日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年7月9日 「安息日の癒し」 今村あづさ伝道師
マタイ12章9節~14節

12章の初めから、安息日に関する論争が続いています。今日の箇所は、前回と同じ安息日の出来事です。イエス様はユダヤ教の会堂にお入りになり、片手の萎えた人の癒しをなさいます。すると、ファリサイ派の人々が会堂から出て行って、イエス様を殺す相談を取りまとめます。マタイによる福音書で、最初にイエス様を殺す陰謀が行われるところで、わたしたちはその結果を知っていますから、受難物語はまだ始まっていませんけれども、わたしたちはそれが迫っていることを感じるのです。
イエス様が会堂に入っていく。ファリサイ派は出て行く。イエス様は、ここで旧約聖書の安息日について、神様がそれを定めてくださった思いに戻れとおっしゃっている。安息日を守れという神様の命令だけを重んじて、細かい規定を守ったとしても、神様のそこに込められた思いを知らなければ、あなた方は神様を知らないことになる。神様に立ち返れ。つまり、悔い改めて福音を信じなさい。そのように仰っています。そのことを、ユダヤ教の教会、会堂に入って仰っている。けれども、ファリサイ派は出て行った。決裂してしまったわけです。

神様がこの命令、十戒の第四戒、「安息日を守ってこれを聖とせよ」に込められた思いというものが、イエス様の言葉に示されていますから、それをまず、見て行きましょう。
11節にイエス様は、こんな話から始めます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」イエス様の持ち出して来た例は、日本語ではよく分かりませんけれど、「誰か、たった一匹の羊しか財産を持っていなかった人がいて」という意味です。
貧しい人のたった一匹の羊。この人にとってこの羊が、どんなに大切なものだったか。このたった一匹の羊は、財産であり、かけがえのない家族でさえあったかもしれない。その大事にして養っていた羊が、穴に落ちてしまった。この貧乏な男にとって、手を差し伸べて羊を助けることは、当然過ぎることだったのです。
当然のことをやっているように見えるのに、なぜ、ファリサイ派は問題にするのでしょう。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」出エジプト記20章8節以下では、この言葉に続けて、「いかなる仕事もしてはならない」と定めています。これに関連して、出エジプト記35章2節では「仕事をする人はすべて死刑に処される」とあり、実際、民数記15章32節では、安息日に薪を拾い集めていた男が石打ちの刑に処されています。薪を集めることまで禁じられていたのは、そもそも火を焚くことも禁じられていたからです。…それでは、食事のための煮炊きも出来ないことになりますが、現代のユダヤ人でも、土曜日はトースターもコーヒーも、前の晩のうちにすべてタイマーでセットしておくと言います。…話がそれてしまいましたが、このように安息日違反は、下手をすると石打ちの刑で死刑になるほどの重罪でした。そこで、その安息日に羊を助けるのは、そのような罪を身に負うことも覚悟して羊を助ける、それほどのものであったのです。
その次にイエス様は12節で、人間は羊よりもはるかに大切なものだ。とおっしゃっています。石打ちの刑に処されるほどの罰を受ける可能性があっても助けるのだとするならば、この片手が萎えてしまっている男の人は、なおさら当然、癒すべきものではないか。
この、片手が萎えてしまっているということの意味が、今日の交読詩編の箇所で出てきました。詩編137篇5節。「エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手は萎えるがよい」。エルサレムとは、エルサレム神殿のことです。そして、エルサレム神殿に住む主なる神のことです。片手が萎えてしまっているこの男は、主なる神を忘れてしまったということを意味しているのではないでしょうか。だから、今日、今、安息日であっても、この人を助けたい、神様のもとに連れて行きたいとイエス様は願ったのでした。イエス様の、この障害を負った男性に対する憐れみの気持ちが、貧しい男の穴に落ちた羊を助けたいという気持ちよりも大きなものだから、安息日の今日、あえて男を癒したのです。
このイエス様の気持ちが、7節の「わたしが求める者は憐れみであって、いけにえではない。」という神様の気持ちです。貧しい男は、たった一匹持っている大事な羊を可哀そうに思い、自分が罰を受けるかもしれないけれども、手を差し伸べて助ける。ましてや、イエス様は、手の萎えた人を癒すことによって十字架に掛けられても、安息日にお癒しになる。そのことが、神様の御心なのです。

神様は、安息日にどのような思いを込めて、わたしたちにこの掟を下さったのでしょうか。出エジプト記の20章8節~11節、申命記の5章12節~15節を読んでみましょう。…
仕事をしてはならないということの次に気づくのは、これは自分ばかりではなく、家族や家畜、奴隷、寄留者すべてに対する掟だということです。十戒は、主人だけが守ればよいというものではない。主人を休ませるために、奴隷たちは働くと言うのではないということで、弱者保護の観点があります。
次に、神様が6日を掛けて天地を創造され、七日目に休まれたことを記念せよ、と書いてあります。また、主なる神がエジプトの地で奴隷であったイスラエルの人々を導き出した、そのすばらしい働きを思い起こさなければならない、とも書いてあります。いずれも、神様の素晴らしい働き、大いなるみ力を思い起こしなさいと言うことです。
つまり、神様に心を向ける日が、安息日なのです。
神様に心を向ける日とは、神様を礼拝する日です。神様の創造の御業に感謝し、エジプトから選ばれて、ご自分の宝の民とされた大いなる御業に感謝する。それは、神様への賛美となります。そして、神様を賛美する日を神様ご自身が制定されたというのは、その日は神様ご自身も、わたしたちが神様に心を向けることを、望んでおられるということです。
申命記8章には、主を忘れることがないように、注意しなさいと書かれています。主を忘れることがあれば、あなたは必ず滅びるとも書いてあります。神様は、ご自分の民を集め、神様の平安のうちに置き、神の命を与えてくださり、わたしたちが幸せに生きることができるようにと、してくださったのです。
キリスト教では、日曜日に礼拝を持ちます。イエス様の復活の出来事を記念して、そのすばらしい神様の御業の行われた日曜日に、神様を礼拝するのです。

さて、日本の社会は、キリスト教が元になっていませんが、官公庁や学校は、日曜日がお休みです。でも、労働法では特に日曜日を休日にする特別な法律がある訳ではなく、フルタイムで働いている人には7日に1回、休みを与えろ、と定めているだけです。そこで、わたしたちの教会の兄弟姉妹の中にも、日曜日に普通に仕事をしている人たちがいることになります。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
明治時代の教会では、日曜日が休日でない仕事をしている人に、転職を進めていたそうです。一週間に一度の休日も与えないような、ブラックな企業がたくさんあったでしょうから、そんな仕事を辞めて、まともな仕事に着けるように頑張りなさい、というのは、悪くない教えとも言えます。しかしながら、官公庁や公共交通機関など、まともでお堅い仕事であっても、日曜日が休みでない職場はたくさんあります。日曜日に仕事をしなければならないことを理由に転職を強いると言うのは、どんなものだろうか、と思わざるを得ません。また、看護師さんが「自分は日曜日の勤務は拒否します」と言って、シフトから外してもらうのだとしたら、ほかの人が自分の代わりに働くことになるのですから、安息日には自分ばかりではなく、家族、家畜、奴隷、寄留者すべて、休まなければならない、という掟も守れなくなります。
他方、日本の社会で生活していくために、日曜日に教会に行けなくても仕方がないのだ、とあまりに割り切ってしまうと、礼拝に行かないばかりでなく、神様からも心が離れてしまう心配も出てきます。神様は、わたしたちを選んでくださり、神様のもとで平安に生きることができるようにと、招いてくださいました。そのことを思い起こすための安息日です。実際に、神様の命をいただき、この世界を生きるために育まれる主の日です。その大きな恵みにどうにかしてあずかれるように、心を砕いて行きたいのです。
ルカによる福音書で、最初にイエス様が生まれるという福音が告げ知らされたのは、羊飼いたちでした。彼らは、夜通し羊の番をしなければならなかったので、安息日も守れず、その意味では神様から最も遠い存在とされていた人々でした。しかし、その人たちに天使が真っ先に現れてくださった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」礼拝に来られない人を神様は顧みてくださったのです。
教会は、さまざまな事情で礼拝に出席することのできない人々のために、心を砕き、また祈っています。富士吉田教会がHPで礼拝説教の音声も含めて公開しているのは、それによっていくらかでも、礼拝に来られない人々が教会を通じて、イエス様に繋がっていて欲しいと思っているからです。日曜日の夕方には、英語とスペイン語を使って礼拝説教のフォローアップをしていますが、これも神様の言葉に繋がっていて欲しいからです。木曜の聖研祈祷会も、午前と夜に持っています。夕礼拝を持っている教会も、たくさんあります。富士吉田教会も、必要なのであれば、平日の礼拝をしてもよいでしょう。
礼拝にこだわるのは、理由があります。礼拝に出席することによって、いただける恵みがあります。聖書を正しく読むことは、なかなか一人ではできないでしょう。礼拝説教は、教会の聖書の読み方をわたしたちに教えてくれるものです。けれども、そればかりではありません。聖餐式で与えられる恵みがあります。これこそ、わたしたちのために血を流し、肉を裂いたキリストを心に刻みつけるためのものです。心を合わせ、声を合わせて祈ることができます。ペンテコステの出来事は、一同が一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈って待っていたからこそ、待ち望んだ聖霊が降って来てくださったのです。
礼拝は、神様への奉仕だと言います。確かに、自分たちの休日の貴重な時間を割いて、神様のために捧げると言うのは、大変な奉仕だと感じることもあるでしょう。でも、神様の仰っていることが分かるようになることを、「耳が開いて来る」という教会用語がありますが、耳を開くためには、何度か、それも出来れば続けて、礼拝に出てみることが必要です。神様を正しく礼拝すると、恵みが豊かにいただけます。正しい礼拝とは、讃美歌を歌うこと、祈りを合わせること、信仰を告白すること、そして恵みに応えてすべてを捧げるしるしとしての献金、すべてが含まれてきます。
礼拝は、神様がわたしたちのために割いてくださる、神様からわたしたちへの奉仕であるとも言えます。この世での戦いを前にして、主なる神が、わたしたちのために食卓を整えてくださり、共にいてくださることを約束してくださっています。わたしの杯に恵みを溢れるほどに注いでくださり、慈しんでくださるのです。
礼拝は、その主の家に帰る時間です。「生涯、そこに留まるであろう」と、詩編23篇でダビデが歌っているように、主の家は恵みと慈しみに満ちた場所です。この食卓を整えるために、神様がわたしたちのために、どのような奉仕をしてくださったのか。ご自分の愛する御子を十字架に着けて、この食卓は準備されたものです。わたしたちを救おうと言う神様の真剣さ、そのことを思うと、わたしたちは礼拝を正しくお奉げしない訳にはいきません。
いろいろなきまりを守るのは、安息日を守る一番大事なことではない。むしろ、神様に心を向け、神様を礼拝すること、それこそが許されていることです。そこには、わたしたちを心から愛してくださり、神様の平安に招いてくださっている神様の御心があります。このことのために、イエス様が十字架に掛らなければならなかったことを覚えます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」喜びと感謝を持って、神様からの招きに応えて行きましょう。
お祈りします。
在天の父なる神様。わたしたちが、日曜日にあなたを覚えるために、礼拝を設けてくださいまして、ありがとうございます。わたしたちがますます、神様に心を向け、守られて日々を神様の平安のうちに歩むことができますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2017年6月25日 「火と槌の御言葉」 今村あづさ伝道師
エレミヤ書23章18~29節、第二テモテ4章1~5節

エレミヤは、ベニヤミン領アナトトの祭司ヒルキヤの子であった、とエレミヤ書の最初に紹介されています。主の言葉がエレミヤに臨んだのは、ヨシュアの時代から、ユダ王国の最後まで、つまりゼデキヤの時代にエルサレムが陥落し、住民が捕囚となってバビロニヤに連れて行かれるまで続いたのでした。
エレミヤの召命、つまり神様がエレミヤを召されたのは、エレミヤがまだ若者の時でした。しかし、神様は、エレミヤを召す時を、今か今かと待ち望んでいたのです。「わたしは、あなたを母の胎内に作る前から あなたを知っていた。」エレミヤに臨んだ最初の主の言葉です。
今、木曜聖研祈祷会では、サムエル書上を読み進めています。預言者サムエルは、シロの神殿に捧げられた子供でした。シロの神殿には、年老いたエリと、二人の息子ホフニとピネハスが祭司として仕えていましたが、この息子たちはならず者で、主を知ろうとしない人々でありました。そこで神は、エリの家に裁きを下します。彼らが守っていた神の箱がペリシテ人によって奪われ、ホフニとピネハス、そしてエリもまた、その日に亡くなるのです。そして、神の人の預言のとおりに、彼らの子孫は祭司職を奪われ、アナトトへ追放されます。代わりに、ツァドクという祭司の一族が、神殿の大祭司職を独占するようになり、イエス様の時代まで、続くのです。
サムエル記上の物語の中で、エリの一族の末裔が追放された土地が、アナトトでした。そのアナトトから、祭司の息子である預言者エレミヤが出てきます。エリ一族の末裔の末裔であるということでしょう。エリの二人の息子、ホフニとピネハスの行った罪は、神を知ろうとしなかったということでした。しかし、その末裔であるエレミヤには、神の言葉が臨みます。神は永遠に赦さないではおかない。それどころか、想像することも出来ないような大きなご計画の中に、人間を置いてくださるのです。「わたしは、あなたを母の胎に作る前から あなたを知っていた。」この言葉の重みは、すさまじいものがあります。神様は、私たちには想像できないほど長い時間---数百年ということになります----ご計画を用意し、その時を待ち望んでいたということです。
ここで簡単に、「神様がご計画を用意し、その時を待ち望んでいた」と申しました。自分がこの一族のエリからエレミヤに至るまでの家系のどこかに生まれたとして、そんなふうに考えることはできないのではないか。長い長い数百年もの間、自分の一族は、あるいは皆殺しに遭い、あるいは追放に遭って来た。アナトトの地で、日々のパンにも事欠くような惨めな生活を幾世代も続けてきた。その間、一族に生まれた人々は、神様が自分たちに、み顔を向けてくださることを待ち望んで生き続けた…。簡単に考えると、待ち望んでいたのは人間の側であると考えがちです。しかし実は、待ち望んでいたのは人間ではなくて神様の方であった。「わたしはあなたを母の胎内に作る前から あなたを知っていた。」この言葉には、そのような神様の万感の思いを感じるのです。
しかし、エレミヤに臨んだ神の言葉は、すさまじいものでした。当時、ユダ王国は、バビロニヤからの軍事的な圧迫を受けておりました。実際、エレミヤの時代に、国は滅びて行くのです。エレミヤの預言はまさに、イスラエルの存亡を掛ける言葉だったのです。しかしそこで神の言葉は、この事態が、主なる神に逆らい続けてきたユダ王国に対する裁きであるということです。既にユダ王国よりも150年も前に滅びてしまっていた北王国イスラエルのように、ユダ王国も滅びると言う預言です。
神様の言葉を語っても、エレミヤの言葉は喜ばれませんでした。王国は確実に滅びる、それは神に背いたからだと言うのですから、聞く人々にはたまりません。国の存亡の危機を迎えて、どうしたら生きながらえることができるか、それが人々の聞きたい言葉だからです。エレミヤは、「ネブカドネツァルに従え、その帝国の中でしっかりと生活せよ、結婚して家庭を持て、そして主なる神への信仰を固く保て」と神の言葉を伝えます。しかしそれは、憎き敵であるネブカドネツァルをどのようにしたら倒すことができるのか、どの国が自分たちに味方して一緒に戦ってくれるかと思案する人々からすると、弱腰の敗北主義者に見えるのです。
ユダ王国の他の預言者たちは、さまざまに楽観的な預言をして、国王や人々を喜ばせます。王国の前国王、主だった人々が捕囚の民として連れ去られた後も、「二年待てばいいんだ、そうしたらみんな帰って来るんだ。だから希望を持て」と、預言者ハナンヤは語ります。しかし、その言葉は、主なる神から出たものではありませんでした。「誰が主の会議に立ち、誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。」「わたしが遣わさないのに、預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに、彼らは預言する。」主の言葉は語ります。
エレミヤの伝える主の言葉は明確です。イスラエルの国は、その罪のために滅びる。しかし、主なる神は、バビロニア帝国の中で、イスラエルの民を顧みる。それは、この世の王国はなくても、教会によって天に国籍を持つ、わたしたちの教会のことです。ご自分の名前をわたしたちの心に刻みつける。それは、わたしたちがイエス・キリストによって、この教会の中で実現されていることです。
今日の箇所では、主なる神のありようが、いろいろ語られています。少し考えていきたいと思います。
18節では、「主の会議」と言うものが出てきます。天上にはたくさんの神様がいて、会議をしながら、地上の出来事を決めていくのだろうかと、疑問に思うと思います。天上の会議のことは、詩編の中でも出てきますし、ヨブ記の最初でサタンがヨブを苦しめるために遣わさせることが決定するのもこの会議です。黙示録も、主なる神の玉座の周りには、24人の長老とか、聖なる生き物などが臨席しています。会議のメンバーは、神々ではなく、天使や、聖徒、時にはサタンまでも、主なる神の交わりの中に置かれているのです。この聖なる交流の中で、預言者は遣わされ、「語れ」と言われる言葉を語るのです。預言の言葉は、そのように重いものです。預言者の勝手な思い込みでもって語るものではありません。
23節に、「近くにいる神」「遠くからの神」と言う言葉があります。イエス様の生まれる前に、ヨセフに夢で現れた天使は、イザヤ書を引用しました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」「神は我々と共におられる」と言うのがインマヌエルの意味だ、と示されますと、わたしたちは神様は近くにいてくださる方なのだ、と思います。しかしここでは、神が近くにいると考えるのはとんでもない思い違いであって、「遠くからの神」が正解だと書いてあります。
それでは、ここで言う「ただ近くにいる神」と言う神様とは、どのような神様のことを示しているのでしょうか。ここを英語では「handy God」と訳している聖書もあります。手に取ることができる神様。持ち運びのできる神様と言うことです。
創世記や士師記などを読んで行きますと、このような「神」に関係するのかな、と言う物語が出てきます。たとえば、創世記でヤコブが叔父さんであるラバンの家を脱走する時、ラケルはお父さんであるラバンの家の守り神の像を盗んだという話しが出てきます。その像をらくだにまたがる時に使う鞍の下に隠したというのですから、小さなものだったのです。それから、士師記では、ミカと言う人がエフォドとテラフィムを作ったと言う話しがあります。彼は、自分の家族のために神殿を作り、息子の一人を祭司にしたのです。これらも後で、簡単に奪われてしまいます。
ですからここは、わたしは近くにいる守り神的な神に過ぎないのか?わたしは世界を創造した神ではないのか?あなたの都合に合わせて、自分で勝手に作った神なのか?そんなふうに問い掛けているのではないでしょうか。
「神は我々と共におられる」インマヌエルの神については、エレミヤ書のこことは違うところで、「イスラエルの希望、苦難の時の救い主」は、「我々の中におられる。」神であると言っています。
わたしたちは神から、逃れることができるでしょうか。神が存在しないところがあるでしょうか。天にも地にも、神は満ちておられる。ここでは、神殿に行く時だけ神に出会うのではない。普段は神を忘れていて、都合の悪い時だけ、神に出会いに行けばいい、というわたしたちの勝手な思いは、大変に浅はかなものだということが分かるのです。
神様に聞こうとせず、人々の聞きたいことだけを語る預言者たちを、「もみ殻と穀物が比べ物になろうか」と神は言われます。神の言葉は、もみ殻を焼き尽くす火に似ている。そして岩を打ち砕く槌のようだと、言われるのです。
あくまでも神の言葉を伝え、人々の喜ぶ言葉を伝えなかったエレミヤは、大変苦しい立場に追い込まれていきました。「わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」国のすべての人々に呪われ、争いといさかいの絶えぬ男と後ろ指を指されていたのです。「なぜ、私は母の胎から出て、労苦と嘆きに会い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」エレミヤは嘆き続けます。彼と同様の主張をしていた預言者ウリヤは、エジプトに逃亡しましたが、国王によって連れ戻され、王自身によって、切り殺されました。しかしそれでも、彼は語り続けるのです。

さて、今日は、「弾圧記念礼拝」として、礼拝を守っています。毎年言うことですが、1941年6月24日に日本基督教団が創立されました。それから1年が経った1942年6月26日、ホーリネス系の教会の牧師96名が一斉に検挙されたのです。その中には、この教会の牧師と前任の牧師も含まれていました。それから戦争が終わるまでの3年半、牧師は拘留され、取り調べを受け、治安維持法違反の裁判を受けることとなりました。その間、4名の牧師が亡くなりました。ホーリネス系の教会には解散命令が出され、宗教法人格を失いました。牧師は教職籍を剥奪され、就職の機会も奪われ、家族も含めて、困窮の中に暮すことになりました。
この教会には、当時の証言をまとめた分厚い「ホーリネス・バンドの軌跡」と言う本が、数冊もあり、毎年その本をこの時期は、少しずつ読んでいます。今回は、小池章三牧師の台湾での状況と、車田秋次牧師の手記を読ませていただきました。
治安維持法違反によって逮捕され、有罪の判決理由となったのは、キリストの再臨に関する千年王国説が天皇を中心とする日本の国体に反する、という点でした。もちろん、弁護士は霊界の主権と俗権の主権はその領域を異にしており、互いに侵略するものではないことを主張しましたが、受け入れられませんでした。警察での尋問や、裁判の公判陳述の内容は、まさに神学論争でした。牧師は、不十分ではあるかもしれないけれど、偽りは話さなかったと書いています。その時の裁判長は、後に洗礼を受けてクリスチャンとなったと書かれています。治安維持法違反での逮捕は、教会を反政府勢力と考えて破壊しようとするものでしたが、一人の人を神の身許に連れて行くことにもなったのです。
お祈りします。
在天のイエス・キリストの父なる神様。わたしたちは、あなたの御言葉の中から、自分に都合の良い所だけを聞こうとする愚か者です。しかしあなたは、そのようなわたしたちを火と槌の御言葉で清めてくださいます。どうか、わたしたちがあなたの前にへりくだり、あなたと共に生きることを得させてください。イエス様のお名前で祈ります。アーメン

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