週報より
聖書の中だけでなく現代でもいやしは起こります。教会だけでなく様々な新興宗教でも起こっているのが現状です。クリスチャンになる以前にそういったいやしを行う団体に属していたことがありますが、私の出した結論は本当の神様を信じる信仰からきていないいやしは与える側受ける側どちらにも霊的混乱や破滅をもたらすというものです。(あくまで個人的見解なので気を悪くしないように)それは信仰によるいやしは受けた時にはもちろん神様への感謝があり、またそれによって信仰も深まり、そのいやされた体験によって自分もそういったことのために祈る信仰が与えられていきます。しかし神様にたいする信仰から逸れた偶像とかまじないからくるいやしは霊的混乱やマインドコントロール、共依存に陥るケースがほとんどです。仮に教会につながっていても受ける側が整えられていないといやされないと不信仰だと思いこんだり、またいやされてもおかしい方向に向かっていってしまうことがあります。いやしよりも体のほうが大事ですし、霊はもっと大切なものです。ですから霊的混乱を起こさないようにいやしについてもっと知り、成熟していくことが平行して行われないと一番大事な部分が見えなくなってきてしまうのです。だからといって未熟だからいやしのために祈らないべきでしょうか?いやされない経験があるから祈れなくなったままでいいでしょうか?否、祈るべきです。なぜなら歩けないから歩こうとしない赤ちゃんは一人もいません。転びながら少しづつ歩けるようになるのです。転んだ時支えてくれる方がいる環境で一緒に心を合わせて祈り、素晴らしい体験をしていくことは大きな励みであり喜びになるでしょう。href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">