日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文(時に要約)を掲載しています。

2016年2月28日 「モーセと異なる教え」 今村あづさ伝道師<
申命記7:1~5、マタイ5:43~48

5章のこれまでの箇所もそうでしたが、今日の箇所も、モーセの掟を最初に示し、しかしながらそれをより厳しい律法に置き換えています。そこには実は、マタイによる福音書を生み出した教会の抱えていた厳しい迫害の状況があります。しかし、このような特殊な事情を越えて、このみ言葉は現代に生きるわたしたちにとっても、この命令は正しく、わたしたちの心に生き、そしてわたしたちを変えていく力を持っています。
まず、43節の「隣人を愛し、敵を憎め」という命令ですが、聖書の巻末に「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」が付いている聖書をお持ちの方は、マタイ5:43を見ますと、「レビ19:18」と書いてあります。そこで、レビ記を開く訳ですが、該当箇所は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」となっています。
レビ記19章では冒頭で、「聖なる者になれ。私は聖なる者だ。」と言う言葉が語られ、十戒に対応する律法が続き、一つ一つの律法の後に、「わたしは主である」と言う言葉が続きます。主である私の名前を汚すな、汚すのはこのようなことだ。神は、一つ一つを教えるのです。
ところが、このみ言葉に含まれているのは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」だけです。「隣人を愛し」の部分だけで「敵を憎め」に対応する言葉はないのです。そこで今日は、「敵を憎め」に対応しているのかな、と言うところを探し、申命記に行きつきました。
申命記は、繰り返し、他民族を滅ぼせ、と述べています。特に申命記7章は、7つの民を滅ぼせ、憐れみを掛けるな、滅ぼしつくせ、と書いてある一方で、6節を読むと「あなたは主の聖なる民である」とあり、すべての民の中から選んだ「宝の民だ」と言います。さらにその後で、その選びは、主があなた方に心を惹かれて選んだのです。しかしながらそれは、選ばれる側が優れていたからではなく、どの民よりも貧弱だったのに、神はあなた方をどの民よりも愛したからなのだ、と続きます。そしてそれゆえにファラオが支配するエジプトの奴隷の家から救い出された。ここのところは、旧約聖書の信仰告白ですから、大変重要な箇所になっています。
申命記では、モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させ、ヨルダン川東岸の地域まで連れていきます。約束の地、ヨルダン川の西岸のカナンの地は、目前です。目前で、モーセは自分の役割を終えて、生涯の最期を迎えたのです。
ヨシュア記ではいよいよ、約束の地に入っていき、神の約束は成就します。他民族を滅ぼし、イスラエルの民の前から追い払うのは、主なる神ご自身の働きです。それが、約束であり、神の愛であるとされているのです。
現在のイスラエルの状況を見ると、ユダヤ人地区とアラブ人地区との間にコンクリートの壁を作って分離し、お互いに迫撃弾で攻撃し合う、と言う体制が続いています。モーセを通して語られる神の言葉の通りに行動すれば、こうなってしまいます。何かおかしいのだけれど、聖なる民として特別に選ばれたイスラエルの民、その民の先頭に神が立って敵と戦うと言う申命記の言っていることは、わたしたちにはなかなか反論するのは難しいのです。
実は反論は、旧約聖書自身によって行われています。申命記からヨシュア記、サムエル記、列王記、と、ヨルダン川の西側の約束の地に入ったイスラエルの民が、そこで王国を築き、王宮や神殿を築き、繁栄したことが物語られます。しかし、やがて、エジプトやアッシリア、バビロニアと言った大国がこの国に攻め寄せて来て、最終的には王族はバビロンにつれて行かれ、エルサレム神殿も破壊されてしまいます。
約束の民なのに、なぜ、王朝が滅びてしまったのか。それは、約束の民であるイスラエルが神との約束を守らないで、神に背いたからだと考えられています。神の掟を守れば祝福を送り、守らなければ呪いを置く、とした申命記の最後に出てくる神とイスラエルの民との間の契約は、実はイスラエルに敵対する国々にも置かれているようです。明示的に神との契約を結ばなくても、神の目から見て正しいことを行っている民には神の祝福が、正しくないことを行っている民には神の呪いが置かれる。列王記の最後までの物語の聖書が言わんとしているところは、ここにあります。
実際のところ申命記は、南北の王国が、外国の強大な勢力に攻められたときに、人々の心を神に向け、共に戦うことを意図して編集されているところがあります。ヨルダン川を正に渡ろうとする時点まで時間を巻き戻し、このことを思い出せ、そしてヨルダン川を渡った時のように、心を一つにして神により頼めば、神ご自身が戦ってくださり、わたしたちの前にエリコの城壁は自然に崩れる。そんなことを、言いたかったのでしょう。
新約聖書は、旧約聖書のイスラエルの南北王国の滅亡と、その理由を踏まえています。イスラエルが主なる神に背いていても、神は長い間、忍耐してご自分に立ち帰ることを待っておられたのです。となると、主なる神がひとたび、イスラエルの裁きとして王国を滅亡させたからには、再び主なる神がイスラエルを顧みてくださるまで、自分たちは神に対してまことを尽くし、忍耐して待たなければならないと言うことになります。神が再びイスラエルを顧みてくださること、それがイエス・キリストをこの世に生まれさせたことだと理解しているのです。イスラエルは神に選ばれているとしても、神の裁きは公平になされる。45節の「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」と言うのは、このことを確認しています。
しかし、新約聖書の箇所を確認すると、まずこれは、迫害という文脈で読まなければならない箇所だと思うのです。マタイによる福音書5章全体が、最初からすべて、迫害の時代を前提としています。危機の時代にあって、どうしたら良いのか、教会が教会に連なる人々を励ますための御言葉です。
「敵」とは、キリスト教徒に敵対する勢力のことであり、キリスト教の教会を迫害する者たちのために祈れと言うのが、ここの論点です。そしてそれはどうしてかと言えば、「あなたがたの天の父の子となるためである。」と書かれています。
天の父、神。天の父の子となるとは、神の子となると言うことです。神の子とは、神と特別に心を通わせる存在になることだと、お話しをしました。旧約聖書では、ダビデは神の子であり、油注がれた王、祭司、預言者が神の子でした。神の子とは、本当に一握りのエリートのことだったのです。普通の人々は、このようなエリートを通じて、時折神の言葉を聞くばかりでした。しかし新約聖書は、主イエスによって、教会の群れに聖霊が降り、教会は聖霊の支配するところです。私たち一人一人が、聖霊の注がれる神の子です。そのような神の子となるには、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ、と言うのです。
自分を愛さない者、自分と敵対する者のために祈る。これは、預言者の役割だと考えれば、理解しやすいのかもしれません。預言者は神の言葉を語りますが、それが人間の耳から聞き従うことが難しいものであっても、預言者は神の言葉を語らなければならないからです。
旧約聖書の申命記と新約聖書のマタイによる福音書を読み比べてみましたが、新約聖書では旧約聖書の御言葉を最初に述べているものの、この二か所の聖書の置かれている状況は異なります。申命記では、大国に攻められ、祖国の存亡の危機を迎えている時期で、巨大な勢力に対して、どうしたら自分たちがどうにか生き残ることができるか、と言うことを考えています。その時には、心を一つにして神に立ち帰るしかない。神が敵を撃退してくださることこそが、自分たちの生き残る道なのです。一方、マタイによる福音書では、危機的な状況にあるという点では同じなのですが、その危機とは原始キリスト教会の時代に、ユダヤ教徒を初めとする無理解、迫害の中で、どのように信仰を養い、信仰を貫いていくか、と言うことでした。
そういった点では、申命記とマタイによる福音書は、論点がずれていると言うことも出来るのです。
しかし、このような論点のずれはあるものの、神の言葉は持っている命を失くしていません。共にいてくださり、敵を打ち破って下さる申命記の主なる神のお姿は、現代の国と国との関係を考えた時にも、いよいよ有効です。そして主イエスの敵を愛しなさい、というみ言葉は、申命記的な世界の現実に対して、現代になってもわたしたちに、「これでいいのですか?」と問いかけ続けるのです。
現代の国と国との関係を見るために、まず中世について話をします。中世のヨーロッパは、神がご支配する世界であった、と言うことができます。国々の国境(国境い)はありましたが、国境を超える存在として教会があって、人々を結びつけていました。国王でさえ、ローマ教皇の前では一人の信徒に過ぎず、罪の告白をして、赦しを請う存在でありました。
しかし、16世紀の宗教改革により、プロテスタント国の場合は、一つの国に一つの教会と言う形になり、教会のトップは人事権を握る国王と言うことになって来ました。たとえば、英国国教会のトップは、イギリス国王です。国ごとに教会が分割されたので、国境を超える権力はなくなりました。こうなると、国王の権力は強大になります。主権在君の時代が到来しました。
19世紀の半ばになって、日本が鎖国を解くころになると、主権は国王から国民に移って来ます。「国民国家」は、国民が主権者と言うことです。それまでは戦争は国王が勝手にやるもので、兵隊は国王の財布で雇い入れても一向に構わないものでした。「国民国家」は、主権を持つ国民自身が守る国家として、国民は納税と兵役の義務を負うことになりました。
このような国家体制が、開国をして、明治時代を迎えた日本人が受け入れた世界秩序でした。日本は、この秩序を学び、自国の制度にします。まず、主権在君、つまり天皇が主権者である大日本帝国憲法ができます。天皇が日本の国民の統合の象徴となり、教育勅語がそのことを国民に教える役割を担いました。国家を担う者は国民です。兵役と納税の義務が生まれました。太平洋戦争は、鬼畜米英によって虐げられている植民地の人々を解放する、まさに聖戦と位置づけられたのです。
この憲法のもとで、キリスト教会も大日本帝国のもとにある教会として統合され、日本キリスト教団が作られました。昭和19年9月23日には、日本基督教団による全国一斉必勝祈願の祈祷会が行われています。まさに、申命記の言う主なる神への祈祷会です。我々と共にいる神は、民の先頭に立って戦い、勝利してくださる、と言う訳です。
このような申命記的な聖書解釈の中で、主イエスの「敵を愛せ」というみ言葉は、まさに迫害の只中にありました。「非国民」と呼ばれ、外国と通じていると疑われ、拘束され、聖霊の宮である教会は閉鎖されて、礼拝を行うことも許されませんでした。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。」神と言う完全な方の子どもとなるために、5章ではさまざまな勧めが行われています。喜べ、地の塩となれ、ともし火を輝かせよ。そして、和解せよ、清くあれ、復讐するな、敵を愛せ。主の祈りが続きます。主なる神の聖霊をいただくこと、これにまさる幸いはないのです。
世界の現実は旧約聖書の示す物にまだまだ近いとは言え、「敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」と言うみ言葉は、死んだわけではありません。反戦運動や、良心的兵役拒否を行った人たちがいます。難民に対してビザを発給し続けた外交官がいます。二つの世界大戦によって深く傷ついたヨーロッパに、EU、ヨーロッパ連合が生まれました。これらの運動を行った人々の中に、日本人も含まれています。
今日の旧約聖書の箇所は、わたしたちを選んだ神は、必ずわたしたちを勝利へと導くと信じるものです。しかし、この帰着は隣人に対して高い壁を築き、互いに迫撃弾で攻撃し合う姿です。旧約聖書の詩編など多くの箇所は、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」というものです。公平ですが、これでは敵味方の隔ては解消しません。新約聖書の「敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」これこそが、わたしたちに天国への門を開くものです。これは、わたしたちには未だ来ていない、はるかに仰ぎ見る天の国の姿です。けれども、天の国はもう来ている、この地上で始まっていると言うことも、主イエスのいらっしゃった後のわたしたちは、見ることができるのです。
お祈りいたします。
主なる神様、あなたはキリストのご受難のゆえに、わたしたちのために天の国を開いてくださいますから、感謝いたします。わたしたちがあなたにふさわしいものに、この世の生涯を掛けて、変えられて行きますように、主イエス・キリストの御名を通してお祈りします。アーメン

2016年2月21日 「復讐するな」 今村あづさ伝道師
レビ記24:17-22、マタイ5:38~42

復讐してはならない。何と、非情な命令でしょう。わたしたちの神は、わたしたちを共にいてくださる方ではないのか。苦しめられ、悲しんでいる人々に、泣き寝入りをしろというのか。この聖書箇所を読んで、わたしたちは本当に困ります。
先週も、ニュースはたくさんの殺人事件を伝えました。報道される限り、なぜ、そんな身勝手な理由で、簡単に人を殺せるのか、憤りを覚えます。川崎の中学生が殺された事件の判決では、息子をわたしたちのもとに返してください、とお母さんが訴えていました。お父さんは、こんな量刑では軽すぎる、と言っていました。人の命は、神の前では誰であっても、かけがえのないものです。しかし、このような事件を見ていると、加害者はそのようなことは一瞬も、思い出さないのか。そもそも、そのことを知らないのか。人間の命よりも、自分のメンツや金銭の方が大事。堅実に生活をしている人間は、金づる…。脅して暴力に訴えて金銭を巻き上げた挙句に殺し、取った金銭で欲しかったバイクを買う。信じられません。さまざまなことを考えさせられます。

最初に、今日の聖書箇所について、読んでいきたいと思います。
全体の構成は、最初に38節で旧約聖書の律法を参照し、父なる神の教えを確認しています。次に、39節から41節で、律法の拡大解釈が行われます。そして最後、42節は、もう一度旧約聖書の教えを確認しています。これまでの箇所と同様、旧約聖書で教える律法を厳密に守ることを教えているのです。
38節の「目には目を、歯には歯を」と言う言葉は、旧約聖書の時代の刑法の量刑の考え方で、傷害の代償は、受けた傷害と同じ重さとする、というものでした。これはもともと、ハンムラビ法典という古代バビロニア王国の法律で決められたものだ、ということはご存知の方が多いと思います。
人によっては、この量刑は重過ぎると思う方も多いと思います。目をつぶされたら、目をつぶせ、歯を折られたら歯を折れ、というのですから。しかしながら、この原則は、氏族社会の中で、受けた損害以上の報復をしてはならないという、報復を制限する法律でした。
創世記の34章に、こんな話があります。ヤコブには12人の息子がいて、それぞれがイスラエルの12部族の祖先となった訳ですが、娘ももちろん、生まれていたのです。しかし、旧約聖書には、妻の名前は出て来ても、娘の名前はほとんど出てきません。例外的に出てくるのが、問題が起きた場合です。
今回は、ディナと言う名前の娘が、土地の男にレイプされてしまったのです。ただ、その男は、土地の首長の息子でした。そして、きちんと結婚したいと、首長である父親を通じて、ヤコブに相談したのです。結納金も言われた通り、払うということでした。ヤコブの息子たちが主張した割礼も、あえて行って嫁を迎え入れようとしました。土地の人たちも、その方向で、説得したのです。
ところがです。町じゅうの男たちが割礼を受け、その傷が治らないうちに、ディナの二人の兄、シメオンとレビが、町を襲撃し、男たちを皆殺しにし、町じゅうを略奪してしまったのです。
父ヤコブは、困ったことをしてくれた、と二人にいますが、シメオンとレビの二人は、妹が娼婦のように扱われてもいいのか、と言い返して終わります。
この物語では、レイプに対して、町じゅうの虐殺で報復したのです。身内の命は、付き合いのない人々の命とは比べ物にならないくらい、かけがえのないものだ、という実感があります。妹の貞操は、何人もの人間の命で償ってもらっても償いきれないということです。
「目には目を、歯には歯を」という原則が、このような実感を押しとどめる律法なのだということが分かると思います。そこには、よそ者の命も、そのよそ者の家族から見れば、かけがえのないものなのだ。それは、よそ者も同じ心を持った人間であるという認識が必要です。そして、このようなイマジネーションを持つためには、氏族社会を超えた国家が必要でしょう。さらに、すべての人類、すべての生物がかけがえのないものであることを知るには、万物の創造主としての神を知る必要があるのでしょう。

主イエスの時代には、傷害を、損害を与えた人間の傷害で償うのではなくて、相当の金銭で補償するという考え方が原則となっていたということです。目が潰れることに相当する金銭はどの程度のものでしょう。損害賠償と言うことです。つまりは民事的な解決と言うことで、このことは相手の貴賎、金持ちか貧しいかなどで保証額も異なりましょうから、平等であるべき刑事罰とは異なるのですが、そういったことが行われていたということです。
さて、39節~41節なんですが、ここは、イエス様やマタイの教会の置かれていた社会状況の中から読むべきところです。新しいものから古いものへ、と言う順番になっています。記憶に新しい所から遡っているのでしょう。
イエス様の生きていた時期というと、まず、イエス様の生まれた時期は、ヘロデ大王の時代でした。ヘロデ大王は、旧約聖書のダビデ王の時代に匹敵する領土を持っていました。彼が、ローマとの友好関係を結ぶことによって、領土を安堵させてもらっていたのです。ヘロデ大王の時代は、ローマの覇権を握る人物が、目まぐるしく変わる時代でした。皇帝が決まらない時代は、ポンペイウスからユリウス・カエサルまで、この人は、と自分が見定めた人物を応援することによって、国土を守ったことになります。
ヘロデ大王によって、ユダヤ地方にはローマ軍が駐屯し、ローマ皇帝の名前を冠したローマ風の都市が建設されました。ヘロデ大王の息子たちは、ローマ帝国に留学し、ギリシア・ローマ的な学問を学びました。エルサレム神殿には、ローマの神々が持ち込まれました。
ローマの軍隊を駐屯させるということは、さまざまなローマ軍による労役のために働かされることもあったでしょう。ローマ風の都市の建設のために駆り出されることもあったはずです。41節の「ミリオン」というのは、ラテン語の単位です。ラテン語は、首都ローマを含む、ローマ帝国の西側の地域の土着の言葉です。ローマ帝国の東側の地域の公用語はギリシア語で、ラテン語の単位が使われていることは、普通ではありません。つまりは、ローマの単位を使っているところに、強いて行かせる相手がローマ人であることが示唆されています。
ヘロデ大王やその後継者たちはローマとの友好関係を保っていましたので、当然、このような外交政策に、批判者が出てきます。ローマの傀儡政権ではなくて、イスラエル本来の主なる神に立ち返れ。こんなことを考える人がたくさんいたのも、理解できる話です。
主イエスの神の国運動も、主なる神に帰れ、という運動ですから、ローマに賛成するばかりではなかったことが分かります。
一方、ローマに積極的に武力で反対する人々もいます。イドマヤ人だったヘロデではなくて、ダビデの血統から支配者を選ばなくてはならない。ダビデ王家の血筋であった主イエスを担ぎ出して、王としようとする人々もたくさんいました。
主イエスは、この世の王になることも、考えてもいませんでした。一貫して、断っていました。主イエスの考えていることは、神のご計画に従順に従っていくこと、そして神のご計画は神の国の到来、それはこの世的な王になることではありませんでした。
ローマに敵対する人々は、今日で言えばデモのようなさまざまな示威活動を行っていました。そればかりではありません。テロ集団でもありました。要人の暗殺を行いました。抵抗運動には、お金が掛ります。募金を強制するということもありました。強盗を働くことすらあったのです。
このような人々に対して、自分はあなた方とは考えが異なる、だから金銭は渡せません、と言うことは、大変な危険を伴いました。40節で下着を取ろうとする者は、そのような者のことかもしれません。
マタイによる福音書の24章で主イエスは、エルサレム神殿の崩壊を預言していますが、それは西暦70年に起こりました。ローマに敵対する人々が反乱を起こし、ローマ皇帝によって鎮圧されたのです。キリスト教徒は、ローマへの反乱にも、手を貸しませんでした。
39節では、右の頬を平手打ちをする人には、左の頬も向けよ、と命じられています。平手打ちと言うのは、親が子どもを叩くときに平手打ちすることを考えても分かるのですが、侮辱的な行為とされています。主イエスが逮捕され、取り調べを受ける時に、大祭司の下役によって平手打ちにされたことを思い出させます。しかし、ここでの命令は、主イエスが弟子たちに命じているのですから、マタイの時代にキリスト教徒が受けていた迫害のことを示しているのです。
最後に、42節は、やはり旧約聖書に現われてくる、寄留者や社会的な弱者に対して手を差し伸べなければならないという、律法の教えを確認しているだけです。
全体として読んでみると、やはりマタイらしく、旧約聖書の律法を確認している。そして主イエスは、律法よりも厳しい新しい掟を命じていることになります。けれども、その新しい掟の内容は、むしろ当時のキリスト教徒の置かれていた厳しい立場、理不尽な立場を説明するものだったようです。

さて、今日の御言葉が、当時のキリスト教徒の置かれていた厳しい状況を示していたことを確認したところで、今度は、わたしたちはこのみ言葉をどのように読んだらよいのか、と言うことを考えてみたいと思います。とは言え、とてもむづかしい。
今日の箇所の全体は、悪人に刃向うな、言うとおりにしろと言うばかりでなく、積極的に協力しろ、とまで言っています。キリスト教会の迫害者も、反政府勢力も、ローマ帝国も、それぞれキリスト教徒に、また主イエスに敵対し、あるいは利用する勢力です。そのような勢力に対して、刃向うな、とは、泣寝入りしろ、と言うことなのでしょうか。どこに、神の国が来ると言うのでしょうか。
無実の罪で逮捕され、平手打ちにされ、鞭打たれ、多くの人の身代わりに十字架上で死んだ主イエス、このような理不尽の極みを経験した主イエスが、神の右に高く上げられました。天の国への門はここにあると言うのでしょうか。私たちへの門もまた、ここに開かれているのでしょうか。
「神の国は、隠されているけれど、あるよ!現にもう存在している。ほら!」主イエスのわたしたちへのメッセージはこの一点です。でも、一体どこにあるというのでしょうか。「ほらここに!」と主イエスが仰っても、わたしたちには見えず、わたしたちには触ることができず、わたしたちには行くことができない。けれども、実際に神の国はもうすでに来ている。主イエスが神の国に住んでいるのは、確かなことなのです。そして、わたしたちもまた、主イエスによって神の国へ招かれている。わたしたちはここにいるけれど、教会はそこへ、主イエスの住まわれている場所へと、向かうところ、天の国をはるかに仰ぎ見るところ、そして天の国へ向かうところなのです。
さまざまな理不尽に人々は置かれています。取り返しのつかない命、取り返しのつかない家族、取り返しのつかない未来、約束、幸せ。失った人々は、怒りや悲しみの中で生きていくことを余儀なくされます。その怒りや悲しみの真ん中に、戻ってこない人々への愛があります。だから、人々は、自分の怒りや悲しみを捨てることができません。
神は愛です。わたしたちを、ご自分の命さえ喜んで差し出すほどに愛してくださっている神は、神との愛に生きる人々に、永遠の命をくださいます。その命をいただくためには、自分のかけがいのない者、真ん中にどうしても取り戻すことのできない者への愛がある、自分の抱えている怒りを、手放していかなければなりません。
確かに、人は、実は怒りによっても生きることができます。犯人に対する怒りだけが、その人を生かす、と言うこともあります。しかし、その怒りを捨てなければ、人は神の前に立つことはできないのです。
神の前に立つことは、愛する者を忘れ、愛する者を見捨てることになるのでしょうか。それもまた、そうではありません。父なる神との愛の中に生きることで、愛する人もまた新しい命を得、ますます豊かに生きることができるのです。
自分の中に、自分の心の真ん中に、愛や悲しみを抱えているために、手放すことができないで、これまで抱えてきた、怒りがないでしょうか。それは、その部分で、わたしたちは自分自身の中に、父なる神に出会うことのできない「死」、神の前に立つことのできないという意味での神から見た「死」を、抱えているということです。
父なる神に祈りましょう。その怒りを、手放すことができるようにと。もっともっと、豊かに神の御もとで生きていくことができるようにと。自分自身にそのような部分があると気づけば、神は許してくださいます。そして、もっと豊かな命へと育んでくださいます。「神の国は、もうここに来ているよ!」主イエスの立っていらっしゃる神の国は、わたしたちの置かれている場とは遠く離れています。それでも、わたしたちを招いてくださっている。わたしたちを抱えて、御自分の場へと連れて行ってくださろうとしている。そのことに信頼して、今週も過ごしてまいりましょう。
お祈りいたします。天にいらっしゃる父なる神様、主イエスをわたしたちに与えてくださり、わたしたちをあなたの命に豊かに生かそうとしてくださっていることを感謝します。どうか、今週も、わたしたちがあなたに祈りつつ、あなたの命に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン

2016年2月14日 「主への道備え」 今村あづさ伝道師
マタイ3:1~12

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。――マタイによる福音書はヨハネを、悔い改めを迫る預言者として紹介します。ヨハネの一番の特徴は、その預言の内容にあります。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
旧約聖書の預言者たちは皆、天上の神の御心を伝えるという務めを果たします。地上から遠く隔たった天上の事柄を少しだけ聞かせるのが旧約の預言者たちの言葉です。
ところが、ヨハネは違います。天の国は近づいた=まさに触れられるほどに近づいていると言います。それが本当であれば、この後、預言者は不要になります。この地上で直接御言が語られ、聞かれるようになるからです。ヨハネは異色の預言者、預言者の終わりに立つ者なのです。
ヨハネの言葉を、身をもって証し伝えたのが主イエスでした。4:17で、ヨハネの言葉と一言一句違わない言葉を主イエスが述べておられます。この方こそ、ヨハネの預言を成就する方であり、天の国が地上に見える形をとって現れた、その接点に立つ方です。この方の到来以来、天の国は見聞きし触れられるようになりました。しかしそれで終わりではありません。10:17で主は、教会に天の国の訪れを宣べ伝えるよう命じられます。教会は代々、天の国の訪れを宣べ伝え、地上に立っているのです。
ヨハネは天の国を宣べ伝え、悔い改めを求めました。この悔い改めはヨハネ自身の姿と、ファリサイ派・サドカイ派への厳しい言葉の中に聞くことができます。ヨハネの姿は旅人の姿です。今日を神様に信頼して生きる姿です。神様に信頼して今日生きることが悔い改めです。
ファリサイ派・サドカイ派の人々は、差し迫った裁きの緊迫を語りません。いつでも悔い改めの機会があるかのように教えます。ヨハネはそれを攻撃し、「悔い改めに相応しい実」を求めます。そうでないと、火に焼き滅ぼされると教えました。
実際、主イエスは人間の罪を隅々まで拾い集め、ご自身の十字架の火で焼き滅ぼされました。わたしたちは、その火に清められた新しい生活の中に生かされています。

2016年2月7日 「一切、誓うな」 今村あづさ伝道師
レビ記19:12、マタイ5:33~37

「誓うな」。なかなか、ピンとこないものです。多分、聖書で結婚に関する教えが続いており、結婚の時には誓約をしますから、誓いについての教えが続いているのかもしれません。「一切、誓うな。」というイエス様の命令を厳密に守っていくと、結婚の誓いも立てられないということになります。じゃあどうしたらいいのか、と言うことは後でお話しすることにして、まず、そもそもこの「誓い」とはどんなものなのか、先ずは、ここから考えてみましょう。
旧約聖書で「誓い」と言う言葉は、3種類の言葉が使われています。それらは、多分、一つずつ意味が異なるのでしょう。でも、同じことを別の言葉で言っているところもあって、どうも私には違いがよく分っていません。少し例を紹介します。
たとえば、イサクの嫁取りの物語があります。創世記24章ですが、長い所で、今日は全体を紹介できません。アブラハムは、嫁を故郷のウルで探し出して連れてくるように、年寄りの僕に命じます。その時に、僕に主にかけて誓うことを要求します。僕は、誓う前にいろいろと細かい条件について確認してから、誓うのです。細かい条件と言うのは、この誓いを守らなくても良い場合です。
誓いは、誓願と訳される場合もあります。神様が願いをかなえてくれように、自分が何かをすることを約束するという場合です。これは、日本にもあります。「お百度を踏む」とか、言いますね。
誓いには、呪いが付き物です。「呪いの誓い」と書かれている箇所もあります。申命記で、イスラエルの民が神と結んだ契約には、従わなかった場合には呪いが伴います。神に誓ったことを守れば祝福が、守らなかった場合は呪いが待っているのです。
呪いとは、簡単に言ってしまえば、祟(たた)りのことです。旧約聖書の神は、祝福する神であると同時に、呪う神、祟る神でもありました。従う者には祝福を、神を認めない者には呪いを与えます。神は、忠誠を誓い、祈り求めることを、わたしたちに求めておられるのです。
主なる神以外の存在に対する誓いは、簡単にまじないというか、呪術的な物になってしまいます。
魔方陣を描き、「エロイム・エッサイム」と唱え、神ならぬ存在を呼び出す。ゲーテの書いたファウスト博士は、現世であらゆる人生の快楽・悲哀を体験させるかわりに、あの世での服従を契約してしまいます。ハリー・ポッターのシリーズの「パリ―・ポッターと謎のプリンス」では、ホグワーツ魔法学校のセルブス・スネイプ教授が、教え子マルフォイを守るために、破れぬ誓いをします。これは、約束したことを魔法の鎖で縛るもので、破った時はやはり、呪いが待っていることを予感させられます。
旧約聖書は、人身御供、占い、呪術、呪いの呪文、霊媒や口寄せと言ったたぐいのことを禁止しています。日本では、お百度を踏む、と来れば、丑の刻参りもあります。ヤマタノオロチという竜を日本武尊(やまとたけるのみこと)が退治する物語では、助けた姫は、ヤマタノオロチへの人身御供でした。呪術を行う安倍清明などの陰陽師は、奈良時代や平安時代は、政府の役人でした。東北へ行けば死者の霊を憑依させて語らせる恐山のイタコがあります。
平安京を発掘すると、たくさんの呪いを掛けるための藁人形が出土しているそうです。人々は、政敵を倒すためであったり、一夫多妻制で夫はたくさんの妻の所に夜毎に通うという生活でしたから、恋敵を病気にかからせるために、呪ったのでしょうか。そのために、呪術師が雇われました。祭りごとの吉凶を占うために、政府は呪術を行う陰陽師を役人として召し抱えていましたが、彼らはこのような個人的な呪いを掛けたりすることもあったようなのです。
まずは、聖書はこのような呪いの呪文、呪術を禁じているのだということを、わたしたちは理解しなければなりません。
さらに、聖書の神は、旧約聖書の時代から、主なる神以外の存在に誓いをすることを禁止しています。十戒の第一戒、一番大事な掟は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。誓う相手は、主なる神のみです。
誓う時には、主なる神のお名前しか使えないとなると、どうなるでしょうか。私たちの誓願の内容が、神様のみ心に適っているかどうかが、吟味されるのではないでしょうか。呪うことは、旧約聖書では許されています。一緒に交読している詩編には、呪いの言葉がたくさん出てきます。この箇所が出てくるたびに、いいのかな、と思うほどです。主なる神は、呪うことを禁じていません。
その呪いの言葉が、正しいものと認められれば、神ご自身が正義を行われます。裁きを行われるということです。正しいと認められない誓願であれば、どんなに願ったところで、主なる神はお取り上げになりません。神は、正しくないことを見過ごされない方であり、その訴えがこの世では顧みられない弱い者から出たものでも、公平に聞かれる方なのです。わたしたちには、自分たちの誓願の言葉が、神から見て正しいものなのか、吟味することが求められているということでしょう。
わたしたちの信じる主なる神は、唯一の神、他には神はいないのです。悪の力をねじ伏せ、屈服させる。み国の完成とは、その業が完成することです。神以外の者の祟りを怖がる必要はあるでしょうか。唯一の神、主がわたしたちと共にいるのです。さまざまな悪霊からの祟りを畏れる必要はないのです。

本日読んだ、レビ記の箇所では、偽りの誓いを禁じています。12節を見ると、その理由は、神の名を汚してはならないからとあります。誓いが呪術であった時代は、誓願をする時に呼び出す相手は、大きな魔力を持つ者でした。その意味は、相手の魔力によって、願い事をかなえてもらうことを期待していたということです。しかし、そのような魔力を持つ存在は、逆に人間を破滅させる大きな危険を持っていました。主なる神は、そのような破滅に願う者を陥いらせる方ではなく、信頼して誓願できる相手です。しかし、安易に誓願し、あるいは偽って誓うことは、この信頼できるお方の信頼を裏切ることになるのです。
旧約聖書では、神様のお名前を使って誓うことは許されていました。けれども、時代が下っていくと、段々、誓うことに神様のお名前を使うことは、十戒の第三戒、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」に抵触するのではないか、と考えられるようになりました。神様のお名前を使うことは、畏れ多い。そこで、神様のお名前にかけて誓うのではなくて、天にかけたり、地にかけたり、エルサレムにかけたりしたのです。いろいろ、変なものが出てきますが、当時は、こんなものにかけていたというのです。
そこで、イエス様は、こんな物にかけて誓うな、とおっしゃいます。では、旧約聖書の言うように、神様のお名前にかけて誓え、誓ったら必ず果たせ、と言っているのではありません。一切誓うな、と言っているのです。新約聖書では、旧約聖書とはルールが違う訳です。これは、どうしてでしょうか。
旧約聖書の契約では、主なる神の与えてくださった律法を守ることによって選ばれた民イスラエルは神に祝福され、律法に背くことによって神に呪われることとなっていました。しかし、イスラエルの民は結局、神に逆らい、呪いを受けて国は滅びてしまったのです。
新約聖書では、どうしても罪を犯してしまう人間のために、神の独り子であるイエス・キリストがこの世にお生まれになり、本来ならわたしたちが負うべき裁きを十字架の死によってご自分が引き受けてくださいました。それによって私たちは救われ、永遠の命に生きる希望を与えられているのです。どうしても罪を犯してしまうわたしたちの罪を、主イエスが引き受けてくださるのだとしたら、わたしたちはこれ以上の罪を犯す可能性のある誓いをすることなど、なぜできるのでしょうか。もう一度、主イエスに呪いを受けて戴こうと言うことなのでしょうか。私たちは自分たちで自分たちの罪を引き受けることはできず、主イエスが代わりに受けてくださったのです。と考えれば、一切、誓うな、という意味は良く分かると思います。

しかしながら、新約聖書の時代を過ぎても、誓うことは廃止されませんでした。王様と家来との間の忠誠の誓い、商業における売買契約、使用者と労働者の間で交わされる雇用契約と、誓約は今日、多くの場面で行われています。また、教会関係では特に誓約は多く、皆さんが思い出すだけでも、昨年の7月に行った伝道師の就任式では、わたしも誓約をしましたし、みなさんも誓約をした訳です。私個人としては、その前の5月に伝道師に任じられる准允式がありました。また、正教師試験に合格しますと、按手礼式と言うことになります。これらもまた、誓約と言われています。これらをどのように考えたらよいのでしょうか。教会は、主イエスのこの掟を破っているのでしょうか。
マルチン・ルターは、教会での誓約について行うべきではないと主張する一方、政治の支配する領域の誓約については認めるべきだと考えました。ルター自身も所属していたカトリック教会の修道院では、修道院に入る時に独身の誓約をすることが求められていました。しかし、実際には修道院内部での規律の乱れが大変な問題となっていたのです。司祭、司教、大司教と言った上位聖職者の少なからぬ人々が、愛人を抱え私生児を設けていました。このような状態なら、むしろ神の前での結婚を認め、健全な結婚生活を送るべきである。ルターはそのように考えたのです。教会と国家を分けて考えるべきであるとするルターの考え方は、2王国仮説と言います。
このルターの考えだと、教会では誓約はすべてなくなってしまうはずです。今日でも、牧師の就任式での牧師と教会員相互の誓約があるのは、どのように考えたらよいのでしょうか。
誓約文を読んでみましょう。伝道師就任式での教会員の誓約で、司式者はこのように問い掛けました。
「あなたがたが招聘したこの敬愛する教師は、今あなた方の教会の伝道師として主からつかわされました。あなたがたはこころから感謝してこの教師を受け入れる覚悟がありますか。この教師は主の命を受けて、あなた方を守る大任を負い、教え、勧め、戒めます。あなたがたは謙遜と善意を持って、その教える福音の真理に耳をかたむけ、使徒たちが命じたようにその指導に従順であることを約束しますか。」
そして、答えはこうでした。
「わたしたちは神と教会との前で謹んで約束いたします。」
ここで、神の名にかけて誓約するということはありません。「神の名にかけて」とは言わず、「神と教会との前で」と言い、「誓います」ではなくて「約束します」としています。このように、神の名にかけて誓約するという言葉を避けることが、現代の解決の一つの方法なのです。

偽りの誓いをすることは、神のお名前を汚すことであり、それは十戒の第三戒違反となる、重大な罪です。それでも、誓いをすることは、なかなか廃止することはできません。主なる神との間が、どこまでも信頼関係で結ばれているならば、その神に対して誓いをすることなど、必要ないことです。しかし、わたしたちは主イエスの教えてくださった理想にいわば、近づこうとしている途上に過ぎません。この世の商取引、雇用関係に関して、誓約をする双方が神との間に親しい関係を持っているのであれば、確かにそのような誓約をする必要はないのです。しかし、そのような状況にはなっていないというのも、また事実なのです。

今日お話しした誓いに関して覚えておきたいことは、誓いはもともとは呪術的な呪いの要素が大きかったということ、旧約聖書の時代から、聖書はそのような呪術的な呪いを禁じているということです。わたしたちの社会では、まだ祟りが横行している面があるのではないでしょうか。祟りなど、怖くありません。万軍の主が、共にいて戦ってくださるのです。
また、わたしたちは時に、弱者が泣き寝入りをする不正義がこの世に横行していることにも気づきます。しかし、正しくないことは、いつかは主なる神によって明るみに出され、裁きを受けると言うことです。主なる神は、声なき声を取り上げ、正義をなさるのです。

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