日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2018年1月7日 「未来を信じて生きる」 伝道師
マタイ福音書2章13~21節 エレミヤ書31章15~17節

ヘロデは、「大いに怒」りました。ブチ切れた、マジギレ、無茶苦茶怒りまくったなどなど、言い替えることができるでしょう。とにかく、常軌を逸するほど、我を忘れるほど、怒ったのでした。
ヘロデは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」ました。ヘロデ大王は、星の現れた時期によって子どもの生まれた時期を知っていました。それなのに、二歳以下全員です。場所は、預言者によってベツレヘムだと分かっています。けれども、虐殺した男の子はベツレヘムばかりでなく、その周辺も含まれます。そして預言では、「ベツレヘムから出るユダの指導者」とは、ダビデの末裔として生まれることになっていました。しかし、一人残らずです。謀反の虞あり、と言うことであれば、取り調べを行い、相手を特定するべきところ、むしろ虐殺相手を拡大したように思えます。そこに、ヘロデ王の怒りと怖れが現れているでしょう。ヘロデ王朝の転覆など、よもや考えないように、恐怖で民を支配しようとしたのです。
預言者エレミヤを通して言われていたことが、ここで実現した、とマタイ福音書は言います。ラケルは、イスラエルとも呼ばれたヤコブの愛する妻です。十二部族の内、ヨセフとベニヤミンの母親にあたります。ラケルは、ヤコブ一家が旅をしている途中で亡くなり、ラマと言う場所にお墓があったのです。イスラエル全員の母ではありませんが、ここでは「イスラエルの母」として登場しているのでしょう。
エレミヤ書では、ラケルは北王国イスラエルが滅び、人々が外国に捕囚、つまり捕虜として奴隷労働のために連れて行かれたことを嘆いています。一旦、連れて行かれれば、永遠に帰ってくることはないであろう。永遠に、失われてしまった息子たちのために、母は嘆き悲しんでいるのです。
このラケルの嘆きに対して、主なる神は言われます。「泣きやむがよい。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には、希望がある。」と。
マタイによる福音書が、ここでエレミヤの言葉を引用しているのは、まずは幼子イエスはエジプトから帰って来るということでしょう。そのイエスは、福音を告げ知らせるために、神によって選ばれて帰って来るのです。そして、イスラエルの子どもたちも、イエスの名のもとに、集められるでしょう。世界中に散らされた同胞イスラエルの人々が、敵の国、つまり異邦人の地から、集められるのです。イスラエルの同胞とは、神によって選ばれた兄弟姉妹と言うことです。つまり、教会にわたしたちが集められること、それがラケルの未来の希望なのです。
しかし、虐殺されてしまった子どもたちは、もう、戻らないではありませんか。イエス様によって、わたしたちが救われても、ここで殺された幼児たちの命は、戻らないのです。いわば、この幼児たちは、わたしたちが救われるための犠牲であったということです。
キリスト教では、この幼児たちを、殉教者と考えてきました。そして、12月28日を幼子の祝祭の日とし、無辜の幼児たちが、キリストのために死んだことを覚える日としています。
しかし、幼児の殉教は、過去一回限りの出来事ではありません。時の権力者がマジギレするたびに、殺される人々は、この後も何度もありました。これからも起こるでしょう。そして、今、まさに起こっていることでもあります。
毎年、年末になると、海外のメディアが、世界中に起こっているさまざまな悲劇を取り上げます。圧政者によって、たくさんの小さな子どもたちが犠牲になっているという報道です。
1年前は、シリアからの難民たちの問題が取り上げられていました。地中海をゴムボートで渡って来る難民たちの中には、たくさんの子どもたちが含まれていました。不幸にも、ゴムボートが転覆し、水死した小さな亡骸が海岸に打ち寄せられる。その亡骸を当時のイギリス首相が抱きかかえている映像は、世界中に報道されたでしょう。世界の何十億人もの人々が、自分の子どもが殺されたように、悲しんだと思います。いわば、世界中が、ラケルのように、死んだ幼子たちの母として、嘆き悲しんだことでしょう。
ヨーロッパ、特にドイツが中心となって、たくさんのシリア難民を受け入れているのは、やはり第二次世界大戦の後で、自分たちの祖父母たちの世代が、難民になったことがあることでしょう。また、東西冷戦が終わった後で、東ドイツは西ドイツに吸収合併される形でドイツが統合された訳ですが、このときも混乱がありました。旧東ドイツ出身のメルケル首相の意向もあるのではないでしょうか。
この年末年始には、南スーダンや、南イエメン、そしてロヒンギャの人々の惨状が、報道されています。いずれも、キリスト教ではなくて、イスラム教がらみの地域であるところが、目を引きますが、やはりこの時期の報道であることは、キリスト教の伝統の中でのことだと思います。
なぜ聖書は、ここで、イエス様の代わりに殺された幼児たちの話を紹介しているのでしょうか。なぜ、わたしたちは、ことさらに、忘れてはいけないこととして、教会でこの物語を読むのでしょうか。それは、このような悲惨なことが二度と起こらないように、神様が介入し、世界を変えていく決意をしているということです。
これまで、このような事件の犠牲者たちは、人知れず、苦しみの中に捨て去られてきたことでしょう。世間から顧みられず、仕方のないこととして、あるいは貧乏くじを引いたとして、です。しかし、イエス様がこの世で生まれたことによって、すべてが新しくなるのです。キリストが覚えていて下さるのです。このような幼児たちが、幼児の父母たちが、人知れず苦しみの中に捨て去られてはならないというのが、神様のご意志です。
イエス様が、エジプトへ避難し、そしてヘロデ王の死によって帰って来るようにとのお告げを受けた20節、天使は「起きて、子どもとその母親を連れて、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった。」と言い、この言葉を受けてヨセフは、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来ます。ここのところは、出エジプト記4章19節をそのまま引き写した文章になっています。ヘロデ王が出エジプト記ではファラオに、「この子」つまりイエスが「あなた」、つまりモーセに代わっているだけです。
マタイによる福音書の教会には、旧約聖書を良く知っている人たちがたくさんいたようです。この人たちにとって、モーセに率いられ、イスラエルの人々がエジプトを脱出した出来事は、神様の大きな奇跡でした。それは神様が、イスラエルの人々を愛してくださったから、起こしてくださったものです。奴隷として打ち捨てられることなく、神の民として選んでくださり、ことさらに目を掛けてくださった。出エジプトの奇跡の前提に、神の選びがあります。
イエス様の誕生によって、父なる神は、もう一度、新しい出エジプトの奇跡をなされようとしています。ご自分が愛するわたしたちを教会に集めるためです。わたしたちが、救われて神の民となることは、大きな奇跡です。その奇跡は、今も続いています。この奇跡の中で、新しい現実が起こっているのです。
キリストが覚えていてくださる人たちを、わたしたちが関係のない人たちとして思い出さないものでしょうか。同じ、キリストに愛された者として、祈り合うということだと思うのです。
支配者はブチギレる事があります。支配者がブチ切れれば、世界はめちゃくちゃになります。世の支配者は、生活の苦労などしないでしょうが、執り成しの祈りは、支配者のためにも、必要です。
日本では、ヘロデ王の虐殺は起こりません。日本は法治国家ですから、地下鉄サリン事件のような恐ろしい事件が起こっても、首相が浅原彰晃を銃殺することはないのです。「警視総監が、警察の威信に掛けても必ず被疑者を逮捕します。」と、がんばり、上九一色村で地元の派出所の巡査が浅原彰晃を見つけて逮捕した後は、裁判に掛けられ、判決が言い渡され、判決に従って刑を執行する。こうなる訳です。
「法の支配」と言うのは、時の権力者が、勝手な自分の思うところではなくて、国会で決めた法律に任せますと、約束したことによって実現しました。支配者の中にも、クリスチャンがいて、幼子たちの虐殺などが二度と起こらないように、願ってこそできたことです。けれども、今でも、世界中で、自分の好き勝手に権力を振るおうとする支配者たちがいます。
イスラエルの母であるラケルが、墓の下から激しく嘆き悲しんだのに対して、主なる神は、「泣きやむがよい。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には、希望がある。」とおっしゃいました。苦しみの中に打ち捨てられてきた人々も、キリストが忘れ去ることはありません。涙を流しながら、この最も小さい者のために嘆き悲しんでくださるでしょう。この方によって、たくさんの息子たちが、娘たちが、世界中から父なる神のもとに集まります。世界を変えるようにと、キリストをこの世に派遣された父なる神が、今、この時、教会を通じて働いておられます。わたしたちを用いて、この世に神の国を拡げるために、働いておられるのです。
お祈りいたします。今日は、礼拝の式文の執り成しの祈りから祈ります。
全世界のため、すべての国民とその政府のために祈ります。
主よ、世界のすべての所に、自由と平和をもたらしてください。
また、政治に携わる人々に貧困や対立を克服する知恵と力をお与えくださいますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2018年1月1日 「新しい歌を歌え」 元旦礼拝・証 今村あづさ伝道師
コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節~19節

 富士吉田教会は、今日、第二世紀に入りました。101年目に入ったということです。教会は、1917年1月1日に始まり、昨日、ちょうど100年の歩みを終え、今日から101年目に入ったのです。

教会は第二世紀に入りましたが、福音は変わりません。私たちへの良き知らせは変わりません。それは、イエス様によって、神の国に入る希望の中に入れられているということです。一方で、私たちが神様によって生かされている日々の歩みは、1日1日、新しい希望の中にいつもある歩みです。新しい命をいただいたことを喜ぶ言葉は、日々、新たにされます。新しい歌は、一日一日、神様の新しい命をいただいて生きる中で、生まれてくるものなのです。

今日は、二人の方に、お証をしていただきます。どうか、互いによろこびあい、励まし合うときとしてくださいますように。あなたが私たちの先頭に立って導いてくださいます。どうか、私たちに必要な導きを与えてください。そして、私たちにその導きに従う勇気を与えてください。

さて、今日の聖書箇所は、まさに私たちに福音とは何かを教えてくださる箇所です。

「神は、キリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」

「和解」というのは、聖書では、神様がご自分の思いを変えてくださることです。神様は、私たちに腹を立て、私たちの話を聞きたくもなければ、顔も見たくないと思っていた。そのような神様の心を、イエス様が変えてくださった。私たちをご自分の近くに置き、話を聞き、顔と顔を見合わせて、共に生きていこうと、気持ちを変えた。これが、和解ということです。

普通に考えると、「和解」というのは、人間同士が仲直りをするということです。それには、お互いに気持ちを和らげるということがあります。でも、聖書の「和解」は、私たちの気持ちは関係なく、神様の気持ちだけが問題になっています。

神様は、お気持ちを変えてくださったので、私たちの罪の責任を問うことをやめました。罪の責任を問うと、どうなるのでしょうか。必要な時に神様の助けを得ることができません。様々な時、私たちは、どうしたらいいか、考えて行動することになります。迷うことがあります。自分はなんの価値もないと思うこともあります。様々に悪いことを考えることもあります。そんな思いの結果は、生きる希望のない人生です。

私たちが自分の思い悩みや、苦しみ、そしてその結果、くじけてしまっても、神様の所に行けば、いらっしゃい、待っていましたよ、話を聞きましょう、一緒に生きていきましょう。こうなるのが、罪を問われないということです。

なぜ罪を問われないのか、「キリストによって」罪を問うことをやめたのです。神様の怒りのもとにある人間は、自分が何をしたとしても、自分から神様と和解することはできません。ただ、キリストが十字架にかかってくださったので、死を通じてのみ、神様の側から、人を許す道を与えてくださったのです。

イエス様は、この世界に人間として生まれ、人間の一員として貧しい生活の中で育ちました。けれども、その生涯は、神様に全く背くことのないものでした。それは、たくさんの人々を癒し、教え導いたばかりではなくて、何の罪もないのに十字架に掛かってなくなる時までそうでした。生涯を通じて、神様の御心に従って歩んだ。これは、私たちの誰にもできないことでした。イエス様は、神様の御心にかないました。神様は、イエス様がご自分の思いと同じだと認めてくださいました。それは、神様がイエス様を信頼したということです。信頼するとは、義と認めるということです。神様は、イエス様を正しいと認めてくださったのです。

「キリストによって」とは、このイエス様に免じて、神様は私たちへの気持ちを変えたということです。イエス様が、神様にとって信頼できるから、神様は私たちをも、信頼してあげようというのです。

イエス様に免じて、神様が私たちのことを信頼してくださる。これは、どうしてでしょうか。イエス様と私たちとの間には、何があるでしょうか。何もないのであれば、神様と私たちとの間も、何も変わらないことになります。

ヨハネによる福音書の中に、イエス様は、弟子たちを愛し、愛し抜いた、と書いてあります。キリストは、弟子たちを愛し抜いた。愛していたから、神様に、「私に免じて赦してやってください」とお願いしてくださった。だから、私たちは神様によって赦されたのです。

弟子たちというと、2000年前にイエス様と一緒に生きた人たちだけだと考えると、私たちとは全く関係のないことになってしまいます。そうではありません。わたしたちも、イエス様の弟子なのです。イエス様は最後に、「私はあなた方を友と呼ぶ。」とおっしゃいました。そうだとすると、わたしたちもまた、イエス様の友達なのです。

友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はないと、イエス様はおっしゃいました。キリストは、私たちを愛し、愛され抜いた。それは、天に登っておられる今もそうです。キリストは、天井で、私たちのことを、神様に取りなし続けていらっしゃるのです。どうか、神様、この者は、私の大切な友人です。私が自分の命を落としてまで、守った友人です。だから、神様、どうか、この者のことを思ってください。この人は、あなたを必要としています。必要な助けを与えてください。そのように、ひとときも欠かさず、とりなし続けてくださっているのです。

でも、弟子たちは、この世界の支配者たちが、イエス様を捕らえにやって来た時、怖くてみんな、逃げてしまいました。イエス様が、愛し、愛し抜いた弟子たちさえも、そうでした。そして、そんな人は知らないと、否定をしたのでした。

「あなたも私を離れていきたいか。」イエス様は、おっしゃいます。頼りにならない弟子たちを愛して、愛し抜かれ、神様を裏切ってしまう人々のために、神様に「この人たちを赦してください」と祈ったのが、イエス様です。

イエス様が私たちを愛し、愛し抜かれたことを信じることが、私たちの信仰です。そのことこそが、私たちを神様の救いへと連れて行くのです。

19節の最後には、「和解の言葉を私たちにゆだねられた」とあります。イエス様によって神様が私たちを愛してくださり、共に生きようとしてくださっていることを、皆さんに伝えることを、神様は教会に任せてくださったということです。14節で、「キリストの愛が私たちを駆り立てている」とパウロは書いています。これは、私たちのキリストへの愛ということではなくて、キリストが私たちを愛してくださっている、その愛のことです。キリストが、私たちを愛し、愛し抜かれた。その愛は、わたしたちを神様の命に生かそうとする者です。そのキリストの愛によって、教会はこの世界に福音を宣べ伝えようと、しているのです。

富士吉田教会は、新しい世紀を迎えました。私たちの命は、日々、新たにされます。神様に、毎日、毎週、み言葉をいただき、そのみ言葉 新しい生きる糧を頂き続けるからです。私たちが集う教会も、日々、新たにされていきます。しかし、教会は、私たちを愛し、愛し抜いたキリストの愛によって立ち続けます。その意味では教会は、全く変わらず、これからも福音を宣べ伝え続けます。

神様、どうか、私たちをイエス様によって、御国に入る時まで、お護りください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2017年12月31日 「喜びにあふれる旅」 今村あづさ伝道師
マタイ福音書2章1~12節

2017年12月24日 1.第二礼拝(10:30~)
「飼い葉桶の救い主」 今村あづさ伝道師
ルカ福音書2章1~7節

暫く前、神学校時代の同級生がfacebookで、「優しいおじさんが復活してびっくりする話」という書き込みをしていました。聖書の事を言っているのだと気づくまで、少し掛りました。気づいてから、暫く、なるほどねえ、と感心していました。神学校時代に、礼拝学の教授から、「福音とは一言で言えば何ですか?」と授業で問われ、クラス皆で答えに苦しんだ覚えがあります。誰が思いついたのかは分かりませんが、これも一つの答えなのだろうと思いました。
しかし、その友人は、突っ込みを入れていまして、それが、わたしには「そっちか!」と言う突っ込みでありました。「おじさんかよ!」そうか、中高生からしたら、おじさんかもね、と。彼は、普通の大学を卒業して、そのまま大学三年に編入して来たので、大体、聖書のイエス様と同じくらいの年齢な訳です。そうか、俺はもう、おじさんなのか、と言う訳です。
皆さんは、どこに突っ込みを入れたくなるでしょうか?わたしは、イエス様は、「やさしい」のか?と言うことでした。確かに、イエス様が子羊を抱いている絵画などは、典型的です。「小さくされた者に寄り添っていこう」と言う時、小さくされた者たちを癒してくださり、罪の赦しを宣言してくださった優しい方というイメージがあります。でも、本当にそうでしょうか。
イエス様の誕生は、ヨセフとマリアの旅行の最中でありました。たまたま、時のローマ皇帝アウグストゥスが、人口調査をしようと考えた。おかげで、旅先で、きちんとした産屋も、ゆりかごも、暖かい部屋でさえない中で生まれた。マタイによる福音書は、ヘロデ大王と言う奇跡的にもユダヤ王国という独立国の国王だった人物を登場させます。この人もまた、イエス様を亡き者にしようとします。
亡くなった時期もそうで、総督ポンテオ・ピラトの判決で十字架刑となったのでした。ピラトは、別にイエス様に罪があるとは思っていなかった。しかし、ユダヤ人の暴動がおこると、ローマ皇帝による自分の評価が悪くなって、次の任地先がろくなところにならないかもしれないということで、イエス様を十字架に掛けたのでした。
イエス様の御生涯は、最初から最後まで、世界によってひどい目にあわされ、迫害され、無実の罪を押しつけられたものでした。
ひどい目に遭わされたという意味では、この世界、人間によってばかりではなくて、神様によってもそうかもしれません。12月から読んでいるように、イエス様は聖霊によって宿ったのです。それは、この世的には、父親が不明の、大変に不名誉な誕生です。さらに、マリアの夫ヨセフについては、どうも早いうちに亡くなってしまったらしい。母マリアはやもめとして、イエス様を頭に、何人もの息子、娘を育てたのです。イエス様は、大工として働いていた。今でいえば、充分な教育も受けられず、下手をしたら、どん底の生活の苦労をしてきたということです。
イエス様は、この世の権威によって苦しめられ、そしてこの世の苦労を味わいました。すべて、貧しく、弱く、罪深いわたしたちを救うためでした。すべての人のための救いのためにへりくだってこの世に来られた方がイエス様なのです。
このイエス様の誕生に、母マリアは、身分が低い人を高く上げ、飢えた人を良いもので満たすためだと歌いました。一方で、思いあがる人は打ち散らされ、権力ある者はその座を弾き降ろされると言います。ご誕生は、あまりにも憐れで、この世の権力に打ちひしがれたようにも見えます。しかしこのお方は、ダビデの子、この世によって低くされているだけなのです。
13節では、天の軍勢が「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌います。ここで歌っているのは、天の大軍です。軍隊です。神は、戦うお方です。「主は正義の胸当てを着け、偽りのない裁きの兜をかぶり、ご自分の清さを堅固な盾とされる。主は激しい怒りを鋭い剣とし、狙いの定まった稲妻の矢が放たれ、引き絞った雲の弓から的を目がけて飛んでいく。」神は今や、地上にご自分の力を及ぼされ、この世界を御子によって変えることを、堅く決心しておられるのです。この神のみ旨を、天使の大軍が示しています。
旧約聖書で救い主とは、王、預言者、祭司のことでした。士師記やサムエル記を読むと、救い主は何よりも、イスラエルの人々の生存を守るために、先頭に立って外国の勢力と戦う人々のことでありました。士師記の大士師たち、そしてサムエル記のサムエル、サウル、ダビデは、神の聖霊を受け、それぞれの仕方で、命を掛けて、イスラエルのために戦った人々だったのです。
イエス様は、ダビデの子孫としてこの世に生まれました。誕生の次第は地味な、むしろ惨めなものでしたが、やがては頭角を現し、ダビデのようにこの世に神の国を建てようとされているのでしょうか。確かに、イエス様の十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。これを書いたのは、ローマ人でした。ユダヤ人の王として即位することと引き換えに、十字架に付けられたとも、考えられます。
でもこれは、イエス様自身が、否定しています。「わたしの国は、この世に属していない。」この世の王国ではない。神の王国なのです。しかし、この王国は、この世とまったく関係のない天の王国ではありません。わたしたちが死んで、天に昇ったら入ることのできるというだけのものではないのです。
ヨハネの黙示録があります。ヨハネの黙示録では、天上、空中、そして地上と、三か所で、神と悪魔の勢力が戦い、最終的に神が勝利していきます。天上の父なる神と、御子キリストの支配が、やがて地上へともたらされるのです。地上に生きる人々は、長い長い悪魔の支配に苦しみながらも、最終的な神の支配を確信して待つ。これが、ヨハネの黙示録です。
そして、ヨハネの黙示録は、ローマ帝国のそれぞれの地で、迫害に苦しんでいたキリスト教徒を励ますために書かれました。神は勝利することを確信して、希望を以ってこの世界を生きたのです。そしてその生き方は、この世界を変えていくものでもありました。神を愛し、教会の兄弟姉妹と愛し合い、隣人を愛す。この生き方が、地上で受け入れられて行きました。
そのような生き方こそ、わたしたちの戦い方です。エフェソの信徒への手紙6章12節では、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」とパウロは勧めます。「わたしたちの戦いは、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸例を相手にするものなのです。」「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。」
わたしたちの主であるイエス・キリストは、教会の頭です。キリストは、わたしたちの先頭に立って戦ってくださっています。教会は、わたしたちの砦、わたしたちの陣地です。ここからわたしたちは、聖なる戦いに出掛けて行きます。
この戦いは、伝道だとだけ考えるのであれば、まだまだ足りません。わたしたちの心の中の戦いがあります。教会の中を整えることがあります。一日一日を、キリストの命に生きる。キリストによって贖われた喜びに生きる。このことこそが、わたしたちの神の武具です。
ただの一人も残さずに、わたしたちすべてを救ってくださるために、わびしい姿でこの世に生まれ、わたしたちの苦しみをご自身で味わってくださった方。しかしながら、御自身は、その苦しみに屈することなく、父なる神と共に歩まれ、十字架の最後まで歩み通された方。だからこそ父なる神が、この方を高く上げられ、ご自分の右の座に着かされた方。この方によって贖われ、生かされている喜びの内に生きていくこと。それこそが、キリストを着ること、光の武具を身につけることです。
ローマ帝国の皇帝の支配のもとに生まれながら、罪人であるわたしたちをその両腕に抱えて天に昇らせてくださる方がいます。無力なわたしたちを、ご自分と共に勝利へと導いて下さる方がいます。ご自身は既に、天の御座についておられる。だからこそ、わたしたちの勝利もまた、約束されたものです。この方に信頼し、ついて行きましょう。お祈りいたします。
在天の父なる神様。御子キリストをこの世に生まれさせてくださり、ありがとうございます。わたしたちの御子を信じる心を堅くしてくださり、最後まで導いてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

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