日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2018年3月30日受難日礼拝 「御心のままに」  今村あづさ伝道師
マタイによる福音書26章36~40節
2018年3月25日 「罪を赦す杯」  今村あづさ伝道師
マタイによる福音書26章26~30節

最近、皆さんの手が折りに触れて目に入るようになりました。どの手も、皆さんの毎日の生活を物語っています。皆さんの手は話をするよりも先に、動きます。その手の業が皆さんの証しとなっています。
わたしの父が亡くなって、そろそろ2年になります。葬儀の時には、桜が満開でした。その父が、言ったことがあります。「母は、もう、自分の手にしか残っていない」と。自分の手を見て、母の手をそのまま受け継いでいることに気づく。実際には、祖母の手は、畑仕事と豆腐作りで割れた、荒れた手で、父とは異なるものだったのですが。
ここでキリストは、手でパンを取り、手を天に上げて祈りを捧げ、手でパンを裂き、裂いたパンを手で持って弟子たちに与えられました。その手のあり様は、どんなふうだったのか、聖書は何も教えてくれません。
しかし、イエスさまが宣教活動をされる前、ガリラヤのナザレで、大工の息子だと言われています。父ヨセフの仕事を手伝い、ヨセフが亡くなった後は、母マリア、ヤコブを初めとする弟たち、妹たちと生活をするために、働いていたことでしょう。バークレーという人は、イエスさまが「わたしの軛は負いやすい」とイエスさまが言う所で、そう言った家畜の軛を木で削り出すような、そんな仕事もしていたのではないか、と言っています。「わたしの軛は負いやすい」というのは、イエスさまが作った家畜をつなぐ首かせは、家畜たちが苦しくないように、優しく調整されていたからだ、というのです。宣教活動を始めてから、イエスさまが自分の造ったこう言った軛を思い出して、たとえに使ったのだということです。
イエスさまの手は、ですから、日用の糧を得るために日々働いて来た手でした。何かこう、イエスさまの手、と言えば、細くてきれいで、天使のようだったとか、光がにじみ出ていたとか、わたしたちは思いたいのですが、わたしたちの周りで、日々生活している人の手だったのです。
父なる神は、この日常的な手の持ち主に、わたしたちの罪を償うことを委託されました。そのためにキリストは、天上での栄光あるお姿を捨てて、地上に降りました。マリアの子どもとして、人間の子どもとして、この世に遣わされました。
キリストを信じられない人々は大勢いました。キリストが、大工の仕事をするような、普通の人だったからです。イエスの家族さえも、この方を救い主だとは、信じられませんでした。
ペトロや、ゼベダイの子のヤコブとヨハネも、主イエスの本当の姿を誤解していました。この世の王として、即位することが、彼らの望みでした。そうして、イエスが王座に就いたならば、その右と左に、多分大臣として座りたいというのが、ゼベダイの子たちの望みでした。
他の弟子たちは、ヤコブとヨハネに腹を立てましたが、それはこの二人が抜け駆けをして、イエスさまに願ったからで、実は願いは一緒でした。彼らは、イエスさまが、この世の王になることを願って、ついて来たのです。そうではなく、神の子として、わたしたちの罪の贖いのために、あろうことか、恥と苦しみの十字架に掛って、世を救う救い主であるとは、弟子たちには分からないことでした。
ペトロは、イエスが生ける神の子、メシア、キリストだと告白しました。けれどもそのメシアとは、エルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活するメシアだったのです。そのことを、イエス様から聞いた時、ペトロもまた、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエスをいさめます。ペトロもまた、キリストとは、ダビデ王のように、この世で外国の勢力と戦い、打ち勝ってくださる王たるメシアだと考えていたのです。
ペトロやゼベダイの子のヤコブとヨハネが、こんな風にかっこいい国を救うヒーローとしてのイエス様を考えていても、これはおかしくありません。ダビデ王がそうでした。ダビデ王は、ペリシテ人を打ち破り、自分たちの王国を堅く据えた救い主です。神様によって選ばれ、神様によってイスラエルの人々を救うためにと選ばれた人です。そして、ダビデ王は神様の御心を武力でこの地上にかなえました。ダビデ王の前の、ギデオンやサムソンと言った士師たちもそうです。他にも、旧約聖書の続編に出て来るユダ・マカバイの兄弟もいます。弟子たち皆も、イエスさまに癒された多くの人々も、こんな救国のヒーロー・イエスを考えていたのです。
イエスさまのような、普通の人で、人々を率いる代わりに愛し、仕えてくださり、そして人々の罪のために死んで、それによってわたしたちを救う方など、聞いたことがありません。本当に、初めてイエスさまがなさったことです。このたった一回きりのことが、決定的に世界を変えたのです。世界は、イエスさまの出現によって最初は少しずつ、そして後では常識が変わるほどに決定的に、変えられて来ました。わたしたちの救いには、イエスさまの十字架の贖い、このことが、そしてこのことだけが、必要なことでした。
イエスさまの後には、イエスさまと同じようなことをされたように見える人々もいます。最近のカルト宗教では、新しいイエスがたくさん出現しました。わたしたちは、そのような偽イエス、偽預言者には騙されません。この方だけが、わたしたちの救い主なのです。
この方は、わたしたちのただ中で共に生活されました。わたしたちの悩みも、苦しみも、迷いも疑いも、つまりわたしたちの弱さも、この方は良くご存知でした。人間としての弱さ、苦しみ、それは神さまからさまよい出てしまっていることによるのだと、良くご存知でした。わたしたちが、自分で自分を救うことなど出来ないことを、良くご存じだったのです。そしてそのような、自分で自分を救えないわたしたちを救うために、ご自分の命を捨てることをいとわなかったのでした。
神は、わたしたちを愛してくださり、心配してくださっています。ご自分の愛する子どもとして、目の中に入れても痛くないと思ってくださっています。ご自分のすべてを分け与えても、救いたいと思っています。その熱情、たぎる思いが、御子キリストを、この世に生まれさせ、救いの業を成し遂げるようにと、ご計画されたのです。恐ろしいことに、父なる神の願いをかなえられるのは、父なる神がもっとも、愛したお方でした。父なる神は、ご自分の愛する独り子に、もっとも苦しい十字架を負わせることになったのです。
マタイによる福音書の17章は、イエスさまのお姿が、高い山の上で変貌し、本来のお姿を親しい弟子たちに見せる場面です。モーセ、エリヤが現れ、イエスさまと語り合っているのを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは見ました。モーセやエリヤは、旧約聖書の偉大な預言者たちです。彼らは、主なる神の御心を地上に行うために、特に神に選ばれ、働いた預言者たちです。イエスさまは、このような預言者たちと対等に語り合っています。イエス様自身が、神様に特に愛された子、神様の御心に適う者でした。栄光に溢れたお姿こそ、イエスさまの本当のお姿です。
旧約聖書の中では、イエスさまは、何番目かに現われた、偉大だけれど悲劇的な預言者、という風に見えるかもしれません。でも、それは違います。イエスさまは、唯一の方、モーセやエリヤとは比べ物にならない方なのです。わたしたちは、イエス様を主、と呼びますが、それは、イエスさまがこの地上に現れ、十字架の死を遂げ、復活し、天に昇り、父なる神の右の座に就いたからです。父なる神よりも高い場所にいらっしゃる。そしていつかもう一度、わたしたちを迎えにやって来る。わたしたちがイエス様を主と呼ぶのは、もう一度やって来る時まで、この世界を支配されているのが、イエスさまだからです。
けれども、父なる神は、このお方を、貧しいお姿で地上に送りました。イエスさまは、栄光の身分を捨てられました。それは、最初から最後まで、わたしたちが救われるためでありました。それだけのために、このお方は、貧しいお姿を取ったのです。これまで憐れまれることのなかった者を憐れんでくださり、旧約聖書の中では顧みられることのなかった者たちに、神の霊を分け与えてくださいました。この方は、わたしたちの霊的な岩です。この方を通じて、わたしたちの貧しいこの日々は、天に通じるものとなるのです。神がわたしたちと共にいてくださり、神が共に泣いてくださり、神が共に笑ってくださる。神が、わたしたちを休ませてくださり、わたしたちを天の祝福の内に置いてくださるのです。そのようにわたしたちが栄光を受けるために、主イエスはへりくだったのです。
主の晩餐の後で、イエスは、「あなた方は皆、わたしに躓く」とおっしゃいます。そして、特に問題となるのは、ペトロのことです。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度、わたしのことを知らないというだろう。」ペトロは、そんなことはないと、激しく打ち消しますが、もちろん、イエスさまの言うことは、その通りに実現しました。
イエスさまの仰った自分の裏切りが、本当に起こってしまった時、ペトロは「激しく泣」きました。自分に絶望して泣きました。信仰とは、主を信頼することです。でもわたしたちは、信仰信仰と言っていても、どこか、自分の力を頼りにしてしまうことがあります。試練の中で、自分の力の無さを感じてしまうと、絶望してしまうのです。立ち上がれない。神様の前で、「よくやった、良い僕だ」と言われるように、ずっと努めて来たのに、一歩も、これ以上先に進めない。それどころか、立ち上がる事さえできない。他人が、どんどん、自分を追い越して行く。自分は破滅してしまった。自分で自分の人生を整える、光の方を向いて歩くことは、「自分では」できないのです。
ペトロは、イエスさまから、激しくいさめられていました。国を救うヒーロー、イエス。人々の称賛を浴びて、この世の王座に座ること。あるいは、イスラエルの伝統的な力ある預言者として、人々の称賛を浴び、神殿で高い地位に就くこと。ヤコブとヨハネの兄弟は、その暁には、自分たちは、イエスさまに準じる地位に就きたい。ここまで、考えていました。
人間の、浅はかな計画を、神は嘲笑います。人の身勝手な思いを超えて、神は御心をなされます。御子の死を通じて、多くの人々を救う。たった一回の、決定的な出来事を通じて、父なる神は、御心を地上に、はっきりと示されたのです。
イスカリオテのユダは既に裏切り、ペトロの裏切りや弟子たちの躓きも、主イエスは、すべて、知っておられました。この夜が明ける前に、イエス様を逮捕するために、人々が押し寄せようとしています。この時にイエスさまは弟子たちの罪を暴いて裁くのではなく、弟子たちの罪が赦されるようにと、杯を用意してくださったのでした。
「皆、この杯から飲みなさい。」とおっしゃっています。罪ある者たちを前にして、罪ある者であるのにも拘らず、その罪が赦されるように、約束してくださる杯でした。同じ杯から飲みなさい、と言っています。聖餐式では、わたしたちは、既に小さなコップに分けた杯でいただいています。けれども、ここでいう杯は、一つなのです。「皆、この一つの杯から飲みなさい。」
旧約聖書では、神の怒りの杯というものがあります。罪を犯し、裁かれる人は、刑罰としてこの苦い杯を飲み干さなくてはなりません。42節で、主イエスが飲む杯とは、この神の怒りの杯です。あろうことか、イエスは、何の罪もないのに、神によって一度、まったく捨てられる必要がありました。神様によって裁かれなければ、わたしたちを救うことはできないというのが、神様の、わたしたちを救うご計画だったからです。
主の晩餐では、この杯は、主の死を告げ知らせるものではあっても、わたしたち罪人の赦しの杯です。そして、その赦しの杯は、自分一人ではなく、兄弟姉妹と共に分かち合うようにと、定められています。罪ある者たちが共に、罪を赦される。神の前に立つ神の子として、わたしたちは等しく、招かれているのです。イエスさまが、「七の七十倍まで赦せ」「互いに愛し合え」とおっしゃり、「あなた方を一つにする」ということの意味が、ここに示されています。
主イエスは、ご自分が、この世から父のもとへ移る時が迫っていることを、良くご存知でした。ご自分が、父のもとから来ていることもご存知でした。「これはわたしの愛する子、わたしの御心に適う者。」父なる神様からご自分に託された神様の御心をご存知でした。御子は、どんなに、父なる神様を愛していたことでしょう。父なる神の御心が、この地上になるようにと、どんなに願ったことでしょう。それは、食卓を今、共に囲んでいる弟子たちを通じて、行われるべき御心でした。それぞれの弟子が、罪を持った存在です。しかし、その弟子たちに、御心を託すのです。世にいて、世の罪の中に死んでいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれておられた。弟子たちの罪を赦し、ご自分の体を与えて、父なる神のみ旨に生きるものになるように、願われました。そうやって、父なる神の御心が地上になされることを、心から願われた。「苦しみを受ける前に、あなた方と食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」それは、事が起こったときに、「わたしはある」ということをあなた方が信じるようになるためだと、おっしゃっています。神はいらっしゃり、この地上で働かれている方である。ヨハネによる福音書で、「わたしを見た者は、父(、つまり神)を見たのだ」とイエスさまが言っています。世の中の罪にまみれて暮らすしかない人々を愛し、愛されるからこそ、主の晩餐の杯によって、その罪を赦すお約束をする。ご自分が父のもとに行く前に、父の願いを成し遂げ、わたしたちを父なる神様のものとして取り返す。「切に願っていた。」そのことこそが、主が何よりも大事にし、行わなければならないことだったのです。
イエスさまの行なったことを通じて、神様ご自身が、この世界に介入される。御心を行われました。この世界を御心によって動かされる。それは、この世の人々のただ中に、この世の人々の一人として住まれたお方によって、行われることだったのです。
わたしたちが、共に生活をし、働いていた手が今、パンを選び取った。讃美の祈りのためにその手が天に向かって拡げられる。そしてそれからパンを裂く。弟子に与えられる。与えられるものは、ご自分の体です。ご自分の手で、ご自分の体を裂かれる。ご自分で裂かれた体をわたしたちに与えてくださる。その時に、イエスさまの手は、神様の御心を現しています。ご自分の地上にある体、地上にある命をすべて、神様に捧げ、裂き、わたしたちに与えてくださる。ご自分のすべてを、わたしたちに与えてくださり、生きよ、神様の命に生きよと、わたしたちを招いてくださるのです。
ご自分の体をわたしたちに与え、赦しの約束をしてくださる主イエスは、いつか、わたしたちの所に戻ってきます。終わりの日、山の上で開かれる祝宴で、わたしたちは主イエスにまみえます。わたしたちの顔を覆っていた覆いは取り除かれ、主を間近に見ることになります。
お会いした時、多分私たちは、「あ、あなたでしたか」と言うに違いありません。その人は、わたしたちの良く知った、愛する人たちに似ているのです。わたしで言えば、わたしを教会につなげることになった父かもしれない。わたしを教会に招いてくれた牧師夫人かもしれない。職場では珍しかったクリスチャンの上司かもしれない。
けれども、それから、わたしたちは気づくでしょう。そうではなくて、わたしたちの見知っていた彼ら、彼女たちの方が、わたしたちの主に似ていたということに。わたしたち自身は、主の晩餐に招かれるにはふさわしくない者たちです。けれども、主は、わたしたちにご自身の体を与えてくださり、罪を赦してくださいます。そのことを通じてわたしたちは、兄弟姉妹の罪を赦し、兄弟姉妹に対するわたしたちの罪をも赦されます。互いに愛し合いながら祈り合い、主が再び来りたもう日を待ち望みます。わたしたちは地上で、愛する兄弟姉妹の中に、わたしたちを愛し、愛し抜かれ、わたしたちの救いのために戦い抜いてくださった方の似姿を、垣間見ることになります。そしてわたしたち自身も、あのお方に似た者へと変えて戴くのです。
裂かれたキリストのお体を共にいただき、赦しの杯を共にいただく。このお方は、わたしたちの労苦の多い生活のただ中で、共に生きてくださり、共に泣いてくださる方です。共に笑ってくださり、わたしたちを励まし続けてくださっています。顧みられることのなかったわたしたちを顧みてくださり、罪多いわたしたちを赦してくださるお方です。わたしたちに神の霊を分け与えてくださり、わたしたちをご自分と同じ神の栄光を現す器として、迎えようと約束してくださっています。
主イエスの御手は、ほんの数時間後には、釘打たれ、裂かれます。この御手は、父なる神様の御心を地上にもたらしました。ご自分の肉を裂いてわたしたちに与え、ご自分の血潮をわたしたちに与えてくださった手です。御子は、地上で生きるわたしたちを、永遠の存在にまで、ご自分と一緒に変えてくださることを願いました。そのために、特に、定めてくださった主の晩餐です。感謝、感謝、感謝、ハレルヤ、ハレルヤ、アーメン。共に、このことを大きな喜びと、大きな感謝を持って、受け止めたいと思います。

2018年3月18日 「苦しみは讃美に」 丸大勝牧師(飯田入舟教会)
コリントの信徒への手紙Ⅱ12章1~10節

使徒パウロの祝福された信仰生活に、三重の苦しみがありました。①肉体の苦しみ「わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)と記されていますが、このとげは、あまりにも大きなもので、ある聖書には「わたしの肉体に十字架が入っていた」と訳されているほどです。激痛を伴う病、不治の病、持病等一冊の本にまとめられているほどですから、実に大変な病気に苦しんでいたのです。②サタンとの戦い 病気でその苦しみのために弱り果てている時に、まるでドラムでも叩くように激しく心を打ち叩いて来るサタンの攻撃があったのです。私たちは試練に直面する時に、神を疑い悪いことばかり考えることがあります。これは信仰の強い人も弱い人もやってきます。熱心に礼拝生活や奉仕に励んでいても関係ありません。肉体的に試練に遭い、また精神的なサタンの激しい攻撃に晒されることがあります。③霊的な戦い 「この使いについて、離れさせてくださるように、わたしは三度も主に願いました」(8節) ほとんど15年間、パウロは病の癒しのために祈りました。三度とは限界を指す言葉です。「神さま、この病は伝道の妨げです。なぜ生きておられる神として全能の力を発揮してくださらないのですか」と、パウロと同じように、叫びたくなるようなことが人生には起こって来ます。パウロはこの極限の祈りによって気づいたことが三つありました。①苦しみは与えられたもの 7節からこの苦しみは与えられたものだ、というのです。人生の流れの中で悲しい痛ましいばかりの出来事を、神は敢えて活用して、不思議な形で私たちにとって最高と思える道に導いてくださるのです(ヘブライ12:5、6、第一コリント10:13)。②思い上がる(高慢)ことのないように 7節に「思い上がることのないように」と二度繰り返されています。自分の伝道者としての生涯があるのは、この自分の弱さがあるゆえなのだ。病気を抱えて、激しいサタンの攻撃を受けながらもなおも信仰を選び取り、信仰を守って常に謙虚に留められてきた。これは高慢から守られるためなのだ。③その弱さは力になる 主は沈黙を破って言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」(9節)と。パウロは神の真実な言葉に気づきが与えられ、実に苦しみは讃美に変わったのです(9、10節)。
(説教要約)

2018年3月11日 「人を汚すのは心」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書15章1~20節

「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。」
「破る」と言う言葉は、掟破りとして死刑にも処せられる違反のことでした。「昔の人の言い伝え」というのも、歴史的に積み重ねられた裁判の記録のようなものです。律法学者と言うのは、今で言えば大学の博士号を持っているような人々のことです。さらにファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えも、聖書に書かれた律法同様に、一生懸命に守らなければならないものだと考えていました。そこで、これは弟子たちを断罪する言葉であるのです。
これに対して主イエスは、「口から出て来るものは心から出て来るので、これこそ人を汚す。」と答えます。一生懸命に律法を守っている一見、敬虔なあなた方の心は、実は悪意や殺意に満ちていませんか。あなた方の教えているのは、人間の戒めに過ぎないのではないですか。神様からあなた方の心は遠く離れていませんか。主イエスは、問い掛けているのです。
ファリサイ派との論争は、3節~7節のコルバンの話と、10節~17節までの食べ物の話の二つがあります。現代では、これらの話は意義を失ってしまいました。親の緊急の必要のためなら、供え物として捧げる誓約は解くことができるよう、ユダヤ教の掟が変わりました。食べ物の話は、現代でもユダヤ人は律法の食物規定をきちんと守っていますが、キリスト教会にはユダヤ人キリスト者はほとんどいなくなってしまったので、議論する必要が無くなりました。
しかし、わたしたち自身も、「口から出て来るものは心から出て来るので、これこそ人を汚す。」という主イエスの言葉ではなく、この世の権威に盲従していないでしょうか。わたしたちの心が、神様から遠く離れていないでしょうか。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、自分には何の勲もないのに、神の子とされ、御国に入れられる希望に生きています。だからその感謝のもとで、御栄えを現そうとするのです。御栄を現すことだけが残り、主イエスのご受難を忘れてしまったとしたら、このファリサイ派の人々と同じように御心から遠く離れてしまう虞が出て来ます。キリストの贖いの業を恐れかしこみつつ、感謝の中を歩みましょう。

2018年3月4日 「水の上を歩く」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書14章22~36節

夜の暗い湖は、詩編69篇で歌われるように、自然災害だけでなく、精神的社会的な苦境をも意味します。主イエスの十字架上の苦しみが思い出されます。8章23節~27節では、人々は「いったい、この方はどういう方なのだろう。」と言いますが、今日の33節「本当に、あなたは神の子です。」が、答えとなっています。
水の上に浮かんだ舟は、教会のたとえです。神の子は、教会の頭として、わたしたちを導かれます。祈り、実際に近づき、声を掛けて励まされ、手を差し伸べられます。教会を弟子たちに任せ、支えてくださいます。教会に逆風が吹き、波に悩まされても、主はわたしたちのために食卓を整えてくださり、祝福してくださり、平安を与えてくださって来ました。
ペトロに対する「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」というのは、裁きの言葉ではありません。「しょうがないな、お前はわたしをそんなに信用できないのか?」疑った人に対してまで、イエスは救いの手を差し伸べてくださるのです。父なる神は、さまざまな嵐に出会った私たちにこそ、ご自分を顕わしてくださいます。それは、しばしば、もう駄目だと自分を放棄した時に現れます。
100年前に、一人の信徒が、これまでまったく知らなかった書物、聖書を読み、ここに真理があると信じ、主イエスの祈りがあって教会ができました。歴史の中では何度も、逆風のために波に悩まされることがありました。しかし、そのたびに主イエスは、祈り、励まし、手を差し伸べ続けてくださいました。
わたしたちのこれからの歩みは、これまでよりもさらに大きな恵みの内に置かれています。多分、これまでどおり、波は高く、教会の歩みは、困難の内に置かれるでしょう。けれども、主イエスの守りは、常に変わらずあり、わたしたちの教会は祝福の内に置かれ続けていくのです。
「主よ、助けてください。」と叫ぶわたしたちに差し伸べられる主イエスの御手は、十字架に付けられた方のものです。父なる神によって、復活させられた方のものです。主イエスの御手の向こうに、主イエスを「わたしの愛する子」と呼んだ父なる神の思いがあります。そのようにして、神は、いつもわたしたちと共に戦ってくださるのです。

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