日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年4月24日 「天の父に信頼せよ」 今村あづさ伝道師
マタイ6:25~34

主イエスは、ガリラヤ湖のほとりの小高い丘で説教をしています。ガリラヤは、緑の豊かな美しいところです。「空の鳥を見よ、野の草を見よ」と主イエスがおっしゃれば、聞いている人々は空を見上げて鳥を見、視線を落として咲き乱れる花を見たことでしょう。
「あくせくしている時、しばし手を止めて、周りを見渡してごらん。神様の造った世界の美しいことを。」私たちは、こんな風にこの言葉を理解しがちです。わたしも、そのように考えてきました。しかしながら、この解釈は、少し変です。というのは、あくせくしているときには、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い煩うよりも、「この仕事はどうやったら、期日までに仕上げることができるだろうか」とか、「残業続きで、くたくたで、もう何もやりたくない」とか、「どうしてこんな人間関係で苦労しなければならないのか」とか、考えていて、「この仕事でどうやって食べられるか」、と言うことはあまり考えないものだからです。
そこで、もう少し別の読み方をしてみました。それは、4月から始まった朝ドラです。浜松で両親と姉妹三人で暮らしていた一家のお父さんが病気で死んでしまいます。しばらくは会社から恩給が出ていたのですが、何年か経つとそれも打ち切られてしまいます。お母さんも、その会社に勤めることができたのですが、その給与だけではとても暮らせません。主人公の長女は、食べるため、学校を続けるために、いろいろ考える訳です。焼き鳥屋に売ろうと、鳩を捕まえてきたりします。運動会で一等賞になると米1俵がもらえると聞いて二人三脚を頑張ったりします。とにかく頑張るのですが、うまくいかない。そのうち、お母さんに妾にならないか、といった話まで出てくる。何を食べようか、何を着ようか、思い悩むとはこのことでしょう。
せっかく捕まえたのに売れなかった土鳩を話す。鳩は飛んでいきます。人の困っていることなど、知らんぷりです。彼らは、一緒に生きる仲間がおり、食べる物があり、この世界で場所を与えられているのです。しかし、自分たちは…彼女たちは、蒔き、刈り、蔵に納めているのです。毎日、誰もが仕事をし続けているのです。それでも、生活できないのです。
空の鳥が、蒔くことも、刈ることも、蔵に納めることもしないのに、天の父が彼らを養っていてくださる、という言葉は、蒔き、刈り、蔵に納めている私たちに、なぜ、明日の食べ物がないのだろう、と言う嘆きとも、読むことができるのではないでしょうか。
主イエスの母マリアは、ヨセフが早く亡くなり、やもめとして生活したようです。主イエスには、何人もの弟、妹がありました。その子どもたちを食べさせるために、そして寒い時期に暖かい衣服を着せようと、母マリアは思い煩い続けていたのではないでしょうか。そのことを、長男であるイエスには打ち明けていた。どうしましょう、明日の子どもたちに食べさせる食事がない。着せる着物がない。ああ、空の鳥は元気に飛び、野の花は美しく咲いている。神の創造の御業の美しさは美しい。世界は、神の祝福の中にあるように見えたでしょう。自分たちの窮乏とはまったく関係なく、世界は豊かなのです。
世界は豊かで、恵みに満ち、神の創造の御業を喜んでいる。しかし、ここには、自分たちの明日の糧をどうしようか、食べる物をどうしようか、悩む家族がいます。豊かな世界は、そのことに全く気付いていないかのようです。世界が豊かなのに、わたしたちだけが、こんなに窮乏し、苦しんでいる、となると、神の呪いか、と思えてくるのです。
イエス様は、このような苦しみをご存じだったということです。考えても見て下さい、神の子が、食べられない困窮を経験しているなんて。なぜでしょう?なぜ、こんなにも苦しまなければならなかったのか?苦しむ私たちの救いのため以外の何ものでもありません。全能の神は、このように身を屈めて、わたしたちの救いのために小さくなられたのです。
さて、旧約聖書には、物質的な成功は神の祝福の現れであり、窮乏は神の呪いだという考え方があります。神の祝福は律法に聞き従う者に与えられるものであり、呪いはその人間や家族が、なんらかの罪を犯したからだと考えられていたのです。
神の呪いを一旦、受けると、それは何代もの間、続きます。母マリアの夫ヨセフが早く亡くなったのは、神の呪いを受けたからだ、と周りには考えられていたかもしれません。ルツ記でナオミの夫や息子たちが早死にしたのは、なんらかの罪の結果だと考えられているのです。
空の鳥が養われ、野の花も装ってくださる。ガリラヤの周辺の緑豊かな平和な生活。周り中が豊かで喜びにあふれている、そんな中で、自分たちだけが呪われている。神によって呪われ、この地上から拭われようとしている。食べ物がない。飢えて死のうとしている。この世界に、自分たちの居場所はどこにもない。
それは、宣教活動の中、迫害によって、と言うのではありません。そうではなくて、端的に、食べる物がない。社会で心配してくれる人がいないからです。先ほどの家族の話では、仕事はあったけれども、お金がなかった、ということでしたが、仕事ももらえないかもしれない。それは、この社会には居場所がないということです。「お前なんかいらない。」それは、「厄介(やっかい)もの」と言うことであり、究極的には生きる場所がない、「早く死ね」、と言うことになるのかもしれません。
旧約聖書の祝福と呪いを裏返すと、貧困、イコール、呪われた人、と言うことになってしまいます。朝ドラでは同情的でしたが、だからこそ、主イエスの「あなた方は、鳥よりも価値のあるものではないか。」「あなたがたにはなおさらのことではないか。」と言う言葉には、びっくり仰天させられるのです。
25節で「自分の命のことで」と、主は仰います。「命」と言う言葉の意味は、二つあります。肉体的な命と言う意味もあります。食べることによって、また暖かい衣服や寝具が備えられることによって、それには雨風をしのげる家屋、家も含まれているでしょうけれど、そういったものが備えられることで、身体が支えられて生きていくことができる、と言う意味があります。
もう一つ、重要な意味もあります。元のギリシア語は「命」以外に、「魂」とも訳されることもある言葉です。命は、いわゆる永遠の命、主イエスによって神からわたしたちが与えられるはずの永遠の命をも意味しています。それはつまり、神の国に入れられるということです。肉体が生きているだけでは足りません。その身体に魂が宿って、生き生きと生きていることが必要なのです。
最初の意味、端的に肉体的な命が長らえること、と言う意味で考えるとどうでしょうか。実際に、食べる物がないと心配するな、神様はちゃんと備えて下さるよ、と言う意味です。
神様に祈っていれば、食べ物が天から降って来るのか、マナではあるまいし、現代にはあり得ない、それより「働かざる者、食うべからず」(これはテサロニケの信徒への手紙2の3章10節のパウロの言葉ですが)、祈り働けばいいんだ、と思う向きもありましょう。
しかし、申命記15章11節では、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」とも、書かれています。旧約聖書の律法の時代から、やもめや寄留者など、生活困窮者には、落ち穂拾いなどを許し、社会的な弱者を救済する仕組みがありました。主イエスの目指す神の国が、このような仕組みを廃止したはずはありません。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と神は(エレミヤ書31章33節で)約束してくださっているのですから。
わたしたちが生きている現代の日本でも、6人に一人の子どもが、貧困状態で暮らしているとも言われています。この貧困は、日本の標準的な生活水準に照らして相対的に貧困であるなどと言う定義を見ると、食べられないほどではないのではないか、と思っている方も多いと思います。しかしながら、食べる回数を減らし、進学する余裕もなく、社会に自分の存在価値を見出すことのできない人々が、わたしたちの隣に生きており、しかもわたしたちがそのことに気づいていないという状況は、確実に現代の日本の社会の状況です。
教会は、天国の始まっているところ。兄弟姉妹に対して、大きく手を開いていきたいと思います。
次に、後の意味で考えてみると、25節の「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃる意味は、「食べる物、着る物で、天国に入れるかどうかが決まる訳ではありませんよ。」とおっしゃっていることになります。そして、その次の「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と言う御言葉は、食べる物や着る物で絶望してしまう人間の弱さに対して、そんなことではいけないと言っているのです。
私たちはどうしても、食べる物、着る物で、自分や、周りの人を評価しがちです。優越感に浸れることもありますし、ろくな暮しができないと思うことが、自分自身への裁きになってしまうこともあります。
食べる物、着る物、と書いてありますけれど、今日の聖書箇所の直前が「天に富を摘みなさい」と言う箇所ですから、いわゆる地上の富を象徴するものすべてが、ここで問題になっているのは間違いありません。いわゆる富んでいる人々に対してで、それは収入や、財産や、住む家や、家族。学歴、職業、云々と、いろいろあるでしょう。
一方で、貧しい人々、と言うことになると、「貧すると貪する」とか「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉があります。旧約聖書に、貧しいのは罪の結果である、と読めてしまう考え方があるのは、先ほど紹介しました。もちろん、これは、モーセを通して神様がわたしたちに言いたかったことではありません。主なる神は、あくまでもご自分と一緒にいなさい、祝福し、大事にしたいのだから、と招いておられます。しかしながら、このような間違った見方を人間はしがちですし、他人に対してこの見方で裁いてしまうと言うことが起こります。もっと悪いのは、自分自身さえ、裁いてしまうと言うことです。自分たちは、神の罰を受けて、神の前で死んでいるものなんだ、神の国に入ることは許されないんだ。そのように考えて、最初からあきらめてしまうのです。
このような人たちに「あなた方は鳥よりも価値があるものではないか。」とおっしゃって下さる、主イエスは、わたしたちと同じく、この地上に生き、「おまえは顔に汗を流してパンを得る」と言われたアダムへの呪いの中に生きた人でありました。ご自分は、何の罪もないのに、それはまさに、わたしたちの救い、わたしたちの赦しのためでした。「塵に過ぎないお前は塵に返る」と言われるわたしたちに、天国の門を開いてくださるためでした。
地上の日々に、毎日、何を食べようか、何を飲もうか、食べるに窮し、飲むに窮していたとしても、それは自分の命、天国での命には何のかかわりもありません。しかし、自分はだめな人間なんだ、神様にとって何の価値もない人間なんだ、神様に忘れ去られ、捨て去られた人間なんだ、と思ってしまった時に、それは罪になります。そしてさらに、もしも神様に信頼せず、さまざまな一線を越えてでも、食べる物や着る物を得ようとするならば、それは積極的に神に背くことになります。
思い悩むな。天の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。思い煩わずに、神に信頼せよ。神の国と神の義を求めよ。空に鳥が飛び、地に花が咲き、何の変哲もない、平和に見える社会の中で、貧困者は見えない存在になっています。自分の居場所がない、自分が生きる意味を与えられていない、父なる神の前で生きることができないと、最初からあきらめているのでしょうか。主イエスは、その人達に呼び掛けています。「空の鳥を見よ、あなた方は、鳥よりも価値あるものではないか。」「野の花を見よ、今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてや、神の前に永遠の命に招かれているあなた方には、なおさらのことではないか」と。

お祈りします。天の父なる神様、わたしたちは、ともするとあなたを忘れ、あなた以外のものに心を奪われてしまいます。また、この世の基準で人を評価してしまいます。神を愛し、隣人を愛せよ、と教えてくださった方のことを思い起こし、本当の命のために生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

2016年4月17日 「天の富」 今村あづさ伝道師
マタイ6:19~24

天の富とはどんなものでしょうか。地上の富と対比されているので、財産や地上の地位を捨てよ、と言う意味なのでしょうか。
地上の富は、穀物や金属の通貨や宝石などのように、虫が食ったり、錆び付いたり、盗人が忍び込んで盗み出したりします。つまりそれは、時が経つと損なわれ、忘れ去られてしまうし、不当な評価によって損なわれてしまう物で、確実な物ではないのです。
一方、天の富は、腐らず、価値は変わらず、人に取られることはありません。それは、神によって覚えられているからです。神は正しいことを忘れることはなく、騙されて別の人の手柄にされることもありません。
地上で罪の中に生きるわたしたちの業が、天上で覚えられるのは、奇跡です。主イエスによって神の国が近付き、神が近くに来てくださるからです。主イエスが天上で途切れることのない執り成しをしてくださっているからです。
天に富を積むのは、地上の務めを通じてです。それがどんな仕事でも、あなたがその仕事をやっていることに、神様のご計画があります。
仕事のやりがい、給料の善し悪し、地位と、神様のご計画とは関係ありません。神様のご計画など、日々の生活の中では思い出しもしないかもしれません。けれども、あなたの労苦は、自分自身が感じている以上に、天で覚えられています。
仕事ができなくなっても、天の富を積むことができます。信仰を持たない高齢者の中には、「早く死にたい」とか、「なぜまだ死ねないのか」と言ったことを言う人々がいます。最後の瞬間まで、わたしたちには生きる意味があり、生かされている恵みがあり、仰ぎ見るべき希望があることを、周りの人々に教え、伝えていきましょう。
人生の最初から最後まで、人の世話によって人生を送る人々でも、生きる価値があり、天に富を積むことができます。ヘンリー・ナウエンは「アダム」という本の中で、障がいの中でも、穏やかにいつも和やかに暮らしていた方の死に対して、あなたと一緒にいて幸せでした、と書いています。
人間は、それぞれの置かれている場で、神様のご計画の中に置かれています。労苦は天によって覚えられ、一円一銭まで数え上げられて、忘れられることはないのです。

2016年4月10日 「御名のために辱められることを喜ぶ」 舩戸良隆牧師
使徒言行録5:17~42
2016年4月3日 「主の祈り」 今村あづさ伝道師
マタイ6:9~13

主の祈り。主イエスが、弟子たちに「こう祈りなさい」と教えてくださった祈り。わたしたちが礼拝で必ず祈る祈り。祈りは、神様との対話です。
私たちは、日々、人間としての限界の中で生きています。病気に苦しみ、自分自身の思いに苦しみ、また隣人とのことで悩みます。何を行っていったらよいのか、どうしたら為すべきことを成し遂げることができるのか、日々の生活や仕事に喜びを見出すにはどうしたら良いのか、平安の中に一日を終えるには、どうしたら良いのか。
このような思いを持っている時、しかし、わたしたちは、神様に何をどのように祈るべきなのか、一方で祈ろうとすると、祈る言葉が見つかりません。しかし、神は、わたしたちが願う前から、わたしたちに必要なものをご存じなのだ、と言われます。パウロもまた、どう祈るべきなのか、わたしたちは知らないが、霊自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださると、書いています。
主イエスは、御自分の名前で祈る祈りは、必ず聞き遂げさせてあげようと約束してくださいました。そして、祈る言葉さえ、こうして主の祈りとして、わたしたちに教えてくださったのです。祈りの言葉さえ、教えてくださった。それは、わたしたち一人一人の、神に対する祈りの言葉を持つことができない、人間の限界を、神自らが越えてくださった出来事でしょう。神へ私たちから近づく祈りの言葉を、神ご自身がわたしたちに与えてくださったのです。私たちは、神様ご自身がくださった祈りの言葉によって、祈ることが可能となりました。神様への近さを、神様が確かにしてくださったのです。それは、天の国が近付いてくださっているからでした。そして、近づいて来てくださっている天の国を、わたしたち一人一人のものとするためでした。私たち自身が、天の国に確実に入れるようにしてくださったのです。
わたしが主の祈りを覚えたのは、教会学校に通って間もないころでした。幼稚園のスモックを着ている子どもは、意味など分かりはしません。でも、言葉を覚えることはできます。唱えることはできます。幼稚園で覚えて、その後ずっと、教会には通っていません、と言う人も、主の祈りは祈ることができる。それは恵みであるのです。
祈りは、ことばで口に出して祈ることで、確かな恵みになります。祈るように、と命じられていることは、それ自体が、恵みです。
主の祈りは、礼拝の中では必ず、祈られます。礼拝の中で、みんなで祈る祈りは、この主の祈り以外にはほとんどないでしょう。自分が声を出して祈っていると、周り中で同じ言葉の祈りが聞こえる。周りが祈っている中で、自分も祈り、自分の祈りも励まされます。友に祈っている人々がいる。それは、「われら」つまり、兄弟姉妹のために自分が祈っていることであり、また兄弟姉妹によって自分自身が祈られていることでもあります。
会衆一同で祈ることは、大事な意味があります。ペンテコステの出来事は、心を合わせて祈っていた群れに聖霊が降ったのでした。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とおっしゃっています。
旧約聖書の時代は、祈りは王、預言者、祭司のものでした。主の祈りによって、一人一人に祈りの言葉が与えられ、一人一人が直接神に、祈ることができるようになったのです。
今回は、マタイによる福音書を、順番に読んでいます。5章に入るところで、山上の説教の中心は、「主の祈り」です、とお話をしました。主の祈りの意味は、なかなかそれだけ学ぶと分かりづらいところがあります。主の祈りの意味は、山上の説教全体で説明されていると考えることも出来ます。連続で山上の説教を学ぶことで、主の祈りを学んでいることになります。
これから、主の祈りの後のイエス様の言葉を学びますけれども、主の祈りの前の中では、「姦淫してはならない」と言うところは、明らかに主の祈りの中の「わたしたちを誘惑に会わせず」と関係していると思いますし、「悪い者から救ってください」と言う祈りは、「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」という38節~の御言葉と対応していると思うのです。
主イエスは、わたしの名によって私に何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう、とおっしゃってくださっています。祈ることは、何でもかなえてくださると、言ってくださっています。5章の最初の「幸い」、悲しむ人々や、迫害される人々が、なぜ幸いなのか。悲しむ人々が、慰められるのは、神によって、ですが、なぜ神が悲しむ自分が、神によって慰められるのは、不可能なことに思えます。しかし、その不可能なことを、主イエスは、祈ることによって何でもかなえてあげるとおっしゃっています。
「悔い改めよ、天の国は近づいた」と主イエスは仰って、宣教活動を始められています。天の国が近付く、つまり神様が、御自身からわたしたちの方に近づいて来てくださっている。そうして、わたしたちが、主イエスの復活の永遠の命に生きるように、主イエスの十字架の出来事を用意された、それは奇跡です。このことによって、天の国は開かれ、そして地上に天の国が始まった。祈ることによって、わたしたちはまた、その奇跡に集められていることを、確認します。
主の祈りで、最初に神に対して、「父よ」と呼び掛けます。神を「父」と親しく呼び掛けているのは、主イエスだけです。そして、主イエスが、わたしたちにも「父」と呼び掛けることを許してくださっています。ご自分と神との間の特別に親しい関係、父なる神と子なるキリストとの交流関係に、わたしたちも招かれ、その恵みに与ることが許されています。
神を父よ、と呼び掛け、神との豊かな関係が許されていること、そしてそれを父なる神が望んでおられることを、この主の祈りの「父よ」と言う呼び掛けがわたしたちに教えてくれています。
神は、正しいことを行い、聖なる方であるけれど、わたしたちを心から愛しておられ、わたしたちがご自分との関係の中で、生き生きと生きていくことを望んでおられます。神は、わたしたちに神への従順を望まれますが、しかしそれを神に対する信頼を前提として行うことを望まれているのです。怖れ、嫌悪しながら従うことを、神は望んでおられません。
主の祈りは、日常生活の中で、さまざまな自分自身の個別の状況で祈られる祈りです。本当に今日の食べる物がない人も、そのような他者のために祈る人も、同じように祈ることがあります。また、日々、「赦してください」〔誘惑に遭わせないでください〕〔悪い者から救ってください〕と、心密かな切実な祈りとして、祈ることができます。
祈る言葉が、見つからないことがあります。習慣的に祈ってしまうことは、若いときには怒られたような気がします。心をこめて、祈りなさい、と言う訳です。しかしながら、祈れないことがあります。祈りの言葉が見つからない時があります。祈ろうとしても、呪いの言葉しか出てこない時。悲しい時、口から出てくるのは、答えのない疑問だけで、それは神への感謝や賛美として…詩編で嘆きが最後は感謝や賛美に代わっていますけれども、そんなふうに祈りあげることは、できなかったりします。そんなとき、主の祈りが与えられていることは、どんなに慰めであることでしょう。礼拝に出席し、会衆と共に声を合わせる時、隣の方の祈りの声に励まされることは、どんなに力になることでしょう。生きよ、生きよ、わたしと共に生きよと、天からの励ましがあります。執り成しの祈りをしてくださる方がいます。どうしても、生きることを喜べない、心の貧しいものも、神様が自分に一番大切なものをくださると信じられない者も、神ご自身が、近づいて来てくださいます。
十字架の贖いによってわたしたちの前に差し出されている恵み、共に歩んでくださる神、わたしたちはその方に信頼して、今週一週間もまた、日々の歩みを進めてまいりたいと思います。
お祈りします。主なる神様、イエス様をわたしたちに与えてくださり、ありがとうございます。私たちが、あなたに信頼し、この方の跡を着いて行くことができますように、主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

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