日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年7月30日 「神との格闘」 今村あづさ伝道師
創世記32章23~31節、ルカ福音書15章11~32節
<お子さん向けメッセージ>

先週、私たちは、創世記の28章のお話を読みました。ヤコブさんが、おじさんの家に向かう途中、野宿をしていたら夢を見た、という話でした。その夢の中でヤコブさんは、先端が天にまで達する階段の夢を見ました。自分の立っている地上から天に向かっている階段です。そうして、そこには天使が登ったり降ったりしており、主なる神様が自分の隣に立って、お話をしてくださったのでした。
ヤコブさんは、お父さん、お母さん、お兄さんと暮らしていましたが、お父さんを騙して、お兄さんが受けるはずのお父さんの祝福を、自分が受けてしまいました。お兄さんがそのことでとても怒り、ヤコブさんを殺してやりたいと思うようになったので、ヤコブさんは自分の家を逃げ出して来たのです。
でも、神様は、夢の中で、ヤコブさんを見捨てないことを約束してくれました。そして、いつか、その立っている土地に連れ帰るとも、約束してくれたのでした。
さて、そのあとヤコブさんは、おじさんの家に行きました。20年もの間、一生懸命に働きました。おじさんの娘二人と結婚をし、息子が12人も産まれました。12人の息子、というのは、大変子供に恵まれたということで、それは神様の祝福を意味しています。それから、家畜もたくさん、増えました。当時は、家畜が主な財産でした。ヤコブさんは、大変なお金持ちになったのです。
おじさんは、ヤコブさんを騙してばかりいました。おじさんの娘二人と結婚しましたが、実は、ヤコブさんが好きだったのは、妹の方で、結婚も妹とだけするつもりでした。けれども、おじさんに騙され、結婚した相手は姉の方だったのです。妹の方とも結婚するために、14年間もおじさんのために働かなければなりませんでした。今は、結婚するのは、一人だけです。何人もの人と結婚することは、法律で禁じられています。それに、結婚式の相手が自分の考えている人ではなかったなんて、ありそうもありません。でも、昔はこんなこともあったのです。
おじさんのところにいつまでいても、ろくなことはないと考えて、ヤコブさんは逃げ出すことにします。おじさんは怒って追って来ましたが、最後は二人は仲直りをして、別れました。
さて、別れてどうするのでしょう。やっと、ヤコブさんは、20年ぶりに、自分の家族の住んでいる場所に帰ってきたのでした。神様は、いつか立っている土地に連れ帰ると言ってくださった約束を、守ってくださったのです。
けれども、家族のところに帰ってくるというのは、どういうことでしょう。お兄さんが受け取るはずだったものを、お父さんを騙して、自分が受け取ってしまった。お兄さんは、ヤコブのことを殺してやりたいくらい、恨んでいました。殺されるかもしれないから、ヤコブは家から逃げ出してきたのです。さて、その土地に帰ってきたのですから、ヤコブさんはどうなるでしょう。お兄さんは20年経った今でも、ヤコブさんのことを恨んでいるでしょうか。帰ってきたら、殺してやろうと、待ち構えているのではないでしょうか。
ヤコブさんは、とても悩み、神様にお祈りしました。お兄さんが自分を殺すことのないように、守ってくれるようにお祈りしたのです。その夜のことです。ヤコブさんはたった一人で、何者かと夜中じゅう、格闘したのでした。夜明けが近づいてくると、その人はヤコブに、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言います。姿は見えません。川のほとりにその誰だかわからない人がいるのです。ちょっと、怖いですよね。
けれども、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言って、離れようとしません。その人は、ヤコブにイスラエルという新しい名前をくださって、そして祝福して去って行きました。
不思議な話ですね。新しい名前をもらって、ヤコブさんは、新しく生まれ変わったように感じたことでしょう。名前には、付けた人の思いがこもっています。ヤコブという名前は、「かかと」という意味です。ヤコブが生まれてくるときに、お兄さんのエサウのかかとを掴んで出て来たからです。ヤコブさんは、生まれるときから、お兄さんに勝ちたいと思って来ましたし、大きくなってからは、おじさんの意地悪にあっても、色々知恵を働かせて、意地悪に勝って来たのでした。
こんなヤコブさんは、イスラエルという新しい名前をもらいました。新しい名前は、聖書の説明からすると、「神に勝った」から、イスラエルという名前にすると言われたようです。本当に神に勝ったのでしょうか。ヤコブさんは、本当に神様に勝てるくらい、力が強かったのでしょうか。
イスラエルの意味は、「神に勝った」ではなくて、「神が勝つ」という意味にも取れます。「神が勝つ」とは、神様が勝って、ヤコブさんを支配するという意味です。神様が支配するとは、どんな意味でしょうか。ヤコブさんは、これまでの人と争い、騙し続ける人生を、神様が共にいて、ヤコブさんを変えてくださるということです。神様と一緒に生きる素晴らしい人生に変えてくださるということです。そんな約束のお名前をくださったのです。
イスラエルという新しい名前をもらったヤコブさんは、お兄さんのエサウさんに謝ります。色々な贈り物をし、頭を何度も下げて、謝りました。お兄さんのエサウさんは、昔のことなど覚えていないかのように、暖かくヤコブさんを迎えてくださいました。
私たちは、いろいろ不都合なことがあると、自分でなんとかしようとします。それは、神様の目から見ると、自分勝手なことです。けれども、神様はそんな私たちでも、神様に立ち返って依り頼めば、豊かに祝福してくださいます。自分の思いだけで行きていく人生で良いのでしょうか。自分の好き勝手なことをしていたら、自分がいろいろ、ひどいことをした相手が怖くて仕方がない、後で後悔する人生になってしまいます。早く神様に立ち返って、私の人生を変えてください、そんな風にお祈りすれば、神様は私たちをいつでも変えてくださいます。神様と一緒の、豊かな人生に変えてくださるのです。信じて、進んで行きましょう。
お祈りします。神様、私たちがあなたに真剣に祈ることができますように。あなたにとって、正しいことを教えてください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

<大人向けメッセージ>

今日の箇所は、なかなかむづかしいところです。ここの箇所は、神様の顔を見たのに、生きている。だから、この場所の名前をペヌエルとしたとなっています。しかし、ヨハネによる福音書を見ると、「いまだかつて神の顔を見たものはいない」という箇所があり(1章18節)、福音書を書いた人が創世記を読んでいないとか、ペヌエルという場所を知らないとか考えることは困難ですから、頭を抱えてしまうわけです。つまり、福音書を書いた人の知っている聖書の伝統的な解釈は、ここで出て来ているのは主なる神ご自身ではなくて、神の御使いだと理解しているのでしょう。
ここの箇所を、神に対して完全に打ち砕かれた経験であるという解釈もあります。けれども、兄エサウへのヤコブの態度は、このペニエルの出来事の前後で変わっていませんし、最後は兄の家に招待されながらも、決して行こうとしなかったという結末になっていて、本当のところは和解できなかったのではないか、とも考えられます。これは、ペヌエルの出来事は、ヤコブの心の中の葛藤であって、32章から33章の出来事の中で進行していたか、本来は32章の最初に起こった出来事だと理解するかの、どちらかだと考えるべきかと思います。
今日読んでいる箇所でキーとなる言葉は、「顔」です。この箇所では、ヤコブのみた「神」の顔は、どんな顔だったのか、書いていません。けれども、「顔」は、今日の箇所の前後にも出てきます。21節、そして33章の10節です。これらの顔は、すべて「兄の」顔なのです。そうだとすると、ぺヌエルでヤコブが見た「神」顔は、兄の顔であったと、聖書は言っているようです。
さてそこで、一般的には御使いであった、と考えられているヤコブと夜中格闘したのは、何者だったのでしょうか。
格闘したとは、どういうことでしょうか。もちろん、相手を打ち負かそうとして、格闘するのです。そしてその相手が兄の顔をしていたのでした。ヤコブは、兄と格闘していた、少なくとも最初は兄と格闘していたと考えられます。ヤコブは、双子の兄、同じ時に生を受け、ほんのわずかな時間の差で、先に生まれただけの兄、しかし長男として跡取り息子であり、父の財産と家督を受け取ることのできる兄が、羨ましくてなりませんでした。僕にください。僕の方がふさわしいはずだ。僕をもっと愛して!父を騙して、祝福を受けてしまいなさいという母のそそのかしに対して、むしろ積極的に父を騙すことに関わっていったヤコブには、そんな渇望があったのではないでしょうか。もっともっと愛されたいという思いでした。その証拠として、父の祝福が欲しかった。しかしその思いは、この家庭を崩壊させてしまいます。夫イサクは妻リベカに騙され、母リベカは息子ヤコブに向かう呪いを自分に受けて愛する息子に生涯会えず、弟息子は家庭を捨てて出て行く。家族は、地理的に分散して生活するばかりではなく、お互いを思いやる家族を失ったのでした。兄エサウさえいなければ、僕はもっと愛されるのに。相手を打ち負かすまで格闘をやめないヤコブです。
しかし、そのヤコブは、一方で自分の悪いことをすでに知っているヤコブです。エサウを騙して長子の権利を自分のものとした後、彼は天国の階段を降りて来た神に出会います。それまでヤコブは、神の存在など全く考えもしなかったでしょう。だから彼は、人を騙すことができたのでした。人の向こうに神がいることなど、考えもしなかったのです。しかし、彼の父、祖父の神である主なる神が、彼と親しく、話をするために天から降りて来てくださった。神のことを何も知らない地上に、神が降りて来てくださる。それは、神が及ばないところなど、この地上のどこにもないことを示したものでありましょう。
ベテルで神に出会ってから、ラバンの家へ行き、20年間の生活をそこで過ごしました。その間の出来事は、ラバンによる騙しに対して知恵を絞る生活であって、これもまた、神を恐れる生活であったとは、あまり考えることができません。この地に戻って来たのも、そのラバンから逃げ出そうという行き当たりばったりの生き方であって、彼の中では偶然の出来事でありました。しかしながらそれはもちろん、主なる神の大きなご計画の中に入れられた出来事であったのです。
約束の地に入ってすぐ、ヤコブは神の御使いたちに出会います。神様によっていつかヤコブの子孫に約束されたカナンの地は、神様によって支配されている場所なのだということを、はっきりと思い起こさせられる出来事です。そしてそれは、20年間、人間どうしで騙し騙されて暮らして来た彼に、ベテルでの神との出会いを思い起こさせる出来事であったでしょう。
神のご支配してくださる地!それは、主なる神が、必要とあればどこにでも、階段を降りて来られる場所です。自分の若い時代のあの出来事、エサウを騙した出来事も、その神の目にさらされ、吟味されるのです。彼は、自分が兄エサウに行ったことを思い起こしました。あの出来事は、神の目から吟味されるとどのように見られることになるのか。20年前にやったように、もう一度ラバンのところに逃げて行くわけには行きません。何しろ、ラバンのところから逃げ出してこの地に舞い戻って来たのですから、戻るところはないのです。
親の家から逃げ出し、逃げ出した先の叔父の家からも逃亡して、とうとう彼は、行くところをなくし、神にのみ依り頼むしかなくなりました。その神の顔が兄の顔をしていた。それは、恐ろしい、裁きの神としての顔だったということなのではないでしょうか。今日合わせて読んだルカ福音書の放蕩息子のたとえで憤慨す兄が出てきますが、それよりも恐ろしい、ヤコブを殺そうとしている兄です。そしてそれは、彼のしでかした罪からすれば、相応の罰なのでした。
兄に会いたくない。しかし、それは神の支配するこの地では、赦されないことでした。彼が、逃げて逃げて逃げ続けても、神はこの地のどこにでも、天から階段を降ろし、彼のところまでやってくることができるのです。追い詰められ、彼はとうとう、兄に会うしかないと観念します。そしてそれは、自分の罪を悔い、兄に謝り、兄の赦しを請うということです。そうすることによってしか、自分は生きてはいけない。しかし、そのような決心をするために、彼は一晩中、悩み続けなければならなかったのでした。
今日のテキストの前後では彼は兄に対して、「僕ヤコブ」と呼んでいます。それは、家父長は兄であることを示しているのです。兄に会うまでに、7回も地にひれ伏しています。奴隷の仕草です。こうやって彼は、神の支配するこの地で、神のご支配にふさわしく、正しく振る舞ったのでした。
もちろん、ヤコブの行動は、なかなか彼らしく、計算高いところがあります。最初に貢物の家畜を行かせ、家族の中でも愛妻のラケルとヨセフを、一番安全なところに置きます。彼の悔い改めが、本物なのだろうか、計算高く用心深く振る舞っているだけなのではないか。こんな風に考える余地も、聖書の記述の中にはあります。けれども、「僕ヤコブ」と言い、奴隷のようにひれ伏す彼の姿は、取り返しがつきません。彼は、自分の家督の権利を放棄したのです。
33章を見ると、このようなヤコブを、兄エサウは喜んで迎えます。「走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」とあります。ヤコブは「兄上のお顔は私には神の御顔のように見えます。」と言いますが、まさにこれは、ヤコブを迎える神の姿なのです。
ルカによる福音書の放蕩息子のたとえでは、20節で、まさにこの箇所とよく似た父の姿があります。しかし、一か所、異なるところがあります。ルカ福音書の方には、「憐れに思い」という言葉が加わっています。イエス様が、罪にまみれ滅びる他はないように見える弟息子を「憐れに思った」から、赦したのだと教えてくれています。つまり、救われる要素は、ヤコブの側には何もないのです。ただ、神が憐れに思ったから、本来の恐ろしい兄の顔に代えて、慈悲深い父の顔が現れたのでした。
イスラエルという名前は、「神に勝った」という意味だという解釈もあります。しかし、彼はこの出来事を通して、神のものにされたのでした。神と共に生きる者とされたのでした。神のご支配のもとに生きる。「イスラエル」とは、神によって生かされるという意味で、「神は支配する」と言う意味だとする解釈が正しいと思うのです。
神に出会い、神によって新しい名前をもらう。それは、罪に迷っていた私たちが神に出会い、神によって新しい命をいただくことです。そして、新しい自分になったから、兄に対して謝ることができます。神様との関係が正しくなったから、人間どうしの関係も正しくされていく。つまりは、義の実を結んで行くということです。ヤコブの歩みは、私たちの恵みの歩みそのものです。
ヤコブは、一晩中、苦しみぬきました。自分自身の妬みの対象である兄と戦い、やがて自分の犯した過ちのために兄を恐れました。自分には滅びが待っているに違いない。しかし、そのヤコブに対して神は、あなたを決して見捨てないと約束してくださった。その証拠に神は、迷い苦しみ、決断できないヤコブと、一晩中、相手をしてくださった。聖書では「勝てないとみて」と書いてあります。父親が、親に勝ちたいと何度もなんども向かってくる子供に勝てないということがあるでしょうか。もう一度、もう一度と向かってくる子供に対して、夜中、相手をしてやる。ペヌエルでの格闘はそのようなものです。その格闘の中で、ヤコブは自分自身の恥を知り、神への恐れを知り、神に新しい名前をもらった。神によって新しい人格に作り変えられて行った。神によって支配される恵みの生活へと入れられていったのです。
私たちが洗礼を受ける時には、罪に死に、キリストと共に生きると言われています。私たちの教会では、特にクリスチャンネームをつけるということはありませんけれども、ここで新しい名前をつけられることは、まさに洗礼の恵みを思い起こさせるものです。
お祈りします。在天の父なる神様、本日は、ヤコブのぺヌエルでの格闘を読みました。こんな身勝手で大きな罪を犯したヤコブを、あなたは選び、新しい名前を与えてくださり、共に生きてくださいます。私たちもまた、あなたと共に、豊かな恵みの人生に招かれていることを覚えて感謝します。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2017年7月23日 「神の国は来ている」 今村あづさ伝道師
マタイ12章22節~28節

 中心となるメッセージは、神様のご支配が、私たちのところに来ているということです。神の国では、どのようなことが起こるのでしょうか。神様の国とは、神様が支配してくださる国、ということです。この神様は、わたしたちの救いのために、御子をも惜しまなかった神様です。つまり、わたしたちの救いが始まっているということです。神様の正義が支配する国。愛による正義が拡がりつつある国ということです。
 イエス様の時代は、病気は悪霊によるものと、広く考えられていました。病人の癒しは悪霊を追い出すことで、ファリサイ派の人々にとっては、イエス様も「エクソシスト」というかなり低い位の聖職者の一人に過ぎず、その頭のベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出しているということでした。つまり、イエス様がサタンの王国のために働いていると考えていたのです。その論理の矛盾を、イエス様は指摘しました。
 一方、群衆は、イエス様の癒しの業を見て、「ダビデの子」とは、救い主、メシア、キリストだということです。イエス様がダビデの子である、ということは、神様の支配する国を、イエス様が作ってくれるということなのです。
 今日の箇所は28節までとしました。最後まで読むと、「霊に対する冒涜は、赦されない」と書いてあるところがあります。ここには大きな問題が二つあります。一つは、ファリサイ派は現代のユダヤ人の主流派なので、今日の箇所が、ユダヤ人が迫害を受ける根拠とされることになったことです。中性から第二次大戦中のナチスドイツのユダヤ人虐殺まで、ユダヤ人は差別され、迫害を受け続けました。
 もう一つ、これが赦されない罪があるということを言っているのか、ということです。わたしたちが、知らずに聖霊に逆らっていて、赦されざる罪を犯していることがあるのでしょうか。イエス様の十字架の贖いで、贖えないような罪があると言いたいのでしょうか。だとすればイエス様がもう一度、わたしたちのために十字架に就かなければならないと考えていることになります。十字架によって、わたしたちの罪は赦されており、これで十分なのです。イエス様を信頼し、神の国が来ることを喜びましょう。
(説教要約)

2017年7月16日 「神の選んだ僕」 今村あづさ伝道師
マタイ12章15節~21節

 前回の箇所の最後で、ファリサイ派はイエス様を破滅させることを決議します。それは、イエス様を十字架に掛けて殺すことです。今日の箇所は、このような反対派に対して、キリスト者の見方を教えます。イザヤ書42章1~3節の引用も、福音書全体と対応し、イエス様をどのように考えたらよいのかを教えてくれます。
 18節は、「主なる神が選んだ」ことに重きが置かれます。選びは、年若いダビデが兄たちを差し置いて選ばれたように、知識や経験や、自分の思いとは関係がありません。一方、「わたしなどが選ばれるはずがない」と感じる必要もありません。旧約聖書では、この後に「わたしが支える者を」と書かれ、選ばれた者に神様が力を注いで支えてくださることが分かります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、3章17節の洗礼の場面、17歳のイエス様の姿が山の上で変わる場面でも出てきます。今日の箇所の「僕」も、「子」の意味に近いのです。
 「この僕は異邦人に正義を知らせる。」正義、裁き、あるいは審判とは、神様が人間を救うか罰するかするために、わたしたちのこの世界に介入することです。イエス様がベツレヘムの馬小屋に生まれ、働かれたのは、イエス様のお名前を信じる人たちを救うためです。「イエス様は異邦人の福音を告げ知らせる。」という意味になるでしょう。
 「争わす、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」イエス様は、戦争をし、声高に自分の支配を叫ぶこの世の王様ではなく神の国の王としてやって来ました。残酷で人の評判も名誉も踏みにじる十字架刑も、神の国の民を集めるという神様のご計画の中では、何の意味も持ちませんでした。
 20節の「正義を勝利に導くまで」とは、イエス様が頭となっている教会、その身体である私たちのことです。イエス様に集められている私たちは、人生の荒波に揉まれ、折れた葦であり、一旦与えられた福音の希望が段々あやふやになって、燃え尽きそうになっていく灯火です。しかしイエス様は、そのようなわたしたちを見捨てることなく、労り守り導いてくださるのです。正義を勝利に導くまで、暗くなることも傷つき果てることもない。それは、復活のキリストご自身であり、その身体であるわたしたちなのです。
(礼拝説教要約)

2017年7月9日 「安息日の癒し」 今村あづさ伝道師
マタイ12章9節~14節

12章の初めから、安息日に関する論争が続いています。今日の箇所は、前回と同じ安息日の出来事です。イエス様はユダヤ教の会堂にお入りになり、片手の萎えた人の癒しをなさいます。すると、ファリサイ派の人々が会堂から出て行って、イエス様を殺す相談を取りまとめます。マタイによる福音書で、最初にイエス様を殺す陰謀が行われるところで、わたしたちはその結果を知っていますから、受難物語はまだ始まっていませんけれども、わたしたちはそれが迫っていることを感じるのです。
イエス様が会堂に入っていく。ファリサイ派は出て行く。イエス様は、ここで旧約聖書の安息日について、神様がそれを定めてくださった思いに戻れとおっしゃっている。安息日を守れという神様の命令だけを重んじて、細かい規定を守ったとしても、神様のそこに込められた思いを知らなければ、あなた方は神様を知らないことになる。神様に立ち返れ。つまり、悔い改めて福音を信じなさい。そのように仰っています。そのことを、ユダヤ教の教会、会堂に入って仰っている。けれども、ファリサイ派は出て行った。決裂してしまったわけです。

神様がこの命令、十戒の第四戒、「安息日を守ってこれを聖とせよ」に込められた思いというものが、イエス様の言葉に示されていますから、それをまず、見て行きましょう。
11節にイエス様は、こんな話から始めます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」イエス様の持ち出して来た例は、日本語ではよく分かりませんけれど、「誰か、たった一匹の羊しか財産を持っていなかった人がいて」という意味です。
貧しい人のたった一匹の羊。この人にとってこの羊が、どんなに大切なものだったか。このたった一匹の羊は、財産であり、かけがえのない家族でさえあったかもしれない。その大事にして養っていた羊が、穴に落ちてしまった。この貧乏な男にとって、手を差し伸べて羊を助けることは、当然過ぎることだったのです。
当然のことをやっているように見えるのに、なぜ、ファリサイ派は問題にするのでしょう。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」出エジプト記20章8節以下では、この言葉に続けて、「いかなる仕事もしてはならない」と定めています。これに関連して、出エジプト記35章2節では「仕事をする人はすべて死刑に処される」とあり、実際、民数記15章32節では、安息日に薪を拾い集めていた男が石打ちの刑に処されています。薪を集めることまで禁じられていたのは、そもそも火を焚くことも禁じられていたからです。…それでは、食事のための煮炊きも出来ないことになりますが、現代のユダヤ人でも、土曜日はトースターもコーヒーも、前の晩のうちにすべてタイマーでセットしておくと言います。…話がそれてしまいましたが、このように安息日違反は、下手をすると石打ちの刑で死刑になるほどの重罪でした。そこで、その安息日に羊を助けるのは、そのような罪を身に負うことも覚悟して羊を助ける、それほどのものであったのです。
その次にイエス様は12節で、人間は羊よりもはるかに大切なものだ。とおっしゃっています。石打ちの刑に処されるほどの罰を受ける可能性があっても助けるのだとするならば、この片手が萎えてしまっている男の人は、なおさら当然、癒すべきものではないか。
この、片手が萎えてしまっているということの意味が、今日の交読詩編の箇所で出てきました。詩編137篇5節。「エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手は萎えるがよい」。エルサレムとは、エルサレム神殿のことです。そして、エルサレム神殿に住む主なる神のことです。片手が萎えてしまっているこの男は、主なる神を忘れてしまったということを意味しているのではないでしょうか。だから、今日、今、安息日であっても、この人を助けたい、神様のもとに連れて行きたいとイエス様は願ったのでした。イエス様の、この障害を負った男性に対する憐れみの気持ちが、貧しい男の穴に落ちた羊を助けたいという気持ちよりも大きなものだから、安息日の今日、あえて男を癒したのです。
このイエス様の気持ちが、7節の「わたしが求める者は憐れみであって、いけにえではない。」という神様の気持ちです。貧しい男は、たった一匹持っている大事な羊を可哀そうに思い、自分が罰を受けるかもしれないけれども、手を差し伸べて助ける。ましてや、イエス様は、手の萎えた人を癒すことによって十字架に掛けられても、安息日にお癒しになる。そのことが、神様の御心なのです。

神様は、安息日にどのような思いを込めて、わたしたちにこの掟を下さったのでしょうか。出エジプト記の20章8節~11節、申命記の5章12節~15節を読んでみましょう。…
仕事をしてはならないということの次に気づくのは、これは自分ばかりではなく、家族や家畜、奴隷、寄留者すべてに対する掟だということです。十戒は、主人だけが守ればよいというものではない。主人を休ませるために、奴隷たちは働くと言うのではないということで、弱者保護の観点があります。
次に、神様が6日を掛けて天地を創造され、七日目に休まれたことを記念せよ、と書いてあります。また、主なる神がエジプトの地で奴隷であったイスラエルの人々を導き出した、そのすばらしい働きを思い起こさなければならない、とも書いてあります。いずれも、神様の素晴らしい働き、大いなるみ力を思い起こしなさいと言うことです。
つまり、神様に心を向ける日が、安息日なのです。
神様に心を向ける日とは、神様を礼拝する日です。神様の創造の御業に感謝し、エジプトから選ばれて、ご自分の宝の民とされた大いなる御業に感謝する。それは、神様への賛美となります。そして、神様を賛美する日を神様ご自身が制定されたというのは、その日は神様ご自身も、わたしたちが神様に心を向けることを、望んでおられるということです。
申命記8章には、主を忘れることがないように、注意しなさいと書かれています。主を忘れることがあれば、あなたは必ず滅びるとも書いてあります。神様は、ご自分の民を集め、神様の平安のうちに置き、神の命を与えてくださり、わたしたちが幸せに生きることができるようにと、してくださったのです。
キリスト教では、日曜日に礼拝を持ちます。イエス様の復活の出来事を記念して、そのすばらしい神様の御業の行われた日曜日に、神様を礼拝するのです。

さて、日本の社会は、キリスト教が元になっていませんが、官公庁や学校は、日曜日がお休みです。でも、労働法では特に日曜日を休日にする特別な法律がある訳ではなく、フルタイムで働いている人には7日に1回、休みを与えろ、と定めているだけです。そこで、わたしたちの教会の兄弟姉妹の中にも、日曜日に普通に仕事をしている人たちがいることになります。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
明治時代の教会では、日曜日が休日でない仕事をしている人に、転職を進めていたそうです。一週間に一度の休日も与えないような、ブラックな企業がたくさんあったでしょうから、そんな仕事を辞めて、まともな仕事に着けるように頑張りなさい、というのは、悪くない教えとも言えます。しかしながら、官公庁や公共交通機関など、まともでお堅い仕事であっても、日曜日が休みでない職場はたくさんあります。日曜日に仕事をしなければならないことを理由に転職を強いると言うのは、どんなものだろうか、と思わざるを得ません。また、看護師さんが「自分は日曜日の勤務は拒否します」と言って、シフトから外してもらうのだとしたら、ほかの人が自分の代わりに働くことになるのですから、安息日には自分ばかりではなく、家族、家畜、奴隷、寄留者すべて、休まなければならない、という掟も守れなくなります。
他方、日本の社会で生活していくために、日曜日に教会に行けなくても仕方がないのだ、とあまりに割り切ってしまうと、礼拝に行かないばかりでなく、神様からも心が離れてしまう心配も出てきます。神様は、わたしたちを選んでくださり、神様のもとで平安に生きることができるようにと、招いてくださいました。そのことを思い起こすための安息日です。実際に、神様の命をいただき、この世界を生きるために育まれる主の日です。その大きな恵みにどうにかしてあずかれるように、心を砕いて行きたいのです。
ルカによる福音書で、最初にイエス様が生まれるという福音が告げ知らされたのは、羊飼いたちでした。彼らは、夜通し羊の番をしなければならなかったので、安息日も守れず、その意味では神様から最も遠い存在とされていた人々でした。しかし、その人たちに天使が真っ先に現れてくださった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」礼拝に来られない人を神様は顧みてくださったのです。
教会は、さまざまな事情で礼拝に出席することのできない人々のために、心を砕き、また祈っています。富士吉田教会がHPで礼拝説教の音声も含めて公開しているのは、それによっていくらかでも、礼拝に来られない人々が教会を通じて、イエス様に繋がっていて欲しいと思っているからです。日曜日の夕方には、英語とスペイン語を使って礼拝説教のフォローアップをしていますが、これも神様の言葉に繋がっていて欲しいからです。木曜の聖研祈祷会も、午前と夜に持っています。夕礼拝を持っている教会も、たくさんあります。富士吉田教会も、必要なのであれば、平日の礼拝をしてもよいでしょう。
礼拝にこだわるのは、理由があります。礼拝に出席することによって、いただける恵みがあります。聖書を正しく読むことは、なかなか一人ではできないでしょう。礼拝説教は、教会の聖書の読み方をわたしたちに教えてくれるものです。けれども、そればかりではありません。聖餐式で与えられる恵みがあります。これこそ、わたしたちのために血を流し、肉を裂いたキリストを心に刻みつけるためのものです。心を合わせ、声を合わせて祈ることができます。ペンテコステの出来事は、一同が一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈って待っていたからこそ、待ち望んだ聖霊が降って来てくださったのです。
礼拝は、神様への奉仕だと言います。確かに、自分たちの休日の貴重な時間を割いて、神様のために捧げると言うのは、大変な奉仕だと感じることもあるでしょう。でも、神様の仰っていることが分かるようになることを、「耳が開いて来る」という教会用語がありますが、耳を開くためには、何度か、それも出来れば続けて、礼拝に出てみることが必要です。神様を正しく礼拝すると、恵みが豊かにいただけます。正しい礼拝とは、讃美歌を歌うこと、祈りを合わせること、信仰を告白すること、そして恵みに応えてすべてを捧げるしるしとしての献金、すべてが含まれてきます。
礼拝は、神様がわたしたちのために割いてくださる、神様からわたしたちへの奉仕であるとも言えます。この世での戦いを前にして、主なる神が、わたしたちのために食卓を整えてくださり、共にいてくださることを約束してくださっています。わたしの杯に恵みを溢れるほどに注いでくださり、慈しんでくださるのです。
礼拝は、その主の家に帰る時間です。「生涯、そこに留まるであろう」と、詩編23篇でダビデが歌っているように、主の家は恵みと慈しみに満ちた場所です。この食卓を整えるために、神様がわたしたちのために、どのような奉仕をしてくださったのか。ご自分の愛する御子を十字架に着けて、この食卓は準備されたものです。わたしたちを救おうと言う神様の真剣さ、そのことを思うと、わたしたちは礼拝を正しくお奉げしない訳にはいきません。
いろいろなきまりを守るのは、安息日を守る一番大事なことではない。むしろ、神様に心を向け、神様を礼拝すること、それこそが許されていることです。そこには、わたしたちを心から愛してくださり、神様の平安に招いてくださっている神様の御心があります。このことのために、イエス様が十字架に掛らなければならなかったことを覚えます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」喜びと感謝を持って、神様からの招きに応えて行きましょう。
お祈りします。
在天の父なる神様。わたしたちが、日曜日にあなたを覚えるために、礼拝を設けてくださいまして、ありがとうございます。わたしたちがますます、神様に心を向け、守られて日々を神様の平安のうちに歩むことができますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

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