週報より
家にも社会にも国にも多くのリーダーが存在します。むしろ人が集まるとリーダー的存在が自然と必要になってくる、またリーダー的ポジションになりたい人、また自然にそうなる人がいるといってもいいでしょう。昔のイスラエル民族は預言者をリーダーとしていました。当時預言者は普段から現代における指導者のように常に先頭に立って働くのではなく大事な時にパッと出てきて去っていくような存在でした。神様があえてそうされていたにも関わらず民は他国のような王を求めその結果サウルを王としました。彼は体格も大きく強く賢い人物でした。当初は良かったのですがだんだんと独裁的になったり他人が信用出来なくなっていきます。その結果多くの国民は犠牲を強いられる結果になりました。有名なダビデ王がその後の王ですがダビデはこのサウルの部下であったにも関わらずいのちを狙われ国を追われた時期もあります。優れていたからリーダーになったのですがその立場が人を狂わすことがあります。ダビデもサウルほどではないにしても失敗をしています。リーダーという立場の横には高慢という大きな落とし穴が常にあります。実際の権力や責任が大きくなればなるほどその穴は大きく、そして見えにくくなるものです。今日の聖書箇所にもそういったことに失敗した人物が出てきます。私たちはそういった事から何を学び何を実践できるでしょうか?権威とは支配することではなく赦すことであり守ることです。すなわち支配ではなく治めることです。同じようで全く意味は異なります。主は私たちを治める御方、主はよい羊飼いとあるように私たちを養い育て導いて下さるお方です。もうすぐクリスマスです。主の愛をじっくりとかみしめて、自分も人にいつもよりも優したいものです。