日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年7月31日 「天の父の御心を行う」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書7:21~23

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う物が皆、天の国に入る訳ではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
今日の箇所は、先週の15節~の偽預言者についての話の続きとして、読む箇所です。わたしたちの仲間、むしろ指導者と考えられる人物でも、よく見極めなければいけない。羊の皮を着た狼もいて、貪欲に羊を食い物にしようとしている場合がある、と言う訳です。狼にも色々あって、わたしたちは、迷う訳です。
先週は、この話を、市制祭で上映されたジョン・デンバーの『オー・ゴッド』と言う映画に関連して、お話しをしました。映画に出て来るメガ・チャーチ、つまり数千人もの会衆が集まり、テレビ放映もされているような説教者が、実は金集めばかりに心が行っていて、神様に裁かれるというものでした。
マタイによる福音書で偽預言者が出て来るのも、何かこう言った具体的な問題があったのだろうと思います。十二使徒の教え(ディダケー)という、2世紀の初めに書かれた本を確認すると、「偽預言者についての説明もあって、たとえば、あなた方の所に来る使徒はすべて、主を受け入れるように受け入れなさい」とあります。「彼は一日しか留まらないことになっている、もう一日留まってもよいが、三日留まるなら、彼は偽預言者である」、とか、「パンは携えてもよいが、金銭を求めるなら、彼は偽預言者である。」とか、書かれています。金銭の問題は、ジョン・デンバーばかりでなく、昔から問題であり続けているのです。
もちろん、金銭の問題ばかりではありません。ディダケーも、聖書に書かれている勧めが、具体的に書かれています。「神を愛し、隣人を愛するように。あなたが人に起こらないよう望むことは何でも、あなたも他人に行わないようにしなさい。」命へ至る道としての、最初の勧めです。
命に進む道が具体的に何であるのか、それは私たちが判断するように任されています。映画では、食品添加物のことが問題とされていました。命を支える食物を売るスーパーの店員として、消費者を欺かず、食品は安心、安全でなくてはならないというのが、彼が神様に託された使命だ、と言う主張が行われていたようでした。
先週の聖書箇所の偽預言者の話では、具体的に人に気を付けなさい、人の言うことに注意しなさい、と言う風に言われています。自分のことではなく、人のことと読みがちですが、7章の13節~27節までを、山上の説教の締めくくりの言葉としてまとめて読んでみると、実は自分自身への勧めであることが分かるのです。
山上の説教は、5章1節~始まります。最初の「幸い」で、天の国に招かれる人々のことが語られます。天の国がどんなところだよ、と言うよりも、天の国に招かれるのは誰だ、と言うところに重点が置かれています。そして、地の塩、世の光から、旧約聖書の律法を徹底した教えが語られます。その教えが、直前の12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」この言葉でまとめられている訳です。
そうして、13節から、これらの教えを受け入れるだけでなく、行うように勧められます。今日の箇所では、山上の説教の教えは、天の国に入れるかどうかの条件なのですよ、ということが語られます。

さて、恐ろしい事件が起こりました。26歳の若い男が、夜間に障害者施設に押し入り、19人もの人々を刺殺し、それ以上の人々にけがをさせ、自首しました。彼は、重度の障害者は、安楽死させるべきだ、という極端な考えに取りつかれ、そのことを衆議院議長に訴えに行きました。それどころか、自ら、そのような人々を殺害すると言う犯罪を犯したのです。
彼の考えは、ヒトラーが主張し、実際に第二次大戦中に実行された優生保護法の考え方であると、報道されています。実際、この考え方に従って、ナチス・ドイツは、障害者、ユダヤ人、同性愛者と言った人々を殺害していったのでした。
しかし、日本がこのような考え方と無縁だったわけではありません。むしろ、日本の歴史を見てみると、つい最近まで障害者は、柱に縄で括りつけられ、あるいは床下や座敷牢に閉じ込められるということが行われていたようです。発展途上国に行くと、町の市場の片隅にはこのような人々が横たわっていて、物乞いをする姿が目に入ります。また、芝居小屋などで、見世物にすると言ったことも行われていました。手に負えないからと、密かに殺された人、病気になっても見殺しにされた人なども、なかったわけではないでしょう。
テレビやネットでも有名になった近江学園の糸賀一雄は、このように訴えました。「謙虚な心情に支えられた精神薄弱な人びとのあゆみは、どんなに遅々としていても、その存在そのものから世の中を明るくする光がでるのである。単純に私たちはそう考える。 精神薄弱な人びとが放つ光は、まだ世を照らしていない。世の中にきらめいている目もくらむような文明の光輝のまえに、この人びとの放つ光は、あれどもなきがごとく、押しつぶされている。」
糸賀は、クリスチャンで、「世の中を明るくする光」は、マタイ5章14節の「世の光」のことです。障害者に対して、世の光となるように、その力はある。彼らの発する光を世に出して、輝かせるように、しなければいけないのだ、と訴えたのでした。
この方が亡くなったのが、1968年です。日本は、障害者支援制度は、それから随分、発達したと思います。しかしながら、すばらしい理念を主張し、そのための行動を起こしても、先ずできるのは実験的な施設、それから箱物が全国に拡がりますが、人々の意識まで変えることはなかなか難しいのだと思います。
制度の運用面では改善してきたものの、一人一人の意識は変われないということが、今回の事件で明るみに出てきました。

モーセによって率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民の状況を考えても、人の意識を変えるのは、大変に難しく、長い時間が掛るのだと思うのです。エジプトの状況は、奴隷で、神に助けを求めたために、神はモーセを選び、人々を救おうとしました。エジプトにさまざまな災いをもたらし、紅海でファラオの軍隊を撃退した、神の素晴らしい働きがあります。荒れ野に入り、もう少しでカナンに入るオアシスまで、2年で到達しています。ところがその後、実際にカナンに入るまで、38年間の時間が掛りました。
モーセは神の言葉を伝え、マナを降らせてイスラエルの人々を食べさせました。しかしながら人々は、エジプトの肉鍋が恋しいと不平を言い、わたしたちをこの地に連れ出したのは、荒れ野で滅ぼすためか、とモーセに不平を言います。指導者は神を指し示し、人々を導いていても、人々自身は神に心を向けることからは程遠いのです。しかし彼らが神の方を向いていなければ、約束の地に入ることはできません。ヨルダン川を渡った先のカナンの地では、一人の例外もなく、約束の地を嗣業、つまり神様から与えられた永遠の恵みとして、与えられました。
一人の例外もなく、恵みをいただくために、人々は訓練される必要がある。エジプトからヨルダン川を渡るまで、40年間かかったと言われています。そのうちのほとんどは、こうして荒れ野のオアシスで苦しい生活を強いられた時間です。しかしながらこの時間は、モーセによって率いられているイスラエルの人々が、主なる神によって訓練され、ふさわしいものに変えられて行く時間だったのです。
とは言え、イエス様の山上の説教はきびい命令ですし、ディダケーを読んでも、主にふさわしい奉仕者や監督と言う者は、とりわけ厳しいことが言われています。そんなことを言われても、できるものではないと思いますし、過去を顧みて、既に駄目だ、と思うことしきりです。
しかしながら、今日の御言葉は、終わりの日についてです。ありがたいことに、終わりの日まで、わたしたちにはチャンスが与えられ続けているということです。この社会に、わたしたちができることは、たくさんあります。制度が整い、昔と比べたら随分良くなった。そう思っても、実際には、底が透けて見える、脆弱なものなのだ、と言うことを、今回の事件は、わたしたちに思い知らせてくれました。地の塩、世の光であるには、どうしたら良いのか。わたしたちの結ぶ実は、この平凡な毎日の中にあります。
終わりの日まで待ってくれる、ということは、変われるということでもあります。思い返してみますと、モーセは、若い時に、エジプト人がイスラエル人をひどく扱うのを見て、そのエジプト人を殺してしまった人物です。そのモーセが、神に選ばれて、イスラエル人を率いてエジプトを脱出する役目を担ったのです。シナイ山で授けられた十戒の第6戒には、「あなたは殺してはならない」とありました。神が嫌った殺人を犯した人物を、神が選んだ。神は、どうして殺人者を、イスラエルを救う者として立てたのでしょうか。命の最後まで、神に向き直るチャンスは残されているということです。
命の最後に、多分私は、あんなこともしてしまった、こんなこともしてしまった、と後悔し、わたしはもう、滅びるしかないと、自分の行いについて絶望することでしょう。けれども、主イエスがいてくださり、わたしが許されるために十字架に掛って下さった。その主イエスを父なる神は復活させてくださり、天の国の王として、即位させてくださった。そのお方が、終わりの日の裁き主なのです。そのお方の確実さ、強さ、完全さに信頼して、わたしたちは最後の日を迎えることができます。神の、あまりに大きな愛を見つめつつ、喜びの中に、今週も過ごしてまいりましょう。
お祈りいたします。天にいらっしゃる父なる神様、突然、奪われてしまった多くの人々の魂を、あなたが慰めて下さい。できることなら、御もとへと集めてくださり、憩わせてくださいますように。わたしたちの心をも引き上げ、あなたを見つめてますます勤めていくことを得させてください。主イエス・キリストの御名を通して、お祈りします。アーメン

2016年7月24日 「羊の皮を着た狼を見分ける」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書7:15~20

昨日、市制祭カフェや映画上映会に参加した人は、お疲れさまでした。と同時に、ありがとうございました。皆さん、長時間、ご奉仕くださり、計画通りに進んだことをとても感謝しています。それと同時に、とても豊かな時間をありがとうございました。
市制祭カフェでは、教会の周りの方たちが、昨年同様、来てくださり、主に買い物を喜んでされて行かれました。皆さんのお友達や知り合いの方たちも、たくさん寄ってくださり、親しい交流ができました。それから、小さいお子さんをつれたお母さんたちやご家族は、お茶とお菓子で結構長い時間を過ごしてくださり、喜んでいただいたな、と思いました。今年も、恵泉愛児園の卒園者ですと言う人たちが何人も来てくださいました。もしかしたら、市制祭カフェがミニ同窓会になっているのかもしれません。同窓会をやりましょう、という企画もいいかもしれませんね。
映画の上映会の方は、お寺でやって100人集まった、という実績からすると人数は少なめでしたが、「富士吉田に映画館をつくる会」のメンバーの人たちとの交流ができました。映画を上映した後は、原状復帰してくださいましたので、ここで、昨日、映画を上映したというのは、ちょっと信じられないと思います。
映画は、ジョン・デンバー主演の『オー・ゴッド』で、事前に予習をしていなかったので、まともなコメントができなかったので、説教の中で、どうしても話さなければならないなと思いました。
1970年代の映画なので、ジョン・デンバーは小学生の子供二人と奥さんの4人家族の若いお父さんです。カリフォルニア州の田舎の町のスーパーマーケットで売り場のマネージャーをしています。その彼に、ある日、神が面接をする。最初、神はラジオや電話の声だけなのですが、やがて掃除夫やボーイの姿をして、彼の前に現れるようになります。彼だけに声が聞こえ、姿が見え、神の言葉を周りに伝えるように託されるのです。
これは、幻聴や幻視であって、要は統合失調症にしか見えないだろうな、と思って見てしまいます。しかし、段々、まともに周りが受け止めるようになります。そして、最後は、今日のテーマの「偽預言者」のような説教者と対決をする。その時、皆の目に初めて神が姿を現し、この世界についてとても心配していること、そして神様の御心は、神様ご自身が行うのではなくて、人間が行うように託されているんだ、と言うことが示されるのです。
「偽預言者」と言いましたが、映画に出てきたのは、大衆説教者と言うのでしょうか、大勢の会衆を集め、ゴスペルを歌い、「悔い改める人は前に出よ」と呼び掛ける人物です。アメリカでは当たり前の数千人が集い、テレビ中継され、お茶の間の人気番組になっているような礼拝です。別に、神学的にこの人が批判される訳ではありません。この人が神の方を向いていなくて、自分の財布のことを考えていることが、神の裁きを受ける理由です。
ある人が、神様の方を向いているかどうか、分からなくても、その結果がどうなのか、それを見れば、良く分かる、と今日の聖書の箇所は言っています。ジョン・デンバーの映画で言えば、この大衆説教者は、金集めが目的となっていたのでした。そのような人間は「インチキだ」と神は退けるのです。
この箇所を準備する時に考えていたのは、カルトの問題でした。今は、推薦入学の募集時期であるらしく、富士吉田教会にも先週、青山学院大学のキリスト教推薦入学試験のご案内が来ました。なかなか大変で、教会の現住陪餐会員でないと推薦できないのです。しかし前の教会でも推薦が欲しいと、受洗した高校生もいたらしいですが、結局のところ、教会の礼拝に出席せず、と言うことに終わってしまいました。キリスト教推薦で入学した場合、学内のキリスト教活動に積極的に関わることが求められています。「青山学院キリスト教活動のしおり2016」と言ったパンフレットが同封されていて、礼拝、キリスト教関連科目、「聖書に親しむ会」といったクラブ活動、宗教センターでのゴスペル・クワイア、ハンドベル・クワイア、聖歌隊など、大変楽しそうでした。クリスチャンであれば有意義で楽しい学校生活ですが、入学のために受洗するのであれば、どちらにとっても不幸でしょう。
しかしその中で、「あなたのすぐそばにあるカルトの現実」というコラムがあり、カルトに対して神経を使って警戒していることが、目を引きました。
カルトとして名前を上げられているのは、原理、摂理、モルモン、エホバの証人などで、わたしが学生の頃とあまり顔ぶれは変わりませんが、今もあるのか、と思ったことでした。
カルトの問題は、日本の憲法のもとでは信教の自由が保障されているので、法律でこのような活動を禁止することは難しいということです。過去には、オウム真理教という宗教団体が、猛毒のサリンなどの化学物質を公共の場に噴霧するなどして、たくさんの人々を傷つけ、あるいは殺害したという忌まわしい事件がありました。こんな風に刑事事件を起こした場合は、取り締まれます。また、原理運動の場合、安い壺だのを高い値段で売りつけたりすることがあり、これを詐欺だと告訴することも出来ます。
けれども、本人が家族と会えなくなったり、学校や仕事を辞めてしまっても、いわゆる宗教活動の場合は、国家は法律で禁止することはできないのです。ということは、私たちは自分で気づいてこれは違う、と判断しなければなりません。けれども、それはとてもむづかしいし、気づいた時には自分一人では抜け出せなくなってしまう。だから、青山学院では相談窓口を設けて、支援しようと言うのです。
まず、「これらは青山学院大学で継承されてきたキリスト教理解とは大きな隔たりがあります。」と書かれています。青山学院で継承されてきたキリスト教理解というのは、つまりはメソジストの、と言うことですが、このパンフレットに明確に書かれています。つまり、「父、子、聖霊なる三位一体の神を信じ、十字架と復活の主イエス・キリストのみを救い主と告白し、旧新約聖書を教会のよるべき唯一の正典としている」と言う点です。しかしこの点は、改革長老教会の明治学院大学であろうと、英国国教会の立教大学であろうと、ローマ・カトリック教会の上智大学であろうと、違いはあるまいと思います。
カルトで厄介なのは、名前を隠して勧誘したり、長時間拘束したり、熱狂的な雰囲気の中で理性的な判断を鈍らせたりというやり方をすることです。パンフレットには、さらに「相手が自分に「考える時間」与えなければ、ますます怪しい。断る理由を説明する義務はありません。直ぐにその場を去りましょう。」と書いてあります。
過去には、このようなカルトにはまってしまい、なかなか出られないという人々がたくさんいました。テレビでも時々、放映されます。家族が説得をしても、本人が納得して脱退しないと言うことも起こります。客観的に見て、どんなに悲惨な状況になっていても、本人はそう思えないのです。
家族、特に両親が説得しても、本人が脱退しないのには、独特の理由があります。若い人たちにとっては、カルトに加入することによって、親からの精神的な独立ができたのだと思っているという点があるのです。
7章の9節で主イエスは、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」とおっしゃっています。多くの人は、まさにその通りだと考えることでしょう。親が子供たちに悪いことを行うはずがない、あなたの思い違いでしょう、と言う訳です。しかしながら、私たちは、最近、たくさんの児童虐待のニュースを目にするようになりました。もちろん虐待するのは、保育園の先生とかとか、母親の再婚相手の男性とか、血のつながらない場合も多いのですが、しかし実の父親、実の母親が子供を虐待するケースもない訳ではありません。実際に虐待は発生しているのです。
考えてみると、親だからと言って、神様である訳ではありません。間違いを起こすことのある、人間であるのです。事件になるまで酷くなくても、いろいろ問題があることはあるでしょう。さらに、実はそれほど問題にならないはずでも、子どもの目から見ると「ひどい親だ」と感じる場合はあると言うことです。
カルトは、そのような親子の人間関係のほころびのようなものを、問題にします。そんな親から独立し、これからは私たちの宗教の指導者を信じなさい、と勧めるのが常套手段です。
一旦こうなると、当の親が心配してどうこうしようとしても、親からの解放者と信じているのですから、なかなかいわゆる洗脳を外し、社会復帰を果たさせるのは難しい。だからこそ、せめて、深みにはまる前に、「すぐにその場を去りましょう。注意しましょう、と呼び掛けているのです。洗脳を外すには、一番心配している人が、相談センターなどの協力を得ながら、少しずつ人間関係の破れを解いていくと言う長い道筋が必要となります。本当に良い物を下さるのは、父なる神ですが、それが分かるのは容易なことではありません。

ところで、私たちの教会は、このようなカルトとは関係はないのですが、なかなかキリスト教徒ではない人には違いが分かりません。三位一体、イエス・キリストのみが救い主、旧新約聖書が教会のよるべき唯一の正典、と言っても、このことを理解できる人はなかなかいないでしょう。
話をもっと、難しくさせているのは、キリスト教会全体がカルトであるかのように、理解されてしまうと言うことです。カルトの特徴は、人数が少ないということ、そして極端な思想を持っているということです。けれども、日本のキリスト教も、少数派でその考え方は知られていないからです。実際に、「教会へ行ってみようかな?」と言う人にとっても、どこの教会に行こうかというのは、難問だろうと思います。行ってしまったら最後、抜けられなくなったらどうしよう、とか、変な所に行ったらどうしよう。住所を書いてしまっていいのだろうか。面倒なことにならないだろうか。心配は、もっともです。
さらに、私たちの教会が、知らないうちにカルトに近くなってしまうおそれは、ないわけではありません。どうしたらいいのか。気を付けて良い実を結ぶように、神様に働いていただいて、手入れをしていただくしかないのです。父なる神を愛し、キリストにより頼んで、聖霊に働いていただく。そして、今週も復活の命をいただいて、地の塩、世の光として生活していくのです。
スーパーマーケットを首になってしまったジョン・デンバーに、神は「スーパーは他にもあるよ」と言って消えていきます。「そんなところで働くのは止めて、伝道者として生きよ」、とは言いません。地の塩、世の光として、生活の中で証しして行くように、との勧めなのです。
それではお祈りします。
父なる神様。わたしたちに偽預言者を見分ける力を与えてください。そして、わたしたちが良い実を結ぶことができるように、いつも導いてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

2016年7月17日 「聖霊の賜物」 石和教会 田邉優子牧師
使徒言行録10:44-48

 ペトロが話していたこれらのこととは、「イエス・キリストこそすべての人の主である」ということです。この「すべての人」という言葉をこれまでペトロもユダヤの人々も自分たちユダヤ人を指す言葉としてしか考えていませんでした。なぜなら、神の民であるユダヤ人以外の人々は汚れた人々であり、主の救いの外にいると考えていたからです。しかし、ペトロは主の幻、霊の導きを通して、異邦人であろうとも主が既に清められた存在を清くない、汚れているとすることは御心ではないと気づかされたのです。主の十字架の救いは「すべての人」に、その「すべて」とはユダヤ人だけを指す言葉ではなく、主が御心とされる「すべての人」を意味することが示されたのです。
 そして、この御言葉を聞いていた人々の上に聖霊が降りました。そこにはユダヤ人だけではなく、割礼を受けていない異邦人もいました。しかし、聖霊はユダヤ人だけに降ったのではなく、共にいた異邦人の上にも注がれたのです。そのことを通してペトロもユダヤ人も、また、異邦人も主の救いが御心とする「すべての人」に及ぶことを確信したのです。
 では、割礼を受けている人々はどのようにして異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことを知ったのでしょう。それは、異邦人が異言を話し、神を讃美しているのを聞いたからです。聖霊の賜物を受けた人は神の偉大な業について話し、神を讃美するのです。主の十字架はユダヤ人でなかろうと異邦人であろうと主イエスを信じるすべての人を救うのです。主の十字架による救いが神の一方的な恵みの出来事であるように、聖霊の賜物も神の一方的な恵みの出来事としてユダヤ人にも異邦人にも与えられたのです。その確かな神の御心を知り、ペトロは異邦人へ洗礼を命じるのです。私たちに求められているのは、神の御心を受け入れ、神の御心に従って歩むことです。その歩みさえ、聖霊の導きの中にあるのです。神は私たちに聖霊の賜物を与え、救いの中に神を讃美して生きる者としてくださっているのです。

2016年7月10日 「狭い門」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書7:13~14

「狭い門」。新共同訳ではこのように書かれていますが、一般的には「狭き門」と言われます。「狭き門より入(い)れ」という格言も知られています。これらは、文語訳聖書の御言葉です。文語訳聖書は、1878年、つまり明治11年に最初の翻訳が出て、1917年(大正6年)に改訳されました。1917年と言えば99年前、わたしたちの富士吉田教会の設立の年ですね。「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。生命に至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者すくなし。」とあります。
広辞苑にも項目があるくらいですから、聖書は当時、随分読まれたんだな、と思います。しかも、難しい文語ですから、すごいと思います。
広辞苑で「狭き門」と言う言葉を引いてみると、まず、「キリスト教で、天国に至る道の険しさのたとえ。」と書いてあります。「あ、ちゃんと書いてある」と思ったのですが、続きがあります。「転じて、競争が激しくて入学・就職などの難しいことにも言う。」とあるのです。ちょっとこれは、ずれているな、と思うのですが、明治時代の日本人の聖書理解が示されているように思います。
日本語には、「難関」と言う言葉もあります。これは、江戸時代の、通過することが難しいので有名な関所のことでした。東海道の箱根、中山道の碓井、甲州街道では小仏などがあります。関所では、「通行手形」、今だとパスポートでしょうか、の提示が求められ、「入り鉄砲に出女」と言われ、人改めが厳しいことで有名でした。これも転じて、「難関を突破する」と言った言い方をします。
「狭き門」や「難関」と言う言葉は、日本の世間一般で使われる意味からすると、いずれもたくさんの人がやって来るところで、門での吟味が厳しくて、限られた人しか中に入れない、と言う意味に使われているように思います。そうして、明治時代以降は、進学率が長期間に渡って段々、高まって来る時代でした。学校制度が整えられて行く中、最初は義務教育は4年間の小学校だけでしたが、それさえも卒業できない子どもがたくさんいました。しかし、大正時代が終わるころまでには高等小学校、戦前は旧制中学と、進学熱は高まって行きました。戦後は高校の進学率が高まり、今では大学や専門学校へ進学することも当たり前になってきています。「立身出世」とか「故郷に錦を飾る」、と言った格言もあります。これらの言葉は、学校の入学試験とか、資格試験を突破するような場面に使われ、それが今では主な意味になっていると考えられます。
また、もともと聖書から取られた言葉である「狭き門」と言う言葉を、日本人にもっと有名にしたのは、アンドレ・ジードの書いた「狭き門」という小説でしょう。これも、広辞苑にちゃんと項目があって、「禁欲的信仰と生との矛盾の問題を提起。」と書かれています。この物語は、ジェロームと言う少年が、アリサという年上の従姉に惹かれていたところ、アリサは「神様と彼との間の障害は、他ならぬ私だけなのだ」と身を引いてしまうのです。アリサは、二人一緒に門をくぐることはできない、「どうか、わたしを退けて、あの人を天の国に入れて下さい」と真剣に神に祈ったりしています。どうも、この物語でも、狭き門とは、たくさんの人が殺到して、一度に入ることのできない門のようです。
それでは、今日の聖書箇所の「狭い門」とは、本当にたくさんの人が殺到して、一部の人しか入れないと言う意味の狭い門なのでしょうか。
今日の聖書の箇所を読むと、そう言う訳ではないようです。なぜなら、「その道は細く、見出す者が少ない」と書いてあるからです。見出す者が少なければ、道を通る人は少なく、門に人が殺到することもないでしょう。
聖書で「門」と言うと、どんなものだったでしょうか。日本人の感覚だと、先ほどの関所としての門、と言うことでした。これだと門の両側は道です。関所は、中山道など、街道の途中に置かれていました。今でしたら、たとえばアメリカ合衆国とカナダの国境沿いの通関のようなものですね。
けれども、聖書の「門」は、町の入り口にあるものです。町は城壁で囲まれており、町に入るためにはこの門をくぐらなければなりません。このイメージだと、日本で言えば大手門とか、お城のお濠を超えた向こう側の門だけになります。けれども、町の門は、普通の人々が通るものでした。日の出と共に開かれ、日没と共に閉じられました。町の外から野菜などを売りに来る人々は、この門を朝くぐり、夕方、もう一度くぐって、帰って行くわけです。門をくぐったところには広場があって、ここに市場がおかれ、商売ができました。
広場はさらに、町の長老たちによる裁判の場所でもありました。裁判が行われると言うことは、正義が行われる場所だと言うことでもあります。
人々は、城壁に守られ、神様の恵みに守られました。たとえば、「逃れの町」という町には、故意でなく人を殺した人間が逃げ込むことができました。聖書の時代、殺人を犯した人間は、通常死刑となりましたが、死刑の執行は殺された人間の身内がこの人に復讐することで、果たされました。しかし、故意でなくても、身内を殺された人にしてみれば、殺した相手に復讐したいと言うのは、自然の思いです。逃れの町はこの人間を復讐のために殺そうと言う、この人に殺された人間の身内が来ても、身柄を渡さないで門前払いをすることができました。町の門は、故意ではなく人を殺した人々にとって、命が長らえることのできる救いの扉であったのです。
神は、「罪なき者の血を流した罪をイスラエルから除き去れば、あなたは幸いを得る」と言い、故意ではなく人を殺してしまった人が、復讐のために殺されることは許されませんでした。たまたま、逃れの町に、たくさん人が殺到したからと言って、入場制限をするなどと言うことは、主なる神は命じていません。「逃れの町」は、罪ある人の罪を贖う神の恵みの掟だったのです。
創世記の28章では、ヤコブが石を枕に野宿をしていると、天国への階段が地に向かって伸びている夢を見ます。夢から覚めたヤコブはここはまさに、「天の門だ」と言い、「神の家」と言う意味のベテルと言う名前をその場所に付け、主なる神を礼拝する祭壇を建てるのです。ヤコブが「天の門」と言う時、それはまさに神の国が、彼の前に開かれている場所であったわけです。このヤコブは、父イサクを騙して兄エサウの受ける筈だった祝福を自分が横取りし、家族の家から逃げだした過去を持っています。罪がないとはとても言えないヤコブに対して開かれる「天の門」にわたしたちは神の憐れみを見るのです。
今日の聖書箇所は、滅びに至る広い門と広い道、命に至る狭い門と細い道、という対比がされています。先ほど、門とは、町の入り口にあるものですよ、と言う話しをしました。そうすると、道と言うのも、門をくぐった後で通るのではなくて、門に行くまでに通る道、と言うことになります。
道は、もちろん比喩的な言い方で、生き方と言った意味合いで使われます。「先祖の歩んだ道」「主の道」「悪の道」「悟りの道」と言った具合です。そうすると、「細い道」とはどんな道のことなのでしょうか。
先ほどお話しをしたジードの「狭き門」で示唆されているのは、修道院のような禁欲的な生活のことのようです。キリスト教の神が示している「狭き門」とは、禁欲的な生活であり、それは人間的な幸福とは矛盾するのではないか、というジードの問題提起が込められているようです。
「狭き門」が書かれたのは、20世紀の初め、1909年です。彼は、プロテスタント国であるスウェーデンからノーベル文学賞も受賞した人ですが、多くの作品にはローマ・カトリック教会への批判が込められています。この時代のカトリック・ローマ教会は、科学を認めず、世俗社会とは対立姿勢を鮮明にしていました。一方でジード自身は、アリサのモデルとなったと思われる年上の従姉と結婚するのですが、彼女といわゆる結婚生活をすることはありませんでした。それなのに、同性愛志向があったり、外に子どもを作ったりと、結婚生活は問題ありありでした。と言う訳で、この小説も社会状況を理解していなければ、読み方を間違えます。簡単に言えば、キリスト教は健全な結婚を勧めている訳ですから、ジードのキリスト教に対する問題提起は、現代の私たちには的外れであるのです。教会では教理講座も開いていますが、ジードは教理問答を勉強しなかったのでしょうか。
そこで、ジードを離れて、聖書でこのみ言葉が置かれている場所から、ここで言う「道」とはどんなものなのか、読み解くことができると思います。そうすると、わたしたちは「山上の説教」をずっと読んできたわけです。その中では、腹を立てるな、不倫するな、復讐するな、敵を愛せなどと言うイエス様の命令が続いていました。そしてこれらは、わたしたちが見てきたように、旧約聖書の律法よりもさらに、厳しい掟だったのです。そして、先週の12節が、それらの掟のまとめでした。つまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」と言う主イエスの御言葉です。
このような主イエスについて行く、主イエスを信じて細い道を行くことが、狭い門、つまり天の国へ至るのだ、と今日の御言葉は、わたしたちに勧めているのです。
主イエスを信じることが、細い道を行くことになるのは、どういうことでしょうか。それは、まだ、主イエスを信じる人が、一握りしかいなかったことを示しています。一握りにすぎないどころか、その一握りの人々は、他のユダヤ教徒や、ローマ人たちから排斥されていました。そもそも、主イエスがローマの十字架刑に掛けられたこと自体が、イエスの教えを信じてはいけない、というこの世の中の宣告であったのです。それにも拘らず、主イエスを信じて付いて行こうと言う人々は、主イエスと同じように虐げられ、排斥され、殺される危険がありました。「狭い門から入りなさい」と言う、今日の御言葉は、そんな中でも主イエスへの信仰をわたしたちに勧める言葉なのです。
私たち自身も、日本の社会の中で、一握りです。そのような細い道を行く決意は、どうしたら、持つことができるのでしょうか。そんな強さは、どこから来るのでしょうか。
それは、復活の主イエス・キリストからです。この世からは断罪された「ユダヤ人の王」は、実は天と地の一切の権能を神から預かっている私たちの天の国の永遠の王だからです。天の国の王は、国民の私たちのために、命を捨てられたのではなかったでしょうか。それは、この世からは惨めな敗北だったと見られました。しかしながら私たちは、そのイエスを父なる神が復活させ、ご自分の右の座に座らせ、そして今も教会の頭として生き続けていることを知っています。わたしたちはこの教会から、命の水を、尽きることなく汲むことができるからです。
聖書の言葉は、長いこと、さまざまな人々によって読まれてきました。特に、山上の説教は、明治期にキリスト教が、日本にもう一度入って来た時に、特に西洋的な道徳倫理として、人々に新鮮な物として受け入れられてきました。そして、向上心の強い日本の若い人々によって、生活の中で用いられてきたのです。さらに、西洋の小説も、教養として若い人々に盛んに受け入れられました。これらは、大きな影響を持ったわけですけれども、そのすべてが、キリスト教について、適切な理解を与えてくれたわけではありません。古典だから、皆が読んでいるから、と受け入れるのではなくて、慎重に吟味して行く必要があるのです。下手をすると、せっかく、聖書を通して、神様がわたしたちにくださった命の御言葉がわたしたちに届かないことになりかねません。
13節から27節まで、主イエスを受け入れるか、受け入れないか、二者択一を迫る御言葉が続きます。イエス・キリストの復活の生命に与って生きるのか、それともこの世の闇の中に埋もれて生きるのか、聖書はわたしたちに選択を迫ります。復活の主イエスの圧倒的な力を信じ、喜びを持って、差し出されている恵みをいただきたいのです。
復活の主イエスが王として納めて下さる天の国、主イエスの天の国は、既に始まっています。私たちの教会から、始まっています。わたしたちは、神の民として、この教会に集められ、そして主イエスの体として、王たるイエスの戒めの中に生きるのです。教会は聖霊の宮として、わたしたちを命の水によって育まれます。天の国での永遠の生命が約束されているので、わたしたちはこの地上の教会で共に礼拝に集い、神に賛美を捧げるのです。共に天上の神の食卓に招かれている者同士として、互いに愛し合いながら、生涯を通して、天の国を待ち続けたいと思います。
お祈りをいたします。
天の父なる神様、命に通じる門の道は細く、見出す者も少ないと言います。わたしたちは、あなたの助けなくては、見つけられません。私たちを天の国へと招いてくださった恵みに感謝します。主イエス・キリストのお名前に依って、お祈りいたします。アーメン

2016年7月3日 「聖書が教えていること」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書7:12

今日、説教題を「聖書が教えていること」としました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」というのが、聖書の教えていることだ、ということで、今日はこの題名を付けました。
イエス様は、「これこそ律法と預言者である」とおっしゃっていますが、この律法と預言者というのが、聖書のことなのです。ユダヤ人の人たちの聖書は、キリスト教徒の旧約聖書ですけれども、この旧約聖書の最初の5つ、創世記から申命記までは、「律法」と呼ばれます。この中には、いわゆる律法のほかに物語も含まれていますが、ユダヤ人たちはすべてが神様からいただいた律法だと、考えているのです。
それから、「預言者」と言うと、イザヤ書から始まる預言者の人たちの言葉を集めた書だと思えます。けれどもユダヤ人の考え方だと、ヨシュア記から列王記、それから預言者の名前の付いた書のほとんどが、「預言者」として括られるのです。ヨシュアも、サムエルも、エリヤもエリシャも、預言者として数えられています。
私たちの持っている旧約聖書は、これらの二つに含まれなかったもの、たとえば詩編とか、ヨブ記などが含まれています。それらもひとまとめにして「諸書」諸々の書、と呼ばれますが、これはまだ、イエス様の時代にはまとめられていません。新約聖書も、まだありません。とすると、ここで律法と預言者と言えば、聖書全体を指すことになるのです。
聖書全体が教えていること、と言えば、もちろんとても大事なことです。イエス様は、「聖書は、わたしについて証しするものだ」とおっしゃいました。聖書全体は、神の霊感によってなった、と「日本基督教団信仰告白」にもあります。聖書は神の言葉であり、イエス・キリストを指し示すものであり、イエス・キリストを通して神ご自身のお姿がわたしたちに明らかにされている書物なのです。そして今日の聖書の御言葉は、イエス様を指し示す言葉の中でも、「これこそ聖書だ」と言われている訳ですから、その大事さと言うのが、よくよく分かると思います。
けれども、今日の御言葉、よく似たことを、私たちは自分たちの格言として、持っていますよね。親の言葉でよく聞きませんか?「人には迷惑を掛けるな」。年配の方から聞きませんでしたか?「情けは人のためならず。」情けを掛けておけば、めぐりめぐって自分に報いがある。…今日の聖書のみことばは、「黄金律」とも言われる、有名な箇所です。でも、日本では当たり前のように似たような言葉が言われています。どこか、違いがあるのでしょうか。
「人には迷惑を掛けるな」と言う言葉は、もう少し聖書の御言葉に近づけて直してみると、「人にされたくないことは、人にするな」と言うことになるでしょう。実は、この言葉は、ユダヤ人の格言にあって、たとえば旧約聖書続編の中にある「トビト書」の中にも、出て来る言葉です。
では、「人にされたくないことは、人にするな」とか、「人には迷惑を掛けるな」というと、どんなことになるでしょうか。たとえば、他の人に嫌われている人がいるとします。この人に意地悪をしたら、そんなことはやって欲しくないでしょうから、「人にされたくないことは、人にするな」と言う命令に背いていることになります。けれども、お互い嫌な奴だと嫌っている、相手も自分を嫌っていることが分かっている時に、お付き合いしないことにしたとします。これは、人に積極的に関わっていきなさいと言う聖書の御言葉は守れていないと思います。けれども「人にされたくないことは、人にするな」と言う命令は、守っていることになります!こんな風に、嫌な人と関わり合いにならないことでも、この言葉の命令していることは守れます。
そこで、今日の御言葉を詳しく見て行きたいのですけれど、「人にしてもらいたいと思うことは何でも」と書いてあります。「何でも」です。間違えることはないと思いますけれども、この「何でも」は、悪いことではなくて、「良い物を」何でもです。自分の子どもたちが欲しがるからと言って、親がよくないと考えている物を与えてはいけません。もちろん、そのことは、11節に書いてある通りです。
この、「何でも」って、何でしょうか。何か、思い当たる物はありますか?7節~11節までの箇所でも、何を求めるのか、書いてありません。けれども、説教の中では神の聖霊だと言ったかと思います。主の祈りでは、主イエスは何と祈りなさい、と言っているでしょう。主の祈りの後半が、さまざまな必要を満たしてくださいとの祈りでした。たとえば、「日用の糧」が欲しいと思うなら、人に「日用の糧」を与えなさい、と言っていることになります。赦されたければ、赦さなければならないのです。
「何でも」は、困った言葉です。どんなことでも、いつでも、いつまでも、と言う意味が込められています。自分が受けたいと思う量、品質で、と言うことになります。自分が受けたいほど、いい物を、何度でも、欲しいだけ、です。
人への「情けは人のためならず」、つまり自分のためだ、と言っている格言の方はどうでしょうか。自分に悪いことが帰って来ないように、人にはいいことをやろう。いいことをやっておけば、いいことが帰って来るに違いない。ここには、人を信頼するという態度があります。でも、下手をすると、何かいいことをしていても、人に良かれと思ってやっているのではなくて、自分に良かれと思ってやっていることになりかねません。いいことをする相手のためを考えずに、その先に自分自身を見ているかもしれないからです。
聖書の御言葉は、こんなギブ・アンド・テイクではありません。やって欲しいから、その分をやってあげる、と言う関係ではないと言うことです。与えられたから、その分を返す、と言うのでもありません。私たちは、先に上から与えられたから、人々に与えるのです。
「馬ぶねの中に」と言う讃美歌があります。この讃美歌の3番では、「すべてのものを 与えし末、死の他何も、報いられで」と歌われます。私たちは、この方によって、この方を十字架に掛け、復活させた神の御業によって、恵みを与えられている。だから、あの人にもらった分を返せと言うのではない、惜しみなく与えなさい、最上の物を与えなさい、いつでも、何回でも与えなさい、と言う訳です。
ここで言う「人」って、誰のことでしょうか。いろいろ、考えられます。この言葉自体の意味は、特に誰とは特定しない人間一般のことです。けれども、特に言わなくても、実は、特定のグループとか、共同体を前提として、使われていることもあります。マタイによる福音書を読んでいくと、「人々」は、最初は少なくとも、ユダヤ人だけに限られているようです。マタイによる福音書の最後には、「すべての民を私の弟子にしなさい。」とあります。ここの「民」とは、ユダヤ人ばかりではなく、世界中の人々を含んでいることは、確かでしょう。けれどもここでは、「人」ではなくて「民」と言う別の言葉が使われています。異邦人が「民」と呼ばれているのです。
ですからまず、「人」は、この教会に集う人々、キリストを主と告白して、教会に通う人々をまずは言い、それからここから広がって、わたしたちの派遣されるこの世界全体と言うことになると思います。どうしてかと言いますと、この教会こそが神の国、天の国が始まっているところだからです。
ところで、マタイによる福音書は、イエス様の系図から始まりました。イエス様の系図とは、ダビデ王朝の系図です。それは、イスラエルの王国の歴史をたどるものでもあります。さらに、要するにイエス様は、王家の末裔、世が世なら、王となられる方だと教えていると言うことです。2章のイエス様の誕生は、王家の王子様の誕生物語です。
けれども、この世の王は、ほかにいました。2章に出てきたヘロデ大王です。この世の王とイエス様との関係は、十字架の場面で、ピラトが尋ねることです。「あなたはユダヤ人の王なのか」。イエスは、「それはあなたの言っていることです」と言って、お答えになりません。しかし、マタイによる福音書の最後では、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」とおっしゃっています。つまり、ユダヤ人に限られた王ではない、この世に限られた王ではない、天の国の王だと言うことです。
誕生物語から、十字架の死まで、主イエスは王であるはずなのに、貧しい、惨めな、残酷なことが続きます。しかしそれこそが、わたしたちを、貧しい者まで一人残らず救うための、神のご計画であったのでした。そして、復活して天に昇り、神の右の座に就いた、つまり、天の国の玉座に着いたのでした。マタイによる福音書の物語は、王子として生まれた方の、即位までの物語なのです。
私たちは、この方を王といただく、天の国、神の国の民として集められました。地上の教会は、この世のものですけれど、天の国、神の国がここから始まっている場所でもあります。わたしたちはこの教会に集められて、天上の天の国をあらかじめ知り、天の国に上げられて行く準備をするのです。つまり、天の国にふさわしいものに変えられて行くということです。教会に神の聖霊は留まり、教会から私たちは聖霊を受け、命の水を汲み、この世に派遣されていきます。
この神の国の国王である主イエスは、法律を作り、人々に知らせ、守らせる。それは、ご自分の国人として、わたしたちを神の国の囲いの中で守り、育むためです。
山上の説教の中では、5章の17節で、律法、預言者、という言葉が出てきました。「わたしが来たのは律法は預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。』と主イエスは仰いました。山上の説教で、聖書を完成するのです。その内容が、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」と言う今日の掟なのです。さらに、マタイによる福音書の後ろの方で、このことが具体的な律法のどれに当たるのか、主イエスが教えてくださっています。22章40節は、「最も重要な掟」として括られている箇所です。つまり、37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」そしてこれと同様に重要なのが、「隣人を自分のように愛しなさい」。これらのみ言葉の後にも、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と書かれています。これらの律法を具体的にしたのが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という教えなのです。
王たる主イエスは、自分の国人に掟を作り、守らせ、育もうとします。何のためでしょうか。国人を愛しているからです。それが、「心の貧しい人々は幸いである」から始まる「幸い」についての説教なのです。
考えてみれば、その通りです。貧しい人々、それが心であれ、物質的なものであれ、この人たちの欲しい物を与えなさい。心を満たし、おなかを満たし、着る物を与える。なぜなら、この人たちは天の国、主イエスの国の住人だからです。悲しむ人々も、彼らを慰める人々がいるのであれば、慰められるでしょう。み心が行われるのであれば、義に飢え渇く人々に正義が行われ、この人たちは満たされるでしょう。…これは、「情けは人のためならず」でも、理解できないことではないかもしれません。けれども、まず私たちは、このことを言っているのが他ならぬ主イエスであることを、思い起こす必要があります。
天の国は、主イエスによって集められた人びとの群れです。集められるのは、その人達が優れているからではありません。すべては、神様の憐れみのご計画のゆえです。私たちの行いがどうであろうと、神はわたしたちを主イエスを頭とするこの教会へと集めて下さったのです。そうして主イエスは、ご自分が羊の門となって、集めた羊たちを守られ、育まれます。私たちは、受ける資格など何もないのに、救われ、主の恵みの中に入れられました。そうして、わたしたちはここで、大切に育まれるのです。
わたしたちが受けたものは、わたしたちの与えるものに比べると、比べようもないほど、大きなものです。返せるものは、比べようもありません。わたしたちは、感謝のしるしとして、わたしたちにできる限りのことをして、主の祭壇にお返しするのです。だから、どんなものでも、最上の物を、何度でもいくらでも、与えなさい、行いなさい、そういうふうに、聖書は言っています。
実際、クリスチャン生活が長くなってくると、与えるばかりだ、とふと、思ってしまうことがあるでしょう。不公平だ。そうです、これは不公平なことなのです。もっとも不公平な扱いを受けたのが、わたしたちの王だから、その王が統治する国だからです。
実際のところ、最初は、受けるばかりです。神の民となり、次第に変えられて、与える側に変わっていきます。それによって、恵みはより一層、満ちて行きます。
クリスチャン3年寿命説、と言うのがあります。教会に足を踏み入れ、キリストに触れ、喜んで洗礼を受けても、3年経つと、段々、教会から足が遠のいてしまう人が多いことを言います。こんな結果になってしまうのは、どうしてなのでしょう。さまざまな課題を抱えて、教会にやって来て、キリストに触れ、罪を赦され、救われ、新しい命に生きる者にされた。教会としては、それが「初めの一歩」であって、それから長い恵みの命の日々が続くはずなのです。しかし、贖われ、心が癒され、それに従って体もまた変えられて行くと、「どうも、ありがとうございました。」と、教会に来なくなってしまう。結局、教会は彼らにとっては、病院のようなものです。急患で運び込まれ、入院し、医者や看護師や様々なスタッフによって病気が癒される。癒されると、退院します。定期健診のために、時々は足を延ばす。異状がない時期が続けば、足は遠のきます。教会の牧師や、迎えてくれた人々は、病院のスタッフのようなものなのでしょうか。彼らにとって教会は、生きている限りここに集い、本当の天の国を仰ぎ見るものではないのです。天上の教会よりも、天の国がもっとずっと素晴らしいのは、当然であるのに。
もっとも、こんなことは、今に始まったことではありません。主イエスが癒したたくさんの人々も、最後まで主イエスについて言った人々は、どのくらいいたでしょうか。与えられるよりも、与えることによって、より大きな幸いに招かれていることを、知って欲しいな、と思います。
お祈りします。主なる神様、あなたはわたしたちをイエス・キリストを王とする神の国に招いてくださっていますから、ありがとうございます。イエス・キリストがわたしたちに与え続けて下さったことを覚え、私たちもまた、与える者と変えて下さい。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

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