日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年5月29日 「わたしは復活であり、命である」 今村あづさ伝道師
ヨハネ11:17~27

昨日のことです。今日のお花を準備していた大谷惠子さんの所に、教会のご近所の方が3人、いらっしゃいました。わたしは、2階で説教の準備をしていましたが、にぎやかな声が聞こえてきたので、階下に降りて行ったところ、ご近所のご婦人たちです。バザーのコーナーでいろいろ、買って行かれました。市制祭カフェがありますが、地域の人が気楽に来る機会がもっとあるといいなと思いました。

先週の火曜日と水曜日は、教区総会で、浜松に出かけました。教団議員選挙と言うのがあって、わたしは投票の取りまとめの係となりました。これが大変な作業で、ほとんど、集計作業だけをやることになり、議事についての説明を聞くことができませんでした。教区の資料から、大雑把に見ると、各教会の教勢が下降していることの影響を受けて、教区の財政は大変厳しいとのことです。そこで、伝道に特化した五カ年計画を策定しています。5年間で、日本基督教団信仰告白に記されている教会の項目を共に学んで行こうということが提案されました。これによって、信徒と教職一人一人の霊性が深められ、信徒一人一人が伝道をしていることが願われています。

「わたしは復活であり、命である。」ヨハネによる福音書では、主イエスはしばしば、「わたしは○○である」とおっしゃいます。たとえば、わたしはぶどうの木、あなた方はその枝、わたしは命のパンである、わたしは世の光である、わたしは羊の門である、わたしは良い羊飼いである。わたしは道であり、真理であり、命である。
このように、主イエスが「わたしは○○である」と言うみ言葉は、聖書の原文では、旧約聖書出エジプト記3章14節で神がモーセに自己紹介をする時の神の言葉、「わたしはある。」と同じです。「わたしはある」と言う言葉は、神様が被造物の存在の源であることを示している言葉だと言われています。私たちの存在の根拠は、神にこそあることを示しているのが、この「わたしはある。」というみ言葉だと言えましょう。
主イエスの「わたしは○○である」と言う言葉は、やはり父なる神の「わたしはある」と言うのがあって、その神から遣わされた神の独り子として、わたしたちにご自分を啓示すると言うこと、ご自分は神からつかわされた神のみ子なんだということを、人々に表す意味があるのだろうと思います。
「わたしは復活であり、命である。」十字架の上で無力に亡くなられたように見えた主イエスを、神様が復活された。復活と言うのは、すさまじい神の力が働いたということでしょう。その神の力、それは「わたしはある」存在の根拠として、生きる力の源としての神の力、主イエスは神の力そのものだと言っているのです。人の目には無力に見えた方が、神の力を持つ方だったと言う訳です。
先週、「聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」という使徒信条の箇所について、人間の子どもとして生まれたけれども、その心には神様のみ心が一杯に詰まっていたという意味です、と説明しました。イエス様には、神様のみ心、神様自身が心に一杯詰まっていた。その神様のみ心が復活の命であるのです。その命は、神様一人だけが生きていくための生命ではありません。神様は、ご自分の力を私たちが生きるために使われます。私たちを創造された方は、生きて働き続け、わたしたちを生かし続けようとされています。
主イエスの心は神のみ心に満ちていました。「ご自分が死んでも、わたしたちを生かそう」と言うのが、神の御心です。み心ゆえに、そのみ心を信じる私たちは、死んでも生きるのです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言うみ言葉の「死」とは、肉体の死のことです。一方、「生きる」と言うのは自然の体の命を生きる意味もあるのですが、他にもさまざまな意味があります。たとえば、病が癒されて生きる、神の命に生きると言う意味もあります。単に、肉体的に生きると言うよりも、命と力に溢れて生きる、新たにされ強くされる、と言う意味があります。
「死んでも生きる」と言うのは、不老不死を意味していません。クリスチャンは不死身である、という意味にはなりません。「永遠の命」とは、「尽きることのない、神様と共に生き続ける本当の命」です。
昨年、サムエル記上でサウルが油注がれた物語を読みました。若者サウルは、神によって選ばれ、祭司サムエルによって油注がれます。そうすると、サウルに神の霊が激しく下るようになります。彼は預言状態にもなりました。しかし、彼の油注がれた者、つまりメシアとしての召命は、王様としてのメシアへの召命でした。やがて、アンモン人がギルガルのヤベシュを包囲し、全住人の右の目をえぐり出すか、全滅させるかという危機が訪れます。サウルは、民の先頭に立って戦うことを決意し、イスラエル全土に出陣を要請します。敵を撃ち、主なる神のイスラエルにおける救いの業を行う。そのために選ばれ、聖霊を与えられ、力と勇気に満ちて行動できる。これが、王様としてのメシアであるサウルの召命でした。
ところで、今日の箇所はラザロが亡くなって葬られてから4日も過ぎていたと始まっています。このラザロが、イエス様に「ラザロ、出てきなさい」と呼ばれると、手と足を布で蒔かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた、とあります。44節です。ラザロは本当に生き返ったのでしょうか。墓から出てきた人の顔は、見えませんでした。しかし、続く12章には、過越しの前の週にイエスがベタニアで皆と共に夕食を食べた時、そこにラザロもいたとされています。
ラザロが4日目に蘇生したとしても、いつかは死ぬわけです。26節で決して死なないと主イエスが仰っていることとは、話しは異なります。物語りと主イエスの言葉の意味がずれていくのは、ヨハネによる福音書にはよくあることです。死んで生き返らなかったけれど、神様の命に生き続けた人がいた。その話を、ラザロの甦りの話の所で語っているように感じます。そしてわたしは、この箇所の背後に、ヨハネの兄ヤコブの死が、関係しているように感じています。
ヨハネによる福音書は、ゼベダイの子ヨハネに関連した福音書だと言われています。ヨハネによる福音書では、主に愛された弟子として、名前の分からない弟子が出てきます。これが多分、十二使徒の一人のゼベダイの子ヨハネであろうと言われているのです。そして、この使徒ヨハネを特別扱いしているこの福音書は、使徒ヨハネと何らかの関係を持っていた、と言ったくらいのことは言ってよいのだと思います。少なくとも、19世紀まではこの福音書を書いたのは使徒ヨハネであると、考えられていました。
ヨハネには、お兄さんがいました。ヤコブです。イエス様がガリラヤ湖の湖畔で二人を弟子とした時、彼らは父親と雇い人たちを舟に残して、イエスの後について行きました。二人とも、十二使徒の一員で、中心となる人々でした。二人は、ゲッセマネの園では、ほかの弟子よりもイエス近くにいました。イエスの復活の出来事に立ち会い、ペンテコステの出来事を経験し、エルサレム教会の使徒として、人々に仕えていました。
使徒言行録では、何万人もの人々が洗礼を受け、それは異邦人の間にも拡がっていたことが記されています。教会はエルサレムばかりではなく、シリアのアンティオキアにも大きな教会ができますし、フィリポのサマリア伝道があります。さらにはパウロが回心して、異邦人伝道の使徒とされます。
このようなキリスト教会の状況に、当時のユダヤの国主であったヘロデ・アグリッパは危機感を持ったのでしょう。ヨハネの兄ヤコブを捕えて首を切ったのです。使徒言行録12章に、これについての記事があります。中心人物を殺害することによって、教会の勢力を削ごうとしたのでしょう。その試みは、成功したのでしょうか。
いいえ、成功しませんでした。教会はますます強められ、数を増やし、集められる人々を増やしていきます。パウロは、ローマまで行きました。他の使徒は、インドやエチオピアまで行きました。そして、とうとう私たちにまで福音は伝えられたからです。
教会とは、神の民、神によって集められた人の群れ、神の国に入ることが約束されている人々の群れです。教会の頭はキリスト、教会はキリストのからだです。ローマ時代の建物は、アーチ構造をしている物を多く見かけます。アーチは、少しずつ石を内側に積み上げていき、最後に一番上に石を載せて完成します。一番上の石が置かれないと、アーチは崩れてしまい、建物全体が崩れてしまいます。この一番上の石を「コーナー・ストーン」、隅石と言います。主イエスのことを「隅の親石」と言いますが、英語ではコーナー・ストーン、多分、このアーチを一番上で支える石のことだろうと言います。そして使徒たちは、その下の教会の柱であると言われてきました。
石の家と言えば、信仰の土台のしっかりした家として、イエス様がたとえ話で話されています。嵐が来ても、倒れない。死んでも生きる。主イエスが十字架で亡くなっても、使徒たちが殺されても、彼らは教会の親石、柱として残って行く。主イエスの教えは、教会の基です。さまざまな制度、規則、決まりごとは、わたしたちの先輩たちが作り上げてきたものでしょう。人がいなくなっても、残っている物はもっともっとたくさんあります。その方の祈り、礼拝に向かう態度、そして、互いに愛し愛された記憶…。
洗礼を受けた方の証しで、こんなものがありました。自分は、神様がいるのかどうか分からない。けれども、自分のお祖母さんの態度を見て、この人には確かに神が生きて働いてくださっていると思った。だから、自分も洗礼を受けたいと思った、と言うのです。
わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である、と主イエスは仰いました。一つ一つ、イエスに繋がるブドウの枝、中には枯れてしまっている物もある。しかし、新しい若枝が代わりに出てくる。誰かによって誘われ、教会に足を踏み入れ、いつか連れてきた本人は亡くなってしまっても、その人に連れて来られた人は、主イエスにしっかりと繋がって豊かな実を結ぶようになる。そのようにして、信仰が繋がっていくことも、わたしたちが永遠の命を生き続けると言うことなのです。
富士吉田教会も、たくさんの先達がいて、立派な教会が立ち、100年後の私たちもこの地で礼拝を持つことができています。この先達はあんなことをやった、こんなことをやったということは、わたしたちにはあまり伝わって来ませんが、教会の様々なところで、その命が生き続けています。
聖書に出会い、むさぼるように読み、生かされた人々がいます。キリスト教の伝統のない地で、教会を建てることは、大変な困難が伴ったことでしょう。礼拝堂が立ち、献堂式を行い、牧師がこの教会で礼拝を始めた時、どんな人々が集ったことでしょう。どんなにうれしかったことでしょう。最初の人は、早くに病気で亡くなりました。しかし、若くして病気で亡くなった人は、神様に選ばれ、その召命を走り抜いて天に帰ったのです。
会議室には1932年のおびただしい数の人々が集う写真が残っています。この地で、聖霊は激しく降ったのです。
戦争が激しくなってくると、今度は逆風が吹きます。弾圧が始まり、牧師は逮捕され、教会の認可は取り消され、教会は掛金が降ろされてしまいます。戦争が終わり、教会の掛金を外して、多分何年分かの埃にまみれた教会に足を踏み入れ、教会が再開されます。多分、大変なご苦労をされたことでしょう。教会を整え、人々に呼び掛けて礼拝を再開する。その時、集った人々はどのように感じたでしょうか。
さらに、教会が日本基督教団から離脱し、復帰した歴史があります。この会堂を整えた苦労については、折にふれて治芳さんがなさるところです。礼拝が再開されたところで、ただ今感じているように、復活の主イエスが「平安あれ」と真ん中に立っていることを感じたことでしょう。それは、いつの時のことだったのか、あれこれと考えます。
私たちの逝去者名簿は、教会墓地が建てられてから後のものです。もっともっとたくさん、教会には人々が集い、救われ、新しい命をいただいてきたことでしょう。わたしたちは、この方たちと共に、教会に集っています。聖霊が、この地に激しく降り、神によって選ばれた人々が集って教会が建てられた。わたしたちも、その聖霊の業によって、今日、ここでまた礼拝を守れています。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。わたしは復活であり、命である。私たちもまた、この先達と共にますます神の命に生きる者たちとして、走り続けましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様、あなたは主イエスを信じる者に、あなたの子どもとなる資格をくださり、永遠の命に生きる希望を与えて下さいました。ありがとうございます。わたしたちは、この教会を建てられた聖霊の御業に感謝します。多くの先達と共に、天の御座を仰ぎつつ、この世の命を生きていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

2016年5月22日 「勇気を出して門を叩け」 今村あづさ伝道師
マタイ7:7~12

7節を読んで、これは何の話だろうか、と思う人がいるかもしれません。求め、探し、門を叩く相手は、誰なのでしょうか。求める物は、何なのでしょうか。
先ず、求める相手は、誰でしょうか。頑なな地上の民でしょうか。なかなか扉を開いてくれない社会でしょうか。読み方によっては、希望を捨てずにこの社会で頑張る人たちを励ます言葉として、読むことも出来ます。心挫けず、希望を持ってこの社会で会社で頑張っていくこと。そうすれば、扉は開かれるよ、とさえ読むことができます。
そうだとすれば、求める物は何でしょうか。せめて地上で散らされないような、ささやかな家族の幸福でしょうか。人々に後ろ指をさされず、あるいは生活に窮することはない程度の生活でしょうか。地上でやりたいことを見つけた、ナンバーワンでなくてもオンリーワンになれるような、そんな仕事でしょうか。
どんなふうに読んでも結構ですが、この箇所を5章の初めから素直に読んでいく限り、求め、探し、門を叩く相手は、父なる神です。簡単に言うとこの箇所は、神への祈りをわたしたちに求めているみ言葉です。
私たちは神が、主の祈りと言う祈りの言葉さえ用意して、わたしたちに近づいて来てくださろうとしていることを、主の祈りの所で学びました。父なる神と子なるキリストがこの上ない親しい交わりをしていたように、私たちもまた父なる神との豊かな交わりに招かれており、そのために神への祈りの言葉さえ用意してくださっているのだと、お話をしました。
ですから、今日の箇所も、求めるのはみ心であり、探すのは神の真実であり、門を叩いて入れていただくのは神の国なのです。11節ではあなた方の天の父は、求める者に良い物を下さるに違いないと書いてありますが、ルカ福音書ではその良い物を一言、聖霊と言い変えています。
先週のペンテコステの礼拝の話を思い出します。主イエスは復活し、天に昇られました。十字架での敗北は、神によって勝利に変えられたのです。それによって主の名を呼び求める人々に聖霊が与えられることとなりました。主によって集められた人びとの群れである教会が出来ていきました。地上の教会は、天上の国を地上で味わうものです。天上でのみ国とは比べ物にならないささやかなものであっても、それは私たちに約束された神の救いの前味なのです。
主イエスが、御自分の命を掛けて成就してくださった救いの御業、それが聖霊降臨でした。さまざまな良い物の中でも、一番良い物を求めましょう。すべての物は、それに添えて与えられます。与えて下さいと求めるものが、この世の様々な私たちの欲望の産物であったならば、もったいないと言うものではないでしょうか。

ところで今日は、9節~11節までの箇所で、聖霊の賜物を求めることを躊躇してしまう人の話を少し、したいと思います。
時々、親が自らの子どもたちに行った目を覆うような虐待のニュースが報道されることがあります。子を放置して食事を満足に与えない親、腹をすかせて食事をせがんで泣く子どもに暴力を振るう親などです。そして、ニュースになるのは、食事を満足に与えませんでした、あるいは暴力を振るいました、というニュースではなくて、その結果、子どもが悲惨な亡くなり方をしました、というニュースなのです。なんとも、ため息が出ます。
今日の箇所の9節以下を読むと、そんな親はいません、と主イエスは言っていますが、これらのニュースをみると、いやいや、世の中、そんな親もいるようですよ、と思わざるをえません。
児童養護施設という施設があります。昔は孤児院と言いました。最初の大学の卒論では、児童養護施設の収入は、どのように支えられており、その根拠は何なのか、と言うことを調べました。1980年代のことです。札幌の近くの児童養護施設に1か月、泊まり込みました。そのような施設に「措置される」と言うのですけれど、なぜ入園することになるかと言うと、当時は両親の離婚が一番多かったのです。戦後まもなくは、死別が一番多かったそうです。虐待は一握りでした。
この最初の大学では、わたしはYMCAやYWCAのキャンプ・リーダーとして活動をしていて、仕事もそんな関係でやりたいな、と思っていました。そこで、その前の年の夏には、アメリカ東部のYMCAのデイ・キャンプのリーダーとして一夏を過ごしました。デイキャンプと言うのは、夏休みの間、日帰りで毎日キャンプ場に行って遊んで帰って来ると言うものです。キャンプのリーダーは学校の先生が中心となります。親が共稼ぎの場合、長い夏休みの間、子どもたちだけを家に置いておくわけにいきません。そこで、デイキャンプに行かせるのです。
日本のキャンプでは、社会問題について考える必要はあまりありませんでした。キャンプがとにかく好きで、キャンプ技術でいろいろ学べるだろうと思って出掛けてたのです。しかし、アメリカでは社会問題に目が向くこととなりました。
アメリカは、日本より社会構造が進んでいる、とでも言うのでしょうか。来る子供の半分以上は片親か実の両親と住んでいないという状況でした。なんと、当時でも、全米での年間の結婚は200万組ちょっと、そして離婚は100万組ちょっとで、離婚は結婚の実に半分以上に昇っていたのです。そして虐待が大きな社会問題となっていました。これがきっかけで、養護施設を調べて見ようと思ったのかもしれません。
今や日本でも、児童養護施設に入る子どもの理由の一番多いのは、虐待だそうです。虐待は、日本でも深刻な問題となってしまいました。
このように虐待を受けて育ってきた子どもたちは、まさに自分がパンを欲しいと言ったら石が飛んできたという経験をしてきたことになります。肉が食べたいと言ったらゲンコツが飛んできた、と言うことでしょうか。
心理学では、神は人間の心が作り出すものだと言います。それによると、自分を超える超越者認識は、親の存在が抽象化されて出来上がるのだというのです。現実の親の存在は、思春期を迎えると、いろいろぼろが見えて来て、自分はあんな親にはなりたくないと思ったりします。しかし、自分を超える存在という概念は残って、それが親を離れて神と言うものになるというのです。
しかし、自分の親が、聖書にあるような良い物を子に与える人たちではなくて、悪い物を与える人たちだったらどうでしょう。子どもは神という存在を自分の心に作り上げることができないのではないでしょうか。あるいは、なるべく避けたい存在となっていたり、恐ろしい存在になるかもしれません。
しかし、主イエスのことを考えると、やはりこの心理学の考え方には、無理があると思います。主イエスの家族のことを考えた時、父なる神とはそのような方ではなかったのです。
主イエスが父なる神をご自分の地上の父から自分の心の中に造り上げることは、不可能でした。なぜなら、主イエスの家庭は、母子家庭だったからです。パンも、魚も、与えてくれる父はもう、いなかった。周りの大人で、パンを欲しがる兄弟に、ちゃんとパンを持ってきてくれた人たちはいたのでしょうか。逆に、魚を欲しがるのに、蛇をくれるような大人たちはいなかったのでしょうか。いつもいつもそうだったとは思えません。
それなのに、主イエスの「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。」という自信たっぷりな言葉はなんでしょう。これは、人間同士のことではありません。求める相手は、父なる神です。見つかるのは神へ至る道です。そして、門を叩くのは、神の神殿の門です。
父なる神は、主イエスがご自分の心の中で勝手に作り上げたものではありません。そうだとすれば、主イエスの神は、モーセの神以上に恐ろしいばかりの意地悪な神となっていたことでしょう。アッバ父、と呼ぶような、赤ちゃんのような信頼関係を父なる神との間に持つことは、このような心理学の考え方からは不可能です。父なる神ご自身が、み子キリストの働きかけてくださったのです。
主イエスの父なる神への赤ちゃんのような信頼に、私たちは胸を打たれます。この方は、世の父とされたヨセフや、周りの大人から与えられるものがなくても、天の父が地上の大人たちと同じように自分に背を向けるとは、少しも考えなかった。増してや、天の父が自分を呪っているとは考えもしなかった。神に対する絶対的な信頼があるのです。
しかし、主イエスの神に対する信頼に、私たちは心を重くします。その信頼は、御自身が愛されているという父なる神への信頼でした。そして父なる神は、誰よりもこの方を愛してくださった。信頼してくださった。そのことの結果が、十字架によって人間を救うという、誰にも負いきれない重い責任であったからです。愛されたからこそのご受難であった。愛されているからこそ、信頼してその役目を託されたと、み子はその責任を受け取ったのです。地上で愛されていなくても、いいえ、地上で憎まれても、神は必ずご自分を顧みてくださっている。そのことを確信したからこそ主イエスはご受難を受け取ったのです。
私たちは、主イエスのように、神に対して信頼することはできるでしょうか。もし、主イエスほどに神に信頼できなくても、主イエスを信頼することを通して、主イエスのように神に信頼することができるのではないでしょうか。
虐待を受けた子どもと言う、今日の例は、自分にはあまり関係がないと考える人もいるでしょう。しかし、自分はこの世で愛されていないと感じ、それは自分が最初から神に選ばれていない人間だと感じている人間はいないでしょうか。あるいは、神は自分にとっては意地悪な、あくまでも裁く神として存在している人はいないでしょうか。それは、自分で自分を死へと葬り去っていることです。
なぜ、そんなふうに考えてしまうのか、そんなことはないのに、と思い、ひねくれて考えるな、と言っても、その人間にとっては生まれてからこの方、それ以外の考え方をしたことがないのです。考えを変え、神に信頼することは、大変な勇気が必要なことです。けれども、その勇気を振り絞り、門を叩け。どんどんどん!!神は、門を叩くことを待っておられます。と言うか、神ご自身が、実はその人達の心の門を叩き続けています。気づいてくれ、どんどんどん!
勇気を出してください。大丈夫です。神は存在します。神は、あなたが神と共に生きることを望んでおられます。神は、あなたが幸せに生きることを望んでおられます。だからこそ、主イエスのこの世に送り、悲惨な死を与えて私たちを救われようとされたのです。あなたは愛されている。神に信頼せよ。門を叩け。
お祈りします。天の父なる神様。あなたに信頼する勇気をわたしたちに与えて下さい。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン

2016年5月15日 「主の名を呼び求める者」 今村あづさ伝道師
使徒言行録2章14~21節

主イエスが天に昇られてから10日目、弟子たち一同が、一つになって集まっていると、風が吹いてきた。そして人々が異言を言い始めた。
これが、ペンテコステの出来事です。そしてこの出来事を解釈したのが、ペトロの説教です。今日の箇所は、その説教の最初の部分、根拠となる聖書の箇所を示している所です。
ペトロは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と36節に述べています。これが彼の説教の中心をなしています。2章全体がこの中心に向かっています。まず、ペンテコステの出来事が1節から13節で語られ、その出来事の意味付けが14節から35節でなされます。そして37節から41節は、主イエスがメシアであるならば、自分たちは何をしたらよいのかが語られ、その結果の出来事が語られるのです。
一同は、心を一つにして、ひたすら祈っていた。1章で使徒たちが語られていますから、この一同は弟子たちですが、その中にはイエスが十字架に掛けられるまで疎遠だったイエスの母や兄弟たちも含まれていた。全部で120人ほどの人々が一つになっていた。イエスの弟子たちですが、家族でもある。第一礼拝では先週、母の日にヨハネ18章25節から27節を読みました。ここで、主イエスがご自分の弟子と家族を引き合わせています。そうやって、家族は弟子になり、弟子もまた主イエスの家族となった。家族でもあり、弟子でもある集団が、このペンテコステで共に祈っていた人々であったのです。
自分たちに何が起こるのか、それはヨハネによる福音書でも主イエスが教えてくださっていました。主イエスが去って行かないと、弁護者は一同のところに降って来ない。逆に言えば、主イエスが去って行けば、弁護者が送られてくるわけです。主イエスは、復活から40日の間、弟子たちに現れた。そうして、40日後、ペンテコステの10日前ですが、天に昇って行きました。その時に、弟子たちに聖霊が降ること、それによって弟子たちが力を受けことについて話をされていました。
この主イエスの言葉を、もちろん弟子たちは、神の言葉として、聞いています。神は、なんでもお出来になる方、御言葉を取り消さない方です。その言葉は、必ず御心を成し遂げて天に帰っていくのです。とすれば、主の御昇天からペンテコステの朝まで、人々は心を合わせ、聖霊が降りてくるのをひたすら待っていたのです。それは彼らにとってはむなしい空約束ではなく、必ず実現する言葉であったのです。彼らは主イエスの言葉を、必ず果たされる約束として、待っていた。起こることを確信し、主に信頼して待っていたということです。
主の十字架の出来事まで、このような力強い弟子たちの姿は、どこにもありませんでした。主の晩餐の夜、主と共にする最後の食卓なのに、弟子たちには暗い影が差していました。夜だったから暗かったのですけれども、その暗さは、弟子たちの壊れやすい心、悪に対して無防備で、取り込まれやすい心もまた、表していました。
弟子の一人のイスカリオテのユダは既に、悪魔に心を奪われ、イエスを金で敵方に売り渡していました。しかし、ユダばかりではありません。弟子たちの間では、誰が一番偉いか、ということが議論になっていたということです。ヨハネによる福音書では、多分使徒ヨハネが、主に一番愛されていたと書かれているわけですけれども、別の福音書では、一番偉い弟子はだれかというこの議論をしていたのは、当のヨハネと兄のヤコブであったとも言われています。さらに、一番弟子と言われるペトロです。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」主イエスの暗い預言は、その通り、彼に起こるのです。
主イエスを守るべき弟子たちは、ゲッセマネの園では、主イエスの渾身の祈りの間、眠りこけてしまいます。ルカは「悲しみのあまり」とも書いています。どうしたらいいのかわからない、というわけだったのでしょうか。これもまた、人間の弱さであるわけです。
このよう弟子たちが、使徒言行録に入ると、途端に頼もしい、立派な弟子たちとして、心を一つにし、自信と喜びに満ちて行動する。同じ人間であることを考えると、不思議な思いに打たれます。復活の出来事は、それほどまでに圧倒的で、人を変える出来事であったということです。そこにわたし達は、既に神の御働きを見るのです。
主イエスが復活なさった。天に昇った。それは、神の右の座に上げられたということだ。神はイエスを主とし、メシアとされたのだ。復活の出来事、昇天の出来事を、人々はこのように理解します。それは、人間の勝手な思い込みではありません。神ご自身のみ旨が人間に現れたということ、つまり神の啓示が行われたということです。
ユダヤ人たちは、律法を知らない者たちの力を借りて、主イエスを十字架に掛けて殺してしまった。それは、人々の思いの前で、無力な敗北に見えました。しかし、神はそのようなイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた。ユダヤ人の手に引き渡されたことさえも、神が主イエスについて、あらかじめ定めておられた計画だった。あなたがたが滅ぼしたつもりだった主イエスは、滅ぼされなかったのだ。そうではなくて、勝利したのだ。それは神の御計画だったのだ。
そうして今、主イエスがこの世に来られて行うべき、驚くべき御業、新しい契約の御業が行われました。聖霊が世に降ったのです。それは、旧約聖書で既に預言されていたことが行われに過ぎないのだと、ペトロは解釈しています。イスラエルの民が他の民族によって滅ぼされた後に、心から神に立ち返った人に、神はご自分の霊を注ぐと。自分たちのかたくなな心を引き裂いて、神に対して心を向けた人に、神は新しい恵みの契約を行うというのです。
今日の聖書箇所の中心は、なんと言っても17節の「すべての人に」という言葉です。「わたしの霊をすべての人に注ぐ。」主の名を呼び求めるすべての人に。男も女も、老いも若きも、身分の高い人も低い人も、すべてというわけです。
すべての「人」、すべての肉体、すべての肉、生きている者という意味です。福音書で十字架の前に絶望し、この世のことに心を奪われ、神の御心が見えない、そのような弟子たちに代表される「人」です。神によって選ばれた民イスラエルの人々、自分たちの王がいらっしゃったのに、十字架に掛けて殺してしまった「人」です。病や、この世の思い煩いや、時代の制約の中で苦しんでいる人々です。この群れに、私たち自身もまた、もちろんのこと含まれています。このような傷付きやすい、不安定な人々すべてに対して、神はご自分の霊を注ぐというのです。
主イエスは「命の水」を値なしに飲ませよう、と言われました。あなた方は世の光である、とも言われました。それは、神の息であり、圧倒的な神の命です。風が吹いてきたこと、それも激しい風が吹いてきたことが、まさに神の息が吹いた、神の霊が激しく降りてきたことを示します。
「すると彼らは預言する。」と書いてあります。預言というと、神がかり的なことのように思います。けれどもそうではなくて、神の意志を受けて語られる言葉のことです。旧約聖書の前半では、預言者が奇跡を行う話もありますけれど、後半の預言者は、時代の様々な状況を神の視点から批判的に警告するのです。批判の相手は、王でもあり、一般の人々でもあります。神の立場から、神の言葉を受けて語るのが、預言者です。
最初のイスラエルの王様であるサウルも、預言状態になった、と書かれている所があります。昨年に読んだサムエル記の上、神の人サムエルによって油注がれたサウルに、神の霊が激しく降り、その結果サウルは預言する状態になったというのです。
サムエルがサウルに油を注いだ。それから霊が激しく降った。サムエルは、神によって命じられてサウルに油を注ぎます。神によって選ばれたしるしとしての油注ぎ、それは王や預言者や、祭司と言った選ばれた人にのみ、許された特権でした。神に選ばれ、神の霊が降る。神によって選ばれた特別の人のみに、聖霊が降ることになっていたのです。
それが、「すべての人に注がれる」。そのことが、どんなに特別なことなのか、これまでの世界では起こらなかったことが、新しく起こった。これまでの世界は終わり、新しい世界が始まったのです。神によって行われる新しい契約が、全ての人々と結ばれる。主の名を呼び求める人、主イエスを信頼する人がすべて救われるという新しい契約が行われるのです。
幻や夢を見ると語られています。神が見せてくれる、未来図です。アブラハムに対して神は、「目を上げてみるがよい。」と仰いました。自分の土地ではない、荒野が広がっていただけだったはずです。しかしながら神は、ここをあなたに与える、と約束されました。神の約束は違うことがない。それは、必ず実現される。神の言葉に信頼して生きることが出来ます。
つらいときには、下を向いて、今日やることをやることを、私たちは知っています。主イエスも、明日のことを思い煩うな、とおっしゃいます。そうやって、目に見える目の前のことに集中していくのです。しかしながら時に神は、私たちの目を上げてくださる。遥かな世界を見せてくださるのです。神の見せてくださる世界は、希望に満ちています。私たちのささやかな人生が、日々の生活が、神によって覚えられ、選ばれ、尊く用いられていくこと、私たちはそのことを、希望を持って喜ぶのです。
日々の生活は変わりません。むしろ、天に不思議な業、地に徴と書かれていますが、これらの「業」とか「徴」とかは、どうも、良いことではなさそうです。日食や月食、戦争を暗示している言葉が並んでいます。。不幸が続けば、人は希望などどこにあるのかと、自然に思います。しかしながら、そのような恐ろしいことが起こることは却って、喜びの日の準備であると、神の知恵は教えてくれるのです。
ペンテコステは、教会の誕生日です。このペンテコステの出来事が起こった日、洗礼を受け、仲間に加わったのは3000人もいたと書かれています。夥しい人々が洗礼を受けた。主の教会、イエスを主と告白する群れが、誕生したのです。
私たちは、教会というとまず、礼拝堂のことを思いますが、教会とは、人の集まりのことです。だから、「家の教会」と言って、礼拝堂を特別に持つことが出来ず、個人のお宅で日曜日に礼拝をしているような人々の群れも、「教会」です。けれども、やはり自分たちの会堂を建てたいというのは自然の思いです。それによって、主の御業は確実にこの世に現れるからです。人々のイエスを首として仰ぐ思いが世に現れたのが、礼拝堂ということです。
一つ一つの教会と、このペンテコステの教会との関係を、どのように考えたらよいのでしょうか。使徒たち、弟子たちはこの後、様々な地方に散らばって、その地で福音を宣べ伝えました。そして、そこでイエスを主と告白する人々が増え、礼拝をし、自分たち礼拝堂を建てて行きました。これらの教会は、元の教会の娘の教会と言われました。そうすると、インドで建てられた娘の教会と、エフェソで建てられた娘の教会とは、母の教会を中心として、互いに女の兄弟、つまり姉妹だということになります。現代のキリスト教会は、たくさんの宗派、教派に分かれていますけれども、お互いに姉妹同士だということになる訳です。
妹の教会で洗礼を受けた信徒が、お姉さんの教会に行ったら、どうなるのでしょうか。やはり信徒であるのです。いろいろな考え方が異なってきたことを理由に、教会が分かれて行ったという歴史はあります。だから、なかなか、聖餐式を共に守ることが難しいこともあるのですが、教会の一致を目指して、エキュメニカル運動もまた、行なわれています。
実は、日本基督教団の教会であれば、どの教会の信徒であっても聖餐式に参加できるのは、このことの表れでもあります。日本基督教団は、もともといろいろな教派の伝統を持つ教会が合同しました。お互いに一つの日本基督教団信仰告白を制定して、プロテスタント合同を図っています。教派には、会衆派、メソジスト、長老派、そして富士吉田教会のようにホーリネスも含まれ、バプテストの教会もあるのです。これらの教会が、お互いの教会で行った洗礼式を認め、同じ会衆として迎えることが出来ることは、実は大きな事なのです。
今日の聖書の箇所の「私の霊をすべての人に注ぐ。」旧約聖書のヨエル書では、いったんは外国に攻められ打ちのめされたイスラエルの民が、主に心から立ち返るならば、神から新しい命をいただくことが出来る約束でした。ペトロは、ペンテコステの出来事こそが、そのことの成就であると信じました。これから彼は、その約束がユダヤ人だけではなく、異邦人に対しても同じように行われていくという神の御業を見て、驚き慌てます。しかしそれこそが、自分たち人間の思いをはるかに超えた神の御業であることに気付き、受け入れて行きます。こうして、異邦人伝道が始まり、パウロが異邦人のための使徒として立てられ、異邦人伝道が広く行われていくのです。
私たちにとってこの「すべての人」は、顧みてどこまでも危うく、傷つきやすい私た地であると同時に、教会は異なっていても、主の名を呼び求める「すべての人々」でもあります。神の命の息吹、生きよ、愛されて生きよと命じる神の思いが、私たちに注がれています。この恵みを覚えつつ、今週一週間も過ごしてまいりましょう。お祈りいたします。
天の父なる神様、あなたは、わたしたち肉の器を覚えて、あなたの命を与え、あなたによって生きるようにと招いていてくださいます。その不思議な素晴らしい御業を感謝します。私たちは、あなたの霊を受けて喜び、この世界で生きることが出来ます。感謝して、主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン

2016年5月8日 「神が私達を召されている」 大木正人牧師
使徒言行録16:6~10

パウロは相次ぐ計画の変更の後エーゲ海を臨む港町トロアスで、夜「マケドニア州に渡って来て、私達を助けて下さい」と願う人の幻を見ます。彼はこのとき幻について思いめぐらし、一つの確信を得ます。彼は、すべてはここに至るまでの、そしてここから海の彼方に進み行くための神の招きなのだと確信します。パウロはその幻に、自分自身の不安や嘆きを結び合わせ、そこで祈り、考え、そして決断しまたのです。私達はここに、自分の挫折や辛い経験を通して、他の人の悲しみや痛みに寄り添い、共感することの大切さを教えられます。傷をなめあうというのとは違う、弱さや痛みを分かち合い、いたわる関わりの大切さを知らされます。そのような関わりを通して、神様は救いをこの地にもたらされ、世界に平和を実現されるのです。
パウロは「渡ってきて…私達を助けて下さい」という声に奮い立ち、その願いに応えるために対岸のマケドニアに向けて仲間と共に「すぐに…出発」します。パウロ達がこうして港町トロアスからエーゲ海をわたって西へと進んだ時、キリスト教は歴史的に新しい一歩を刻んだのでした。この瞬間からキリスト教は西アジアの片隅の宗教から、広くヨーロッパを経て遠く全世界へと至るものとなったからです。勿論そのようなことをパウロ達は考えて海を渡ったのでもありません。彼らはあくまでも助けを求める目の前の1人の人に応えるために進んで行ったのです。しかしその思いが、行動が、後にキリスト教の歴史にとって大きな一歩となったのでした。一人の小さな声に気づき、その思いを受け止め、自分とその人を結び合わせて考え、何とか応えたいと願う、そのささやかな思いとわざが、祈りと行動が世界に至る、世界を変える一歩になったのです。
しかもそれは一人の頑張りや努力によるのではありません。10節に「私達は、すぐに…出発することにした」という言葉があります。使徒言行録ではここで初めて「私達」という言い方が出て来ます。パウロの思いに共感し、行動を共にする仲間がここから新たに加えられたのです。だからここで初めて「私達」という言葉が出てきます。パウロらは志を同じくする新しい仲間と共にまだ見ぬ人々との出会いに向けて歩み出したのです。そのようにして刻まれる神様の救いの歴史の中に今私達はいます。

2016年5月1日 「おが屑と丸太」 今村あづさ伝道師
マタイ7:1~6

今日の箇所は、自分の目の中の丸太に気づかない人が、他の人の目におが屑が入っているよ、と指摘する、という話しからして、人間同士の話と読みがちです。しかし、その背後には神の裁きがあります。まず、聖書の今日の箇所を注意深く見てみましょう。
1節で、「人を裁くな」と主イエスは話し始められます。この「裁く」という言葉には、いろいろな意味があります。でも、まずは裁判所に訴えることを禁止している訳ではありません。あら探しをする、情け容赦なく評価する、と言った意味でしょう。
「人のあら探しをするな。あなたがたも情け容赦なく裁かれないように。」つまり、「他人のあら探しをするようなことは止めましょう、自分も情け容赦なく裁かれることになりますよ。」という訳です。
日本人的には、「他の人のあら探しをすると、その人はいい気持ちもしないだろうし、別の機会に、その人からこっぴどくしっぺ返しを受けますよ」、という意味に取ってしまいがちです。あるいは、自分が批判した本人ではなく、別の機会に別の人に、ということになるかもしれません。「情けは人のためならず」、つまりは、「まわりまわって自分のためになるから、情けを行いなさい」という訳です。
けれども、聖書の原文を読むと、ここの箇所で自分を裁くのは、人間ではありません。神様です。つまり、「人のあら探しをするな。あなた方が神様にあら探しをされないように。」と読むべきところなのです。
もっとも、神様は、本質的に義なる方です。わたしたちのあら探しをする方ではありません。神様は、義なる方、つまり正しい方、正義をなさる方ですが、その正義は、弱い者、貧しい者が保護される意味での社会秩序を打ち立てることなのです。
神様の裁きの基準は、愛です。神の赦しとは、その人の肩を持つ、一方的に肩入れをする、その人の味方をする、と言ったものです。その人間が正当に評価して、無罪かどうか、ではないのです。神の正義はある種、不当なほどのえこひいきをして、弱者を助けるものです。ヤコブに対して神が行ったことを思い出してみてください。「できの悪い子ほど、かわいい」という訳です。正当な権利を持っていた兄のエサウを退け、狩りも上手ではない弟のヤコブに天国への階段が開かれる。
考えてみると、わたしたちの内に一人でも、神の前に立ち、その容赦ない評価に耐えられる人がいるでしょうか。ただお一人、神の前でどこまでも正しかった人は、神の私たち全員を値なしに救うという神のご計画の中で、あのようなご受難に遭われました。わたしたちが自分だけでは誰も、神の前に立ってその評価を受けることが許されないことが、神ご自身に分かっていたからこそ、そのようなご計画を神ご自身がなさったのでした。
このようにわたしたちを招いてくださっている神のお膝元で、わたしたちは相変わらず兄弟に対して情け容赦もなく裁いているという例を、マタイによる福音書18章23節~35節の「仲間を赦さない家来のたとえ」で見ることができます。…
家来が王様に対して借りていた額は1万タラントン、つまり6000ドラクメ、これはデナリオンも等価値ですから6000デナリオン。一方で家来が仲間に貸していたのは100デナリオン。ざっくり円換算すると、王さまへの借金は6000万円、仲間に貸したのは100万円と言ったところでしょうか。自分の目の中の丸太と、人の目の中のおが屑ということです。
27節によると、家来の主君は哀れに思って、家来を赦し、借金を帳消しにしてくださいました。「哀れに思って」というところが、弱者を助ける、公平ではない、御自分の損になる、その人の肩を持った裁きだったということです。こうやって赦された人が、仲間を赦すことができず、借金を返すまでと牢屋に入れた。これを聞いた主君は、家来に同様のことをする訳です。つまり、「借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡したのです。
主イエスは、仰っています。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」丸太が入った目は、見えるでしょうか。見えるはずがありません。今日の箇所の並行箇所のルカによる福音書では6章39節で、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」とおっしゃっています。「盲人」の意味するところは、マタイによる福音書6章の22節~23節、今日の聖書箇所の前のページにあります。「…。」目が濁っているということは、光が消えることだと、ここでは言います。つまり、永遠の命が失われてしまうということでしょう。
まずは、自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになる。「はっきり見えるようになる」というのは、「目が開ける」という意味です。これまで、見てはいても意味が分からなかったのが、意味を読み取ることができるようになるということです。
自分の目から丸太を取り除いた人は、目が開け、神の光の中に生きている。ということは、最初の目が濁り、光の中を歩んでいなかった人とは、既に別人のように変わっていたことでしょう。その人が兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。つまり、兄弟の身になって仕えることが、できるようになっているのではないでしょうか。
「人を裁くな、あなた方も裁かれないようにするためである。」というみ言葉は、何かというと他人のあら探しをしてしまう私たちが、神様の世界に向かう一歩を歩み出しなさいということなのでしょう。
6節についても、少し触れておきます。犬や豚、というのは現代のわたしたちの感覚では理解できないほど、当時のユダヤ人にとっては不浄なものでした。ここでは、犬や豚と言って、異邦人のことを指していると思われます。異邦人、つまり異教徒には、神聖な物、真珠のような価値のある物、つまり天国へ至る秘密は教えるな、ということなのです。
一方、5節までには、何度も「兄弟」という言葉が書かれています。これは、教会の兄弟姉妹という意味です。したがって、ここにはマタイ福音書の非常に閉鎖的な面が現れているように思います。
けれども私たちは、この日本の社会との関わりを全く持たないで生きていくことはできません。また、社会と関わることを怖れたり、忌み嫌ったりする必要もありません。同じマタイによる福音書を少し戻ると、5章13節~16節の御言葉があります。「…。」光を人々の前に輝かせなさいと、勧められています。
先ほど、このみ言葉は、何かというと他人のあら探しをしてしまう私たちが、神様の世界に向かう一歩である、とお話をしました。そういう面では、会堂に共に座る兄弟姉妹は、み国へ共に向かう同行者です。裁くな、とは言われますが、隣の人の目のおが屑を取り除くことは、許されている、というよりも命令されていると言えます。
マタイによる福音書の18章の先ほどの「仲間を許さない家来」のたとえの前の「兄弟の忠告」では、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で忠告しなさい。」云々、と書かれています。また、第一コリント5章では、パウロは教会内の不品行な行いについて、断罪しています。パウロは、このような人は教会が除外すべきだとまで言っています。
わたしたちの教会は、聖霊なる神様の働きによって、この地に建てられました。父なる神は、子なるキリストをこの世界に送り、わたしたちを神の国へと招いてくださっています。
マタイによる福音書の書かれた時代も、キリスト教会の数は少なく、あるいはさまざまに言われ、ユダヤ人社会から仲間はずれにされ、ローマ帝国の中では辺境の変わった人たちとして、やはり疎外されている面がありました。そんな中で、マタイによる福音書も、ときとして自分たちだけで凝り固まる傾向が見える時があります。しかしイエス様のご命令は、マタイによる福音書28章18節~20節です。「…」さまざまな人々の所に行って、大胆に福音を述べ伝えることが命令されています。
一方で、教会は、この世のものになってはいけません。私たち自身は、取るに足らない、歩みの遅い、この世の中でこの世に翻弄されつつ歩んでいる弱い者たちです。しかし、教会の頭は主イエス・キリスト。私たちと天の間の執り成しをしてくださいます。兄弟姉妹と共に、互いに愛し合いながら、しかし神の義へと近づいていきたいと思います。
5章からの山上の説教では、中心に主の祈りがある、ということをお話ししていますが、そういった意味では、今日の箇所も、主の祈りで祈られています。つまり、「われらに罪を犯す者を我らが許すごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。
「われらに罪を犯す者」というのは、ずっと迫害とか、教会の外の人々のことかと思っていましたが、実は教会の中の、隣に座っている姉妹かもしれない。そんなことに気づいて、ちょっと寒くなるのです。
人を裁かず、しかし兄弟の目からおが屑を取り除こうと言う、困難な主イエスの御言葉です。しかしここでもまた、主の祈りによって、わたしたちは祈る言葉が与えられ、また天上の主イエスもまた、わたしたちのために祈ってくださっているのです。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。私たちは、自分の目の丸太に気づかず、愛すべき兄弟姉妹の目のおが屑にすぐ気付いてしまう存在です。わたしたちの群れを立てるために、あなたが主イエスを通じて行ってくださった私たちへの恵みを思い起こし、わたしたちをふさわしい者へと代えさせてください。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン。

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