日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文(時に要約)を掲載しています。3月27日より音声配信を開始しています。

2016年3月27日 「キリストのモーニングサービス」 大木正人牧師
ヨハネ福音書21:1~4

かつて主イエスはこの湖に近い小高い山の上で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」(マタイ7:7-8)と告げられました。それがここで起こっています。「網を打ちなさい。そうすれば獲れる」と導いて下さる言葉に聞き従った弟子達は大きな収穫を手にします。山上の説教に「網を打ちなさい。そうすれば獲れる」という一言を加えてよいかもしれません。6節にある「獲れる」という言葉は元の文字では「見つかる」という言葉だからです。主イエスは「網を打ちなさい。そうすれば見つかる」といわれたのです。これが主イエスのご命令です。私達への祝福であり約束です。
弟子達はその言葉に促されて網を打ちます。この時はまだ弟子達はその声の主が主イエスだとは気付いていないのですが、彼らはその言葉を受け入れて網を投げました。もし彼らが聞いて受け入れなければ、言われたように網を投げ入れなければ、つまり聴いて信じて行動しなければ、ここでの奇跡は起こりません。
獲れた「魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった」その時、その人の言葉と魚の重さをズシリと我が身と心に刻んだ時、一人が「主だ」と気付きます。ペトロは「上着をまとって湖に飛び込」み、他の弟子達は「魚のかかった網を引いて、舟で戻って来」ます。彼らがたどり着いた岸辺には、冷えた体を温め、濡れた着物を乾かす炭火が熾され、その上には「魚がのせてあり、パンも」焼かれています。何と優しい心遣いでしょうか。主イエスは、弟子達に「今とった魚を何匹かもって来なさい」、「さあ、来て、朝の食事をしなさい!」と仰って彼らを心はずむ主の食卓に招かれます。主「イエスは来て、パンを取って弟子達に与えられた。魚も同じようにされた。」このようにして始まる湖のほとりでの出来事は、6章にある5000人の食事を思い出させます。主イエスはそこでされたように、ここでもご自分を囲む者達に自らパンを手渡し、魚を差し出されます。主イエスが熾して下さっていた暖かな炭火を囲んでパンと魚を分かち合うモーニングサービスは、徹夜の疲れも吹き飛ばす喜びあふれるひと時であったに違いありません。

2016年3月24日受難日礼拝 「見よ、あなたたちの王」 今村あづさ伝道師
ヨハネ18:38b~19:16

「見よ、あなたたちの王」。ピラトは、イエスを捕らえ、鞭打たせました。兵士たちは茨の冠を頭に載せ、紫の服をまとわせて、平手で打ちました。平手打ちで青黒く顔を腫らし、鞭打ちのせいで傷だらけの体に、紫色をしたぼろ布をまとい、頭に無理やり載せられた棘だらけの冠で出来た引っかき傷から血が滴っている、そんな惨めな姿で、主イエスは、人前に引きずり出されました。
ユダヤ地方の総督であったピラトからすれば、ローマ帝国の治安をかき乱す潜在的な敵対者として、その権威を丸つぶれにし、二度と敵対勢力として浮かび上がらせないようにする。それで十分でした。そのために、このように侮辱的な処置を取ったのです。
ピラトは、ローマ帝国では騎士階級に属していたと言われます。特別に有力な家系の出ではなく、皇帝や自分の庇護者の意向を気にしながら、ローマ帝国の属州、つまり皇帝の直轄領の総督として、ユダヤ地方の統治を行っていました。ユダヤ教徒は、彼にとって、異教の理解できない、厄介な存在で、彼は常々、ローマ帝国の威光を押し付けてきました。反乱を起こす者たちに対しては、武力で鎮圧してきました。
普段は、何かにつけて敵対していたピラトと、エルサレム神殿の祭司たちが、共謀してイエスに十字架刑を言い渡していく。この今日の箇所は、歴史状況からすると、奇妙です。ローマ帝国の威光でユダヤ地方を統治しようと考えていたピラトは、神殿に皇帝の印を持ち込もうとして、ユダヤ人の反乱を招きました。彼は、皇帝の印を神殿に持ち込むことを、反乱の鎮圧のために、断念せざるをえませんでした。主なる神への礼拝を重んじ、そのためであればこの世の命を喜んで差し出そうとするユダヤ人のあり方は、ピラトにとってはやっかい極まるものでした。
ピラトがイエスを処刑する判決を出したのは、あくまで、イエスの存在がユダヤ地方の治安を乱す可能性があったからです。彼は、ローマ帝国の治安維持のために、ローマ帝国によって自身に委ねられている権限で、イエスを十字架刑に処したのです。ローマと言うこの世の帝国、その片隅のユダヤ地方の安寧のためにです。
ピラトは、ローマの役人として、属州の総督としての役目を勤めていました。その地位は、皇帝の任命に依るもので、だから「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」と言うユダヤ人たちの叫びは、彼の地位を脅かすものであったのです。ピラトは、主イエスを自分の地位を脅かす恐れのある存在とは見ていませんでした。あくまで、彼の怖れていたのは、自分が皇帝によって委ねられている地方の治安維持に失敗することです。イエスを釈放すると、ユダヤ人たちの暴動が起こるかもしれない。それは、皇帝の自分への期待を裏切ることになります。神の子が目の前に立っているにもかかわらず、彼が見ていたのはローマ皇帝であり、ローマ皇帝の前で映し出されるであろう自分自身の評価でした。つまり彼は、神ではなく人間による評価が、何より大事だったのです。
主イエスを捕らえ、ピラトのもとに引っ張って行った人々は、どうだったでしょうか。この人たちが今日の聖書箇所で、「わたしたちには皇帝のほかに、王はありません。」と言っています。中世には、毎年の受難週祈祷会でこの箇所が読まれ、ゲットーに住んでいたユダヤ人にとって、恐怖の期間であったことが言われています。つまり、聖書に書かれていることと、当時のユダヤ人を同一視したキリスト教徒が、彼らの住処に対して襲いに来るということが、実際にあったということです。
わたしたちは、この箇所をもっと信仰的に、意味していることを象徴的に読まなければなりません。ピラトに対してと同様に、真理に対してこの世が無関心であったと言うことです。
彼らは、イエスを殺したいと思い、イエスの弟子イスカリオテのユダに金を与えて裏切らせ、大祭司の所に連行しました。しかし、そこでは罪状が確定できないと、今度はローマ総督の所に連れて行きました。ローマ総督がイエスを釈放しようとすると、ユダヤ教徒であるならば絶対に口にできないような、この世の皇帝に対する忠誠を誓ってしまいました。この一連の行動の中に、主なる神から出たものが、果たしてあったでしょうか。
ピラトも、ユダヤ人たちも、いずれも神ならぬ人の思いで動いていたのです。
しかし、このような、この世の勢力、この世の理屈で組み立てられた主イエスのご受難の物語の中で、それに敵対する神のご計画は成就したのでした。十字架の上で最後に主イエスがつぶやかれた「成し遂げられた」と言う言葉は、神のご計画にその身をゆだね、遂に神のご計画の通りに成し遂げた、主イエスの勝利の宣言でありました。この世の勢力が、最後まで退けたつもりであった神のご意志は、結局のところ、この世に勝ったのです。
主イエスを通じて現された神のご計画は、この地上に平和の王を打ち立てると言うものでした。この世界に神の国を打ち立て、神の国の王として、主イエスを選ばれたのです。
主イエスの目指したのは、武力や威光や、この世の様々な権限をゆだねられた存在ではありません。ベタニアで香油を注がれた後、主イエスはロバの子に乗って、エルサレムに入りました。人々は、王の入城として、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。それは、武力によるのではなく、平和の王として戴冠するための、エルサレム入城でありました。
主イエスは、武力を使ってご自分の王国を打ち立てようとはなさいませんでした。ゲッセマネの園で兵士、祭司長、ファリサイ派の人々がご自分を捕らえに来たときには、進み出て「誰を探しているのか」と言われ、「ナザレのイエスだ」という答えに、「わたしである。」とご自分から名乗られました。祭司長の手下に打ちかかった弟子のペトロには、剣を鞘に納めさせました。主イエスが、この世の勢力に抵抗することはなかったのです。
そのお姿は、あくまでも羊を守るために、自分の命を捨てる羊飼いの姿であり、御自分の統治される王国で、もっとも卑しい仕える者として君臨する王なのでした。皇帝の顔色をうかがいながら、自分の地位に許された贅沢や権威を保持したピラトや、異民族を排斥する、ユダヤ人に限定されたユダヤ教の支配者たちには、全く理解できない存在でした。弱々しく、相手にするほどもない、虫けらのような卑しい存在。しかし、彼らにとって恥の姿そのものの「ユダヤ人の王」は、この世の勢力を否定し、それによってこの世の様々な限界を打ち破っていく力があるのです。この世の王に統治される必要もなく、この世に領土を持たなくても、この世を支配し、天上と地上、そして陰府の世界をも支配される絶対的な王、それが子ロバに乗ってエルサレムに入城され、茨の冠とぼろをまとわされた王なのです。
ヨーロッパの各国で、テロが続いています。EU,ヨーロッパ連合は、ヨーロッパの人々の統合を長年夢見た人々の願いが、世界中を巻き込む二つの大きな戦禍の後で、やっと実現したものです。そこでは、長年の宗教的な対立があり、民族的な対立があり、戦争と虐殺が続いて来ました。そのようなことを二度と繰り返したくないと言う願いのもとに、行われた統合であったと理解しています。
第一次大戦、第二次大戦を通じて、たくさんの難民が生まれ、その難民たちを受け入れなければならないと、人々は粘り強い活動をしてきました。宗教的な違いを許容し、異なる民族を受け入れ、安寧な暮しができるように、努力をしてきました。
しかしながら現在、このような状況を逆手に取り、難民に交じってテロリストもまたヨーロッパに侵入し、難民として受け入れた人々の子孫が、自爆するという形で同じ国籍の人間を殺し続けています。
そんな中で、テレビのドキュメンタリーで見た映像は、自ら目隠しをした若い男性が、人々の前に立つ姿でした。足元には、「わたしはイスラム教徒です。テロリストだと言われました。私はあなた達を信じていますが、あなた達は私を信じてくれますか? もし答えが ?イエス” なら、私を抱きしめてください」と書かれていました。そして、人々の前に無防備な姿で立った男性を、たくさんの男女が、抱きしめた。そういう映像でした。
わたしは、彼の姿が、人々の前で平和の王として入城した主イエスの姿に見えました。父なる神は、無防備な姿の独り子を、わたしたちにくださったのです。そして、わたしたちは、その神の子を、無防備であるにもかかわらず、十字架にかけて殺してしまったのではないでしょうか。
なぜ、イエスは、殺されなければならなかったのでしょう。それは、わたしたちの心の中を、神ではないものが支配していたからです。ピラトの抱いていた怖れ、皇帝への怖れは、自分の地位を心配してのものでした。祭司長たちやファリサイ派の人々は、主イエスを信じることができませんでした。却って、モーセの律法を自分勝手に解釈していると、非難したのでした。
主なる神が、イスラエルの人々だけを祝福する神であると考え続けるならば、パリで人々の前に目隠しして立った男性は、やはり殺されなければならなかったでしょう。しかし、主イエスが十字架に掛って死んでくださった今だから、わたしたちはこの人を抱きしめることができるのです。
この世の王国は、キリスト教国であれ、イスラム教国であれ、あるいは特定の宗教を支持しない国であれ、天上の王国には及ばないものです。私たちが、神の王国を地上に求める限り、わたしたちが和解することはできません。このようなわたしたちの貧しさを打ち破り、もっと神の自由の中に生きることができるように、神の独り子はやって来てくださったのです。
平和の王として、来てくださったイエス。わたしたちのために、その独り子を与えてくださった父なる神。そのお姿は、貧しい馬小屋で生まれ、ナザレと言う片田舎で育ち、ファリサイ派や祭司長たちの前に自ら名乗られた、無防備な姿でした。この世に仕える者として、この世に託された王を、地上の権威はすべて、無用な者、無力な者として、打ち捨てました。しかし、だからこそ神は、この方を地上のどんな王国をも凌駕する、神の王国の王として、即位させたのです。
「見よ、あなたたちの王」。平手打ちで青黒く顔を腫らし、鞭打ちのせいで傷だらけの体に、紫色をしたぼろ布をまとい、頭に無理やり載せられた棘だらけの冠で出来た引っかき傷から血が滴っているお姿。誰よりも尊く、誰よりも低い所に下られ、卑しい者の一人にまで仕えられる、真の王が、わたしたちの前に立たれています。
お祈りします。
天の父なる神様、あなたは罪ある私たちに、あなたの独り子である主イエスをゆだねてくださいました。この方を忘れてしまうわたしたちの罪を赦してください。この方が開いてくださったあなたへの路、あなたの命によってわたしたちは古い命に死に、新しい命に生かされているのです。どうぞ、このことを心に刻みつける夜としてください。そして、あなたにいただいた復活祭の朝を、わたしたちが心から喜んで迎えることができますように。主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りします。アーメン

2016年3月20日 「み国を来らせたまえ」 今村あづさ伝道師
マタイ6:9~10

神様は願う前から、わたしたちに必要なものを御存じです。しかし、わたしたちは神様に対して、絶えず、そして何度も祈るように求められています。それは、父なる神と御子キリストが心を通わせ、お互いの御心をよく知っていたという、三位一体の神の御性格によるのでした。父なる神と御子キリストが絶えず祈りによって交流していたように、父なる神は、わたしたちが神との交流が豊かにあるように、願っておられます。そのために、礼拝では神の御言葉を聞き、それに応答する祈りが捧げられます。
さらに私たちは、たった一人で祈ることも赦されています。祈りの言葉は、出てくるとは限りません。しかし、わたしたちは、神の御言葉である聖書がわたしたちの理解できる言葉で与えられています。そして、主の祈りが与えられています。さまざまな苦難に対して心が萎えてしまい、祈れない時にも、聖書の神の御言葉に聞き、祈りを捧げることができるのです。
「どのように祈ったらよいか、分からなくなりました」そのように神に祈る、というかつぶやくとき、それでも神様に信頼しましょう。何の言葉も出ないときも、神と向き合うことによって神の霊、聖霊なる神が、言葉に表せないうめきを持って執り成し、わたしたちを憐れんで下さいます。祈れなくなった時こそ、聖霊なる神様が働きかけて祈りの言葉を与えてくださると信じ、神様の前に進み出たいものです。
わたしたちが祈るとき、神様は、近くにいてくださいます。キリストはなぜ、十字架に掛らなければならなかったのですか。それは、わたしたちの神の前に出ることができないほどの、罪を神が赦してくださるためです。あんなにもキリストが苦しまれたのに、それによって神のみ心がわたしたちに示されているのに、わたしたちはそれに応えないのでしょうか。
十字架のキリストによって示された神の心、それは正義が行われなくてはならない、罪は滅ぼされなくてはならない、しかし、その罰を神ご自身がその身に受けても、神はわたしたちが神の御前で生きて欲しいと言うことでした。神様との交わりを絶たず、神様の御心を行って欲しいということです。
今日の「み国が来ますように」と言うお祈りに入ります。
「み国」とは、どんな国のことでしょうか。「国」に「み」という接頭辞が付いています。神様の国、神様がまことの王として、支配される国のことです。けれども、神がこの世の中を支配しているのは、キリスト教では当たり前ではないのでしょうか。なぜ、力もない人間がそのことを一生懸命、祈る必要があるのでしょうか。世界は、神が創造され、それは完全ではないのでしょうか。そうではないのです。
旧約聖書の創世記の1章1節、「初めに、神は天地を創造された」聖書はこのように始まっています。2節に行くと、地の様子が描かれます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
静かで暗かった、と読み解くと、読みが足りません。
混沌とは、混乱の極み、不毛の荒野を意味します。闇が深淵の面にある、と言うのも、深淵と言う奈落の底の表面が暗闇であったと言う訳です。そこを神の霊が動いていた。覆っていたと書いてある聖書の訳もあります。
まだ、生物は何も創造されていないから、植物も動物もいないのだから荒野と言うのは当たり前だと思うかもしれません。しかし、神の御前で何も生きる者がいなかった、と考えるとどうでしょう。人間も生きている。しかし、誰も主なる神を知らない。混沌とは、主なる神を知らない世界の混乱、悪夢、不道徳と不正の渦巻く世界を意味していることになって来ます。このような世界で、人々は生きる意味を持たない、無目的に生きているのです。
深淵、先ほど奈落の底と言いましたが、地獄、一度落ち込んだら這い上がれない地獄のことでもあります。それは深い割れ目、底知れぬ割れ目です。その割れ目の表面を闇が覆っている。生きている者に、割れ目は見えないのです。見えないとすれば、つまりここに落ちたら危ないということが分からないとすれば、人は簡単に割れ目に落ち込んでしまうのです。
深淵の表面の闇、これは死の闇です。暗闇。心の闇と言うべき、悩みや嘆き、悩みの種、貧苦、困窮、災難。闇は、このようなものでもあります。闇が深いから、人はその深みに落ち込んでいってしまう。闇がここかしこに拡がっているから、あの闇から逃れてもこの闇につかまってしまう。貧苦や災難から、這い上がれない割れ目、奈落の底へと落ち込んでいくと言うことです。
そして、神の霊が水の面を動いていた。異教の神々の悪霊が、地の面をあちらこちら動いていた。悪が噴き出すように画策していた、と理解することができます。生きるものは、さまざまな悪霊によって惑わされ、無価値、無目的に生き、命を浪費するしかなかった。そんなふうに読むことができます。
このような闇が覆う世界、この世界に神が「光あれ」と声を発します。光は、神の言葉によって最初に造られた存在です。神は光を見て、良しとされた。神のみ国は、このように始まったのです。光が作られ、光と闇が分けられて昼と夜になり、海と陸地が作られ、被造物が作られていきます。被造物の最後に人間が作られ、生き物すべてを支配するよう、神様から託されます。
神様から託された生き物の「支配」。これは、支配と言うか、よりよく管理せよ、と言うことです。水を蒔いて植物を育み、迷わないように囲いをして羊たちを守れ。
しかし、人間は、神から離れたところで、そのようなよりよい管理はできないのです。エデンの園に住んだアダムとエバは、神の戒めに背いて知恵の木の実を食べてしまいます。一旦、神から離れてしまうと、もう恐ろしくて、神の前には出られません。神がやってくれば、園の木の間に身を隠す。「どこにいるのか」神は尋ね求めます。
こうやって、人は、エデンの園から追い出され、神のみ前から追い出され、額に汗を流しながらパンを得る者となりました。しかし、被造物を管理せよとの神の命令は、託されたままです。神のみ旨がどこにあるのか、尋ね求めることなく、自然を支配する行為が始まったのです。
人間がこの世に生まれてからと言うもの、たくさんの大型の動物が絶滅したことが分かっています。それはもしかしたら、人間の乱獲によるのではないか、と考える人もいます。狩猟という自然から簒奪するばかりではなく、農業によって植物を育て、家畜を飼って生活の糧とすることを覚えました。しかし間違った灌漑方法を人間が行ったために、不毛の地となってしまったかつての穀倉地帯があります。人々は暖房や煮炊きのために、居住地域周辺の木を切り倒し、山は丸坊主になって洪水を招いています。豊かな農産物を得るために農薬、化学肥料、遺伝子組み換え作物を作っていますが、それらの害も再三、指摘されています。
多くの問題は、最初は技術的に理解できなかったことから始まるにせよ、問題が明らかになり、対応方法が分かってしまった後でも、経済効率のために、既得権益のために、なかなか軌道修正することができません。このような問題が人間の価値基準で解決しようとしても、うまくいかないのです。神を離れた世界、これは神が創造の御業をなされた時の混沌、そのものです。神ご自身が、働いて下さらなければ、正しいことは行われません。どう生きようと甲斐のない世界であれば、生きる意味もまた、何もありません。
人間は、み心が示されなければ、神の御心を行うことはできません。神のみ心から離れてしまえば、この世界は混沌へと沈むことになります。どうしたら、み心を分かることができるのでしょうか。
「時は満ち、神の国は近づいた」あるいは「天の国は近づいた」。主イエスの福音宣教の初めは、この言葉です。神様の思い、み心は、わたしたちに主イエスを通して示されたのです。主イエス・キリストの十字架上での死、それによって神のみ心が私たち人間に示されました。神から離れている人間に対し、神は肉をまとい、この地上に降り立って、わたしたちの罪を代わりに負い、父なる神の前に立つことができるようにしてくださいました。
主イエス・キリストの御業によって、すでに救いは行なわれ、だからこそ、地上に神の国がやってきたのです。でも、そうだとしたらどうでしょうか。「み国が来ますように。」と言う祈りを、主イエスが祈っていたと言うことなのであれば、御自分の十字架の死によってみ国が来るようにと祈っていたことになります。でも、それでは、わたしたちが祈る意味がありません。既に主イエスの御業は行われているからです。
主イエスに従う弟子たちには、胸の痞えるような思いで願っていたことがありました。それは、いつか、主イエスがこの地上にお帰りになって、弟子たちの間にもう一度生活し、このみ国を自ら率いてくださることでした。確かに、主イエスはこの地上に生き、御自分の御生涯を持ってわたしたちにみ国を勝ち取って下さいました。けれども、その御国は、主イエスご自身が率いてくださらなければなりません。私たち一人一人はか細く、すぐにへこたれて、希望を失ってしまうからです。王国には、王が君臨しなければなりません。王は、人々の間に住み、人々と親しく話し合っていかなければならないはずです。
新約聖書で一番古い時代に書かれたのは、テサロニケの信徒への手紙あたりだろう、と言われています。これらの手紙では、主イエスが直ぐにこの世に戻って来てくださるはずだが、まだいらっしゃらない、ということがテーマになっています。なかなか来ない。でも、帰って来た時のために、準備はきちんとしておかなければならない。福音書のたとえ話では、花婿がやって来るのが遅くなったために、花嫁が眠りこんでしまったという話しがあります。しかし、眠り込んでしまったとしても、ひとたび花婿が帰って来たときには、喜び勇んで迎えに出るのです。そのために、灯す油がなくならないように、きちんと準備をして待てと、教えられています。
王様のいない宮殿は、不安です。敵が攻めてきたらどうしたらよいのだろう。王が早く帰って来て、わたしたちの敵を散々にご自身で打ち破って欲しいのです。王のご臨在によって、正しいことが行われ、人々は、神の平安のもとに眠ることができます。神と共にいると言う喜びが溢れます。み国を来らせたまえ、というのは、王なるキリストがなるべく早く帰って来ますように、と言う祈りでもあります。
しかし、わたしたちは、当分の間、イエス様がいらっしゃらない地上の時間を生きていかなければならないようです。そのわたしたちに、父なる神は聖霊なる神を与えてくださり、教会に集めてくださいました。聖霊なる神は、わたしたちに信仰を教えてくださいます。わたしたちが人間の思いでは信じられないような真実を、わたしたちの心に刻みつけてくださるのが、聖霊の働きです。主イエスは教会の頭。しかし、教会はその頭の地上への帰りを心待ちにしている弟子たちの群れでもあります。天上にいる主イエスとわたしたちの間を取り結んでくれる聖霊の働きを、わたしたちは願うのです。
聖書の最後には、ヨハネの黙示録があります。黙示録は、天も地も新しくされ、新しいエルサレムがやって来ると書いています。そこには闇がない、夜がないと言います。海もなくなったと言います。深淵がぱっくりと口を開けている海や、その上を覆っている闇や、光のない夜は、すべて創世記1章2節で悪を象徴していました。創世記に書かれているさまざまな悪が、すべて取り除かれた世界が、新しくされた世界です。ここに描かれているのが、神の国、み国です。
旧約聖書の初めで、世界は混沌から始まりました。神のご支配が及ばない世界。悪がうごめく世界です。この世界に先ず、神の光が現れ、神の業が行われていきました。しかし、神の業は、蛇や、カインの弟殺しや、バベルの塔と言った悪によって、そのたびに台無しにされてしまいます。アブラハムと言う信仰の人を得て、これこそ私の宝の民、と目に入れても痛くないほど愛したイスラエルの民でさえ、神の前に罪を犯し、その祝福から遠ざけられてしまいます。
しかし、主イエスが現れ、神の御心に最後まで従順に従い、神の御心をこの地上に成し遂げてくださったことによって、この地上に神の国がやって来ました。この御業のゆえに、終わりの日の神の収穫は大きいと、信じることができるのです。「わたしと一緒に喜んでくれ。」主人である、神様の言葉が聞こえてきそうです。
み国が来ますように、と祈りながら私たちは、主イエスにもう一度お目に掛ることを夢見ています。二人、三人と共に集まって祈るとき、そこには主イエスご自身がご臨在下さる。そのように私たちは、聖霊なる神様の働きを祈るのです。聖霊なる神の働きを感じる時、それは、喜びの時です。天上の主キリストのご臨在を感じる時、王なるお方のご帰還、ご臨在を感じ、そして神の平安の中に入れられる時です。わたしたちの日々の働きはすべて、意味あるものに変えられ、わたしたちは神の家に永遠に住む者として、喜びを持って神の祝宴に招かれるのです。
今日は、教会暦、つまり教会の使っているカレンダー、暦では、棕櫚の主日と言います。主イエスは、過越しの祭りの前、子ロバに乗ってエルサレムに入られました。その時、町の人々は棕櫚の枝を手に持って、歓呼の声で迎えたのです。
それは、いわば戴冠式としての意味がありました。古代の王は、光り輝く戦車に乗って入場することが多かったのですが、これは強い軍事力を持っていることの象徴でした。しかし主イエスが子ロバに乗るのは、旧約聖書の詩編118篇に歌われているのですが、平和の王を象徴するものでした。今でも行われているのかどうか、分からないのですが、司教や主教といった高位聖職者の就任式では、子ロバに乗って司教座教会に入場する習慣がありました。これは、主イエスがエルサレムに子ロバに乗って入ったことに倣っています。
主イエスが十字架にかけられた時、「ユダヤ人の王」と罪状が書かれました。これを皮肉とみるでしょうか?ユダヤ人の王は、武力によらず、神の正義をわたしたちに示された、神の国の王でありました。
お祈りいたします。
天にいらっしゃる父なる神様。あなたのご支配する神の国が来ますように。わたしたちの主イエスがその王国にいらっしゃり、わたしたちと共に住んでくださいますように。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン

2016年3月13日 「祈るときには」 今村あづさ伝道師
マタイ6:5~8

おととい、金曜日は、東京神学大学の卒業式がありました。来賓としての招待状をいただきまして、思いきって出かけました。学部卒業3名、大学院の修士課程の卒業21名の全部で24名が卒業し、新しい門出を迎えたのです。
金曜日は、3月11日で、東日本大震災の記念日でした。奇しくも東日本大震災の当日も金曜日で、東京神学大学では卒業式の最中だったのです。その時のエピソードはいろいろ聞いています。当時の学長だった近藤勝彦先生は、全く動揺せず説教を続けたとか、オルガン奏者のために楽譜をめくっていた学生は、パイプが崩れて来ないように両手で押さえていたとかです。帰りも大変で、公共の交通機関はすべて止まっていましたから、都内の自宅にたどり着いたのは午前2時だったとか、町田の自宅まで自転車で帰ったとか、いろいろ聞いています。
その時に卒業した卒業生の中には、石巻の教会に赴任することが決まっていた人もいて、被災地での救援活動が、教会での最初の仕事になりました。
東京神学大学の卒業式と言うと、日本基督教団の教団議長も列席することが慣例で、おとといもいらっしゃっていました。5年前は、すぐに被災地に向けてマイクロバスで向かったのだそうです。
5年経っても、被災地の状況はなかなかよくなりません。未だに仮設住宅で暮らしている人々が17万人、行方不明者も2500人、といった数字を見ると、なにも終わっていないのだと思います。
祈りは何の役に立つのだろうか、祈っても、祈っても聞き遂げられない空しさ、そもそも祈る言葉も見つからない現実、こんな中でどうやって祈っていったらよいのでしょうか。
また、キリスト教的な祈りと、日本の社会の中で普通に行われている祈りは、何か違うのだろうか。そんなことを考えている人もいると思います。
そもそも、祈りなど、何の役にも立たない、と思う人もいると思います。神頼みにして祈るばかりで、何の行動も起こさない人々が、軽蔑の対象とされている小説などもありました。
教会の礼拝に出席すると、何度も祈りがあります。富士吉田教会の礼拝順序だと、最初に来るのは主の祈りです。聖書を読むと、司式者の祈りがあります。説教の後には説教者の祈りがあります。さらに、献金の後には献金感謝の祈祷です。そして讃美歌ですが、讃美歌のもとは、詩編の朗誦でした。そして、詩編もまた、祈りなのです。
こうやって礼拝の順序を見てみると、どうでしょうか。最初に招きの御言葉があり、これは聖書の朗読。次の讃栄は讃美歌だから祈り。次に交読詩編で聖書の朗読があり、主の祈り。次に讃美歌、これは祈りが続いています。聖書朗読があり、司式者の祈り。讃美歌が続くのでここも祈りが続いていますが、次の説教、これは聖書についての説教です。聖書は神の言葉です。そして、神の言葉の説教は、神の言葉である、という言い方があります。説教全体が神の言葉であると言うことです。とすると、説教と説教者の祈りは、神の言葉と祈り、と言うことになります。
以上は途中までですが、礼拝は、聖書のみ言葉と祈りが交互に行われると言うことが原則となっていることが分かると思います。礼拝は、基本的に聖書朗読を聞き、祈りがあるのです。聖書は、神の言葉です。神の言葉をいただいたら、応答として、祈りを捧げる。感謝の祈りを捧げる。これが礼拝の基本です。
プロテスタント教会の大きな特色は、神様の言葉が、わたしたちの分かる言葉で朗読され、それが分かるように説教されることです。神様の御言葉は、わたしたち一人一人に種として蒔かれ、そして芽吹いて育ち、大きく実を結ぶように、わたしたちに与えられるのです。
わたしたちの礼拝では、お祈りの文言は自由で、祈祷者に委ねられています。けれども、宗派によっては祈る言葉が決められているところもあります。カトリック・ローマ教会や、聖公会などがそうです。けれども、わたしたちの教会では、祈祷は聖霊が導かれるもので、祈る言葉は聖霊の働きによって備えられると考えられています。聖霊の導かれるままに祈る。教派の大事にしている伝統です。
しかし、司式者の祈りの内容は、毎週、同じようなもので、司式者の個人的な祈りではありません。会衆の代わりになって祈るのです。司式者の祈りは、会衆の皆さんの祈りです。心のうちに自分の祈りとして、一緒に祈るようにしたいのです。
讃美歌にしても、16世紀以降、個人的な自由な歌詞を書き、それを教会の讃美歌として歌うことは、当たり前になりました。ルターはシンガー・ソング・ライターでもあって、自分で作詞をしました。ウェスレー兄弟は、たくさんの讃美歌を作詞作曲しています。み言葉に対する応答としての讃美歌、自分たちの個人的な信仰を告白する讃美歌がたくさんあります。固定的なラテン語の歌詞で---第二バチカン公会議以後は日本語ですが---固定的な文言を詠唱するローマ教会とはかなり違います。
礼拝が、神の言葉をいただき、それに対する応答としての祈りが続くことによって成立していくのは、神様ご自身の性格を現しています。神は、御自分一人で存在し、何の不足もない方です。しかし神は、神ご自身の中にわたしたちが抱えきれないほどの愛を持っておられ、その愛を持って、私たちと交流することを、望んでおられます。
今日の御言葉の8節には、「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要な者を御存じなのだ。」とあります。わたしたちが何も祈らなくても、神はわたしたちの必要なものが何なのか、既にすべて御存じなのです。それなのに神は、わたしたちが祈ることを望んでおられます。願うことが何であるのか、知っている神は、その願いを他でもない神ご自身に対して向けることを、望んでおられるのです。
神がわたしたちとの交流を望んでおられることは、三位一体の神の御性格によるものです。父なる神と子なるキリストには、親密な関係があります。主イエスは常に祈っておられました。イエス様がよく祈っておられたことは、マタイによる福音書よりも、ルカによる福音書に出てきます。十二人の使徒を選ぶ時、主イエスは徹夜で祈られました。ゲッセマネの園で、十字架につけられるために逮捕される夜、主イエスはやはり血の滴るような祈りを捧げました。ヨハネによる福音書で主イエスは、「父がなさることは何でも、子のその通りにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」とおっしゃいました。父と子は、祈りを通じて豊かに交流をされ、愛し合われておられたのです。
三位一体の神の第三の位格は、聖霊なる神です。この方は、いわば父なる神から子なるキリストを通して出される神の息です。聖霊なる神は、わたしたちの礼拝の最初から最後までを支配され、わたしたちが父なる神と応答ができるように助けてくださいます。そして、礼拝の中のお祈りでは、聖書朗読の後に司式者が長いお祈りをしていますが、このお祈りの一番の目的は、み言葉の説教を聞く前に、わたしたちが分かるように、聖霊なる神に働いていただき、説教者の語る言葉を理解し、また神の言葉として聞くことができるようにと言うお願いです。
もっとも、司式者は他にも色々と祈っています。本来でしたら、この祈りは、3回に分けて祈られるはずのものです。けれども、19世紀のキリスト教が日本に来る時代、簡易版の礼拝式次第が行われており、それが日本にやって来て普及したのだそうです。
本来の祈りの一つ目は、罪の告白と赦しの御言葉の部分です。これは、罪の告白を会衆の皆さんが行い、神の赦しの御言葉を司式者が宣言するという形が本来のものです。そして、赦しの御言葉をいただいて初めて、聖書朗読によって神の御言葉がいただけるのです。十字架の贖いにより、罪赦されて初めて、神の言葉をいただけると言うことです。しかし、現在の式次第は簡易版なので、司式者の祈祷の中で両方が行われています。ですから、司式者の祈りの中で、罪の告白のところがあったら、会衆の皆さんを代弁して祈っているのだと思って、心の中で一週間に犯した自分の罪について思いめぐらし、悔い改めを願うのです。
二つ目の祈りが、先ほどお話しをした聖霊の照らしを願う祈りです。聖書朗読があって、説教の前になされる祈りです。
聖霊の照らしを願う祈りの後には、さまざまな人たちに対する執り成しの祈りが続きます。この祈りも、本来は説教の後で、献金の前に行われるようです。
このような礼拝の中で、神と会衆との間の応答が続き、会衆一同に神の恵みが豊かに与えられて、わたしたちは神によって一週間を生きる新しい命をいただきます。神様との交流が豊かに与えられます。神様との交流が豊かに行われると言うことが、わたしたちが神の子であるということです。神の国が、ここに、教会の中に実現しているということです。最後に派遣祝祷が行われますが、わたしたちは祝福されてこの世へと出ていく、教会からこの世へと、派遣されていく、そのわたしたちに神が共にあるようにとの祈りです。会衆は、神の祝福と力を受けて、この世に派遣されていきます。伝道へと派遣されると言うこともまた、意味しています。
教会は、祈祷会を持っています。この教会では、毎週日曜日の第二礼拝の前に、早く来た人たちで祈りを合わせています。また、木曜日には聖研祈祷会もあります。これは、聖書研究の後で祈祷題に合わせて順々に祈ると言うものです。
祈祷会の一番大きな目的は、礼拝が行われるように祈ることです。説教者、司式者、奏楽者などの奉仕者の準備が滞りなく行われるように、それによって礼拝が確実にできるように、神の救いの御業が礼拝において確かに行なわれるように、祈ります。わたしたちの教会は、聖霊なる神様が建ててくださったものです。この教会に、変わらず聖霊なる神がご臨在下さり、礼拝を最初から最後まで支配してくださること、これが祈りの中心です。
週報には、毎週の祈祷題が与えられています。さまざまな執り成しの祈りです。教会の中で、愛する兄弟姉妹が病気になったり、さまざまなことでわだかまりを感じたりしている場合、祈祷会の祈りの課題となります。
特に、人前で祈ることは、苦しいものです。恥ずかしいし、言葉が見つからない。このような祈祷会は、苦痛だったり、退屈であったりします。しかし、素晴らしい祈祷会は、参加する者にとっては、天上の喜びです。そんな祈祷会に参加したいと願います。
礼拝や祈祷会で私たちは、共に祈ることの力を知っています。ペンテコステの出来事は、みんなが集まって祈っている時に起こりました。(ペンテコステとは、イースターから50日目と言う意味です。今年のペンテコステは5月15日です)
しかし、祈りの場は、礼拝や祈祷会だけではありません。今日の聖書箇所で、主イエスは6節で「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言っておられます。たった一人で祈ることを、主イエスは認めておられ、勧めておられるのです。
一人で祈ること。どんな祈りをしたらいいのでしょうか。祈りは、神との対話です。神以外の何ものも、そこには必要ありません。人が聞いてくれることを期待して祈る祈りは、神は聞いてくださいません。神は、隠れたところにおられる方は、御自分を低くされ、神に対して祈る人の所まで降りて来てくださるのです。まさに、恵みの時間です。
しかし、なかなか、時は備えられません。何を祈るべきなのか、いつ祈るべきなのか。神は、わたしたちの言葉が整っていなくても、聞いてくださいます。なにしろ、わたしたちの願うことは、すでにご存じなのです。しかし、わたしたちが祈るときに神は、その言葉を喜んで聞いてくださる方であるのです。そして、わたしたちの言葉を喜んで聞いて下さる方は、わたしたちがいつも祈ることを願っています。何度も何度も、ずうずうしく祈りなさい、と勧められています。
一人で祈るときは、まずは聖書を読み、それから祈るのです。主の祈り。これだけで、わたしたちの祈りの言葉はすべて、備えられています。聖書を少し読んで、主の祈りを祈るのです。
また、詩編は祈りの言葉です。少しずつでも読んでいくと、こんなことも祈っていいのか、と気づかされます。激しく、祈り願う言葉が続いているところがあります。こんなことを神に対して祈ってもいいのか。しかし、神は、喜んで聞かれるのです。そして、祈りは、感謝と賛美へと変えられていく。どうしようもない、持って行きようのない苦しみ、悲しみを抱えているわたしたちが、祈りによって、神に変えられて行くのです。
東日本大震災。何度、祈り求めても、死んでしまった人々は帰って来てくれませんでした。何度、祈り求めても、失った生活は戻って来ません。しかし、祈る者の所まで神は降りて来てくださいます。
原発事故。今の時代の持っている技術では、廃炉も修復も困難です。しかし、知恵の源である神様に祈ることで、わたしたちは必要な知恵を与えられて行くのではないでしょうか。
わたしたちは、祈り続けます。礼拝の中で、祈祷会で、祈ります。自然によって破壊された物の大きさは計り知れないけれど、わたしたちの教団は、10億円の募金を集めることができ、それによっていくつもの礼拝堂が再建されました。そして、教会に奉仕する牧師は、全国の教会によって祈られているということが、大きな助けになります。これは、実は決定的なことです。一人ではない。祈ってくれている人々がいる。教会に連なる人々もそうです。被災地の教会が傷つき、教会員が散り散りばらばらになり、教会員の人々の生活自体が立ちゆかなくなっている時、祈られていることが、支えとなるのです。
震災から5年経ち、物質的なものが戻ってきている中で、心だけが取り残されていると言います。神様ご自身がお働きください、という執り成しの祈り。神様は、祈る言葉はすべて御存じでおられるけれど、わたしたちが祈られることを願っておられる。それも、わたしたちが折に触れて、常に祈り続けることを祈っておられる。わたしたちに与えられている神の豊かな特別の恵みである祈りを、大切にしていきましょう。
お祈りします。天の父なる神様、あなたはわたしたちに祈ることを許してくださいますから、ありがとうございます。わたしたちがあなたにいつも祈ることができますように。祈りを通じてあなたが働いてくださり、わたしたちを豊かに造り変えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

「隠れたことを見ておられる父」 今村あづさ伝道師
【聖書箇所】申命記15:7~11 マタイ6:1~4

旧約聖書の時代は、今よりよほど、生産性が低い時代です。
夏にルツ記を読みましたが、ルツ記の舞台はベツレヘムの城外の畑です。平原の穀倉地帯を考えますが、実際はそうではありません。狭い畑を低い石を積んで囲っている。石だらけの土地です。家畜の遊牧も半分は行われるようなところで、雨もよほど少ないのです。
夫を亡くしてやもめとなって、夫の生まれ故郷に姑と共に帰って来たルツは、外国人の寄留者として、ベツレヘムに住まいました。2章でルツは、落ち穂を拾いに行き、たまたま夫の親戚のボアズの畑に行きつきます。ボアズは彼女に厚意を持ち、わざわざ刈り取った束から穂を抜いて落としてまでして、彼女を助けます。このような親切は、ボアズが彼女に対して好意を抱いたからだろう、とわたしたちは簡単に読んでしまいます。しかし、このような行為は、律法で命じられているところを行ったに過ぎません。
旧約聖書には、貧しい同胞を顧みるための律法がたくさんあります。一つの系統は、貧者の取り分を残しておきなさい、と言うものです。たとえば、畑の麦はすべて刈り取ってはならない、落ち穂は拾ってはならない。ぶどう園に入った時は、おなかいっぱい食べてもよい、などなどです。今で言えば、資源回収の時にホームレスの人々が缶や新聞を拾うのをとがめ立てしてはならない、と言うところでしょうか。
別の系統が、今日読んだ聖書の箇所で、7年目の負債の免除の規定です。7年ごとに借金の棒引きをする歳を設けるのです。事実上の贈与と言うことになります。そこで、借金の棒引きをする年が近づいてくると、せっかく貸したお金が戻って来なくなるので、貸さないという状況が出てきます。今日の箇所はそのことを禁じた律法です。
イスラエルの律法は、居留者ややもめといった社会的な弱者に対して、配慮がたくさんあります。その根拠として、イスラエルの民自身がもともとはエジプトで居留者であり、奴隷であったからだ、ということが書かれています。よそ者としての待遇を受けていたからこそ、自分の国に保護を求めてやってきた人々は寛大に扱わなければならないと言うことです。
明治期、日本にキリスト教がやって来た時、キリスト教はそれだけでやってきたのではありません。特に遅れていた女子教育のための学校をたくさん建てました。医者としてやって来て、キリスト教を布教した人もいます。山の手と比べて圧倒的に死亡率の高い下町の乳幼児のために、東京大学の医学部のお医者さんたちが中心になって下町の亀戸に病院を建てました。あるいは孤児のための養護施設、障害児のための障害児施設も建ちました。これらの設立には、日本や海外のクリスチャンの人たちの献金がありました。
けれども、日本の場合は、一旦、このような施設が社会的に価値が認められると、税金によって賄われるようになります。社会的に、寄付や献金と言うのは、あまり前面に出てきません。
日本のクリスチャンは、偽善者じゃないか、と言われることがあります。よく見られたくて、そんなことをしているんだろう?今日の箇所を見ると、そんなことは決してなくて、偽善者だったら本当のクリスチャンではないと言うのです。しかし、日本では「ええかっこし」と思われるといけないと、なかなか良いことはやりづらかったりするのではないですか。
5章の13節~16節では、地の塩、世の光となれ。ともし火は燭台の上において、部屋全体を照らさせるようにせよ、と勧められています。目立たせるべきは、主イエスの指し示した福音です。別に、ええかっこしている訳ではありません。
一方アメリカでは、献金、寄付で病院、学校、福祉施設が支えられるというのは、今日でも普通のことです。従って、多額の寄付を出している人々に対して、社会的な評価は高いのです。近年は、貧富の格差がどんどん拡がっているようですから、そのような格差に対して、個人の信仰で対応をしようとするのです。
多額の寄付や献金をしていれば、人間的に立派な人だ。社会的には、このような評価があるでしょう。しかしここにも、偽善と言う悪があるぞ、と今日の聖書箇所は教えるのです。人々の称賛が高ければ高いだけ、終末の日には神の裁きは厳しいものになる。こう言うのです。
マタイによる福音書では、偽善者として律法学者やファリサイ派の人々を考えていたようです。彼らは、神様のためにではなく、自分たちの名声のために、このようなことをやっていたのです。
神様のご意志を行うこと自体が、罪となる。行為では神に従っているのだけれど、心の中では、神様のみ旨からずっと遠い所にいるのです。神様のご意志はどこにあるのか。5章では、律法よりもさらに厳しく、主イエスの示す神様のご意志に迫っています。そして、6章ではその神様のご意志を行っている。それでもなお、悪に至る危険が、良い行為自体の中に含まれているのです。
5章では、迫害されても喜べ、と言い、旧約聖書の律法の範囲をはるかに越える善を示されました。私たちはひどい仕打ちをされれば、それに報いるのが正義だし、自分で正義を行うべきだと思います。「義を見てせざるは勇無きなり」です。
しかし、主イエスは赦せ、すべてを赦せ、取る者には与えなさい、とまで仰います。天の父は、正義を行ってくださる、と信じて生きていくだけでは足りなくて、敵を愛せ、とまで言います。これは、敵と和解せよという意味ではありません。和解だけであれば、5章25節で既にイエスは言っておられます。また、敵を憎むな、というだけでもありません。敵のために戦え、敵と共に歩け、と言う意味です。なぜならイエス様のお名前が、「主我と共にいます」と言うお名前が、そのことを意味しているのではありませんか。悪人と共に生きてくださる。しかし、悪は滅ぼさなければならない、だから、悪人と歩む主御自身が悪人の代わりに死ぬ。それも、十字架の理不尽な死として。それではあまりにも行き過ぎだし、それはできない、と言う掟が、主イエスを通じて示された神のご意志だと言うのです。
このようなご意志の前で、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。いくら善を行っても、自分の中から悪はなくならないのです。一体、どこに、救いがあるのでしょうか。わたしたちにできないことを、主イエスは成し遂げたのです。
わたしたちの中に一人も、正しい者はいないということが、わたしたちの一人一人に、救いが用意されているということなのです。わたしたちが一人の例外もなく、悪を抱えているということが、主イエスがこの世に生まれてきた理由なのです。主イエスは、わたしたちの誰にとっても、自分に関係のない人だとは言えません。すべての人間が、主イエスによって許され、神の御前に出て、永遠の命をいただける、そのような恵みの御業の前に置かれているのです。
わたしたちは、神様のみ旨を行うことができません。けれども、わたしたちは、本当の命に行きたいと願っています。だから、わたしたちは、祈ることに招かれています。来週から祈りの箇所に入ります。聖書の山上の説教の結論は、祈り、主の祈りに導かれると言うことです。祈りの言葉が与えられ、神に対して祈ることが許されています。祈らずにはいられないと言うことは、このような恵みがわたしたちに与えられていると言うことです。
わたしたちが祈い、祈りが聞かれるのは、主イエスが絶えずわたしたちのために、執り成しの祈りをしてくださっているからです。だから私たちは、不完全な、罪ある者であっても、神に対して祈ることができます。祈りは聞かれると、希望を持って祈ることができます。
そして、わたしたちは、教会で互いに祈り合う兄弟姉妹がいます。自分の祈りがどんなに貧しいものであっても、神は聞かれます。主イエスが執り成してくださっているからです。わたしたちは、互いに祈り合うことができます。お互いの悲しみ、痛み、苦しみについて、執り成しの祈りをすることができます。一人一人が力弱く、信仰がどんなに薄いものであっても、兄弟姉妹のための執り成しの祈りは聞かれます。そして、その執り成しの祈りが、兄弟姉妹を力づけ、命へ生かす力となるのです。
礼拝では、聖書の御言葉を朗読した後に、司式者の祈りがあります。その中で、奉仕者の業の執り成しの祈りがあり、説教者への聖霊の注ぎを祈る祈りがあります。これらの祈りで励まされ、恵みをいただいている奉仕者も多いことと思います。説教者もそうです。言葉に出さなくても、神は言いたいことをご存じだと言われますが、しかし祈りは、ことばで伝えられて初めてかなえられます。
自分一人で祈っていても、どうしてももう一歩も進めない。こんな時にも、他の人の祈りによって、人は新しい生きる力が与えられます。私のために祈る人たちがいる。私のために祈るお方がいる。私に、神の御もとで生きて欲しいと思う人がいる。だから、わたしは働くことができる。
主イエスが執り成しの祈りをしてくださっています。わたしたちは、そのことを信じ、平安の内に、祈りつつ、神様の前で生かされていくのです。
お祈りいたします。
在天の父なる神様。主イエスをお送りくださり、わたしたち一人一人を生かそうとしてくださっています。大きな恵みに感謝します。レントの日々、わたしたちが主イエスのご受難と、そのことによって成し遂げてくださった恵みを深く心に刻みつけることができますように、主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン

2016年3月6日 「隠れたことを見ておられる父」 今村あづさ伝道師
申命記15:7~11 マタイ6:1~4

旧約聖書の時代は、今よりよほど、生産性が低い時代です。
夏にルツ記を読みましたが、ルツ記の舞台はベツレヘムの城外の畑です。平原の穀倉地帯を考えますが、実際はそうではありません。狭い畑を低い石を積んで囲っている。石だらけの土地です。家畜の遊牧も半分は行われるようなところで、雨もよほど少ないのです。
夫を亡くしてやもめとなって、夫の生まれ故郷に姑と共に帰って来たルツは、外国人の寄留者として、ベツレヘムに住まいました。2章でルツは、落ち穂を拾いに行き、たまたま夫の親戚のボアズの畑に行きつきます。ボアズは彼女に厚意を持ち、わざわざ刈り取った束から穂を抜いて落としてまでして、彼女を助けます。このような親切は、ボアズが彼女に対して好意を抱いたからだろう、とわたしたちは簡単に読んでしまいます。しかし、このような行為は、律法で命じられているところを行ったに過ぎません。
旧約聖書には、貧しい同胞を顧みるための律法がたくさんあります。一つの系統は、貧者の取り分を残しておきなさい、と言うものです。たとえば、畑の麦はすべて刈り取ってはならない、落ち穂は拾ってはならない。ぶどう園に入った時は、おなかいっぱい食べてもよい、などなどです。今で言えば、資源回収の時にホームレスの人々が缶や新聞を拾うのをとがめ立てしてはならない、と言うところでしょうか。
別の系統が、今日読んだ聖書の箇所で、7年目の負債の免除の規定です。7年ごとに借金の棒引きをする歳を設けるのです。事実上の贈与と言うことになります。そこで、借金の棒引きをする年が近づいてくると、せっかく貸したお金が戻って来なくなるので、貸さないという状況が出てきます。今日の箇所はそのことを禁じた律法です。
イスラエルの律法は、居留者ややもめといった社会的な弱者に対して、配慮がたくさんあります。その根拠として、イスラエルの民自身がもともとはエジプトで居留者であり、奴隷であったからだ、ということが書かれています。よそ者としての待遇を受けていたからこそ、自分の国に保護を求めてやってきた人々は寛大に扱わなければならないと言うことです。
明治期、日本にキリスト教がやって来た時、キリスト教はそれだけでやってきたのではありません。特に遅れていた女子教育のための学校をたくさん建てました。医者としてやって来て、キリスト教を布教した人もいます。山の手と比べて圧倒的に死亡率の高い下町の乳幼児のために、東京大学の医学部のお医者さんたちが中心になって下町の亀戸に病院を建てました。あるいは孤児のための養護施設、障害児のための障害児施設も建ちました。これらの設立には、日本や海外のクリスチャンの人たちの献金がありました。
けれども、日本の場合は、一旦、このような施設が社会的に価値が認められると、税金によって賄われるようになります。社会的に、寄付や献金と言うのは、あまり前面に出てきません。
日本のクリスチャンは、偽善者じゃないか、と言われることがあります。よく見られたくて、そんなことをしているんだろう?今日の箇所を見ると、そんなことは決してなくて、偽善者だったら本当のクリスチャンではないと言うのです。しかし、日本では「ええかっこし」と思われるといけないと、なかなか良いことはやりづらかったりするのではないですか。
5章の13節~16節では、地の塩、世の光となれ。ともし火は燭台の上において、部屋全体を照らさせるようにせよ、と勧められています。目立たせるべきは、主イエスの指し示した福音です。別に、ええかっこしている訳ではありません。
一方アメリカでは、献金、寄付で病院、学校、福祉施設が支えられるというのは、今日でも普通のことです。従って、多額の寄付を出している人々に対して、社会的な評価は高いのです。近年は、貧富の格差がどんどん拡がっているようですから、そのような格差に対して、個人の信仰で対応をしようとするのです。
多額の寄付や献金をしていれば、人間的に立派な人だ。社会的には、このような評価があるでしょう。しかしここにも、偽善と言う悪があるぞ、と今日の聖書箇所は教えるのです。人々の称賛が高ければ高いだけ、終末の日には神の裁きは厳しいものになる。こう言うのです。
マタイによる福音書では、偽善者として律法学者やファリサイ派の人々を考えていたようです。彼らは、神様のためにではなく、自分たちの名声のために、このようなことをやっていたのです。
神様のご意志を行うこと自体が、罪となる。行為では神に従っているのだけれど、心の中では、神様のみ旨からずっと遠い所にいるのです。神様のご意志はどこにあるのか。5章では、律法よりもさらに厳しく、主イエスの示す神様のご意志に迫っています。そして、6章ではその神様のご意志を行っている。それでもなお、悪に至る危険が、良い行為自体の中に含まれているのです。
5章では、迫害されても喜べ、と言い、旧約聖書の律法の範囲をはるかに越える善を示されました。私たちはひどい仕打ちをされれば、それに報いるのが正義だし、自分で正義を行うべきだと思います。「義を見てせざるは勇無きなり」です。
しかし、主イエスは赦せ、すべてを赦せ、取る者には与えなさい、とまで仰います。天の父は、正義を行ってくださる、と信じて生きていくだけでは足りなくて、敵を愛せ、とまで言います。これは、敵と和解せよという意味ではありません。和解だけであれば、5章25節で既にイエスは言っておられます。また、敵を憎むな、というだけでもありません。敵のために戦え、敵と共に歩け、と言う意味です。なぜならイエス様のお名前が、「主我と共にいます」と言うお名前が、そのことを意味しているのではありませんか。悪人と共に生きてくださる。しかし、悪は滅ぼさなければならない、だから、悪人と歩む主御自身が悪人の代わりに死ぬ。それも、十字架の理不尽な死として。それではあまりにも行き過ぎだし、それはできない、と言う掟が、主イエスを通じて示された神のご意志だと言うのです。
このようなご意志の前で、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。いくら善を行っても、自分の中から悪はなくならないのです。一体、どこに、救いがあるのでしょうか。わたしたちにできないことを、主イエスは成し遂げたのです。
わたしたちの中に一人も、正しい者はいないということが、わたしたちの一人一人に、救いが用意されているということなのです。わたしたちが一人の例外もなく、悪を抱えているということが、主イエスがこの世に生まれてきた理由なのです。主イエスは、わたしたちの誰にとっても、自分に関係のない人だとは言えません。すべての人間が、主イエスによって許され、神の御前に出て、永遠の命をいただける、そのような恵みの御業の前に置かれているのです。
わたしたちは、神様のみ旨を行うことができません。けれども、わたしたちは、本当の命に行きたいと願っています。だから、わたしたちは、祈ることに招かれています。来週から祈りの箇所に入ります。聖書の山上の説教の結論は、祈り、主の祈りに導かれると言うことです。祈りの言葉が与えられ、神に対して祈ることが許されています。祈らずにはいられないと言うことは、このような恵みがわたしたちに与えられていると言うことです。
わたしたちが祈い、祈りが聞かれるのは、主イエスが絶えずわたしたちのために、執り成しの祈りをしてくださっているからです。だから私たちは、不完全な、罪ある者であっても、神に対して祈ることができます。祈りは聞かれると、希望を持って祈ることができます。
そして、わたしたちは、教会で互いに祈り合う兄弟姉妹がいます。自分の祈りがどんなに貧しいものであっても、神は聞かれます。主イエスが執り成してくださっているからです。わたしたちは、互いに祈り合うことができます。お互いの悲しみ、痛み、苦しみについて、執り成しの祈りをすることができます。一人一人が力弱く、信仰がどんなに薄いものであっても、兄弟姉妹のための執り成しの祈りは聞かれます。そして、その執り成しの祈りが、兄弟姉妹を力づけ、命へ生かす力となるのです。
礼拝では、聖書の御言葉を朗読した後に、司式者の祈りがあります。その中で、奉仕者の業の執り成しの祈りがあり、説教者への聖霊の注ぎを祈る祈りがあります。これらの祈りで励まされ、恵みをいただいている奉仕者も多いことと思います。説教者もそうです。言葉に出さなくても、神は言いたいことをご存じだと言われますが、しかし祈りは、ことばで伝えられて初めてかなえられます。
自分一人で祈っていても、どうしてももう一歩も進めない。こんな時にも、他の人の祈りによって、人は新しい生きる力が与えられます。私のために祈る人たちがいる。私のために祈るお方がいる。私に、神の御もとで生きて欲しいと思う人がいる。だから、わたしは働くことができる。
主イエスが執り成しの祈りをしてくださっています。わたしたちは、そのことを信じ、平安の内に、祈りつつ、神様の前で生かされていくのです。
お祈りいたします。
在天の父なる神様。主イエスをお送りくださり、わたしたち一人一人を生かそうとしてくださっています。大きな恵みに感謝します。レントの日々、わたしたちが主イエスのご受難と、そのことによって成し遂げてくださった恵みを深く心に刻みつけることができますように、主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン

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