週報より

いよいよ受難週にはいりました。困難と聞いて一番にこの時期に思い描くのはイエス様の十字架ではないでしょうか?あらゆる苦しみを担われたその先に、私たちひとりひとりの救いという素晴らしいものがありました。死の先に復活、いのちがあり、絶望は希望に飲まれたのです。今日の聖書箇所でアガボという人物が立ってききんが来ると預言をしました。事実ローマの歴史の中でクラウディオの治世に多くのききんが起こっています。そういった世界的に困難な時に当時最も異邦人伝道の前線であったアンテオケ教会は自発的に愛を持ってユダヤの教会に対して支援を送ることを決めました。損得ではなく、ただ愛によって立ち上がったのです。金額もひとそれぞれ力と重荷によって異なったでしょうがそれでいいのです。私の記憶の中にある地震の支援金の金額を公表していたニュース番組でアメリカ大統領なのになんで1000万相当しか支援しないのだと批評されていたことを思い出しますが支援金額で立場を得るとかして当然と言った風潮はとても悲しく思います。それは愛から出たものではなく、ただの政治の材料としてしか見てないからです。聖書には右の手がしている善を左手にも教えるなとあります。それは誰かからいい評判や反応を得た段階でせっかくの愛からでたものが見栄や虚栄になってしまうことがあるからかも知れません。イエス様は十字架上であなた達の救いのために私はこうしているのだと大々的に宣伝はされませんでした。弟子達もそれまで教えられていたとこが頭から消えていましたがそれを思い起こすように叱咤激励されたりもしませんでした。後の日にすべてが明らかにされたのです。受難週を敬虔な思いを持って祈り歩んで行きましょう。

Follow me!