日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2018年1月28日 「すべてを売り払って買う宝」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書13章44~50節

今日の箇所では、天の国についてのたとえが三つ、掲げられていますが、最後の人とは、先週の毒麦のたとえと基本的には同じことを言っています。そこで、今日は前の二つのたとえを取り上げようと思います。
二つのたとえがありますが、この二つのたとえで共通しているのは、見つけた人は持ち物をすっかり売り払い、それを買う。と言うところです。宝とか、真珠とかありますけれど、現代でももちろん価値は分かるかと思いますが、とても高価な物と言うことです。とても素晴らしいものが見つかったので、すべてを投げ打ってそれを買うということです。それほど、天の国はすばらしい、すべてを投げ打つほど、価値のあるものなのだ、と言うことです。
持ち物をすっかり売り払う、ということは、これからの人生をこの宝や高価な真珠に託す、と言うことですね。
先週の月曜日、雪が降りました。都心が20センチで、富士吉田もあまり変わらなかったとなると、普通は倍くらい降りますから、普通よりは少なかったのでラッキーだったということかと思います。この雪かきを、翌日から少しずつやって行きました。直ぐ息が切れるものですから、30分やると室内に戻って別のことをやる、また昼ご飯を食べると30分外で雪かきをしてから、聖研祈祷会の準備をする、と言う感じで、木曜日まで掛けて、雪かきをしました。雪かきは、み言葉を迎えるための準備です。イエス様に来ていただくのですから、心をこめて、準備をするのです。
雪かきをしながら、前任者の牧師の先生方のことをいろいろ考えました。この礼拝堂は、昭和2年の建物です。その前に、信徒の家の教会の礼拝の期間が10年ありました。大正時代や戦前から、雪が降れば、同じように雪かきをしていたのだろうな、と思い至った訳です。
日本基督教団に復帰してから最初の牧師として来てくださった平松牧師は、腰を傷めていらしたということで、雪かきは大変だったろうし、そもそも寒い吉田に住むこと自体が大変でした。前任の安藤先生は、小樽の教会も含めて、12年間、単身赴任をされていたと伺いました。神様に奉仕するための単身赴任でしたが、御夫婦いずれにとっても大変な負担であったことでしょう。いずれの先生も、み言葉に奉仕するために、ご自分の人生をそれぞれ、捧げたということになるでしょう。
「自分の人生すべてを、み言葉に奉仕するために捧げるのだ、それも喜んで!」と言うのが今日の聖書箇所の趣旨です。つまり、今日の箇所は、召命、神様が教会の御用のために召された人の話なのです。
天の国とは、神の国ということです。神の国とは、神様のご支配と言う意味もあります。神様が、私たちに力を及ぼしているところ、神様がわたしたちを守ってくれるところ、それが神の国ということです。
神の国は、既に始まっています。教会に始まっています。イエス様の教えてくださったこと、言ってくださったこと、示してくださったこと、すべては教会で私たちが経験し、実感する中で、私たちのものとなっていきます。それがすばらしいから、そのために働きたい、ずっと教会にいたい。宝を見つけた人、高価な真珠を見つけた人とは、そんな人です。
今回の説教準備は、なかなかうまくいきませんでした。今日のお話をする前までに、二つ、別のお話を考えたのですが、どうも進まないのです。皆さん、牧師を目指しましょう、と言ったら、どう思いますか?自分には関係のない話だな、と思いましたか?多分、そう思われるだろうと、皆さん向けの話をいろいろ考えていたのです。たとえば、ルターの天職の話とか。でも、うまくいかないのです。そこで気づいたのですが、これは聖霊なる神様が話を生ぬるくするのを止めているということなのではないか。何をか、というと、牧師になる話が皆さんと関係がないから、話さないでおこう、と言うところです。やはり、聖霊なる神様は、この話を今日、なさりたいらしいのです。
なぜ、教会に生涯のすべてを捧げようとするのでしょうか。それは、教会の福音を信じるからです。福音を信じると言っても、自分ひとりであれば、一人で聖書を読めばいいのです。なぜ、「教会に」生涯を捧げるのか、と言うと、福音は、自分一人のものではないからなんですね。
説教準備のために、いろいろな注解書というものを読むのですが、今回、ここの箇所は、聖職者向けの箇所であると言わんばかりの注解書もありました。信徒には、あまり関係がないのでしょうか。
カトリック教会では、キリストの弟子たちに濃淡があることを認めています。「濃いい」弟子たちというのが、聖職者と言うことになるのでしょう。この聖書箇所は、「濃いい」弟子たちのためだというわけです。この考え方からすると、「薄い」信徒に関係のないところは読まなくてもいい、自分で聖書を読む必要がない、と言うことになるかもしれません。なにしろ、カトリック教会では、長いこと、ラテン語の聖書しか認めていなかったのですから。しかし、カトリック教会でも、次世代の聖職者は育てなければなりません。そういう人たちに目星を付けて、ここを読んでご覧、と言うのかもしれませんね。
とすれば、ましてやプロテスタント教会をや、と言う訳です。と言う訳で、今日は、幾つかの教会で、牧師がどのように立てられたのか、と言う話をしたいと思います。
一つ目は、四国の高知中央教会というところです。高知県というと、ひょっこりひょうたん島みたいな形をした四国の中で、南側の半分くらいを占めている、四国で最大の面積を誇る件です。ひょうたん島の一番くびれたところにあるのが、高知県の県庁所在地の高知市です。その高知市は人口が34万人弱、日本基督教団の教会が6つあります。そのうちの最大の教会が高知教会で、現住陪餐会員244人の大教会です。昔、教団議長も出した教会で、自由民権運動の志士たちが、たくさん受洗した教会でもあります。もともとは、武士の人たちの教会ということですね。
高知中央教会は、現住陪餐会員12人、牧師謝儀が年間108万円だと言うことです。ここの牧師が、益(ます) 敏(とし)牧師。東京神学大学で、私よりも3学年上の先輩ですが、年齢はもっと上のようでした。
大学に年配の神学生の親睦食事会と言うのがあって、毎年、卒業の前になると、卒業予定者が赴任先などを発表します。その時に、いろいろ、説明もあります。それによると、益牧師は、もともと、高知中央教会の牧師の牧師夫人なのだそうです。夫の牧師が健康を害して、教会での奉仕が出来なくなってしまって、説教者が欲しい。けれども、小さな教会です。謝儀も払えない。なかなか、来てくれる人がいない。祈って祈って、示された道が、牧師夫人である自分が牧師になることだった、と言う話でした。
牧師というのは、自分が牧師に向いているとか、そういったこととは関係がありません。教会の祈りの中で、押し出されていくものです。教会に集う兄弟姉妹がみ言葉を聞くことが出来るように。神様を賛美することが出来るように。神様の許しのみ言葉が語られ、神様の命を頂いて、生きていくことが出来るように。そのような祈りの中で、示されるものなのです。牧師が病に倒れてから、新しい牧師が与えられるまでは、10年近い時間が必要でした。けれども、この期間は、教会は「希望を持って」待つ時期だっただろうと思うのです。

もう一つ、教会を紹介しましょう。青森県の黒石教会です。冬になると、秋田県の大曲教会の飯田啓子牧師が、教会の雪下ろしのために神学生を動員する、自主的冬季伝道実習と言うのがあります。別に、学校のプログラムではないのですが、神学生たちは、勉強になるからと、出掛けていくのです。そうすると、牧師が秋田から自家用のワゴン車で大学まで迎えに来てくれます。教会の和室で寝泊りをして、大曲教会の婦人会の方たちが「きりたんぽ鍋」をご馳走してくださいます。このあたりとは雪が違うと言いますか、屋根の雪を下ろし、レンタカーのトラックに積んで、河川敷へ捨てに行くのです。もちろんそれだけではありませんで、雪下ろしが終わると、神学生はいろいろな教会へお邪魔して、説教をさせていただくと言うことになります。それで、私が伺ったのが、青森県の黒石教会でした。
この黒石教会も、現住陪餐会員11名と言う小さな教会で、牧師謝儀が年間200万円と言ったところです。牧師謝儀、給料ということですが、教区の互助が入ってもこの金額ですので、先ほどの高知中央教会といい、厳しいな、と思います。ちなみに、富士吉田教会は、257万円です。私が説教をした日は、たまたま、弘前のミッションスクールの生徒がたくさん来てくれた日で、大変恵まれた中で説教をすることが出来ました。
そこで、この黒石教会からは、私が富士吉田教会に赴任してから毎年、クリスマスの前の11月の末になりますと、献金のお願いが送られてきます。その印刷物には、献金目標額と、前の年の献金額の両方が掲載され、その年、一年間の活動報告も書かれています。献金は、牧師謝儀に当てられるほか、教会の様々な活動費に当てられると書いてあって、目標額も実績も、120万円だったか、とにかく、100万円を大きく上回る額なのです。この献金の中から牧師の特別謝儀、つまりボーナスも手当てされます。
私自身は、献金することは出来ないのですが、富士吉田教会でも同じように献金のお願いをやってみたらどうだろうか、などと考えたりしてきました。実際、会報「富士北麓」を出して、そこに振込口座番号もさりげなく書いたりしていますし、毎年、クリスマス献金を送ってくださるありがたい教会や皆さんもいらっしゃいます。けれども、100万円と言う額には、到底、届きそうもありません。
どうして、こんなに献金が集まるか、と勝手に予想をしたりしていますが、ここの教会出身の牧師が何人もいるようなのです。そのうちの一人が、東京神学大学の旧約聖書進学が専門の小友聡教授です。多分、黒石教会の出身の牧師が、母教会を支えていると言うことなのではないでしょうか。
教会に神学生が与えられることは、この上ない喜びです。けれども、地方の教会の場合には、神学生になる召しが与えられるということは、その教会を去ると言うことです。新学校に通っている間、短い帰省の期間を除いて、神学生は普通は寮に入り、日曜日もどこか、学校の近くの教会に預けられて、通うことになります。いざ、卒業と言うことになっても、その神学生が若い場合は、多くの場合、大きな教会の立派な牧師に預けられて、伝道師として牧師となるための研鑽を積むということになります。そして、やっと牧師になっても、母教会に戻るとは、限らない訳です。小友教授の場合も、伝道師としての修行が終わり、牧師として按手礼式を受けると、すぐにドイツの神学校の博士課程に進学したのではないでしょうか。
けれども、母教会のことは、忘れません。大きな教会の牧師をしていても、母教会のために祈り、献金をするのです。そして、先ほどの年配の神学生の親睦会の世話をしていたのが、小友教授でした。教授は、親睦会の席では必ず、「あなた方、年配の皆さんは、地方の教会を支えるのですよ」と言うのが口癖でした。間接的ではありますが、このように出身教会である地方の教会を支えているのです。
冬の自主的伝道実習では、秋田県の他の教会にも行きました。その中には、教会の建物がいくつもある教会もありました。秋南教会だったと思います。実際のところ、牧師が、日曜日の朝夕ばかりでなく、平日の夜に祈祷会のようにそれぞれの礼拝堂を訪問をして、礼拝を守っているのです。数人の教会員が、真っ暗な深い雪の中を自動車で集まってきます。けれども、そのような教会でも、神学生を出し、そして確か甲府中央教会出身という牧師夫人と一緒に、留学先からたまたま帰って来ていたということで、お話をする機会もありました。教会員の一人が、和菓子屋さんをやっていて、その和菓子をいただきながらの交わりの時でした。
神学生を送り出しても、この教会にとっては、特に牧師になって戻ってきてくれると言うことはなかったのです。けれども、神学生を送り出したということは、大きな恵みであり、誇りであったのでした。
皆さんにこうやって、私の経験をお話しするのは、何か、よく分かりませんが、神様のみ旨がそこにあるのだろうと思います。地方の教会は大変だ、何か大変さの深さが違うような気がします。でも一方で、この実習は、この上ない恵みの時でもありました。神学生は、ただで宿泊させてもらい、ご飯をいただき、温泉にまで連れて行っていただき、貴重な礼拝説教をさせていただく。そして、教会の交わりの中に入れていただいたわけです。これらが、神学生にとっては、大きな恵みです。このような恵みの中で、奥羽教区というと青森県、秋田県、岩手県と言うことになりますけれど、これらの教会に行きたいと、特に志願して、赴任する伝道師も出てきました。
大曲教会の牧師が計画する自主的冬季伝道実習も、毎年、献金の依頼がやってきます。雪下ろしを業者に頼むことは、かなりの負担になるようですが、同じ金額を負担するのであれば、神学生を呼ぶ方法は、大正解だと思います。

今日は、み言葉を述べ伝えることに生涯をかけるということで、お話をしました。富士吉田教会も、「今のところは」、小さな教会です。この中から、教会の牧師を志す人が出てきたら、すばらしいと思います。神学生と何らかの交流会が出来たら、それもすばらしいと思います。
教会は、信仰を伝えるものです。それは、教会の立っている地域に対する伝道と言うことになります。それだけではなくて、それは必然的に、次の世代のためでもあります。ここに大きな宝があった。捜し求めていたものが、とうとう見つかった。そんな風に思う人は、ぜひ、全生涯を掛けるのです。そして、教会は、その人を支えます。支えられた人が、教会を支える人になります。それは、直接に教会の牧師として帰ってくることもあります。そうならなくても、教会同士が繋がり合うことで、その働きはもっと大きく、豊かになります。雪深い、小さな礼拝堂で、礼拝出席者は数人であっても、そこには確実に聖霊が働いてくださり、わたしたちを大きな恵みのうちに置いてくれます。若い伝道者も、聖霊なる神様のご臨在を確信したからこそ、北の地に赴いたのでしょう。聖霊なる神様が、先に立って進み、私たちの行く先を知らせてくれるのです。
お祈りいたします。在天の父なる神様。私たちの教会もあなたの守りの内においてくださり、説教者を立ててくださっていることを感謝いたします。どうか、教会に集うものの中から、み言葉に奉仕するみ業に仕える者が立てられますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2018年1月21日 「天使の刈り入れ」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書2章36~43節 エレミヤ書31章15~17節

日本のお寺には、地獄絵が掲げてある所があります。特に浄土真宗のお寺でしょうか。漫画家の水木茂の自伝的な漫画の中にも、「のんのんばあ」という子守りを引き受けてくれていた高齢の女性に連れられて、お寺の恐ろしい地獄絵図を見た思い出が出てきます。あるいは、子どもの時に覚えた歌に「ゆびきり、げんまん、嘘ついたら針千本、飲ます」と言う歌の「針千本」も、地獄絵の中にあったでしょうか。
今日の聖書箇所で、「つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言う箇所を読むと、わたしたち日本人が思い出すのは、やっぱりこの地獄絵だろうと思うのです。一方で、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」というのですから、これもまた、極楽浄土だなあと、同じように分かりやすい。
地獄絵がお寺に掲げてあるのは、絵で説明するのが、効果が高く、簡単だからでしょう。お寺で和尚さんが説明するにしても、簡単です。子どもの時に見たという人が多いのも、言葉で説明しても良く分からない子どもたちにも分かりやすいということでしょう。脅しに近い教育ということになります。
だから、日本人は、今日の箇所を、キリスト教にも仏教と同じようなところがあるのだと、読みがちです。でも、旧約聖書の伝統の中で育った人々は、わたしたちとはまったく違う読み方をしているようです。
旧約聖書の最初の方には、律法と言う決まりごとがたくさん書かれている部分があります。これは、イスラエルの人々に神様が与えてくださった掟です。その代表が、十戒です。神様を愛しなさい、人を殺してはいけませんよ、盗んではいけませんよ。こういった命令が10個ある訳ですが、律法はこの他にもたくさんあります。
神様は、律法をイスラエルの人々に与えて、これを守れば祝福するよ、神様が幸せにしますと約束してくれました。逆に、神様からもらった掟を守らなければ呪われるとされているのです。
この祝福と呪いは、最初のころは掟を守った人が祝福を受け、掟を破った人が呪いを受けると考えられていたようです。けれども、後の時代になって来ると、イスラエルの国は、外国の勢力に攻撃され、神殿は滅び、王様や高官たちも帝国の都に連れて行かれるということがありました。いくらいいことをしても、報いられない。悪いことをしている人々が、罰せられないという時代になったのです。
詩編には、神様、どうか、わたしたちのために立ち上がり、敵を懲らしめてください、と歌う詩編がたくさんあります。そして、自分が手を下さなくても、時が来れば、正しいものが報いられ、悪は滅びているとも、歌われています。
今日の聖書の箇所は、「毒麦のたとえ」の解説ですが、元の毒麦のたとえは前のページにあります。毒麦のたとえの解説では、世の終わりの裁きが問題になっています。でも、元のたとえを読むと、中心は、畑に育っている麦も毒麦も、そのまま育つままにしておきなさい、と言うことです。収穫の時まで待つということは、生きている間に人間どうしでは裁かないということです。天使の刈り入れとは、神様の使いである天使に、裁きは任せておきなさいということです。
掟を守らない、イスラエルの敵への裁きは、今、自分たちが行うことではない。終わりの日の裁きは、必ず行われ、悪を行う者は裁かれるのだ。こう考えると、毒麦のたとえの言うことは、あまり詩編と変わりません。そして、遅れてはいるけれど、必ず最後に神様は正しい裁きを行うのだ、ということが、旧約聖書の伝統の中に生まれ育った人たちの読み方です。つまり、正しい裁きは必ず、行われるので、それを希望を持って待ちましょう、ということです。となると、この裁きは、福音、良い知らせなのですね。
ただ、このような捉え方にも、落とし穴があります。悪を行う者は裁かれ、正しい事をやっている者は祝福される。これは、「今、わたしは苦しめられているが、将来は神がお前たちを必ず懲らしめてくれる」と言うことですから、自分は絶対に正しいと疑わない人は、「ざまあみろ」としか思わなくなるという危険もあります。
それでは、イエス様は、一体、どのようなことをおっしゃりたいのでしょうか。

今日の聖書箇所は、24節~30節の毒麦のたとえの解説と言うことになっています。イエス様はたとえを群衆にお話しになりました。宣教、伝道活動の言葉と言うことです。一方、この説明の方は、家に帰って弟子たちに説明されたということです。
最近の聖書神学者の説によると、24節~30節までのたとえ話がイエス様の話されたことで、今日の聖書箇所は、弟子たち、つまりマタイによる福音書の書かれた時代の教会の解釈だということです。こんなことは、誰にも分からないので、数十年後に「昔は多いうふうに考えられていたけれど、とんでもない間違いだった」と言うことにならないとも限らない話です。だから、断定できる話ではないのですが、でもそうだとすると、たとえの箇所はイエス様の預言の言葉であって、今日の箇所はそれを教会でどのように実現していくか、教会での振舞いと考えることはできると思うのです。イエス様を通じて語られた御言葉を証ししていく、弟子として、また説教者としての覚悟を示されているとも言えます。
毒麦のたとえの中心メッセージは、「毒麦を集めようとすると、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。」と言うことです。この言葉を、わたしたちは神様の恵みの忍耐の言葉として受け止めました。終わりの日まで、わたしたちは神様によって、麦として取り入れられる希望の中におかれているということです。
一方、毒麦のたとえの解説の方はどうでしょう。世の終わりの方に重点が移っていると言えます。今、抜き取らないでおくことはまったく問題にしておらず、世の終わりに毒麦のように火に焼かれることが強調されています。
強調点は変わっていますが、もともとのたとえのメッセージは残っています。世の終わりに刈り取りに来るのは天使です。わたしたち人間が、刈り取りに使わされることは、今も、世の終わりも、あり得ないのです。
舞台となっている世界は、どこでしょうか。毒麦のたとえは、天の国のたとえでした。今回の箇所でも、41節を見ると、天使たちが集めるのは、ご自分の国です。イエス様が地上に始められた神の国が、舞台なのです。わたしたちの教会で言えば、教会の出来事であって、教会の外の出来事ではないのです。教会の中に、毒麦、つまり雑草が生えて来るというのです。
毒麦の持つ毒の恐ろしさもまた、わたしたちは感じるところです。毒麦とは、どんなものでしょうか。41節に、燃え盛る炉の中に投げ込まれるために集められる者たちは、つまずきとなるものすべてと、不法を行う者どもと書いてあります。
つまずきとなる者とは、他の人を陥れて不信仰に導く人々のことです。マルコによる福音書の9章42節で、イエス様はこう言っています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。」イエス様の言うことを本当だと思って信頼し、イエス様の言うことに従っている人々を、「そんなのおかしいよ」とか、「あんなことを信じているの?」と言うような人と言うことです。聖書の奇跡物語、とりわけ、イエス様の復活を信じることに困難を覚える現代人は、他の人のつまずきとなる可能性があるという訳です。
もう一つ、不法を行う者どもとは、神様の命じた律法を守らないということです。この律法と言うのは、イエス様の律法ですから、先ず神を愛すること、そして隣人を愛することが求められています。マタイによる福音書は、思っているだけではだめで、実際に行いで示すことが求められます。そうすると、結構これは厳しい命令です。
25章31節~46節では、「すべての民族を裁く」というタイトルが付けられていますが、これは終わりの日の裁きの話です。人の子が…今日の箇所でも人の子です。閻魔様のように、すべての国の民を羊飼いが羊と山羊を分けるように選り分けるのです。ここで選ばれなかった左側の人たちは、どんな人たちでしょうか。イエス様の兄弟であるこの最も小さい者の一人が飢えている時に食べさず、渇いている時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時に見舞わず、牢にいた時に訪ねなかった者だというのです。つまりこれらのこと、隣人への憐れみを持たないことが、不法を行うということになります。
わたしたちの毎日は忙しく、わたしたちの生活もまた、他の人々を支えるほど豊かではない、と言うのがわたしたちの実感です。疲れているから、わたしには分けるべきものが何もないから…わたしたちは、言い訳をします。隣人が辛い思いをしていることを感じるためには、想像力が必要です。背の高い人は、背の低い人が電球を取り換えるのに大変な思いをするのを、なかなか理解できません。まだ若い人が高齢者の様々な不自由を理解するのも、なかなか簡単なことではありません。
日々の生活の中で、自分が当たり前に思っている基準が、常識が、神様の前で正しいのかどうか、わたしたちは自分自身を充分に吟味しなければならないのです。イエス様は、最後に、「耳のあるものは、聞きなさい。」とおっしゃいます。このような偏見で、自分自身の目が曇っている可能性を考えてみること、このことを通して初めて、人は本当に聞くべきことを聞くことができるのです。
イエス様の基準で見た時、すべてが明らかになります。自分が、イエス様の父の国で、太陽のように輝くことができるのか、自分で自分を吟味していくということなのです。自分自身を吟味し、悔い改めていくことには、長い時間が掛るでしょう。麦も一緒に抜いてしまうかもしれないから、今は育つままにしておけという言葉が、恵みに思えます。
わたしたちは、世の終わりの前の時代を生きています。まさに、良い種を蒔いたはずなのに、毒麦も現れた畑で育てられています。この時代の誰が、あれは毒麦だ、と判断しているのでしょうか。同じ畑に育っている人間の目に過ぎません。それは7章でイエス様が言っているように、兄弟の目にあるおが屑を見ているだけかもしれません。そして、自分自身の目の中の丸太に気づかないのであれば、一体、イエス様の父の国に入るにふさわしい人は、自分でしょうか。
今はまだ、終わりの時ではありません。わたしたちは、畑にまかれた種です。やっと芽が出て、伸びて、実を結ぼうとしています。芽を出すことさえ、奇跡ではありませんか。増してや良い実を結ぶとは。わたしたちの結ぼうとしている実が、良い実であるように。わたしたちの日々の歩みは、その祈りと共にあるのではないでしょうか。み目に適う豊かな実りを結ぶことができるように、イエス様が共にいてくださるように、祈り続けつつ、励むのではないでしょうか。
この聖書箇所を読みつつ、幾度も自分の若い時のことをあれこれ、思い出しました。いかに自分が、御心に適わない人間であったか、自分自身が良く知っています。教会が、自分を追い出さなかったことを思うと、真にイエス様は忍耐してくださり、執り成し続けてくださったことを思うのです。
神様は、できる限り、多くの者たちを救おうとしておられ、忍耐されておられます。わたしたちが御国に入るのにふさわしいものとなるように。イエス様が、わたしたちを選んでくださり、わたしたちを父の御国に入るようにと、育んでくださっています。躓かないように、躓かせる者とならないように、御心に少しでも適う人間になっていけるように、み手の支えを祈りましょう。
お祈りいたします。
在天の父なる神様、イエス様によって、わたしたちを選んでくださり、御国の世継ぎとしてくださっていることをありがとうございます。どうか、わたしたちが、最後まで互いに愛し合い、励まし合って進んでいくことができますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。

2018年1月14日 「神の民の中で」 松木田博牧師
マタイ福音書3章13~17節 エレミヤ書31章15~17節

2018年1月7日 「未来を信じて生きる」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書2章13~21節 エレミヤ書31章15~17節

ヘロデは、「大いに怒」りました。ブチ切れた、マジギレ、無茶苦茶怒りまくったなどなど、言い替えることができるでしょう。とにかく、常軌を逸するほど、我を忘れるほど、怒ったのでした。
ヘロデは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」ました。ヘロデ大王は、星の現れた時期によって子どもの生まれた時期を知っていました。それなのに、二歳以下全員です。場所は、預言者によってベツレヘムだと分かっています。けれども、虐殺した男の子はベツレヘムばかりでなく、その周辺も含まれます。そして預言では、「ベツレヘムから出るユダの指導者」とは、ダビデの末裔として生まれることになっていました。しかし、一人残らずです。謀反の虞あり、と言うことであれば、取り調べを行い、相手を特定するべきところ、むしろ虐殺相手を拡大したように思えます。そこに、ヘロデ王の怒りと怖れが現れているでしょう。ヘロデ王朝の転覆など、よもや考えないように、恐怖で民を支配しようとしたのです。
預言者エレミヤを通して言われていたことが、ここで実現した、とマタイ福音書は言います。ラケルは、イスラエルとも呼ばれたヤコブの愛する妻です。十二部族の内、ヨセフとベニヤミンの母親にあたります。ラケルは、ヤコブ一家が旅をしている途中で亡くなり、ラマと言う場所にお墓があったのです。イスラエル全員の母ではありませんが、ここでは「イスラエルの母」として登場しているのでしょう。
エレミヤ書では、ラケルは北王国イスラエルが滅び、人々が外国に捕囚、つまり捕虜として奴隷労働のために連れて行かれたことを嘆いています。一旦、連れて行かれれば、永遠に帰ってくることはないであろう。永遠に、失われてしまった息子たちのために、母は嘆き悲しんでいるのです。
このラケルの嘆きに対して、主なる神は言われます。「泣きやむがよい。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には、希望がある。」と。
マタイによる福音書が、ここでエレミヤの言葉を引用しているのは、まずは幼子イエスはエジプトから帰って来るということでしょう。そのイエスは、福音を告げ知らせるために、神によって選ばれて帰って来るのです。そして、イスラエルの子どもたちも、イエスの名のもとに、集められるでしょう。世界中に散らされた同胞イスラエルの人々が、敵の国、つまり異邦人の地から、集められるのです。イスラエルの同胞とは、神によって選ばれた兄弟姉妹と言うことです。つまり、教会にわたしたちが集められること、それがラケルの未来の希望なのです。
しかし、虐殺されてしまった子どもたちは、もう、戻らないではありませんか。イエス様によって、わたしたちが救われても、ここで殺された幼児たちの命は、戻らないのです。いわば、この幼児たちは、わたしたちが救われるための犠牲であったということです。
キリスト教では、この幼児たちを、殉教者と考えてきました。そして、12月28日を幼子の祝祭の日とし、無辜の幼児たちが、キリストのために死んだことを覚える日としています。
しかし、幼児の殉教は、過去一回限りの出来事ではありません。時の権力者がマジギレするたびに、殺される人々は、この後も何度もありました。これからも起こるでしょう。そして、今、まさに起こっていることでもあります。
毎年、年末になると、海外のメディアが、世界中に起こっているさまざまな悲劇を取り上げます。圧政者によって、たくさんの小さな子どもたちが犠牲になっているという報道です。
1年前は、シリアからの難民たちの問題が取り上げられていました。地中海をゴムボートで渡って来る難民たちの中には、たくさんの子どもたちが含まれていました。不幸にも、ゴムボートが転覆し、水死した小さな亡骸が海岸に打ち寄せられる。その亡骸を当時のイギリス首相が抱きかかえている映像は、世界中に報道されたでしょう。世界の何十億人もの人々が、自分の子どもが殺されたように、悲しんだと思います。いわば、世界中が、ラケルのように、死んだ幼子たちの母として、嘆き悲しんだことでしょう。
ヨーロッパ、特にドイツが中心となって、たくさんのシリア難民を受け入れているのは、やはり第二次世界大戦の後で、自分たちの祖父母たちの世代が、難民になったことがあることでしょう。また、東西冷戦が終わった後で、東ドイツは西ドイツに吸収合併される形でドイツが統合された訳ですが、このときも混乱がありました。旧東ドイツ出身のメルケル首相の意向もあるのではないでしょうか。
この年末年始には、南スーダンや、南イエメン、そしてロヒンギャの人々の惨状が、報道されています。いずれも、キリスト教ではなくて、イスラム教がらみの地域であるところが、目を引きますが、やはりこの時期の報道であることは、キリスト教の伝統の中でのことだと思います。
なぜ聖書は、ここで、イエス様の代わりに殺された幼児たちの話を紹介しているのでしょうか。なぜ、わたしたちは、ことさらに、忘れてはいけないこととして、教会でこの物語を読むのでしょうか。それは、このような悲惨なことが二度と起こらないように、神様が介入し、世界を変えていく決意をしているということです。
これまで、このような事件の犠牲者たちは、人知れず、苦しみの中に捨て去られてきたことでしょう。世間から顧みられず、仕方のないこととして、あるいは貧乏くじを引いたとして、です。しかし、イエス様がこの世で生まれたことによって、すべてが新しくなるのです。キリストが覚えていて下さるのです。このような幼児たちが、幼児の父母たちが、人知れず苦しみの中に捨て去られてはならないというのが、神様のご意志です。
イエス様が、エジプトへ避難し、そしてヘロデ王の死によって帰って来るようにとのお告げを受けた20節、天使は「起きて、子どもとその母親を連れて、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった。」と言い、この言葉を受けてヨセフは、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来ます。ここのところは、出エジプト記4章19節をそのまま引き写した文章になっています。ヘロデ王が出エジプト記ではファラオに、「この子」つまりイエスが「あなた」、つまりモーセに代わっているだけです。
マタイによる福音書の教会には、旧約聖書を良く知っている人たちがたくさんいたようです。この人たちにとって、モーセに率いられ、イスラエルの人々がエジプトを脱出した出来事は、神様の大きな奇跡でした。それは神様が、イスラエルの人々を愛してくださったから、起こしてくださったものです。奴隷として打ち捨てられることなく、神の民として選んでくださり、ことさらに目を掛けてくださった。出エジプトの奇跡の前提に、神の選びがあります。
イエス様の誕生によって、父なる神は、もう一度、新しい出エジプトの奇跡をなされようとしています。ご自分が愛するわたしたちを教会に集めるためです。わたしたちが、救われて神の民となることは、大きな奇跡です。その奇跡は、今も続いています。この奇跡の中で、新しい現実が起こっているのです。
キリストが覚えていてくださる人たちを、わたしたちが関係のない人たちとして思い出さないものでしょうか。同じ、キリストに愛された者として、祈り合うということだと思うのです。
支配者はブチギレる事があります。支配者がブチ切れれば、世界はめちゃくちゃになります。世の支配者は、生活の苦労などしないでしょうが、執り成しの祈りは、支配者のためにも、必要です。
日本では、ヘロデ王の虐殺は起こりません。日本は法治国家ですから、地下鉄サリン事件のような恐ろしい事件が起こっても、首相が浅原彰晃を銃殺することはないのです。「警視総監が、警察の威信に掛けても必ず被疑者を逮捕します。」と、がんばり、上九一色村で地元の派出所の巡査が浅原彰晃を見つけて逮捕した後は、裁判に掛けられ、判決が言い渡され、判決に従って刑を執行する。こうなる訳です。
「法の支配」と言うのは、時の権力者が、勝手な自分の思うところではなくて、国会で決めた法律に任せますと、約束したことによって実現しました。支配者の中にも、クリスチャンがいて、幼子たちの虐殺などが二度と起こらないように、願ってこそできたことです。けれども、今でも、世界中で、自分の好き勝手に権力を振るおうとする支配者たちがいます。
イスラエルの母であるラケルが、墓の下から激しく嘆き悲しんだのに対して、主なる神は、「泣きやむがよい。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には、希望がある。」とおっしゃいました。苦しみの中に打ち捨てられてきた人々も、キリストが忘れ去ることはありません。涙を流しながら、この最も小さい者のために嘆き悲しんでくださるでしょう。この方によって、たくさんの息子たちが、娘たちが、世界中から父なる神のもとに集まります。世界を変えるようにと、キリストをこの世に派遣された父なる神が、今、この時、教会を通じて働いておられます。わたしたちを用いて、この世に神の国を拡げるために、働いておられるのです。
お祈りいたします。今日は、礼拝の式文の執り成しの祈りから祈ります。
全世界のため、すべての国民とその政府のために祈ります。
主よ、世界のすべての所に、自由と平和をもたらしてください。
また、政治に携わる人々に貧困や対立を克服する知恵と力をお与えくださいますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2018年1月1日 「新しい歌を歌え」 元旦礼拝・証 今村あづさ伝道師
コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節~19節

 富士吉田教会は、今日、第二世紀に入りました。101年目に入ったということです。教会は、1917年1月1日に始まり、昨日、ちょうど100年の歩みを終え、今日から101年目に入ったのです。

教会は第二世紀に入りましたが、福音は変わりません。私たちへの良き知らせは変わりません。それは、イエス様によって、神の国に入る希望の中に入れられているということです。一方で、私たちが神様によって生かされている日々の歩みは、1日1日、新しい希望の中にいつもある歩みです。新しい命をいただいたことを喜ぶ言葉は、日々、新たにされます。新しい歌は、一日一日、神様の新しい命をいただいて生きる中で、生まれてくるものなのです。

今日は、二人の方に、お証をしていただきます。どうか、互いによろこびあい、励まし合うときとしてくださいますように。あなたが私たちの先頭に立って導いてくださいます。どうか、私たちに必要な導きを与えてください。そして、私たちにその導きに従う勇気を与えてください。

さて、今日の聖書箇所は、まさに私たちに福音とは何かを教えてくださる箇所です。

「神は、キリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」

「和解」というのは、聖書では、神様がご自分の思いを変えてくださることです。神様は、私たちに腹を立て、私たちの話を聞きたくもなければ、顔も見たくないと思っていた。そのような神様の心を、イエス様が変えてくださった。私たちをご自分の近くに置き、話を聞き、顔と顔を見合わせて、共に生きていこうと、気持ちを変えた。これが、和解ということです。

普通に考えると、「和解」というのは、人間同士が仲直りをするということです。それには、お互いに気持ちを和らげるということがあります。でも、聖書の「和解」は、私たちの気持ちは関係なく、神様の気持ちだけが問題になっています。

神様は、お気持ちを変えてくださったので、私たちの罪の責任を問うことをやめました。罪の責任を問うと、どうなるのでしょうか。必要な時に神様の助けを得ることができません。様々な時、私たちは、どうしたらいいか、考えて行動することになります。迷うことがあります。自分はなんの価値もないと思うこともあります。様々に悪いことを考えることもあります。そんな思いの結果は、生きる希望のない人生です。

私たちが自分の思い悩みや、苦しみ、そしてその結果、くじけてしまっても、神様の所に行けば、いらっしゃい、待っていましたよ、話を聞きましょう、一緒に生きていきましょう。こうなるのが、罪を問われないということです。

なぜ罪を問われないのか、「キリストによって」罪を問うことをやめたのです。神様の怒りのもとにある人間は、自分が何をしたとしても、自分から神様と和解することはできません。ただ、キリストが十字架にかかってくださったので、死を通じてのみ、神様の側から、人を許す道を与えてくださったのです。

イエス様は、この世界に人間として生まれ、人間の一員として貧しい生活の中で育ちました。けれども、その生涯は、神様に全く背くことのないものでした。それは、たくさんの人々を癒し、教え導いたばかりではなくて、何の罪もないのに十字架に掛かってなくなる時までそうでした。生涯を通じて、神様の御心に従って歩んだ。これは、私たちの誰にもできないことでした。イエス様は、神様の御心にかないました。神様は、イエス様がご自分の思いと同じだと認めてくださいました。それは、神様がイエス様を信頼したということです。信頼するとは、義と認めるということです。神様は、イエス様を正しいと認めてくださったのです。

「キリストによって」とは、このイエス様に免じて、神様は私たちへの気持ちを変えたということです。イエス様が、神様にとって信頼できるから、神様は私たちをも、信頼してあげようというのです。

イエス様に免じて、神様が私たちのことを信頼してくださる。これは、どうしてでしょうか。イエス様と私たちとの間には、何があるでしょうか。何もないのであれば、神様と私たちとの間も、何も変わらないことになります。

ヨハネによる福音書の中に、イエス様は、弟子たちを愛し、愛し抜いた、と書いてあります。キリストは、弟子たちを愛し抜いた。愛していたから、神様に、「私に免じて赦してやってください」とお願いしてくださった。だから、私たちは神様によって赦されたのです。

弟子たちというと、2000年前にイエス様と一緒に生きた人たちだけだと考えると、私たちとは全く関係のないことになってしまいます。そうではありません。わたしたちも、イエス様の弟子なのです。イエス様は最後に、「私はあなた方を友と呼ぶ。」とおっしゃいました。そうだとすると、わたしたちもまた、イエス様の友達なのです。

友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はないと、イエス様はおっしゃいました。キリストは、私たちを愛し、愛され抜いた。それは、天に登っておられる今もそうです。キリストは、天井で、私たちのことを、神様に取りなし続けていらっしゃるのです。どうか、神様、この者は、私の大切な友人です。私が自分の命を落としてまで、守った友人です。だから、神様、どうか、この者のことを思ってください。この人は、あなたを必要としています。必要な助けを与えてください。そのように、ひとときも欠かさず、とりなし続けてくださっているのです。

でも、弟子たちは、この世界の支配者たちが、イエス様を捕らえにやって来た時、怖くてみんな、逃げてしまいました。イエス様が、愛し、愛し抜いた弟子たちさえも、そうでした。そして、そんな人は知らないと、否定をしたのでした。

「あなたも私を離れていきたいか。」イエス様は、おっしゃいます。頼りにならない弟子たちを愛して、愛し抜かれ、神様を裏切ってしまう人々のために、神様に「この人たちを赦してください」と祈ったのが、イエス様です。

イエス様が私たちを愛し、愛し抜かれたことを信じることが、私たちの信仰です。そのことこそが、私たちを神様の救いへと連れて行くのです。

19節の最後には、「和解の言葉を私たちにゆだねられた」とあります。イエス様によって神様が私たちを愛してくださり、共に生きようとしてくださっていることを、皆さんに伝えることを、神様は教会に任せてくださったということです。14節で、「キリストの愛が私たちを駆り立てている」とパウロは書いています。これは、私たちのキリストへの愛ということではなくて、キリストが私たちを愛してくださっている、その愛のことです。キリストが、私たちを愛し、愛し抜かれた。その愛は、わたしたちを神様の命に生かそうとする者です。そのキリストの愛によって、教会はこの世界に福音を宣べ伝えようと、しているのです。

富士吉田教会は、新しい世紀を迎えました。私たちの命は、日々、新たにされます。神様に、毎日、毎週、み言葉をいただき、そのみ言葉 新しい生きる糧を頂き続けるからです。私たちが集う教会も、日々、新たにされていきます。しかし、教会は、私たちを愛し、愛し抜いたキリストの愛によって立ち続けます。その意味では教会は、全く変わらず、これからも福音を宣べ伝え続けます。

神様、どうか、私たちをイエス様によって、御国に入る時まで、お護りください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

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