日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年8月28日 「賢い人と愚かな人」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書7:24~29

今日の箇所を読みながら、「ブーフーウー」と言うテレビ番組のことを思い出していました。また、多分YMCAやYWCAのキャンプのリーダーだった時に覚えた振り付けのついた歌もあります。
「ブーフーウー」が、子ども向けの「おかあさんといっしょ」と言う番組の中で放映されていたのは、1960年代のことのはずです。そして、YMCAやYWCAのリーダーだったのは1970年代の終わりごろでした。ずっと、子どもたちは「土台を大事にしなさいよ、きちんとした家を建てなさいよ」と言われ続けていたと言うことになります。
今はどうでしょう?こんなことは言われませんか?・・・
どうして、親はこんなことを言うのでしょう。いろいろあるかもしれません。でも、わたしは、「だから、今、ちゃんと勉強をしておきなさいよ、大人になってからでは、間に合いませんよ。」と言われているんだ、と思っていました。皆さんは、どんなふうに感じていますか?
今日の箇所は、5章から始まっていた山上の説教の最後を締め括る箇所です。聖書の中で置かれている場所を確認すると、聖書の言いたいことが、段々分かってきます。それでは、それは、子どものわたしが感じたことと、同じでしょうか。
山上の説教の最初、5章には、こんな人が天の国に入れます、と書いてあります。
まずは、心の貧しい人です。心が貧しいとは、心に平安がない人、と言う意味だろうと思います。詩編23篇には、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とダビデが歌っています。「欠けるものがない」というのは、主が青草をたくさん食べさせたり、水を飲ませてくれたりするので、おなかも一杯になるということでしょうが、それだけではありません。いい羊飼いによって、心も安心していると言うことだと思うのです。心の平安とは、神様と一緒にいて、安心している心の状態です。不安で不安で仕方がない。神様がいないからです。天の国に入れるとは、その神様が、一緒にいて下さると言うことです。幸いな人の最初に置かれているのは、そんな人たちです。
まじめに働いてお金を少しずつ貯めても、心に神様が共にいなければ、心の平安は得ることができません。偉くなるためには、賄賂を使ったり、策略をめぐらしたり、と言うことをしなければいけないんだ、と考えるとしたら、それはからだのともし火である目が濁ることになります。せっかくイエス様が開いてくださった天の国への道が、見えなくなってしまうのです。
「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」とも、書いてあります。先ずは、神様のことを考えなさい。そうすれば、お金は自然について来るよ、と書いてあります。神様は、わたしたちがお金持ちだろうが、貧乏だろうが、分け隔てをする方ではありません。だから、世の中でうまくいかなかったとしても、それは神の呪いではありません。それは、わたしたちの心が神様に向くように、神様が与えて下さったチャンスです。そのように考えるようにと、わたしたちは神様から招かれています。
悲しむ人たちは、なぜ悲しんでいるのでしょうか。5章を続けて読んでみると、兄弟に腹を立てる人、不倫をする人、離婚をする人、復讐をする人、敵を憎む人が出てきます。兄弟と仲違いをし、不倫をされたり離婚されたりし、家族を殺されて悲しみ、復讐をしようとする。そんな理由が悲しむ理由かもしれません。主イエスは、そのような人々に、兄弟に腹を立てるな、仲直りしなさい、と命じています。不倫はするな、離婚はするな、と言います。悪人に手向かうな、復讐もするな、敵を愛せ。ここまで行くと、「とてもできません、できるのはイエス様だけです」と思うのですが、そのような命令を通じて、わたしたちは、自分の心が神様から離れてしまう悲しみから遠ざかるようにと、招かれています。
さらに、義に渇く人がいます。神様の正しいことが行われるように。まずは、自分自身が正しくあるようにと、招かれています。人を裁くな。あなた方も裁かれないように。人に対して公平に接することで、わたしたちは自分自身も公平に扱われることが期待できる。神の国に向かう一歩となるのでした。

5章から始まった山上の説教、わたしたちは何を教えられるのでしょうか。今日の箇所で、土台とした岩とは何でしょうか。神様ですね。神様から離れるな。お金持ちであったり、貧乏であったり、家族が殺されたり離婚されたり。人生にはいろいろなことがある。そのどれもが、神様から離れさせる可能性のあるこの世の出来事です。けれども、これらのことに心を奪われ、神様から心が離れてしまったら、人間は土台として頼るべきものを失うことになるのです。
土台として頼るべきものを失ったら、どうなるのか。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると倒れた。この倒れる家とは、何でしょう。先ほどから、神様と共にいることによる、心の平安のことをお話しをしてきました。そう、家が倒れると、心の平安を失くしてしまいます。けれども、それだけではありません。心の平安をなくせば、心全体が病んで来ます。心が病んで来ると、生活が荒れてきます。生活が荒れて来ると、家族ともうまくいかなくなるし、学校や仕事もうまくいきません。心が病めば、体も一緒に病気になるのも、良くあることです。
礼拝では、「使徒信条」を告白しています。週報の後ろのページに印刷してありますが、そこの最後に近い所に、「聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と書いてあります。聖徒の交わりとは、教会でのほかの教会員とのお付き合いのことです。罪の赦し、つまり神様との関係が修復され、神様との心の平安が回復されると言うことです。それによって体が元気に回復する。からだのよみがえりの一つの意味とは、そういうことです。そして、永遠の生命。神様と共にいると言うことです。土台に神と言う岩を持っている時、心の平安が与えられ、体が元気に健康になり、愛する家族、友人たちと共に神様のもとで、永遠の生命に生きることになる。まさに、岩の上に自分の家を立てた賢い人、と言う訳です。
賢い人、愚かな人、この建てる家とは、いずれも、心だけの問題ではなく、体も生活も、すべてが含まれていることを確認したいと思います。主イエスが、心だけではなく、実際に十字架に付けられて死に、三日目に死人のうちからよみがえられた、そのことの意味は、わたしたちのいただく永遠の命もまた、心ばかりでなく、体をも含んだものであることを示しています。
何度も言っていることですが、人生の途中で、家が倒壊してしまうように、何か失敗をしてしまった。そうなったら、どうしたらいいのでしょうか。イエス様の復活が、死んで葬られ、陰府に降り、三日目に行われたことを思い起こしましょう。最後の息を返す時まで、つまり人生の最後の瞬間まで、チャンスはあります。

山上の説教が、マタイによる福音書の最初の方にあるから、イエス様の十字架は関係ないと、考えてはいけません。この山上の説教は、イエス様が主張して宣教活動を始めたけれど、結局のところ十字架に掛けられてしまったので、挫折してうまくいかなかった説教では、ないのです。
主イエスは、神様のご計画を成し遂げて、天に帰られました。ご自分のなすべきことをすべて成し遂げ、天上で神の国、天の国の王として、わたしたちを永遠に統治しておられ、養っておられます。その天の国のわたしたちの王とは、地上の視点に縛られたわたしたちの目から見ると、どんなに貧しく、つまらない、価値のない者だと見てしまうような小さな者に対しても、ご自分の命を喜んで投げ出して守って下さる方なのです。ここで語られている主イエスは、そのような十字架に付けられ、死にて葬られ、三日目によみがえり、天に昇ってすべての権能を預かっている、永遠の統治者なのです。
わたしたちが信じるべきは、この方が、ゆるぎない岩であり、わたしたちを神のもとに間違いなく連れて言ってくださる方だと言うことです。山上の説教は、挫折した伝道者の理想ではないのです。わたしたち自身を支え、導く、力強い天の国の律法であって、わたしたちを命へと導くものです。
主イエスがやって来て、宣教活動を始めた時、4章16節でマタイは、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の谷に住む者に光が射し込んだ。」と、イザヤ書の預言が今こそ実現しつつあるのだ、とわたしたちに教えています。この光は、主イエスの十字架によって、途絶えてしまうものではありませんでした。むしろ、十字架と復活によって確かなものとされ、天の国に生きるわたしたちを永遠の生命に生かすものなのです。
お祈りします。
天の父なる神様、わたしたちを集めてくださり、ありがとうございます。わたしたちが、あなたに深く聞き、あなたによって心も体も生かされて、生きて行くことができるように、導いてください。このお祈りを、主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2016年8月21日 「光の子として」 石和教会 田邉良三牧師
エフェソの信徒への手紙5:6-20

 もともと私たちは暗闇の中にあったと聖書は言います。空しい言葉に翻弄され、私たちの造り主である主の御心に逆らい生きる者であったのです。その私たちのために、キリストは私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって十字架の上に死んでくださり、三日目に罪の呪いである死を打ち破り復活してくださったのです。そのキリストによって私たちは神に背く罪を赦され、新しい命をいただき、光とされ、光の子として生きる者とされたのです。
 この救い主イエス・キリストを天の父なる神が私たちのもとに与えてくださいました。だからこそ、そうして主のもとに集められ、信じる者とされ、光りの子として生きる者たちは、まず何が主に喜ばれることかを吟味しなさいと言われるのです。それは私たちの思いを無視して生き方を無理強いされているのではありません。主の御心に逆らい続けていた私たちが、いまや主が喜ばれることを自らの喜びとして生きることが出来るといわれているのです。
 ここで主に喜ばれる者としてまず言われることは、光りの子に相応しく自分をしっかりと整えてから主の前に立つということではありません。暗闇に翻弄され、がんじがらめになったままで主の前に立って良いというのです。そのままのあなたたちを主は照らしてくださり、光としてくださり、光りの子として歩ませてくださるのです。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
 私たちが自分の力で、死の眠りから、死者の中から立ち上がることは出来ません。その私たちに主は、起きよ、立ち上がれと呼びかけ、立ち上がらせてくださるのです。そして、主によって立ち上がらせていただいた者は、主の光に照らされ、主によって光とされていくのです。私たちの前にどのような苦しみや悲しみ、困難があったとしても、主はいつも私たちを照らし、その歩みを光とし、私たちを光りの子としてくださるのです。

2016年8月14日 「善をもって悪に勝つ」 今村あづさ伝道師
ローマの信徒への手紙12:14~21

毎年、8月のこの時期になりますと、日本では矢継ぎ早に、太平洋戦争を思い出す一連の記念日がやってきます。8月6日には広島の日として、原爆投下を記念して戦没者追悼集会が行われ、必ず首相が参列します。原爆の投下された8時15分には、テレビでも富士吉田市役所からも、サイレンが鳴らされ、人々が黙とうします。明日8月15日には、また甲子園の高校野球が中断されて、黙とうの時間が設けられることでしょう。
長崎の原爆記念館は、昨年の3月に見学しました。恐ろしい写真がたくさんありました。長崎は、カトリック・ローマ教会の大きな教会がたくさんあります。長崎市内の教会は、レンガが焼け焦げ、崩れました。浦上天主堂は、聖母マリア像がありました。「無原罪のお宿り」という典型的なポーズの像だったそうです。聖母マリアは三日月の上に乗り、天使に支えられて天に召天していくのです。しかし原爆によって残ったのは、頭の部分だけです。その頭部も、焼け焦げ、目に嵌められていたガラス玉は溶け落ちてなくなっています。
原子爆弾投下についてのドキュメンタリーが最近、放映されました。一般市民が生活している市街地に原子爆弾を投下することについて、アメリカ合衆国のトルーマン大統領は承知していなかったというのです。軍人や科学者などの核兵器開発者側は、兵器の性能を試す意図もあって、周囲を山で囲まれ、人口の多い都市を選んだとのことでした。非戦闘員を必然的に巻き込む核兵器には、強く反対をしていかなければなりません。
けれども日本は、この戦争で、戦争の加害者として、拭うことのできない恥ずかしい過去を背負ったということも、思い出さなければなりません。アメリカ合衆国の真珠湾攻撃から始まるのが太平洋戦争ですが、その前に中国への侵略が長期間に渡ってありました。その結果が、外交的孤立であり、アメリカの禁輸政策を受ける。そしてアメリカの天然資源が手に入らないから、東南アジアへ侵攻する、ということになっていきます。
山川出版の日本史の教科書を読みながら、起きたことを確認しているのですが、いろいろなことが起こりました。何を止めることができたら、阻止することができたのでしょうか。それは、重い問です。結果として、日本軍の戦死者310万人、一晩で10万人が亡くなった東京大空襲を初めとして、日本各地の空襲による死者は26万人、原爆による死者が広島が20万人、長崎が7万人と言われています。
日本は、このような戦争を二度と起こしてはならないと、平和憲法を施行し、第9条では戦争放棄を宣言しています。私たちも、毎年、平和への誓いを新たにしているのです。
最近は、中国の尖閣諸島や南沙諸島への露骨な進出が目につきます。また、北朝鮮は、盛んに日本海に向けてミサイルを飛ばし、最近は日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下したものもあります。日本によって侵略され、植民地とされていた中国や朝鮮が、今では逆に日本を威嚇している。攻守所を変えただけで、本質的には何も変わらないのか、とも思いたくなります。
しかしながら、最近読んでいるスティーブン・ピンカーと言う人の書いた『暴力の人類史』という本によると、歴史を通じて、暴力は減少しているというのです。殺人は、人々の犯罪を取り締まり、懲罰を与える政府機能がしっかりしてくることによって、減少してきたと彼は分析しています。ピンカーは、今から2万年前の農業の初期の頃、殺人によって命を落とす人は、4人に一人に上っていたと推計しています。
教会で木曜日午前中にやっている聖研祈祷会では、ヨシュア記が7月で終わったところです。ヨシュア記は、旧約聖書の申命記の次の書です。申命記では、イスラエルの人々を率いてエジプトから脱出したモーセが、最後は亡くなってしまいます。神様は、モーセを通じて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から脱出させ、カナンの土地に連れて行くと約束されました。しかし、モーセは、その約束がかなえられる直前で、亡くなってしまいます。ヨシュア記では、モーセの跡を継いだヨシュアが、とうとう、ヨルダン川を渡り、カナンの土地に入り、イスラエルの人々は家ごとに約束の土地を得ることができるのです。
カナンの土地は、人が住んでいなかったわけではありません。ここには、多数の町がありました。レンガなどで高い城壁を作った町もありました。町は、城壁によって、人々の襲撃を防いでいたのです。このような町には、支配する王もいました。
町の人々は、城壁の外に畑を持っています。他の町の人々との間で、地境のいざこざがあれば、町から隣町の住人を懲らしめに行きます。作物の出来が悪い時など、時には逆に、略奪に行くこともあります。こういった小競り合いは多かったようです。
カナンの町の人口は、多くても一万人くらいまでです。顔見知りとか、顔と名前が一致するには難しいかもしれませんが、一族を率いる家父長はそれほど人数は多くありません。何かにつけて一堂に集まり、気持ちを一つにすることはできたでしょう。一方、住人ではない人々は、町の人々から見れば、何を考えているか分からない人々です。そもそも、言葉が通じづらい。意志疎通も、ままならないのです。外の住人は、町の中の人間と比べると、自分にとって関係ない人々、価値のない人々ということだったのかもしれません。
このようなカナンの土地に、イスラエルの人々が入植していきます。彼らは、数十万人もの人数だったと出エジプト記に書いてあります。となると、顔見知りでお互いの気持ちが分かる、という人々ではありません。けれども、モーセを通じて神様から与えられた十戒を初めとする律法があります。たとえば、ある町が異民族に攻められる。救援を求められた人びとは、助けを求めているのは同じ主なる神を信仰するイスラエルの民なのだ、と思うから、援軍を送るのです。あるいは、全然知らない人にある日、出会う。しかし同じイスラエルの民だということが分かる。そうすると、同じ神を愛し、殺すなかれ、憎むなかれ、という同じ十戒を守っているということで、安心できるのです。
けれども、モーセを通じて伝えられた神の言葉、律法では、他の民族には「アマレクを滅ぼせ」と繰り返され、聖絶せよ、つまり皆殺しにせよ、と命じられていました。これは、イスラエルの民は神の宝の民、と言われている同じページに書かれている言葉です。つまりは、主なる神を信じていない民は、神を恐れていない。ということは、人を殺すことをなんとも思っていないかもしれない。盗むこともなんとも思っていないかもしれない。信用できない。恐ろしい。何かされる前に、どうにかしなければならないのではないか。あるいは、何かされたら、仕返しをしなければ、なめられて皆殺しにされるかもしれません。
けれども、イスラエルの人々には不幸なことに、神の計らいにより、歴史は進みました。イザヤ書やミカ書で預言されている、国と国とが戦いを行わない、戦うことを学ばない、そのような時代が、呪いではなく祝福によってやってくるのです。すべての人を、神の祝福に招くためです。イスラエルという小さな地域を超えた国家の枠組みができて来る時代となりました。イスラエル王国、ユダ王国は、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ローマといった大帝国の一地域として組み入れられるようになったのです。ユダヤ人は、多民族国家の中で、神殿を建て、主なる神を礼拝することが許されることになりました。
こうなると、イスラエルが国家だった時、近隣のペリシテ人などとの争いは、戦争でした。ところが、帝国となると、帝国内の民族間のいざこざに過ぎなくなります。帝国の治安の問題ですから、警察の出番です。勝手に戦争をすることはできなくなりました。それだけ、戦争は減り、死者は減るのです。
日常的に、たくさんの民族の中で暮らし、外では公用語を話しているけれども、自分たちの民族の中では民族の言葉を話し自分たちの文化を持つ、といった生活は、他民族の人々との接触に常に緊張を強いられます。強いストレスは恐怖に変わり、強い恐怖を感じた時、人は爆発的に暴力をふるうことによって、自分を守ろうとします。「窮鼠猫を噛む」ということわざの通りです。
今日の聖書の箇所では、ローマのキリスト者の人々に向けて、手紙が書かれています。迫害があったようです。キリスト者にいろいろと悪いことを行う人々がいたようです。そのような人々に対して、高い倫理性をパウロは要求しています。
このような倫理性は、もちろん、律法が要求しているからではありません。キリストを通して神との信頼関係が回復されたという、賜物としてのキリスト教的生活なのです。キリスト者は、聖霊をいただき、聖霊によって、神との間の親しい愛の生活に招かれています。教会の兄弟姉妹、それぞれが、聖霊によって神と親しい関係にあるのです。赦されて、いるのです。この愛こそが、聖霊の賜物です。
教会は、時代が変わり、神の国が実現し、迫害が終わることを確信していました。主イエスが建てて下さった国です。聖霊の賜物としての愛が、教会の各人の業です。その愛は、自分自身ではなくて、神への愛の奉仕に向かいます。兄弟姉妹へ向かいます。教会の周囲の他人へと向かいます。
社会は、キリスト者に敵対しています。迫害があります。けれども、ここで、迫害に対して祝福を祈るのです。迫害に対して呪いで対抗するのであれば、呪いの連鎖が起きてしまいます。
呪いの連鎖を断ち切り、祝福を祈るように、という言葉に、アブラハムへの神の約束が成就していることを感じます。アブラハムは、主なる神様に「祝福の源となるように」と言われました。さらに、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」ともおっしゃいました。
善をもって悪に勝つ。そのためには、自分の心の中の弱さ、恐怖に打ち勝つ必要があります。人々は、私たちに害をなすかもしれません。裏切るかもしれません。けれども、私たちは、キリストによって、神の愛を示されました。その圧倒的な復活の光に照らされて生きることを許されています。その神の愛の中に生きるのです。
アブラハムは、祝福の源となるようにと、主なる神に招かれました。地上の氏族のすべてが、アブラハムによって祝福に入ると神は言われました。呪いに対して祝福で返す。主イエスは、ご自分の身に神の呪いをすべて引き受けて、十字架に着かれました。すべての人々を神の祝福に招くためです。主イエスにより頼み、主にある平安の中に生きていくこと。それによってわたしたちは、自分自身の心の中の恐怖に勝つことができ、悪に対して悪で返すのではなく、善で返す勇気を持つことができるのです。
平和の主よ、わたしたちの内に住み給え。
お祈りいたします。
在天の父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を賛美します。わたしたちが平和の主であるあなたにご支配され、心のうちから恐怖を取り除き、平安に生きていくことができますように。悪に対して、善で返すことができますよう、わたしたちの心を強くしてください。世の中を支配しているすべての国の人々にも、等しく働いてくださいますように、主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

2016年8月7日 「弟子を招く方」 野村なるみ神学生
イザヤ書61章1節

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