日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年11月27日 「主の来臨の希望」今村あづさ伝道師
マタイによる福音書24:36~44

今日、マタイによる福音書の24章を読んでいるのは、聖書日課で、今日がこの箇所だからです。聖書日課では11月の最後の週は、終末を語ることになっているのです。
11月は死者の月と呼ばれ、多くの教会で逝去者記念礼拝が持たれます。これは、アドベントから始まる救いの物語が、アドベントの直前で将来への展望となって一年を終わるからです。
クリスマスの前のアドベントは、まず救い主の誕生を待ち望む、旧約聖書から始まります。クリスマスにご降誕になった神の御子は、成長され、十字架のご受難を受け、イースターで復活されます。その50日目にペンテコステがある、そして神の民である教会の物語になります。私たちは、召され、生かされ、与えられた使命を学んでいくわけです。そして、降誕前節は神の想像と救済の意志を学ぶ。その中で将来をみすえ、神が御計画されている救いの完成の姿を思い描き、御子誕生の意味を捉えなおすのです。終末を学ぶことは救いの物語の完成を学ぶということです。
終末とは世の終わりに主イエスが再臨し、裁きを行われ、私たちは皆、裁かれるということです。この世の終わりの前に、様々な苦難が来ると、預言されています。戦争や災害、迫害と裏切り、偽預言者と人々の心から互いを愛し合う愛が無くなっていくことです。
旧約聖書では、困難の先に主が現れてくださり、人々を救うと預言されていました。新約聖書では、その権威を授けられた人の子こそ、主イエスだと、信じられていました。
迫害の時代、人々は苦難に会っていました。人々の信仰が試されます。最後まで耐え忍ぶ人は救われるというのです。
今日の箇所、その時は突然やってくるといいます。そして、その時まで引き伸ばされた裁きは、一挙に行われるというのです。洪水のように、あるいは津波のように、ある人は連れ去られ、ある人は残される。ここで、41節で連れて行かれる人と残される人、津波のことを考えると残される人が命長らえる人だ、と考えてしまいますが、連れて行かれるのが意味的には仲間に入れるという意味です。だから、こちらの方が神の国に入る人たちで、残されるというのは神から見捨てられるということなのです。 そこで、誰が救われ、誰が滅びるのでしょうか。25章40節に、たとえの形で主イエスが教えてくださっています。つまり、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのであると。苦難の中でも、神に信頼して忠実であり、目を覚まして待っていることが進められています。神の言葉に育まれ、神と共に歩み続けることが求められているのです。

2016年11月20日 「婚礼の花婿」今村あづさ伝道師
マタイによる福音書9:14~17

そのころ、と今日の箇所は始まっています。前回の箇所で、取税人のマタイが赦されて、イエスと共に食事をしていた。それを見て、ヨハネの弟子たちがやってきて言うのです。あなたたちは、なんで断食(だんじき)をしないのか、と。
9章の罪人の癒しは、山上の説教などと、ちょっと性格が違うところがあります。山上の説教で言っていることは、旧約聖書の律法よりも、厳しいのです。律法では離縁状を渡せば離婚は認められた。けれども、主イエスは、離婚を赦さない。姦淫をしそうになるようなことは、一切するな。律法の精神を徹底し、律法よりも具体的にはより厳しい掟を言うことになります。
旧約聖書の命じている律法を厳しく解釈して、より厳格な生活をするというのは、洗礼者ヨハネでも、ファリサイ派の人々でも、同じだった。この点では、洗礼者ヨハネも、ファリサイ派も、キリスト教も、同じなのです。
ところが、同じ仲間だ、と思っていた主イエスは、9章では勝手に罪人を赦してしまう。罪人と考えられる職業の人々と、あろうことか、どんちゃん騒ぎをする。なんてことだ、と、洗礼者ヨハネの弟子たちは思うのです。たとえば、ファリサイ派の人々は、週に2回、断食(だんじき)をしていたのです。でも、主イエスに直接言うことはできないから、「なぜあなたは、」ではなくて、「なぜあなたの弟子たちは」という言い方になります。
そこで、断食(だんじき)は、どんな時にしていたのか。ユダヤ教では、秋が新年です。新年の時に、大贖罪日、つまり罪を贖う日がある。その時は、断食(だんじき)をすることになっていました。また、国が滅びてしまった以降は、年に4回、国家的災厄の日を覚えて断食(だんじき)をするようになりました。エルサレム包囲の日、陥落の日、神殿が破壊された日、ゲダルヤという総督の暗殺された日です。さらに、身内が亡くなった時にも、断食(だんじき)をします。そうすると、日本では8月15日とか3月11日とか、一斉にサイレンが鳴って、一分間の黙とうをする、そんな感覚なのだろうと思います。
もう一つ、断食(だんじき)をするのは苦しいことですから、イエスの時代に近くなってくると、断食(だんじき)をする人は功徳を積んでいる、と言う感覚が出てきます。パリサイ派が週に2回、断食(だんじき)をしていたのは、この理由のようです。
そこで、ヨハネの弟子たちへの主イエスの答えは、どういう意味でしょう。ここで、当時の慣習があります。「婚礼の客」の中には、花婿の介添え人とか、仲人とか呼ばれる人がいます。ヨハネ福音書には、花婿の介添え人と言う人が出てきます。調べてみると、この人たちが結婚式のすべてを取り仕切るようです。つまり、仲人であり、結婚の証人となります。結婚式は祭司が出てこない。ですから、式典も執り行ったということになるのです。婚礼の客は、文字どおりには婚礼の部屋の子、と書かれています。介添え人も婚礼の客たちも、結婚式の間は断食(だんじき)の義務から解放されているのだそうです。大げさな、と言う感じがあると思いますが、当時の結婚式と言ったら、最低でも1週間は続くのです。その間は、皆、晴れ着を着て、飲食し、歌い、踊ります。旧約聖書には、「雅歌」という書があります。これが、結婚式に歌われた歌なのだそうです。人々は、心から、新しい夫婦を祝福し、喜ぶのです。そんな、晴れがましい喜びの時に、断食(だんじき)など出来るだろうか、そもそも、断食(だんじき)することも、婚礼の客には免除されているではないか、と言う訳です。
なぜ、結婚式が出て来るのでしょう。その中でも、花嫁と言う言葉はなくて、花婿だけ出て来るのは、なぜでしょう。それは、新約聖書で「花婿」と言えば、イエス様のことだからです。では花嫁とは誰だろうか、となると、「それはわたしです」と心の中で大きな声で言った人もいるかもしれませんが、聖書の理解するところは、キリストの花嫁は、教会です。
そこで、主イエスが、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。」とおっしゃっているのが、ご自身のご受難のことを話しておられるのだな、と言うことが分かるのです。奪い取られるとは、殺されることですから、そのことを嘆き悲しんで、断食(だんじき)をするという訳です。
キリストは教会の頭、とも言いますが、教会の夫、花婿でもある。結婚とは、一体になることですから、教会からキリストが離れてしまうことはあり得ません。教会はキリストと共にいつも歩んでいることを覚えて、その愛と支えの中に、神の平安に生きることが赦されている訳です。
次に二つのたとえがあります。意味は分かるでしょうか。
最初のたとえは、布のことです。服に継ぎをあてるのに、降りたての布を使わない。…わたしもほとんど自分で洋服を作ることはないのですが、東南アジアの布を買ってスカートを作った時は、さすがに縮むだろうと、一度洗濯してから仕立てました。…当時の衣服の生地は、麻かウールでした。ウールが縮むというのは、割に分かります。麻も、縮むそうです。ですから、織ったばかりで水にさらしていない布切れを使って継ぎを当てると、当てられた古い服は引っ張られて、破けてしまうと言う訳です。それでなくても、新しい布で服を仕立てればいいのですから、もったいない話だと思います。
もう一つ、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない、と言う話しですが、まず、革袋と言うのは、山羊、羊、子牛の皮で作られており、水、ミルク、ぶどう酒などを入れるのに使われています。そこで、パレスチナは乾燥した土地です。古い革袋を吊るしておくと、干からびて縮み、弾力性が無くなります。そこに、古いぶどう酒ではなく、新しいぶどう酒を入れると破れると言うのは、どうしてでしょう。新しいぶどう酒は、まだ発酵が進んでいる状態のもののようです。発酵は、酵母がエタノールを生成していく過程ですが、エタノールと同時に二酸化炭素が出ます。その二酸化炭素で破裂してしまうと言う訳です。スパークリング・ワインは、わざと炭酸を入れた者もありますけれど、瓶内で発行しているものもあって、要は、新しいぶどう酒というのは、スパークリング・ワインだと言う訳なのですね。新しい革袋ならば、弾力性があるから、耐えられるものらしいのです。
どちらのたとえも、主イエスが来て、新しくなったんだから、制度や習慣も新しくしなければ、と言っているようです。新しくなったのは、何でしょう。主イエスの革新的な教えのことだ、と考えてもいいでしょう。でも、その後ろには、主なる神がいるのです。主なる神がいて、主イエスを通じて、わたしたち人間を、救おうとしている、その救いの出来事が始まっているのです。それは、これまでの、悔い改めて神の救いのみ業を待ち焦がれている時間とは、根本的に違うのです。今、ここに、救いの出来事は実際、主イエスによって、わたしたちの目の前で、起こりつつあるのです!そんなふうに、新しい事態が、素晴らしい事態が、始まり大きくなっていっている。どんどん顕(あら)わになってきている。この弟子たちは、その喜びの中で過ごしている。だからこそ、習慣や制度は、それに合わせて変えられて行くのだ、たとえの意味は、そのようなことではないでしょうか。
主イエスと言う花婿と共にいると言うことは、宴会が開かれていると言うことです。そして、この宴会は、神ご自身がご自分を顕わしている宴会です。まさに、私たちは、終わりの日に、神ご自身が食卓で給仕をしてくださる、夢のような宴会に招かれている者ですけれども、その宴会をこの世で先取りしているのが、主イエスと共にいると言うことなのです。花婿と共にいると言うのは、そういうことなのです。
洗礼者ヨハネも、ファリサイ派も、神への応答は、古いやり方をそのまま行っています。しかしそれは、主イエスの福音伝道がわたしたちにもたらしてくださる喜びとは、全く両立しません。今や神は、全く新しいことを行っておられるのです。私たち自身も、古い習慣を後にして、神の恵みに応答する新しい方法を見つけたいのです。
神は、わたしたちの只中で、今この時も、働いておられます。神が働いておられるめぐみの印に注意を向けたいのです。
先週から月末までの2週間は、アドベント前と言うこともあってか、立て続けに研修会が続きました。そのうちの一つに、分区の教師研修会があったのですが、その時に聞いた話です。ある高校生の男の子は、ほとんど字が書けませんでした。それは、幼稚園かなにかの時に、親しい女の子から、「いつも飛行機の絵ばかり描いているね。」と言われたのがきっかけだったそうです。知能は高く、野球も四番打者になるような少年なのに、ずっと、字が書けなかった。書こうとしなかったのだそうです。もちろん、それでまともな高校に行けるはずもありません。通信制の特殊な高校にやっと入ったのだそうです。けれども、高校一年生の前期で、レポートが36個も貯まってしまった。字が書けないから、提出できない訳です。やっと入ったその高校も、退学しなければならないか、と言う状況でした。
この段階で、お父さんが教会に相談に来ていました。お父さん自身も、いろいろなことで、腰痛で苦しんでいたのだそうです。この彼は、その後、タブレットかな?パソコンを使うようになった。あっという間に、使い方を覚えたそうです。自分で字は書いてはいけない、とルールを作っていたのでしょうか。そのルールはパソコンを操作してはいけない、というルールにはなっていなかった。そこで、パソコンで文字を入力して、レポートもあっという間に仕上げて行って、それから成績がぐんと上がった。そしてこの秋、大学の法学部への入学が決まったそうです。
一方で、日本基督教団のいろいろな報告を読むと、教勢低下と高齢化、ばかりが目につきますし、それをどうしよう、と言っても、そうしようもないことばかりで、暗い気持ちになってしまいます。そして、それを、わたしたちの悔い改めが足りないからだ、と「警告」する声もたくさん聞かれます。
けれども、私たちは、わたしたちの只中で、今、現在、神ご自身が一緒にいてくださり、働き続けていられるのだということに、心を留め、喜び感謝しつつ、過ごして行くことが赦されています。わたしたちは、だから、教会の礼拝で、神のみ言葉、生きて働く方のみ言葉を聞くたびに、賛美し感謝し、喜ぶのです。
お祈りします。
天にいらっしゃる父なる神様、あなたは、わたしたちに主イエス・キリストを送ってくださり、恵みのみ業を成し遂げて下さいましたから、ありがとうございます。神様が私たちの只中に共に生きてくださり、今日も奇跡のみ業をなし続けてくださっていることを、わたしたちが喜び、信じることができますように、主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りします。アーメン

2016年11月6日 「罪人を招くため」 今村あづさ伝道師
【聖書箇所】マタイによる福音書9章9節~13節

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