週報より

聖書の中で大きく取り扱われている罪に偶像礼拝があります。文化としてそれが根付いている国では認識しにくいかも知れませんが、簡単にいうと人が造ったものを拝む、また自然を神として拝むなどがあります。出エジプトの中でモーセがしばらく姿を見せずにいると群衆は自分たちの貴金属を溶かし金の子牛を作りそれを拝み出しました。そんな歴史の繰り返しが聖書の中にもあります。対象が目に見えると安心しやすいという弱さや分かりやすさがいいのかも知れませんが、聖書の中ではそれは大きな罪として扱われています。旧約聖書を読んで育っていたはずのイスラエル民族も何度もその罪を犯し、また裁かれています。この偶像礼拝の落とし穴としては自分に都合の良い神様を作ることが出来るということでしょう。理想といえば聞こえがいいですが、学問ならここ、健康ならここ、交通安全ならここという風に分かれているとそこにいけば自分がさもがんばっている!という満足感が得られます。私もクリスチャンになる以前はそういったところに多く通っていましたが漠然としたありがたいという感覚や自分は信心深いということは得られますが本当に自分が根底から変えられるということはありませんでした。人によく見せるには限界がありますしメッキは剥がれるものだからです。イエス様はそんな私たちの弱さも全部ご存じの上で愛し、赦し、そして日々変えて下さいます。主を見上げていく生活を続けていると自分もだいぶ変わってきたな~と思うことが確かにあります。人が造った神ではなく人を創って下さった全能の神を信じてしっかりと歩んでいきたいですね!

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