆らって来たから、今さら、助けてくれるはずはないじゃないか。」というような躊躇はなかったのでしょうか。ここまでのダビデは、若いしかっこいいし、いいところばかりなのですが、これから先になると、結果から見るとサウルの一族を滅ぼし、バトシェバの夫を戦死させるなど、神の目から見て赦せないような出来事もたくさんあります。だからと言って、「わたしは神に憐れみを請う資格はない」とは、考えないのがダビデです。罪を犯します。しかしそのたびに罪を悔い、神に立ち返り続けるのがダビデです。
ここでもダビデは、神に憐れみを請うことを、躊躇しません。先ず、神に憐れみを請うのです。神の翼を、何よりの避け所とするのです。
そして、神に何を願っているでしょうか。サウルと戦う力でしょうか。「万軍の主」という言葉があります。神の守りを天の軍勢、天使の軍勢として表した言葉です。天使というと、優しい女性的な存在をわたしたちは考えてしまいますが、旧約聖書で人の前に姿を現す天使は、鎧に身を固めた将軍です。だからダビデが願ったのは、サウルに勝てる、天の軍勢でしょうか。そうではなくてダビデは、神の慈しみとまことを遣わしてくれるように願っています。神の愛、神の顧みを願っています。また、まこととは、平和であり、安心でもあります。神の愛、神の平和、それは、鷲の翼という大きくそれでいて、雛を暖かく覆い隠す安心できる場所、信頼なのです。
その神は、いと高き神でいらっしゃいます。天上の、一番高い所に居られる方です。しかしながらその方は、嘲りによって踏みにじられようとしている弱い貧しい存在に対して、何であれ、成し遂げてくださる方でもあります。成し遂げるというのですから、神が何かを始めたら、それを途中で放棄することはないのです。必ず、やり遂げる力をお持ちの方なのです。
神は、いと高き所から、この地上に、ご自分の慈しみとまことを遣わしてくださいます。慈しみとは、神の愛であり、また恵みです。神は、ダビデを愛してくださる。そしてその愛は、まことの愛、つまり見捨てることのない愛なのです。
ダビデは、その天からの守りによって、踏みにじる者の嘲りから守られました。思いがけず、サウルがダビデたちに気づかなかった時、ダビデがサウルを殺していたなら、どうなっていたでしょうか。サウルは殺したとしても、サウルの連れて来た3000人の兵士たちは残っています。ダビデの命は、サウルを殺したところで危うかったと言えましょう。怖れに取りつかれて、千載一遇のチャンスとばかりサウルを殺すことは、ダビデにとってサウルの取りつかれていた悪霊に、自分も取りつかれることを意味しないでしょうか。
5節でダビデは、自分の魂は獅子の中に伏していると歌います。2節でも5節でも、この魂は、霊魂不滅の魂などではなく、喜びを前にして狂喜し、怖れを前にして怖気づく、壊れやすい心のことです。このような魂、心は、鋭い剣のような言葉に、いともたやすく引き裂かれてしまう思いのことです。その心が真に平安を得るところは、神の身許しかありません。ダビデは、地上で敵を前にして、絶体絶命のピンチの中に立たされながらも、心は天上の神に守られているのです。
詩編57篇は、今日の聖書日課の聖書箇所から選んだものですが、この他、今日、選ばれている聖書箇所に、使徒言行録20章17節~35節があります。ここでパウロは、エフェソの教会の長老たちに別れを告げています。これからパウロは、霊に促されてエルサレムへ行くのです。投獄と苦難が待っていることを、聖霊なる神様は既にパウロに、はっきりとお示しくださっています。
なぜ、パウロは、投獄と苦難が待ち受けていることが分かっているのに、わざわざ敵対者の多いエルサレムへ行こうとしているのでしょうか。「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことが出来さえすれば」、パウロは自分の命すら、決して惜しいとは思いません、と語るのです。
詩編に置いてダビデは、ひるむこともなく、当然あるべきものとして、神の翼の影を避け所とし、神の慈しみとまことを遣わして下さいと祈りました。その祈りは、詩編の中でかなえられ、ダビデは神との平安に生きることが出来たのです。
一方、私たちにとっては、ダビデの願った神の慈しみとまことは、わたしたちの主、イエス・キリストによって、わたしたちのところまでもたらされたものです。
神の慈しみは、天の国で得られるほど豊かに恵みに満ちあふれたものです。親切であり、憐れに富み、わたしたちを裏切ることがありません。その恵みは幾千代にも及ぶと、旧約聖書で預言されていた通り、2000年経って、私たちのところにまで、もたらされました。わたしたちを死から守る、命です。主イエスのご受難を通して、わたしたちに残してくださった愛、そしてそのことを神が良しとしてくださり、キリストを復活させられた大きな恵みを思い起こしましょう。
わたしたち一人一人を踏みにじる者の嘲りも、いと高き所から地上の私たちのところへ遣わされた主イエスの御業の前では、どれほどのものでしょうか。主が、盾となって働いてくださいます。彼らの歯が槍のように矢のようにわたしたちを攻撃しても、彼らの舌が剣のようにわたしたちを切り裂こうとしても、主イエスは私たちの盾となって、戦ってくださいます。
パウロの旅立ちは、一人ではありませんでした。パウロは、聖霊によって投獄と苦難が待ち受けていることを知らされているにもかかわらず、霊に促されてエルサレムへ行きます。しかしここで彼は、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せ、別れを告げました。それは、単なる別れではありません。彼は、エフェソの教会の長老たちに、教会を託して出掛けます。役に立つことは一つ残らず、既に長老たちに伝えているのです。パウロは、教会の受けるであろうさまざまな困難を心配しながらも、神と神の恵みの御言葉に信頼をして、長老たちをゆだねるのです。
最後に、「日毎の糧」で今日の箇所を、「苦難のパウロ」ではなく、「苦難の共同体」としているところに、目を止めたいと思います。パウロの置かれている苦難は、パウロだけのものではなく、教会全体のものなのです。また、パウロが語る「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務」は、パウロだけではなく、キリストの共同体全体の任務でもあります。パウロ個人の働きが終わっても、この任務は受け継がれていきます。わたしたちの富士吉田教会まで、わたしたち一人一人まで、受け継がれてきているのです。
いと高き所から、わたしたちに遣わされている慈しみとまこと。それによってわたしたちは、神の翼の陰で守られ、わたしたちを踏みにじる者の手から救われます。わたしたちもまた、パウロのように、主イエスからいただいたこの神の恵みの福音を、力強く証していくという光栄ある任務を、果たして行きたいと思います。
お祈りいたします。在天の父なる神様、主イエス・キリストを通してわたしたちに与えられた、あなたの限りない恵みを感謝いたします。どうか、私たちがこの地上での生活を通じて、キリストを力強く証ししていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

<English>
How many text should be selected in a service depends on the tradition of a church. Some churches select just one text, others select two texts, Old Testament and New Testament, and some select three texts from Bible including Old Testament, Gospel and Letters.
We read Gospel according to Mathew from the beginning to the last continuously in these two years, which is called "series lecture." This is Calvin's favorite and maybe Augustine's because Sugustine was Calvin's good teacher.
There is another style to select the texts according to a "scripture lesson". Churches who have hierarchy systems may use same texts each other in the world. The top of the hierarchy selects the texts and every church uses same texts. UCCJ is a union church which includes many streams including congregational churches. It has its own scripture lesson but each church can select the texts by them alone.
Scripture lessons has a long history. Its basis is liturgical calendar. It is eleventh Sunday after Pentecost today under liturgical calendar. Easter, Pentecost and Christmas are three main festival in the liturgical calendar to decide other Sundays. Easter is not fixed its day in the calendar as it is decided by lunar calendar. If there is not any liturgical calendar, we can not celebrate Easter, either.
We are now during the after Pentecost period which means the half year of the church. It is the period that we should think about the mission.
Those who select the texts as a series lecture criticize those who select texts according to the liturgical calendar; because they makes the final and only event of saving by Jesus Christ to make into the scheduled annual events. But the accomplishment of Lord should be reminded as often as we can, otherwise it would be forgotten into past forever? We remember the accomplishment of the Lord through the liturgical calendar and make our faith renewed and deepen.
It is "Community of Distress" Sunday today. One of the text is Psalm 57. Vers. 1 (Psa 57:1 KJV) ...Jewish church song Psalms in the service. Altaschith is a melody. Today, we also sung a hymn by psalm. Michtam may be a song of redemption. The story of flight of David can be read 1 Samuel 24:4. This is the story; Saul was the first king in all Israel. David becomes his servant to heal the king by his music because Saul had been badly damaged by evil spirits. David was good at the harp and he was a singer-song-writer, too.

David was a brave fighter, too. One day David fought with Goliath and killed the giant who was about three meters high. David became very famous by this and people sang a song saying " Saul hit thousands, David hit ten-thousands." Saul had fought with aliens for years but people thought that David did bigger job than Saul.
Because Saul already had mental problem, he has jealous with David and came to think to kill David while David was playing the harp to healing him. David escaped from Saul and he wondered whole Israel; Desert of south or trans Jordan river.
The "cave" in ver 1 means the cave in the wilderness of En-gedi. David and his men of 400 people were in a cave and Saul came into the cave. Saul was with his 3000 soldiers. Some of David's men were his brothers and his family men but others were drop-out of the society. "Every one that was in distress, and every one that was in debt, and every one that was discontented, gathered themselves unto him; (1Sa 22:2 ASV)"
En-gedi locates the west coast of Dead Sea. It has hills, streams, trees and animals. It is a good place to play a "hide-and -find". But the target was the life of David. The cave that Saul went into was where David and his men were. If Saul found David, three thousands soldiers would come into the cave and they would kill him and his people.
This was really a critical moment but Saul went in to cover his feet ! The men of David said to him, "Behold, this is the day of which the LORD said to you, 'Behold; I am about to give your enemy into your hand, and you shall do to him as it seems good to you.'" Then David arose and cut off the edge of Saul's robe secretly. (1Sa 24:4 NAS) He did not kill him even he could do! He showed him that he was not a traitor.
The writer of the psalm made shadow of the Lord wings to make his refuge under the critical moment. The wing of Lord is like wings of an eagle who supports its young birds under the wings. Under the critical moment, David's soul trusts the Lord. However, some people say " I can not come in front of the Lord because I did a lot of evil things." or "I have been in troubles for a long time. I must be a person who are not chosen." What kind of man was David? Didn't he hesitate to trust Him? He did a lot of bad things... But it is David who does not think he has no right to stand in front of the Lord. He may have a sin, however he also redeem it. He always comes back in front of the Lord.
Now, he does not hesitate to get His mercy. At first, he begged His mercy. The wing of the Lord was his first priority.
What David asked to the Lord? The power to fight with Saul? "LORD Almighty" is one of the names of the Lord. This name shows the character of God who fights with angels against evils. Old testament shows the figure of armored angels, however our image of angels depends on New Testament of messenger of the gospel to Mother Mary. Did David ask Lord to send the angel soldiers? No. He asked the Lord his love and his truth. He begged the love of God and mercy of God. God truth is also His peace and shalom. They are the wings of God that to refuge him.
God is the God of Most High. He is in the highest of the heaven. But He is the one who accomplishes all things for him. That means to fulfil his purpose for him as He has the power to do so.
God sends his love and truth from the highest of the high into the earth. The love is the grace and kindness. He loves David. The love is true and never forsake him.
David is supported by the protection from the heaven. If he killed Saul, what kind of things would happen? There were thousands of soldiers and he and his people would be killed thoroughly. Killing Saul means David himself would become a slave of evil spirit.
Vers. 5 , David says "My soul is among lions (Psa 57:4 KJV)" The "soul" in vers 2 and vers 5 does not mean the spirits of immortal but a feeling that change very easily by the situation. The soul easily damaged by some evil words. The only place the soul can enjoy is the place in front of the Lord. David is protected by the Lord in heaven who is in his worst moment.
Besides Palm 57, Act 20:17 to 38 is today's text, too. Paul says "good-bye" to those presbyters of Ephesus. Paul was going to Jerusalem by the request of Holy Spirit. He was shown there would be bonds and afflictions abide him.
Besides the bonds and afflictions, why Paul was going to Jerusalem? "But none of these things move me, neither count I my life dear unto myself, so that I might finish my course with joy, and the ministry, which I have received of the Lord Jesus, to testify the gospel of the grace of God. (Act 20:24 KJV)"
David was sure that there were the wings of the Lord to be refuge. He did not hesitate to pray to send His love and truth. The prayer came in true in Psalm and he could live in peace with God.
The love and truth of the Lord come into us by Jesus Christ.
The mercy of God is fulfilled in the earth as the heaven is. His love is kind, merciful, and true. The life which protects us from the death comes to us after two thousands years!. Remember the love comes through the passion of Jesus Christ and the grace of the Father God to resuscitate Jesus.
What is the problem for us? Jesus Christ was sent to us into the earth from the highest of the high. The Lord protect us as a shield. Even their attacks to us are so hard, and even their tongues try to cut off us like sharp knives, Jesus fights for us.
Paul called the presbyters of Ephesus and said good-bye. It was not a just good-by but by that he entrusted them with the churches. All the useful words were said them already. Wondering the future problems, Paul trusted the God and His words and entrusted the presbyters.
At last, today's title in the Scripture schedule was not "Paul in Distress" but "Community in Distress", though the distress was against Paul. Actually, the distress of Paul is also the distress of the whole church. The task of the ministry that Paul received from the Lord Jesus is not only the task of Paul but also the task of the whole church. The task continues even after the completion of Paul's personal life. It is succeeded by our church, Fujiyoshida church, too.
By the love and truth from the highest of the high is the refuge of us and we are to be saved against those who pursue us. We, like Paul, feel proud to have the honorable task to testify to the good news of God's grace and work for that. Amen

2017年8月20日 「神様って、いるのでしょうか」 今村あづさ伝道師
キリスト教入門講座

科学万能の時代です。旧約聖書の初めの創世記に天地創造の由来が書かれていますが、これをそのまま今、信じることはできないでしょう。天地創造の物語を信じることができないのであれば、神様がいるなんて、馬鹿げたことのように思われます。そもそも、太陽の周りを地球が回っているのだという地動説のことを考えると、一体、「天」とはどこにあるのでしょうか。私たちの見る青空は、ブラジルに暮らす人々からしたら、地の底の奥に当たるのですから。
それでも、教会に来ている人たちは、造り主である神様を信じています。それは、私たちはなぜ生まれたのか、答えがそこにあるからです。なぜ、神様は私たちを造ったのだと思いますか。創世記の1章26節で神様は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とおっしゃいました。私たちは、神様をモデルに、神様に似たものに造られたということです。そして、造られた人間を祝福したと書いてあります。
ある教会では、ここから、人間は、神の栄光を現わすために生まれたと信仰を告白しました。たとえば、オリンピックの選手が、素晴らしい記録で走る姿に、私たちは神様の存在を感じます。あるいは、驚異的な努力をして、たくさんの人の病気を治す薬を造った人を見て、神様に近いものを感じないでしょうか。
別のことを考える人もいます。神様が全能で、完全な方で、そして愛の神様であるなら、なぜ神様は不完全な私たちを造ったのでしょう。それは、愛するためだ、というのです。神様は、愛する対象として私たちを造ったのです。逆に考えるならば、私たちは愛されるために生まれたのです。
別に神様が私たちを愛されなくても、私たちは両親や兄弟や友達に愛されているからいいや、と考える人もいるでしょう。でも、世界には親を亡くしてしまった人はたくさんいます。保護してくれる人がいない場合もあります。けれども、こう行った人たちも、神様に愛されている人たちです。そう考えると、どんな人でも愛される資格があるのだと思えて来ませんか。そうして、自分を誰か、愛してくれる存在があると信じることは、他の人を自分が愛せるということでもあると思うのです。もう一つ、神様がいるなんて信じられないと思うことがあるとしたら、それは例えば東日本大震災やこのあいだの九州北部の豪雨災害のような自然災害でしょうか。神様がいるのであれば、あんな災害は起こらないはずなのに、とたくさんの人が思っています。どう考えたらいいのでしょう。
神様がいるのなら、どうして、あんな災害が起きるのか、実は私はわかりません。でも、本当に神様がいないとしたら、どうでしょう。災害の中で私たちは何も頼るものはないということになってしまいます。家族を亡くし、家を無くし、財産を無くして困り果てた時、それをどのように考えたら良いのでしょうか。苦しい中を生き続け、生活を立て直していく。様々な人々を助けながら、愛し合いながら暮らしていく。神様が共にいてくださってこそ、できることだと思います。
神様は存在するのか。実は、昔から、神様がいるかどうかということを考えた人たちはたくさんいました。けれども、その人たちの考えたことは、証明しきれないというのが、結論だそうです。神様はいるのか、いないのか?神様が私たちの存在を超えた方だとすれば、人間がいるかいないか結論を出すことはできないというのは、当然のことかもしれません。
昔、教会では洗礼を受けて、クリスチャンになった人の証で、こんなものがありました。その人は、神様がいるのかどうか、自分にはわからないと思ったそうです。でも、その人にはクリスチャンのお祖母さんがいました。そのお祖母さんの生き方を見ていると、この人にとっては神様はいるんだな、と思ったそうです。そうして、そのお祖母さんの信仰を見て、クリスチャンになることを決心したそうです。洗礼式が終わって、その日の午後、雨が降っていましたが、外をお祖母さんと二人で歩いているところを見かけました。それはそれは、幸せそうな二人でした。

2017年8月6日 「祝福を受け継ぐために」 今村あづさ伝道師
ペトロの手紙Ⅰ3章8~17節
2017.8.20 「To Inherit a Blessing」 I Peter 3:8~17

<日本語版 Japanese>

今日は、日本基督教団の「平和聖日」です。これは、8月15日の終戦記念日を見据えて決められたものでしょう。8月15日と言うと、カトリックのキリスト教国では、聖母マリアの被昇天の記念日として祝われているのですが、日本では終戦記念日以外、考えられません。
すでに8月1日に、在日大韓基督教会との合同で平和メッセージが出されています。先週、掲示を掛け替えた「教団新報」にも掲載されています。内容は、特に6月に成立した「テロ等準備罪」について、「戦前に国民の内心の自由、表現の自由、集会結社の自由を脅かす弾圧装置として機能した治安維持法と酷似する」と評価されています。これを見ると、日本基督教団は社民党か民進党を支持している団体か、とも感じるところです。
日本基督教団は、「1941年に30余派の福音主義教会が、くすしき節理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重しつつ、聖なる公同教会の交わりに入るにいたった」と教憲、つまり教会憲法にあります。「おのおのその歴史的特質を尊重しつつ」とあり、それぞれの教会の持つ教派的な伝統に基づいて宣教活動を行い、また教会生活を行っていくものです。教団のメッセージには、政治的な発言が多くありますが、個別の教会や信徒が、それに拘束されるというものではありません。
教団が社会に対して発信をするのは、今日の聖書箇所にあるように、キリスト教が社会の中で平和を追い求めているからです。今日の箇所を含めて、新約聖書の書簡の後半は、特に社会の平和を求めることをクリスチャンの生活規範として求めています。隣人との平和を求めて行くということです。「隣人を自分のように愛しなさい。」この掟を最も重要な二つの掟のうちの一つとして、わたしたちに示されました。
この社会の中での平和の前提として、神との平和があります。「平和」という言葉は、「安心」とも訳され、たとえばマルコによる福音書の5章34節で出血の止まらない女がイエスの服に触れて癒された時、「安心して行きなさい」と言われたように、神の救いが確実であることを意味します。わたしたちの救い、神との平和が確実であるのは、主イエスの神との平和が確実であるからです。
主イエスは、神様の独り子をこの世にくださることによってこの世界を救うというご計画に、最期まで、十字架の死まで、従順であられました。だからこそ神は、主イエスを復活させ、そして天に昇らせてご自分の右の座を譲られたのです。天の宴席で、御使いや聖徒たちが固唾をのんで見守る中で、主イエスは従順に神様のご計画を果たされ、天に戻って行かれました。その御業に、御使いも聖徒も、父なる神も、あっぱれ!やんや!と喝さいを贈るのです。それが、祝福で満たされたということです。
そして、主イエスの家の者、つまりわたしたちをもまた、主イエスゆえに天に迎えよう、取り立てよう。ちょっと、さっきから表現を日本的にしているのですが、祝福を受け継ぐとは、そういうことです。主イエスが受けた祝福をわたしたちは受け継ぐ、ということです。あの復活と昇天の出来事こそ、確実なものではありませんか。
祝福を受け継ぐためにどうしたら良いのか。今日の聖書箇所では前半、8節~9節では、教会の中でどうしたら良いのか、語られています。心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚に。悪をもって悪に報いてはならない。侮辱をもって侮辱に報いてはならない。却って祝福を祈りなさい。これは、一見、教会の外へ市制ではないのかと思いますけれど、教会の中でさえ、わたしたちには必要だということです。
教会の外に対しては、13節以降ということになるのでしょう。呪いを祝福に変える。世の人たちからの呪いを、祝福で返すのです。容易なことではありません。けれども、教会は、社会を動かす力を持っています。わたしたちが、祈りつつ進んで行く時、その方向は、教会から外に出て行きます。兄弟姉妹のために祈って行こうと思った時に、その兄弟姉妹の具体的なさまざまな問題を助けて行きたいと思うことは当然です。
ペトロの手紙Ⅰは、冒頭で、ポントス、ガラテア、カパドキア、アジア、ビティニアの各地の人々を宛名にしています。これらの地名は、いずれも小アジア、今のトルコにある町です。ペトロ自身は、5章の最後で「バビロン」にいると書いていますが、これは当時はローマを示す隠語でした。ペトロは、ローマの教会にいて、小アジアの教会に向けて、手紙を書いているのです。シルワノや、マルコの名前もあって、これらの人々と共にローマ教会にみ言葉を語っていたのでしょう。
手紙の冒頭でペトロは、「各地に離散して」「仮住まいをしている」「選ばれた人たち」を宛名にしています。クリスチャンがまだごく少数派であった時代でした。キリストに連なる人々は、さまざまな社会的な不都合の中で暮らしていました。それは、ヨハネの黙示録にも書かれているところです。このような中でペトロは、キリスト者として、何物にも代えがたい恵みと喜びを語り、さまざまな困難にしなやかに立ち向かうようにお勧めをし、祝福を送っています。まさにわたしたちは、祝福を受け継ぐために召されたのであり、その祝福は、わたしたちの住まうところの福音をまだ述べ伝えられていない人々の祝福を祈るという形で、この世に拡がっていくのです。各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たちという、この手紙の宛て先は、まさに日本の教会に集うわたしたちに向けられていると言えましょう。
わたしたちは、神によって選ばれ、ご自分の民とされた者たちです。クリスチャンになるという決断は、この世の中では大変重い決断になります。だからわたしたちは、自分でクリスチャンになることを選択し、決断したのだと考えています。ところが、人生の決断の中でも最大の中に入って来る決断は、神様の救いの根拠とはなりません。救いの根拠は、どこまでも、神様が選んでくださったというところにあります。わたしたちは、神様によって闇から光へ、取り分けられた者たちなのです。
「この者を、わたしは救う。」そのようにしてお選びになった者たちに対して、神様はどこまでも誠実です。主は、ご自分の羊のためには命を捨てられる方なのですから。
わたしたちは、神様に選ばれ、救いに入れられることが定められている者たちです。神のもとで生きることが約束されています。それは、今、地上にいるときも、既に始まっています。わたしたちは、天のふるさとにあこがれながら、地上の歩みを続けます。「我らが国籍、天にあり!」神の民とされたということは、そういうことです。
「仮住まいをしている」とペトロは言います。これは、寄留者としてローマ帝国のあちこちに独自のコミュニティを作って暮らしていたユダヤ人たちのことでした。ディアスポラのユダヤ人と呼ばれています。この言葉は、世界帝国の中で、市民権を持たず、いつでも追い出されることを心配して暮らしてきたという意味です。しかしながらペトロはこの言葉を、天に国籍があるから、地上では仮住まいなのだ、と見ているのです。
富士吉田教会の現住陪餐会員は今、15人です。小さな群れ、とよく自分たちの教会のことを、わたしたちは祈りの中で言い現したりします。何人ならば、大きな群れだというのでしょうか。数千人、二万人を越える教会が、「大きな群れ」と言えるのか、というと違う気がします。富士吉田市の人口が5万人余り、周辺の町村を考えればもっといる訳ですが、その中でキリスト教会がいくつかあり、そのすべてを合わせても、この地域でのクリスチャンはほんの一握りだ、と考えれば、やはり小さな群れ、という言葉がふさわしいのです。
別々の地域の小さな教会でそれぞれ教会生活をしていることを、ペトロは「離散している」と言います。天上にあっては、神様の身許に集められている神の民は、地上にあってはそれぞれの地域に散らされ、離れて暮らしているということです。
旧約聖書では、地の上に散らされていると言えば、呪いを受けているということを意味します。実際、ユダヤ教の理解の中では、集められるのは地上でなければならないと考え、政治的な独立が神の祝福だと考えている人々も、歴史的にずっといたのでした。
しかし、クリスチャンの理解だと、地上で離散していても、天上では一つの神の民なのです。それは、天からの目で、地上の様々なしきたりを自由に見ることができることを意味します。地上の物事に気兼ねすることなく、主の恵みに応答し、主の御心に従って生きることができる、特別な権利を持っているということなのです。あくまでも地上の王国の中に住みながら、その権威に一方で従いながら、主の恵みの自由の中で生きることが許されているのです。
ペトロは、わたしたちが、さまざまな困難の中に置かれることを理解しています。暗闇の中にポツン、ポツンと小さな灯りが灯っている、それがキリスト教会であるならば、周りは闇に包まれているのです。闇に取り込まれず、小さな灯火を絶やすことなく、もっともっと明るく輝くように、手入れをしなければなりません。9節~11節まで、闇に取り込まれないようにするにはどうしたら良いのか、小さな灯火を絶やさないようにするために、ペトロは励ましと祝福の言葉を贈るのです。
わたしたちが召されたのは、イエス・キリストの尊い犠牲によるものです。わたしたちの人生を喜びと平和で満たす神様からの贈り物です。わたしたちの人生は、それによって空しく無駄なものではなくなりました。わたしたちの貧しいひ弱な愚かな性質に対して、神様は大きな贈り物、祝福で満たしてくださっているのです。永遠の命を喜ぼう!キリストがわたしたちの命を、闇から光に変えてくださいました。その奇跡を、召される時まで喜び続けたいのです。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」たくさんのお勧めが並んでいます。「あれをするな、これをするな、むしろこれをするように。」主イエスを最初に、「あなたはメシアです」と信仰告白したペトロ、しかしそのペトロは、鶏の鳴く前に三度、主を知らないと言ったペトロです。人の中に悪が、どんなふうに入り込むのか、身をもって知っているペトロです。呪いに呪いで返したい思いは、ペトロ自身がよく知っているのです。
クリスチャンとして召されたことを喜び、敬虔なクリスチャンと自他ともに認めているつもりのわたしたちに、罪は、呪いは、簡単に入り込みます。神様は、呪いではなく祝福をしようと、わたしたちを待っていてくださいます。どんなに、神様がわたしたちを恵みのうちに置いてくださっているか。救われ、クリスチャンになり、証しの生活を送れていることを喜ぶことができます。さらに、自分がご計画のうちに置かれていることを自覚しないときも、わたしたちは守られてきました。イエス様が、「ここにおいで」と、天上の宴席から待っておられます。神様に信頼して、生きて行きましょう。
お祈りします。
在天の父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を賛美します。わたしたちはこの世の中で、暫くの時を愛する兄弟姉妹と共に生きています。どうか、わたしたちを恵みのうちに置いてください。わたしたちの信仰があなたの力によって守られていることを感謝いたします。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

<English>
It is "Peace Sabbath Day" in UCCJ today. UCCJ and Korean Christ Church in Japan released peace message on August 1, which we can read on Kyodan News Letter. It includes the critiques over Preparatory Law against Terrorism as it reminds us Public Peace Keeping Law before/during World War second that was disaster memory for UCCJ. The critique is very political and we have a feeling that the church has a certain political opinion.
But the Constitution of UCCJ said that "On June 24, 1941, evangelical churches of over thirty formerly existing, independent denominations, as well as churches of other traditions in our country, through a unity given in the Holy Spirit under the wondrous providence of God, and having respect for one another’s unique historical characteristics, entered into the fellowship of the holy catholic Church." So the constitution allows the " having respect for one another’s unique historical characteristics ".
" Seek peace and pursue it (1Pe 3:11 NRS)" means means not only among the church but also go beyond the society the church belonged. But the peace seeking among the people and in the society has its basic on the peace with God. The peace with God is the gift of Jesus Christ through his Passion. Jesus had been obeyed God until the end of his life. Because of the obeyance by Jesus, God revive him into life and lift him up to heaven to put Him of His right position. Every angel and sait applaused to bless Him.
We are Jesus's. That is why we have the hope to enter the heaven or to be saved. We inherit Jesus's blessing.
Beginning of the letter, "Peter, an apostle of Jesus Christ, to those who reside as aliens, scattered throughout Pontus, Galatia, Cappadocia, Asia, and Bithynia, who are chosen (1Pe 1:1 NAS)" There are less Christians at Peter's time. Those Christians were minor in the Rome Empire and because they were treated as a heresy of Judaism, they had have hard time in the society. But Peter wrote the grace and joy of Christians, made recommendation and blessing. We were called so that we may inherit a blessing. The blessing spread the world by praying for the ones who have not received the gospel yet.
Our church is small. We are just fifteen members. We are the minor not only in the Japanese society but also in this city Fujiyoshida which has fifty thousand people. But the case is not only our church but many churches in Japan. We servive many social disadvantage in Japan. Therefore the Peter's letter addressed for us, the churchs in Japan. Often we pray as "However we are a small group...". Which church can say "we are big group"? Of those who have thousands members? Still smaller than the heaven that we would be collected into one church.
We are the people who are chosen. To become a Christian is a big decision in our life in Japan but still it would become the authority of salvation by God. The authority belongs that the God selected us. We are the ones who were devided into light from the dark by God. The Lord is very honesty to the one who was chose by the God as the good shepherd lays down His life for the sheep. (Joh 10:11 NAS)
Peter says that we reside as aliens. This word means Diaspora Jews in Roman Empire. They were not safe living in the community to have a risk to be expels from the society every time. But Peter uses this words for Christians who have nationality in heaven.
Peter says we are scattered as we have our service in our local church. We are big and one in the heaven but we are small group in local churches in the world.
"Scattered" means curs in Old Testament. "If you do not hope to be scattered in the world, you have to politically independent in the world". There has been those Jew people who wants political independents through the history. But Christians are God's people in the heaven; scattering in the world is not the curs of the Lord. We can live on the grace of God even we live among the world that certain kingdom is in its domination.
Peter knows how easily we can be weak among the darkness in the world. He is the first person who confessed Jesus as Christ. But it was also Peter who denied Jesus third times before the cock crowed. So Jesus of resurrection asked Peter three times as he loved Him and Peter answered him "yes I do" three times and Jesus said him to feed his lambs. Peter who knows how weak we are sends us the words of recommendation. We can so easily respond evil to evils but that caused us the ruin very quickly.
We have the hope by the resurrection of Jesus Christ. He has given us new birth so that we might share in what belongs to Him. It is a gift that can never be destroyed. It can never spoil or even fade away. It is kept in heaven for you. We are protected by the power of God through faith for the salvation ready to be revealed in the last time. Rejoice! Trust God to live! Amen.

礼拝説教アーカイブ

2018年

2017年

2016年

以前のアーカイブはこちら。
(準備中)

ページのトップへ戻る