日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年4月30日 「行ってヨハネに伝えよ」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書11章2節~6節

今日は、洗礼者ヨハネが再登場します。ヨハネのイエスさまへの質問と、イエス様の答えは、それぞれ何のことを言っているのでしょうか。
洗礼者ヨハネは「牢の中で」と書いています。ヨハネは、捕らえられていたのでした。そのことは、4章の12節に書かれています。イエスさまが、カファルナウムに来て、宣教活動を始められたきっかけは、洗礼者ヨハネの逮捕でした。
この洗礼者ヨハネが、イエス様に洗礼を授けた人でした。ですから、洗礼者ヨハネの弟子たちにとっては、イエス様は洗礼者ヨハネの弟子だと考えられていたでしょう。弟子だと言うことは、先生よりも劣ると言うことです。
けれども、ヨハネ自身は、イエス様にこう言っています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打もない。」と、イエス様を評価していました。そして、イエス様は、「正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って、ご自身は必要ないのに、わたしたち罪人のために洗礼をお受けになったのでした。
先ほど確認した3章で、洗礼者ヨハネは、自分の後に来る方は、「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と言っていました。これは、終わりの日の裁きのことです。箕とは、長い棒の先がフォーク状になっているもので、脱穀したものをすくい上げて、風力で穀物を藁を振り分けるものです。収穫物とそうでないものを選別するものです。イエス様が、終わりの日に再臨され、天と地とを裁く方だとヨハネは預言したのです。
この洗礼者ヨハネが、今日の箇所ではこう言います。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」既に、イエス様が終末にやって来るメシアであると預言したヨハネが、ここでは「それはあなたでしょうか?それとも別の人でしょうか?」と聞いているのですから、「ヨハネ先生はどうしちゃったの?」とびっくりしてしまいます。一体、自分が預言したことを、ヨハネは疑っているのでしょうか?それとも、前言ったことを撤回しているのでしょうか。
ルターは、ヨハネのこの質問を、「信じられない」と言いながら、「いいや、『どうしてあの洗礼者ヨハネがこんな質問を?』などと、問うこと自体、すべきではないし、重要なことではない。」と考えています。そんなことを考えること自体、不遜なことだ。ルターはそう言いたいのでしょう。
けれども、啓蒙主義の時代の人々は、聖書を神聖なものだという先入観をなるべくなくしてしまおうと考えていました。洗礼者ヨハネは、14章で殺されてしまいます。そこで、牢獄に囚われ、命の終わりの近い人間であれば、どんなに立派な人でも、さまざまな種類の疑問や不安が起こるのはおかしくないのだ、人間なのだから、理解できる、と解釈する人が多かったのです。
彼らにとっては、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、わたしたちと同じ人間である、私たちと同じように悩み苦しんだのだ、と言うことが大事だったようです。洗礼者ヨハネは、もしかしたら、そんな面があったかもしれません。彼は、旧約聖書の偉大な預言者エリヤの再臨だと言われていたのです。この話は来週、するつもりですが、そのエリヤだって、スランプに陥ったり、イザベルと言う王妃が恐ろしくなったり、神様の奇跡が本当に起こるかどうか、心配でたまらなくなることがありました。だから、その再臨である洗礼者ヨハネも、同じように疑ったり不安になったりすることもあるでしょう。
自分の人間としての尊厳を押しつぶすような屈辱や、肉体的な苦しみにあい、身体ばかりではなく魂まで嘆き悲しむ状況の中では、人間としての能力に頼んだ洞察や感情もまた、擦り減っていってしまいます。そうなってしまうと、見えるものも見えなくなる、聞こえているものも聞こえなくなってきます。自分自身を信じることができない。自分が考え抜いた、自分と言う人間の尊厳に関わる思いが、信じられなくなっていく。自分自身の信仰さえも、怪しくなっていく。自分と言う人間が、虫けらほどの価値も無ない存在に落ちていく。そんな時に至って、神様に栄光と義を期することができる。バルク書と言う旧約聖書の続編では、そのようなことも書かれています。
ここでも、これまでの箇所では信じられないようなヨハネの言葉に対して、イエス様は答えてくださいます。ここでは、洗礼者ヨハネは、弟子たちを通じて、イエス様に問い、イエス様も弟子たちに対して答えたことになっていますが、ヨハネはある面、ここで直接、イエス様に出会ったと言ってもいいのではないでしょうか。
ところで、啓蒙時代の人々は、イエス様の人間的な部分に出会いたいと願い、聖書をその方面から読んでいました。イエス様も、疑ったり不安になったりする、人間として生きられました。けれども、イエス様は同時に、父なる神様のみ心の通りにどこまでも生きた方でもありました。どこまでも人間でありながらも、神様の御心を行ったと言うところに、わたしたちの救いの根拠があります。
古代の神学者たちの中にも、ヨハネはイエス様がメシアかどうかを疑ったのだとあえて言う人もいました。けれども、彼は、大ブーイングを受けています。古典的な答えは、ヨハネは自分のためではなくて、弟子たちのためにこの質問をしたのだろう、と言うことです。
この説を裏付けるのは、ギリシア語の聖書のテキストです。新共同訳では、「ほかの人を待たなければなりませんか?」と言う文には、主語がありません。けれども、ギリシア語では、主語は「わたしたちは」と、複数になっているのです。洗礼者ヨハネ個人ではなくて、ヨハネの弟子たちをも含んでいることになるのです。確かに、ヨハネによる福音書を読むと、洗礼者ヨハネの弟子たちで、イエス様の弟子になった人々がいます。
洗礼者ヨハネの亡くなった後、ヨハネの弟子たちはどうしたら良いのか、途方に暮れたことでしょう。この質問は、ヨハネの弟子たちが、イエス様の弟子になるかどうかを問うものだったと考えることができます。
ところで、ヨハネの弟子たちに対して、イエス様はこのように答えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」何を見聞きしていると言うのでしょうか。5節にたくさんの奇跡の出来事が書かれています。これらは、8章~9章で行われたたくさんのイエス様の奇跡について言っているのでしょう。5節の最後は、「貧しい人が福音を告げ知らされている。」で終わっていますが、これはイエス様の行った5章の山上の説教の冒頭です。貧しい人々、圧迫を受けている人々、虐げられている人々は幸いである。「天の国はその人たちのものである。」良き知らせ、福音です。
イエス様の癒しの業、イエス様の教え、それは福音、良き知らせです。けれどもそれは、洗礼者ヨハネの言う「来るべき方」の証拠となると言うのでしょうか?病の癒し手ならば、この時代のこの地方にも、イエス様以外にもたくさんいました。イエス様が徴税人マタイと差別観なく付き合ったとしても、それは何か意味があるでしょうか。神殿の権威とは何の関わりもありません。
そもそも、マタイによる福音書は、イエス様の系図から始まっていました。それはすばらしいダビデ王家の系図でした。これがメシア、油注がれた者の系図と示されれば、イスラエルやユダの代々の王様が油注がれて王位に即位したように、そのメシアとは王たるメシアのことだと理解するでしょう。これまた、洗礼者ヨハネの言う世の終わりの裁きを行うメシアとも異なるのです。
5節と対応する旧約聖書の箇所は、イザヤ書の35章であったり、61章であったりします。35章は、何度も参照していると思います。「見えない人の目が開き、歩けなかった人が史家のように躍り上がる。」イエス様が現している奇跡は、荒れ野に主に繋がる大路が敷かれることです。イエス様自身が道となって、わたしたちに先立って進まれるのです。主に贖われた者たちは、とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつ、神の身許に帰って行くのです。
61章も見てみましょう。35章がイエス様の癒しの業を思い出させるのに対して、ここは「わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」と、福音の宣言と関係しています。心が打ち砕かれた人々、奴隷、囚人、嘆いている人々など、貧しい人にはたくさんの種類の人々が含まれます。良い知らせとは、このような人々が自由を得、解放され、神が恵みをくださる知らせです。報復と慰め、恥辱の代わりに栄光の冠、嘆きの代わりに喜び、賛美の声が上がります。…
イザヤ書の対応箇所を読むと、35章で先頭に立って進まれる「主」とはイエス様のことだと思いますし、61章では貧しい人に良い知らせを伝えさせるために遣わされた人こそ、イエス様だ、と思います。そして、マタイ福音書も、そのように読んで欲しくて、ここの箇所を書いたに違いありません。人々を解放し、慰め、癒すメシア、神の御許へ連れて言ってくださるメシアです。
しかし、人々を解放し、慰め、癒すメシアと、終末にやって来る人の子であるメシアとは、関連があるのでしょうか。この時点では、イエス様の十字架は見えていません。復活も、もちろん見えていません。復活が見えていなければ、再臨も見えてこないでしょう。やっぱり、メシアとは、終末にやって来る人の子のことだ、と理解している洗礼者ヨハネや、ヨハネの弟子たちにとって、この時点ではイエス様がメシアだと確信することはできなかったということになります。
最後の6節のイエス様の言葉は、「わたしにつまずかない人は幸いである。」です。ここまで、イエス様のやってきたことでは、ヨハネの弟子の中にはつまずいた人もいたでしょう、と言う訳です。
ところで、2節には「キリストのなさったこと」と書いてあり、19節は「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と書いてあります。2節の「イエス様のなさったこと」の「なさったこと」と、19節の「その働き」の「働き」と言うのは、原文では同じ言葉です。そして、19節の「知恵」とは、ここではイエス様のことです。ですから、19節の言っているのは、「イエス様の正しいことは、イエス様のなさったことによって証明される。」ということです。
わたしたちは、ヨハネの弟子たちとは異なります。イエス様の十字架の出来事、そして復活を告げ知らされています。「わたしにつまずかない人は幸いである。」この方こそが、わたしたちの救い主であると信頼して、歩んで行きたいものです。
しかしながら、実際には、わたしたちはこの洗礼者ヨハネのように、疑い迷うことがあると思うのです。魂の牢獄に囚われ、暗闇の中から抜け出すことのできないことがあると思うのです。そのようなわたしたちの疑いに対しても、主イエスは答えてくださっているのではないでしょうか。主イエスのなさった業、救いの業、癒しの業を見聞きしているだろう。その働きが、主イエスが正しいこと、救い主であることを証ししているのではないか、と。
もう一つ、指摘しておかなければならないことがあります。新共同訳では、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、「見聞きしていること」と言っています。原文では、「聞いていること、見ていることを」となっていて、「聞いていること」が先になっています。もしかしたら、この順番には意味があるのかもしれません。
魂の牢獄に囚われている人間が、暗闇の中に閉ざされている人間が、目の前でさまざまなイエス様の業が実際に起こっているのを見ても、「見る」ことはできるでしょうか。魂の目が開かれない限り、見ても見えないと言うことが起こるのです。
聞いていることとは何でしょうか。復活のイエスに出会ったトマスに対して、イエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とおっしゃいました。つまり、聞いて信じなさい、と言うことです。わたしたちにとって、聞くとは、聖書の御言葉を聞くと言うことです。その通り、イエス様の業によって、既に奇跡も癒しも行われているのです。自分の目の前で起こっていることが分からなくても!わたしたちには既に証しはなされているのです。
お祈りいたします。
在天の父なる神様、あなたのお名前を賛美いたします。神様、どうか私たちを迷いのうちにそのままにされず、あなたがすくい上げてくださいますようにお願いいたします。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

2017年4月23日 「主が共に働かれる」 今村あづさ伝道師
マルコによる福音書16章19節~20節

マルコによる福音書は、先週、子どもたちへのメッセージとして読んだ16章1節~8節の次の9節の初めにかっこが付けられています。このかっこは、今日の箇所の20節の最後で一旦閉じられますが、下の段の「結び2」のところ全体もまた、かっこで括られています。ご存じの人も多いと思いますが、最初に書かれたマルコによる福音書で、今、私たちに伝えられている部分は、8節までで終わっているのです。
先週ご一緒に読みました8節は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わっています。これでは結論がないではないか、と考えた人がいたのでしょうか。マルコによる福音書が書かれて30年も経つと、かっこ書きされた部分が書き足されたようです。
聖書に今の言葉で言えば「改ざん」を加えるなんて、とんでもないことだと、感じるかもしれません。実は、宗教改革の時代の人文主義運動の人たちが、まさにそのように考えたのでした。当時はローマ教会教会が公認しているラテン語の聖書しかありませんでした。でも、教会に都合の良いように翻訳されているのではないか?聖書をラテン語の翻訳ではなく、元のギリシア語で読みたいと、この人たちは考えました。
同時代に、グーテンベルグの印刷術が始まりました。それまでは、聖書は手書きで書き写され続けてきたのです。書き写した人が間違うかもしれません。文法的におかしいと思えば、「正しく」直そうとします。そもそも、最初に書かれたマルコによる福音書が、文法的にも綴りも、正しかったかどうかも、実は分からないのです。当時の書物は、羊皮紙で書かれているのが普通でしたから、今の紙の本よりも丈夫だったろうと思います。けれども、長く使えばくたびれて来るので、いずれ、新しい写本が書き写され、古い本は使われなくなります。何代も書き写し続ければ、最初の本に書かれていたことと変わってくるのは当然です。
どの聖書が正しいのか。印刷をするのであれば、一番、正確な聖書の写本を使いたいのです。聖書の正しい本文は何か、という研究から、たくさんの写本を比較する作業が始まりました。たくさんの人々の研究を通じて、聖書にはたくさんの「改ざん」が行われたことが分かって来ました。わたしたちの新共同訳聖書には、その研究の成果が取り入れられています。
マルコによる福音書の結びには、「結び1」「結び2」の二つがあります。1955年翻訳の口語訳聖書では、「結び2」はありませんでした。新共同訳聖書が翻訳されるまでに、結び2も結び1と同様に重要で、どちらか一方が正しいと結論することはできないと言うことになったのでした。
今日の聖書箇所は、「結び1」の最後と言うことになります。もともとは含まれていなかったということで、あまり重要ではないのでしょうか。マルコによる福音書は、本当に8節で終わっていたのでしょうか。最初は別の結末があったのだけれども、それが退けられて現在、伝えられている本文が取って代わったのでしょうか。マルコによる福音書が書かれたのは、紀元60年から70年と考えられています。
今日の箇所が書かれたのは、紀元100年ころだと言われています。ローマ帝国のあちこちに、キリスト教会は出来ていました。30年間の教会の成果が、今日の箇所の人々の考え方に影響を及ぼしていると考えられます。
今日の箇所の内容は、主にルカによる福音書と、使徒言行録の要約であるようです。まず、19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ」と言う箇所は、ルカによる福音書の最後の部分、24章51節に対応します。使徒言行録1章9節も同様です。そして、「神の右の座に着かれた。」は、使徒言行録2章のパウロの説教の中で、34節に詩編の110編の引用として出てきます。それは、最後の審判の、終わりの日の裁き主としてイエス様が再臨されることを信じてのことでした。
一方で、弟子たちは出掛けて行って、至るところで福音を述べ伝えます。み言葉の宣教が行われる時、主は彼らと共に働いてくださいました。今日まで、わたしたちがみ言葉を伝える時、イエス様はわたしたちを一人にしないで、共に働いてくださるのです。天の御座に着くと言うことは、わたしたちを地上に残して、孤児(みなしご)にするということではありませんでした。聖霊が働いてくださいます。イエス様が、天上で執り成しの祈りをしてくださっています。
「彼らの語る言葉」とは、何のことでしょうか。弟子たちは、出掛けて行って、至るところで宣教をしました。その宣教の言葉、福音の説教のことでしょう。それは、単に十字架につけられたイエスと言う人が、復活した、と言うだけではありません。「復活した」とは、「復活させられた」と言うことです。誰かがイエスを復活させたので、その誰かは書いてありませんが、もちろんイエスを復活させたのは父なる神であるのです。そして、十字架につけられたイエスを神が復活させたのは、それによって神のご計画が成就したからでした。
それは重いご計画です。イエス様は、アダムの子孫として、神様のご計画に反して、ご自分の考えるように行動することも出来ました。けれどもイエス様は、あくまで父なる神様と共に生きる自由を選んだのでした。神様のご計画は、それによって、ご自分の裁きをイエス様に向け、わたしたちを赦して神の子とすることです。
神様の言葉は、単なる口先の言葉ではありません。み言葉は、生きる言葉となって、働かれます。創世記で、神が「光あれ」と言われると、光が創造されました。神の発する言葉は、神様の望むことを成し遂げ、与えた使命を必ず果たして戻って来ます(イザヤ55章10~11節)。イエス・キリストと言う神の言(ことば)も、空しく十字架につけられて亡くなったのではありませんでした。十字架につけられた主イエスは、神様のご計画を成し遂げ、神様の救いの御業を成し遂げて、天に帰って行ったのです。
そして、そのことを弟子たちが述べ伝える時に、主イエスは、彼らと共に働いてくださいました。神の言葉である主イエスが、神のご計画を成し遂げたように、イエス・キリストを証ししている聖書のみ言葉は、語る者がどんなに貧しくても、それ自身が力を持ち、わたしたちを神の命に生かすのです。イエス・キリストを述べ伝える弟子たちの言葉は、聞く者の中で生き、聞く者を神に生かす者に作り変えました。真に、弟子たちの語る言葉は、真実でありました。
原文では、「真実」と言う言葉は入っていないのですが、ここで新共同訳は「彼らの語る言葉が真実であることを示した」と訳しています。直訳だと「その言葉を固くした」「裏付けた」「確証した」、別の日本語聖書では、「みことばを確かなものとされた。 (Mar 16:20 JAS)」となっています。
パウロは、ローマの信徒への手紙15:8で、「神の真実」と言う言葉を使っています。「キリストは先祖に与えられた約束を果たし、それによって神の真実を立証するために、割礼を施された者たちに仕える者となった。」ここで、神の真実と言うのは、神がご自分がイスラエルと結んだ契約に対する忠実さのことです。
旧約聖書を読むと、子供のいないアブラハムに対して、主なる神は子供が生まれることを約束してくださり、その通りアブラハムとサラと言う老夫婦の間にイサクが生まれました。また、エジプトで奴隷となって苦しんでいたイスラエルの民が、助けを求めると、神はイスラエルの人々を顧み、み心に留められ、モーセを使わして、エジプトを脱出し、カナンの地へと導き上りました。これらは、神がアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んだためでした。一度結んだ契約を、神は顧みる。見捨てることはないのです。
アブラハムと主なる神が結んだ契約は、アブラハムの子孫を星の数ほどもするというものでした。単に子孫を多くすると言うのではありません。神の御前に立てる人間をこのように多くすると言うのです。神によって命を与えられ、神と共に生きる人間を、神は見捨てることがない。それが、神の真実です。
神の真実は、信頼できるものであり、永続的な物でもあります。現実にあるものであり、私たちに対して忠実なものです。ここではそれが、「しるし」によって示されたと書いてありますが、事実として疑いない物と言うニュアンスがあるのです。
顧みてくださり、見捨てることはなく、み心に留めてくださる。創世記の昔、出エジプト記の昔に、既にイスラエルの民に対して、示してくださった神様の御心、真実は、今、イエス・キリストによって、イスラエルを越えて、すべて神を信じる者たちに示されました。「キリストは先祖に与えられた約束を果たした。」イエス・キリストによって、神の真実が示されたのです。
教会は、神様の真実が示されるところ、それもはっきりと示されるところです。なにによってか、主イエス・キリストの贖いの業によってです。だからこそ、語る者が貧しくても、主御自身がその真実であることをはっきりと示してくださるのです。語る言葉は、命の言葉となって、聞く人の心に生き続けます。単なる言葉ではない。聞いた人間を造り上げる言葉であり、教会を造り上げる言葉なのです。

さて、今日のみ言葉を取り上げたのは、3月13日~14日に石和で行われた東海教区の信徒修養会で講師に立った市川忠彦先生が取り上げた個所だったからでした。ちょうど、今月の説教箇所を決める時期で、印象に残ったので選ばせていただきました。市川先生は、信州教会の前の大和キリスト教会という奈良県にあるとても大きな教会に伺った折に、お会いしていました。
市川先生は、ご夫婦で牧師として、50年も働いていらっしゃいました。東海教区では18年間を過ごされました。最初の教会が、遠州栄光教会と別れる前の遠州教会で、その後も掛川教会で牧会をなさったのです。先月までの一年間、信州教会の代務者をなさっておられましたが、隠退牧師としての届を出されました。
信仰とは、長続きすること、継承すること、教会的であること、それぞれの家庭も教会的であろうとすること、と言うところは、共感するところです。市川牧師ご夫妻のことを考えると、50年の牧会、祖母からの信仰継承、そしてご夫婦で牧師だと言うことで、ご家庭も教会的、と言うことになるでしょうか。
もちろん、なかなかまねのできることではないのでしょうけれども、こう言う先輩がいて、堅く立っていてくださることは、本当に頼もしいものです。
富士吉田教会のことを考えると、100年の長い歴史の中には、大変なこともたくさんありました。荒井保と言う最初の信徒を得て、10年後にはこの礼拝堂が建ち、家族も洗礼へと導かれて、宣教が一気に進んだ時代がありました。しかし、そのすぐ後の時代には、ホーリネス教会への弾圧があって、教会での礼拝は禁止されてしまいました。教団紛争の時には、この教会も大きく傷つきました。
苦しい時代のたびに、私たちは、嘆きの叫びを上げます。神様は見捨ててしまったのか、どうして顧みてくださらないのか。自分の力の無さを嘆き、神様の助けが遅いことを嘆きます。けれども、そんな時にも、大事なことは、共に礼拝を守ることです。聖書に聴き、神に信頼することです。神様は、顧みてくださり、ご自分が救おうと決心された民を、見捨てることはないのです。
時々、教区や分区の集まりに出て、いいなと思うことは、ほかの教会の状況を知ることができることです。良い状況の教会もあれば、困難な状況に置かれている教会もあります。信仰の姿勢に励まされ、また執り成しの祈りに導かれることもあります。祈りの課題が与えられることもまた、神様の御前に出ることを強いられますから、恵みなのです。
神の真実を、イエス・キリストは、ご自分の十字架を通して、わたしたちに示してくださいました。主なる神は、そのイエスを復活させ、天の玉座へと引き上げてくださいました。このキリストによって、わたしたちの勝利も約束されています。言葉は、空しい言葉ではありません。マルコによる福音書の最後の言葉は、イエス様の教会の姿をわたしたちに教えてくれます。それは、この聖書の御言葉の書かれた時代のマルコの教会に限定されたものではありません。時代と場所を越えて、日本の教会で、わたしたちの富士吉田教会もまた、主はわたしたちと共に働いてくださり、わたしたちの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりと示してくださっています。そしてそれは、これからも、起こり続けることです。
お祈りします。在天の父なる神様、あなたは十字架に着かれた主イエス・キリストを復活させ、天に上げられ、ご自分の右の座に着けられました。キリストによって、あなたは、ご自分の真実を現してくださいました。心からの感謝を主イエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。アーメン

2017年4月16日 イースター礼拝 「魂のリハビリテーション」 大木正人牧師
ヨハネによる福音書21章15節~19節
2017年4月14日 受難日礼拝 「わが神、なぜあなたは」 今村あづさ伝道師
マルコによる福音書15章33節~41節
2017年4月9日 「罪人の判決」 今村あづさ伝道師
マルコによる福音書15章6節~15節

今日は棕櫚の主日です。イースターの一週間前の主日、日曜日で、主イエスはこの日にエルサレムに入ったとされています。
ゼカリヤ書9章9節~10節は、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」となっています。
「彼は神に従い、勝利を与えられた者。」というゼカリヤ書の預言は、来週のイースターにはふさわしいものでしょう。しかしながら、それは十字架のご受難によって成し遂げられたものです。主イエスに科された十字架刑は、極悪人のための残酷な刑罰です。その刑罰は、主イエスにはそぐわない、必要でないものでした。
なぜ、主イエスが、十字架刑と言う極刑で殺されなければならなかったのか、聖書は肝心なところで、わたしたちに教えてくれていない気がします。福音書が知らせてくれる、主イエスの裁判も、福音書ごとに経過が異なっています。これでは、旧約聖書で言うように、証言が異なっているのですから、証拠としては取り上げることができません。
福音書ごとに経過や登場人物は異なるとしても、変わらないところがあります。主イエスが、逮捕から裁判の終了まで、逆らわなかったこと、そして口を開かなかったということです。それは、ゲッセマネの園で祈られた「み心に適うことが行われますように」と言う父なる神への祈りそのものです。主イエスの死を通じて、わたしたちを救い、わたしたちの命を取り戻そうとされる神様へのご計画への信頼が、主イエスを沈黙させていたのです。
これまで、大祭司たちは主イエスを殺そうと悪だくみをしてきました。イスカリオテのユダは主イエスを裏切り、主イエスを引き渡しました。大祭司たちが、主イエスを殺そうと企てていることは、もちろん主イエスはご存知でした。イスカリオテのユダが裏切ることも知っていました。それでいて、悪だくみをつぶすこともなく、ユダをいさめることもなく、却って手下に切り掛った弟子をいさめて、ご自分から逮捕されたのです。
すべては、苦しみの時であったでしょう。苦しみの時が、どのように行われていくのか、主イエスはご存知でした。けれども、それを止めようとなさらなかった。それは、それらすべてを通じて、父なる神が、御心を現そうとされていたからです。
主イエスは、逮捕され、大祭司のところに連れて行かれると、最高法院で裁判に掛けれられました。裁判で下される判決は、ユダヤ教では神の託宣として、受け止められるべきものでした。裁判の判決は、主なる神のご意志が、人を通じて現れたものです。裁判官は、神に代わって判決を下しました。
それからすると、福音書で読むことのできる主イエスに関する裁判は、まったくあるべき姿からは程遠いものです。エルサレム神殿の特別の場所で、特別な日に行われる裁判は、夜中に行われています。とにかく、変な裁判なのですが、あるべき裁判の仕方からすると、書いていないことが多く、裁判の経過をたどることは、福音書の著者の関心の範囲ではなかったことが読み取れます。
大祭司のところで、そしてピラトのところで、福音書の著者がわたしたちに伝えたかったことは何でしょうか。主イエスの裁判に対しての態度であり、そして裁判を通じて、わたしたちにご自分を現されたことでした。
大祭司の「お前はメシアなのか。」と言う問いに対して、主イエスは「そうです。」と答えています。しかし、ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか。」という尋問には、「それはあなたの言っていることです。」とだけ答えます。ここは、ギリシア語では「あなたが言っている」とだけなっているところで、「それは」に当たる言葉はありません。さまざまな翻訳では、「それは」を補って訳したり、口語訳聖書や新改訳聖書では「そのとおりだ」と訳しています。「それはあなたの言っていることです。」とするなら、「わたしはそうは言っていない。」と言う意味になるでしょう。全く、正反対のことになります。
主イエスは、「そうです。」と大祭司に答えた後で、こう続けました。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
メシアとは、どんな人々なのか、マタイによる福音書の最初のイエス様の系図の中で、旧約聖書を読んで、いろいろなメシアにあったと思います。メシアとは、「油注がれた者」と言う意味です。旧約聖書では大祭司、王、預言者などが就任や即位をする時に、油を注ぐ儀式がありましたが、これは聖霊の注ぎを象徴的に意味していました。
「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」とは、ダニエル書にある言葉ですが、これは終末のときに現れる人の子、父なる神の代わりに裁きを行うメシアのことを現しています。つまり、主イエスはご自分が終末の裁きを行うメシアであることを、人々の前に明らかにされたのでした。
このような存在としてのメシアは、宗教的な王ではあっても、政治的な王ではありません。ピラトの意味する「ユダヤ人の王」とは、政治的な意味合いでの問いです。ローマ帝国の総督としては、ローマに対して反乱を起こし、政治的に独立を図る意図があったのかどうかだけが、問題となっていたのでした。
主イエスは、大祭司のご自分を殺そうと言う企みに対して、ご自分を現されます。ゲッセマネの園で、主イエスは「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。この「苦しみの時」とは、しかし、神の「時」であって、神の秘密が明かされる時でもあったのです。しかし、それは、悪の企みによって、神の秘密が明かされるときでありました。
わたしたちは、このような神の秘密がわたしたちに明かされる時が、悪の企みのただ中で行われることに、不思議な気がします。けれども、主の十字架と復活は、それまでの旧約聖書で現されてきた、それぞれがそれぞれの行いに応じて報いられる時から、先に救いがあり、その恵みのうちに生きる時へと転換する時なのです。つまり、主イエスが十字架で亡くなるまでは、人々は旧約聖書の律法を生涯、守り続けることで、神は祝福を約束してくださいました。律法を守ることができない人々は、滅びへと定められ、呪いのうちに生きることとなっていました。けれども、十字架と復活によって、私たちは自分自身の罪に死に、復活の主イエスと共に、神の恵みのうちに生きることができるようになりました。決定的な時代の転換が、十字架の時なのでした。それは、古い時代の終末のときであり、だからこそ、悪の力も頂点に達する時でもあったのです。
今日の箇所で、最終的に主イエスの十字架刑が確定します。
最初、ピラトは主イエスを釈放しようと考えていました。6節を見ると、ピラトは囚人を一人、祭りのたびごとに釈放することを習慣としていたと書かれています。今は、過越しの祭りの直前なので、時期的には適っています。しかし、釈放されるのは、たった一人です。さらにもう一つの条件があります。人々が願い出ることが必要です。ピラトが勝手に釈放する囚人を選ぶわけにはいきませんでした。15章のこれまでの経過を見ると、この恩赦の前に、ピラト自身がイエスを無罪にするタイミングはなかったのか、と不思議に思ったりします。旧約聖書に、二匹の生け贄のうち、一方を逃がし、他方を生け贄に捧げるという掟があるのを思い出します。とにかく、福音書には、法律にのっとった裁判がどうすべきであったのかを書くつもりは全くないので、確かめるすべがありません。
群衆が押し掛けてきたとき、ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」と聞きます。祭司長たちが引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからだ、とマルコは書いています。つまり、ピラトは、イエスは無罪だと分かっていたのです。
祭司長たちの妬みとは、どういうことでしょうか。大祭司は、主イエスの「人の子」宣言、それも終わりの日の裁き主としての宣言である「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言うダニエル書の引用を聞いて、「冒涜の言葉」だと言いました。そのことが、主イエスの死刑の決議の理由となりました。大祭司には、神を畏れる気持ちがあって、それゆえに主イエスを死刑にしようと決議したのでしょうか。
福音書は、祭司長やファリサイ派の人々が、なぜ主イエスを殺そうと考えるようになったのか、あちこちで原因を書いています。たとえば、エルサレム神殿の境内から、供え物を売っていた商人たちや、流通しているローマの貨幣をエルサレム神殿だけで使えるユダヤの貨幣に両替する人々を追い出しました。群衆が皆、その教えに打たれたから、イエスを怖れたのだ、と書いてあります。律法学者と言えば、パリサイ派にも通じる人々ですが、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいるなどとして、批判しました。サドカイ派はもともと復活を信じていないので、相入れません。
ヨハネによる福音書は、大祭司カイアファが、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と言ったと書いています。これらの聖書のみ言葉を読むと、主イエスが神を冒涜する言葉を言ったから、殺さなければならないのだ、と言う敬虔な思いではなく、そこには人の罪の姿、悪ばかりが見え隠れします。
群衆の要求したのは、暴動の時に人殺しをしたバラバでした。祭司長たちは、群衆を、バラバの方を釈放してもらうように扇動したと、書いてあります。7節では、バラバは、暴動の時に人殺しをして投獄されていた暴徒の一人だった、と書いてあります。祭司長たちは、どんなふうに言って、殺人犯を釈放するように働き掛けたのでしょうか。
イエス様の生まれたころのユダヤは、ヘロデ大王が統治する独立国でしたが、このころはローマの属州となっていました。属州の総督として、ピラトが派遣されていたのでした。ピラトについては、こんなことが伝えられています。ピラトは皇帝の像をエルサレム市内に運ばせたことがありました。また、水道管の工事のため、エルサレム神殿の聖なる財宝を売り払ったと言われています。抗議する人々を武装した兵士たちが取り囲んで脅し、あるいは人々を殴打して殺害したと言われています。バラバが殺人を犯したという暴動も、こう言った騒ぎの一つだったのかもしれません。となれば、バラバはユダヤ教を守るために戦っている敬虔な信徒だと言うことになります。ましてや、神殿の大祭司が釈放するように働き掛けているのであれば、なおさらのことでしょう。
群衆は、大祭司の魂胆については、分かりません。バラバが敬虔な信徒であるということは、その通りであったかもしれません。そのバラバを救え!群衆が必死になったのもよく分かることでした。しかし、それは、引き換えに主イエスを死刑にすることを意味していました。
ピラトは、バラバを釈放しろと言う群衆の要求に驚きます。釈放できるのは、たった一人に過ぎません。そこで、ピラトは改めて確認します。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして欲しいのか。」それに対する答えは、「十字架に付けろ。」でした。ユダヤ人が、ユダヤ人の王を十字架に付けろと、要求したことになります。なんということを、群衆は要求したのでしょうか。
しかしながら、群衆のことを少し考えてみます。押し掛けた群衆で、主イエスのことを良く知っている人は、どの程度いたのでしょうか。ローマ帝国の法律の中で、罪に問われることなど何もしていないと、分かっている人はどの程度いたのでしょうか。あるいは、本当にメシアなのだと、終わりの日に主なる神に代わって自分が裁かれるお方なのだと、理解していた人は、どのくらいいたのでしょうか。もしかしたら、この群衆の中には、エルサレム神殿で教えていたイエスを見かけた人がいたかもしれません。最も重要な掟とは何かについて、正しく教えてくださった主イエスのことを、ちらと思い出す人もいたかもしれません。あるいは、もしかしたら1週間前、棕櫚の主日にエルサレムの市内に入場する主イエス自身を、歓呼の声で迎えた人も、この中にいたかもしれません。けれども、彼らが主イエスのことを重大に考えなかったことは確かでしょう。いいえ、もしかしたら、終末の救いなど、彼らにとってはどうでもよかったのかもしれません。今日の政治的な独立の方が、大事だったという可能性は、捨てることはできません。そのような群衆にとって、群衆の先頭に立って、武器を取って戦う戦士、つまり王のようなメシアではなくて、人々に神の国を約束する代わりにやすやすと逮捕されるメシアなど、必要なかったのです。今や群衆にとって、このお方は只一人の救い主などではなくて、バラバの代わりとなってくれる、便利な死刑囚に過ぎなかったのです。
大祭司は、群衆に自分の本当の魂胆を隠し、群衆にとって分かりやすい「祖国の英雄」を助けるように、焚きつけました。群衆を焚きつけて、バラバを釈放させても、それは祭司長たちにとっては自分たちが直接、ピラトに強要したことにはなりません。うまい手だった訳です。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたと言うのか。」と聞きました。そう、ピラトは、イエスの無実を確信しているのです。イエスの問題とされいているのは、政治的なことではない。とするなら、イエスはローマ帝国の法律にのっとって、無罪なのです。イエスが問題とされているのは、エルサレム神殿との関係だけです。それは、ローマ帝国の知ったことではありません。しかも、ピラトは、主イエスの宗教的な教えが悪いのではなくて、大祭司たちの側に問題があると、見抜いていたのです。
ところが、群衆はますます激しく「十字架に付けろ」と叫び立てます。このままでは、暴動になりそうな勢いになって来ました。そうすると、ピラトは急にそわそわしだします。イエスが無罪だと言う自分の判断については、疑いはありません。しかし、…暴動が起こると、これも困るのです。
ピラトはこの地域の総督として、治安維持と税金の取り立てを仕事としています。地域で騒動が起きれば、この地域に展開しているローマの軍団を投入することになります。暴動が大きくなれば、他の地域から応援を頼まなければならなくなります。ヨハネによる福音書では、「もしイエスを釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」とまで言われています。皇帝の友ではないとは、役目を罷免されることを意味します。ピラトはそのことは是が非でも避けたいと思っていました。こうして彼は、無罪だと確信していた主イエスを、十字架につけることになったのです。
さて、今日の箇所で、罪を犯しているのは、誰でしょうか。聖書を読む限り、祭司長たちは悪に心を支配されて行動したように見えます。しかし彼らは、扇動しただけで、自分で手を下したわけではありません。祭司長たちに扇動された群衆はどうでしょうか。バラバを救え、と一生懸命に運動して、結局のところ自分たちのメシアを十字架に掛けた彼らは、騙されたとも言えます。そしてピラトです。彼は、主イエスが無実だと確信していたという点では、きちんと事態を理解していたのです。しかしながら、彼は、治安維持を優先し、群衆におもねってしまいました。結果として、自分の持っている権力を正しく行使しませんでした。いずれもが少しずつ、悪を行い、そして地上に罪が満ちました。
あなたはここに、誰であれ、「この人は赦せる」と思える人はいるでしょうか。「誰もいない」、と思うかもしれません。教育があるからとか、律法を知らないから、罪を犯すと言うことではないんだ、と言うことが言えると思います。また、群衆とかデモ隊を考えた時、わたしたちは若者を思い浮かべます。地位もあり、軍隊の率いる総督ピラトは、年齢は40歳代、壮年です。そして、祭司長たち。特に大祭司カイアファ、そして彼の舅のアンナスは、かなり年齢が高いと思われます。年齢を重ねても、罪は人を去ることがない。新しい罪が、また口をあけるのです。
さて、もしもあなたが、ここに居合わせたら、罪を犯さずにいられたでしょうか。群衆だったら、どうでしょうか。ピラトの立場だったら?さらに祭司長の一人だった場合は、どうでしょうか?自分は大丈夫だ、罪は犯さない、と胸を張れるでしょうか。
ここで、たった一人、罪を犯していない人がいます。主イエスです。そして、主イエスは、ここで罪を犯したすべての人々を赦すと言ってくださるでしょう。もしも、この群衆の一人に主イエスがいたとしても、ピラトの立場だったとしても、祭司長たちの一人であったとしても、主イエスご自身は罪を犯してはいなかったでしょう。しかし、その只一人、罪を犯していない方こそが、罪を犯した人々すべての罪を背負って、今、十字架に掛ろうとしています。
お祈りいたします。
在天の父なる神様、み名を褒め称えます。あなたは、何一つ罪を犯していない神の御子を、わたしたち罪人の救いのために十字架に掛け、わたしたちの贖いとなさいました。わたしたちの罪のために十字架に掛られた主イエスを思い、あなたの私たちへの恵みの大きさを思い感謝します。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

2017年4月2日 「希望を持って喜び」 今村あづさ伝道師
ローマの信徒への手紙12

日本基督教団出版局が発行している「信徒の友」があります。最近は、忙しくて、なのか、それとも歳を取って根気が続かなくなってしまったのか、なかなか雑誌もきちんと読めません。この信徒の友も、あまり読んでいない号が多いのですけれど、教団の出版物ですから、記事を書いているのは、良く知っている方たちです。3月号は特集記事として、「教誨師」が取り上げられまして、祈りの課題として上げました。社会派的な記事が多いな、と言う感じも持っていましたが、最近はマンガも掲載されていたりして、一生懸命若い人たちにも向き合っていこうと言う姿勢が感じられます。
その中に、山北宣(のぶ)久(ひさ)牧師が記事を書いていました。先週、「荒れ野の40年間」という議長総括を書いた人として紹介しました。教団議長をお辞めになった後は、教団出版局理事長をなさっておられます。この先生が、「熟練&ユーモア牧師が答える あっかるい人生相談」というコーナーを3月号まで担当していました。最終回の3月号は、「青年編」。若者向け、と言うことらしいです。質問内容は、こんな感じです。
「嫌な人と教会でまで会いたくありません。通っている中学の同級生が、教会学校にいます。その子とはあまりいい関係ではなく、教会でまで会いたくありません。今の教会が一番近く、ほかに教会はありません。これからも教会学校に通いたいのですが、どうしたらいいでしょう。」
ミッション・スクールの生徒さんでしょうか。山梨英和の生徒さんたちが教会に来るのは、夏休み、冬休み、春休み。第一礼拝か第二礼拝に出席してもらっています。中高生向けに特に準備している訳ではなかったので、この春、3月は、彼ら向きにと思って、「春のキリスト教入門講座」をやりました。チラシも山梨英和に送ったのですが、来なかったですねえ…。「継続は力なり」という予備校のキャッチフレーズもありますから、次は8月でしょうか、続けてやろうと思っています。
教会によっては、中高科を設けているところもあります。前の教会では、中高科から受洗者が毎年、与えられているので、感謝しています。上の学年に受洗者が複数いると、自分も、と思うようです。教会学校では、春に多分に保護者を意識した教会学校紹介パンフレットを作って、生徒たちに持たせます。ミッション・スクール側も、いろいろ準備をしてくださいます。出席カードにハンコをもらって来なさい、と言う訳なのですが、その出席カードに教会学校の先生の通信欄もあって、何かしら書かなければならないことになっていたりします。ミッション・スクールの気配りは、私が高校生のころは、むずがゆいような感じもしたのですが、何と言うか、女の子らしくて、いいですね。
この質問をしている生徒も、多分、そういったミッション・スクールに通っている生徒なのでしょう。「今の教会が一番近く、ほかに教会はありません。」と書いているということは、近くにたくさん教会がある訳ではない、地方のミッション・スクールと言うことでしょうか。
山北先生の答えを抜粋すると、こうです。「好き・嫌いは誰にでもありますが、そんな気分や感情から離れて行く心を教会学校で与えられるのではないですか。」「『わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。』とイエス様は仰いました。愛するとは、大切にすると言うことです。たとえ嫌いでも、その人を大切にする、と言うのが愛すると言うことです。それは、あなたと同じように、その人も、神様に造られた大切な一人だからです。教会にはいろいろな人がいます。気の合わない人もいるでしょう。でも、その人も神さまの大切な人です。人の好き嫌いを越えて、神さまに繋がっていくのが教会学校です。ですから、これからも通い続けてください。そして、『教会でまで会いたくありません』と言う思いが次第に変えられて行く経験をしてください。出来れば一緒にいたくないなあ、と思う人と一緒にいることができるよう、鍛えられ、訓練される道場みたいなところが教会にはあるのです。」
中学時代は、英語の先生が好きだから、英語も好きになる、と言う時代です。「たとえ嫌いでも、その人を大切にする、と言うのが愛すると言うことです。それは、あなたと同じように、その人も、神様に造られた大切な一人だからです。」と言うところなどは、中学生ばかりではなく、私たち大人にとっても、大切なことを教えてくれると思います。

ところで、2016年度の年間聖句は、ヨハネによる福音書4章14節でした。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」聖霊によって、私たちの心には神の愛という永遠の命に至る水が注がれています。それは主イエスの贖いの業によって、与えられているのでした。
私たちは、教会で、その水が与えられていることを確認し、その水を喜び、その水に生かされようと、一年を過ごして来ました。信徒大会での賛美が、この箇所に関連した聖歌でした。皆さん一人一人も、このみ言葉を感じ取ることができたでしょうか。
今年の年間聖句として、今日の聖書箇所の12節を取り上げました。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」今年の年間聖句では、命の水、神の愛が注がれている私たちは、その水によってどのような生活をすることになるのかを、取り上げようと考えています。命の水によって養われて過ごして行く生活は、肉による生活とは、異なって来ます。私たちは、キリストのものとされ、神の子どもにふさわしくなっていくのです。福音書とパウロの書簡とでは、書き方が随分違うな、と感じるところも多いでしょう。けれども、こう言った意味で、今年度の聖句は、昨年度の聖句と繋がっているのです。
教会に通うと言うことは、福音を伝えられるということです。先ほどの「人生相談」の女子中学生も、教会で福音のメッセージを聞いているはずです。その福音のメッセージが、受け取った人の心の中で生き続けるからこそ、教会の生活の中で、「教会でまで会いたくありません」という自分の思いが、段々変えられて行くのです。そして、必ず、変えられて行くことを信じるところもまた、教会です。同級生もまた、教会に通い続けるのであれば、教会によって変えられて行くはずです。共に走り通した日々は、神さまの御前で尊いものとして、喜ばれることでしょう。

さて、今日の聖書箇所を読んで行きましょう。
12章の冒頭で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」とあります。律法の法則ではなく、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則によって、解放されたからです。罪の縄目から解放されたわたしたち。そのわたしたちは、聖なる生けるいけにえになろう。それによって神に喜ばれよう。その具体的な内容が、12章の終わりまで、書かれています。3節~8節では、教会での様々な役割について書かれており、9節~13節では教会の中での兄弟姉妹の交わりについて、そして14節以降は教会を越えた世の中での振舞いについて、勧めているところです。
9節「愛には偽りがあってはなりません。」は、ギリシア語では「誠実なこの愛。」と書いているだけです。文法的なことを確認していくと、何重もの強調文となっていることが分かります。「その愛は、誠実である。」「その愛こそ、誠実なのだ。」「その愛は、偽りのないものである。」「その愛は、誠実でなければならない。」「その愛が誠実でないはずがあろうか。」と言った意味合いを持ってきて、新共同訳では「愛には偽りがあってはなりません。」という訳になっています。
「愛」には、英語で言えばthe に当たる定冠詞が付いています。愛全般ではなくて、ある特定の「愛」だと言う訳です。「どの」愛のことでしょうか?ここでは、兄弟愛について10節で書かれていますが、14節では迫害する者たちに対して、祝福を祈りなさいと書かれています。つまり、教会の中であれ、外であれ、隣人への愛についてのお勧めであることが分かります。
けれども、隣人への愛と言えば、十戒では先ずは神への愛が先に来ます。そして、私たちの神への愛は、旧約聖書の十戒の昔から、神から示されたより大きな愛の応答に過ぎませんでした。この愛は、私たちが神を愛するよりも前に、神によって無償で与えられたものでした。5章の5節でパウロは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と書いています。神さまの愛は、聖霊によって私たちに、生き生きと伝えられています。
この聖霊をわたしたちにもたらしてくださるために、主イエスは十字架につかれ、ご自分を神さまの前に完全な献げ物として献げたのでした。その愛はどんなものだったのか。…十字架の上でのものすごいお苦しみこそが、その愛でした。「愛には偽りがあってはなりません。」というのは、偽善があってはなりません、と言う意味です。愛は誠実でなければならない。十字架の主イエスのお苦しみの中に、偽善があったでしょうか。ひとかけらの偽善も、入り込む余地はありませんでした。パウロの世代の人々は、このことを良く知っていました。わたしたちも、苦しみがなかったとか言うことはとてもできないことを知っています。
主イエスが死んでくださったのは、私たちが罪人であった時でした。神の愛が、わたしたちの悔い改めに先行して、示されたのです。その愛によってわたしたちは義とされた。私たちの罪の行いや思いは、そのままです。けれどもキリストの愛によって、神はわたしたちの罪の思いや行いについて、裁くことを止めたのです。
「愛には偽りがあってはなりません。」と言う時、私たちは、同じ赦された兄弟姉妹に対して、「あの愛」ではなく、どの愛で愛すると言うのでしょうか。キリストの愛は、すさまじい愛です。その愛の激しさをもって、ご自分へのご受難を耐え忍ばれたのです。その主イエスを十字架に付けた悪、その悪を憎まなくて、どうするのでしょう?悪を憎み、こころをキリストとひとつにするのです。
10節、私たちはそのようにして、そのキリストに結ばれ、教会に招かれています。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるように勧められています。一人一人がキリストの教会を形づくっています。そうだとするなら、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思うことは、当然ではないでしょうか。
私たちは、互いに、異なる賜物をいただいているのです。聖書では、さまざまな例が出されていますが、わたしたちの教会のことで言えば、説教の奉仕をする者、奏楽の奉仕をする者、礼拝堂を清掃するなど、教会の役割があります。これまで、教会の役割があまり分担されてこなかったのであれば、分担することに抵抗感があることでしょう。先生がやってきたこと、という意識もあるでしょう。しかし、教会の奉仕に加わることで、恵みはより大きくなります。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えるのです。心に働きかけてくれる聖霊の働きを信じ、怠惰にならず、主の僕として仕えるのです。もちろん、この世での様々な仕事があります。それらの仕事もまた、神さまにこの世で託された、わたしたちの召命です。
12節には、「希望をもって喜び」とあります。希望とは、どんな希望のことでしょうか。神の栄光に与る希望です。天の国に迎えられる希望です。それは、この世の栄達とは少し違います。聖霊に導き出され、召される日まで神の平安に生きる希望です。
神の国に迎えられる希望をもった生活とは、この地上での人生を蔑ろにして、仙人のように生きなさいと言う意味ではありません。神の国にふさわしいものとして、自らを整えて行く生活でもあります。この地上を神の国にしていく活動でもあります。洗礼を受けると私たちのすべての罪は赦されますが、私たちの身はキリストの衣を羽織っただけです。聖化、キリストに似たものにされて行く生活は、それから始まります。天の国に入れられることは約束されながら、「忠実なしもべよ、私と共に喜んでくれ。」と言われるように地上を歩んでいくのです。
「苦難を耐え忍び」とあります。5章でパウロは、「苦難をも誇りとする」と書いていました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」希望が生まれることが約束されている苦難だから、耐え忍ぶと言うのです。苦難は、苦しい。実際にその場に臨んでみると、耐え忍ぶことなど、一瞬も不可能だ、そんなふうに思えて来ます。しかし、苦難を耐え忍ばなければ希望が生まれてこないとしたら、どうでしょう。いや、むしろ、希望が生まれることが約束されていることこそが、既に私たちがキリストの勝利の中に入れられていることを意味しているのです。
そして、たゆまず祈る。私たちは、祈ることを赦されています。聖霊によって、神に祈ることが許されています。祈りの言葉は、主イエスが教えてくださいました。祈りによって、祝福へと招かれます。
10節は、兄弟愛とありましたから、教会の兄弟姉妹であることは明白でした。しかし、14節は「迫害する者のために祝福を祈りなさい。」とあります。同じクリスチャンの兄弟姉妹のことではありません。敵のことと言うべきでしょう。しかし、9節の「愛には偽りがあってはなりません。」との御言葉は、ここでも生きています。敵に対して祝福を祈ることは、アブラハムの祝福を思い出します。アブラハムを先祖に持つ主イエスは、「敵を愛せ」と教えてくださいました。15節~18節を読みます。これ、クリスチャンである教会の兄弟姉妹に対して、向けられた言葉ではありません。教会の外の人々に対して向けられた言葉です。「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」なんて、教会の中でも、出来ていないわ、と言う人もいるのではないですか?18節「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。」パウロの時代、イスラエルの人々は、ローマのあちらこちらに共同体を作って暮らしていました。中世になるとそれは、ゲットーとなって、物理的にも中の人々と外の人々とを隔てる壁を持つものとなりました。この壁によってある面、ユダヤ人たちは自分たちの信仰を容易に守ることができました。けれども、キリスト教には壁がありません。私たちもまた、この地で他の宗教の人たちと共に、地域の共同体の中で暮らしています。それは厳しい生活です。勇気が必要です。しかし、憎しみを捨てて、キリストの示してくださった愛の中に生きる時、わたしたちにはより生き生きとした命に招かれていることが分かります。
キリストに繋がり、互いに愛し合いながら過ごしてまいりましょう。キリストによって神に選ばれた喜びの中で、神の国を待ち望みましょう。人々と平和に暮らしつつ、しかしながら、悪は悪として退ける勇気を持ちましょう。教会の中でも外でも、私たちはキリストの勝利に入れられています。その基はキリストによって示された「あの愛」です。私たちはここから動かされてはなりません。「あの愛」に立つ限り、私たちは、希望をもって喜び続けることができ、苦難を耐え忍ぶことができるのです。お祈りいたします。
在天の父なる神様。あなたの素晴らしいお名前を賛美します。わたしたちがキリストの愛に堅く立ち、み国に向かって歩んでいくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

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